楊志誠 ようしせい
?-835
中唐の武将・藩鎮(第12代盧龍軍節度使)。盧龍節度使
李載義の部将で、後院副兵馬使となった。大和四年(830)李載義を追放して盧龍軍の実権を掌握、自らは本道馬歩都知兵馬使と称した。嘉王
李運に節度使を領させ、楊志誠は留後となり、さらに節度副大使となった。大和八年(834)部下に追放されたが、後任の
史元忠は楊志誠が天子の服飾を犯したことを告発したから、誅殺された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年07月12日 01:53