巻二百一十二 列伝第一百三十七

唐書巻二百一十二

列伝第一百三十七

藩鎮盧龍

李懐仙 朱滔 劉怦 済 総 朱克融 李載義 楊志誠 史元忠 張仲武 直方 張允伸 張公素 李茂勲 可挙 李全忠 匡威 匡籌 劉仁恭


  李懐仙は、柳城郡の胡である。代々契丹に仕え、営州を守った。騎射をよくし、聡く、敏捷であった。安禄山が叛くと、裨将となった。史思明が河南を攻略すると、次子の史朝清を留めて幽州を守り、阿史那玉高如震が補佐した。史朝義が弑逆によって即位すると、書簡を送って史朝清を誅殺した。二将は反乱し、史朝義は李懐仙を幽州節度使とし、兵を率いて急行させた。高如震は防ごうとしたが、どうすることもできず、そこで出迎えた。李懐仙は、外面上は寛大に示して兵士を安堵させ、三日いて大宴会を実施したが、高如震を斬って、州をことごとく平定した。史朝義が敗れると、范陽に逃げようとした。宦官の駱奉先は使者を送って説得し、李懐仙は遂に降伏し、その将の李抱忠に兵三千で范陽を守らせた。史朝義が到着すると、李抱忠は関を閉ざして中に入れず、そのため縊死し、その首を斬って、駱奉先に献上した。僕固懐恩はそこで上表して李懐仙を幽州盧龍節度使とし、検校兵部尚書となり、王師の武威は郡に浸透した。僕固懐恩が叛くと、辺羌は戦乱が絶えず、朝廷は西方での軍事に勤め、そのため李懐仙は田承嗣薛嵩張忠志らは散ったり亡命していたものを招くことができ、城邑を治めて兵に甲冑を着せ、自ら文武の将官・官吏を任命し、貢賦を私的に流用して、天子は制することができなかった。

  大暦三年(778)、麾下の朱希彩朱泚、朱泚の弟の朱滔は、李懐仙を謀殺しようと、門番を斬って侵入したが、朱希彩は到着しなかった。夜明けになると、朱泚は恐れて逃げようとしたが、朱滔は「謀がならなかったとしても、死は逃れられない。逃げてどうしようというのか」と言うと、にわかに朱希彩が到着し、共に李懐仙を斬り、その家族を皆殺しにした。朱希彩は自ら留後を称した。張忠志は兵でその乱を討伐したが、勝てなかった。代宗はそこで罪を赦し、宰相の王縉に詔して節度使に任じ、朱希彩を副使とした。朱希彩が王縉がやって来たのを聞いて、隊列を整えて、大いに軍勢を整列させて出迎えた。王縉は軍規を立てておもむろに駆け、朱希彩は出迎え拝謁することは非常に恭しかった。王縉は制することができないと思い、軍を労い、十日ほどして帰還した。朱希彩はそこで節度使を領した。大暦五年(770)、高密郡王に封ぜられた。傲慢不遜で、人々は堪えられなかった。大暦七年(772)、その部下の李瑗は軍の怨みを汲み取って殺し、共に朱泚を推戴して留後とした。朱泚にがある。


  朱滔は、性格はころころ変わって、巧妙で偽りが多いことは始終であった。朱希彩は同姓であったからとくに可愛がり、幕下を司って親兵を与えた。朱泚が節度使となると、朱滔を派遣して兵三千を率いて天子のために西方を防衛・守備し、諸軍に先んじた。それより以前、安史の乱の後、山東は外面上は臣下として恭順していたが、実は傲慢勝手で朝廷に従わなかった。朱泚が長となると款を結んだから、帝は喜び、朱滔を殿中に召見した。帝は「卿の才能は、朱泚と比べてどちらが優れているか」と尋ねると、朱滔は「兵士や軍を統率し、道理を明らかにわきまえていますので、臣は朱泚に及びません。臣の年は二十八歳で、天子に拝謁することができましたが、朱泚は臣より五歳年長ですが、まだ朝廷を知りませんから、このことは臣に及びません」と答えたから、帝はいよいよ喜び、特に詔して軍を閲兵させて王城から出し、涇州に駐屯し、酒を開遠門に置いて餞した。守備して帰還すると、そこで朱泚の兵を奪おうと謀り、欺いて「天下諸侯ではまだ朝廷に赴いた者はいません。先に赴けば、天子の意を得られるでしょうから、子孫は安泰です」と説いて、朱泚はこれを信じ、そこで入朝した。しばらくして関係が悪化し、朱泚は遂に朝廷に留まって、西は吐蕃を討伐することを願った。朱滔を権知留後とし、御史大夫を兼任させた。朱滔は功績がある者で李瑗ら二十人あまりを殺し、威を軍中に振るった。

  李惟岳は命令を拒み、朱滔は成徳軍節度使の張孝忠と再び李惟岳を束鹿で破り、深州を奪取し、検校司徒に昇進し、遂に節度使となり、徳州・棣州の二州を賜った。徳宗康日知を深・趙二州団練使とし、朱滔に詔して鎮に帰還させた。朱滔は深州を失い、不満があり、また恒・定の七州の賦を軍に供給することを願ったが、また許されなかったから、いよいよ怨んだ。当時、馬燧田悦を包囲し、田悦は窮地に陥っていたが、朱滔は王武俊とともに叛いた。朱滔の叔母の子の劉怦を涿州刺史としていたが、劉怦は書簡で諌めて「司徒(朱滔)は身を節制され、太尉(朱泚)は位は宰相となり、恩や待遇は極めてあついものであります。今昌平は太尉と司徒の故郷で、不朽の業をなしました。よく忠義によって従い、自ら軍を率いるなら、何事も成就できます。この頃お上のことを忘れて好戦的になっていますが、敗北を顧みず、安史の乱のようなになってから、今またどうしようというのでしょうか。司徒はこれを謀ろうとしていますが、わざわざ後悔を残すことはありません」と述べたが、朱滔は従わず、軍を連合して田悦を救援した。また張孝忠の襲撃を恐れ、劉怦に要害に軍を立て籠もらせた。朱滔はその軍に激励して、「兵士は死闘の中を進み、既に堅城を降したのを、朝廷は奪われ、奏上した褒賞も報われなかった。君らは速やかに進撃し、馬燧の軍を破って兵糧を奪うのだ。できるか」と言うと、軍中は応ぜず、三人が怒号し、「幽州の人が南で死ぬと、骸は覆われず、心髄を葬ることを悲しむので、どうしてまた暴骨を野に晒そうとするのですか。司徒の兄弟は国の寵を受け、兵士はそれぞれ官の恩賞を受けているので、これを安堵されることを願い、その他は気にかけません」と言ったから、朱滔は罷めたが、密かに不可を述べて乱した者数十人を殺した。康日知はその謀を馬燧に知らせ、天子に聞かせ、田悦をまだ降していないのに、重ねて二つの侵攻が起こったから、そこで朱滔を通義郡王に封じて、実封三百戸とした。

  朱滔はいよいよ逆らい、兵を分けて王武俊とともに趙州に駐屯して康日知を脅かし、詔を偽ってその兵糧の貯蓄を徴発し、そこで兵を率いて田悦を救援に向かい、束鹿に到着した。軍は大いに騒動し、「天子は司徒に北に帰還させたが、しかし南に魏を救うのは、どうして詔があろうか」と言い、朱滔は恐れ、逃げて宿舎に隠れた。裨将の蔡雄は好んで兵士に諭して「始め天子の約束は成徳軍を取ったなら、得た州県は功績がある者に賜うと約束された。深州を陥落させた者は燕である。もともと鎮州は常に苦しく結びつく者はおらず、冀州は深州を得て徴税の助けとなったが、今見てみるとそれもできない。また天子は帛を功績のある兵士に賜ったが、馬燧に奪われてしまい、今南から引き上げれば、自ら非となすことになる」と言い、軍中の人々は後悔して謝し、また「だからといって、司徒が南に行けば詔書に違うことになるから、帰還するにこしたことはない」と言った。朱滔は軍を旋回させて深州に行き、変の首謀者二百人を誅殺した。軍は恐れ、そこで兵を率いて南は寧晋に立て籠もり、王武俊と合同した。帝は馬燧・李懐光に命じて攻撃して、朱滔の部下の鄭雲逵・田景仙は皆馬燧に敗走させられた。すでに朱滔は李懐光の軍を破り、そこで王師と魏橋に駐屯したが、長らく戦わなかった。

  田悦は朱滔の救援に恩義を感じ、尊んで臣となろうとしたが、朱滔は王武俊に譲って、「篋山での勝利は、王大夫の力です」と言い、ここに朱滔・王武俊の属官は協議して、「古に列国があって連衡して共に秦に抵抗しました。今公らはここにあって、李大夫は鄆にありますから、七国のように、並んで国号を建て、天子の正朔を用いてください。また軍は外にあって、その行動には名分がなく、どうして長が叛臣となって、兵士はどうして小心を寄せることがありましょうか。日を選んで盟約を定め、人心を従わせ、同盟して共に討伐するにこしたことはありません」と述べ、朱滔らは従った。朱滔は安禄山史思明が皆燕から起こって、にわかに滅亡したことをから、その燕の名を嫌って、冀は帝尭が都としたところであったから、そこで国号を冀とし、王武俊は趙を国号とし、田悦は魏を国号とし、李納は斉を国号とした。建中三年(782)冬十月庚申、壇を魏の西に築いて、天を祀り、それぞれ僭称して王となり、王武俊らとともに三度譲って位についた。朱滔を盟主とし、孤と自称した。王武俊・田悦および李納は寡人と自称した。この日、三叛軍の上に雲気があって非常に異しく、馬燧は遠望して「この雲は知ることなければ、賊のための瑞祥となろう」と言って笑った。これより以前、その地の土が高三丈も増え、魏人の韋稔が田悦に諂って、国土が増える兆であると述べた。その後二年、朱滔らは冊を埋め、正にその場所をはかった。

  朱滔は幽州を改めて范陽府とし、子を府留後とし、元帥と称し、信用できる親族を用いて留守とした。朱滔らは居室をすべて殿といい、妻を妃、子を国公とし、配下は全員臣と称し、朱滔のことを殿下といった。上書を牋といい、下す命令は令といった。左右の内史を設置し、丞相を示した。内史の令・監は、侍中・中書令を示した。東西の侍郎は、門下・中書を示した。東曹給事・西曹舎人は、給事中・中書舍人を示した。司議大夫は、諌議大夫を示した。六官省は、尚書を示した。東・西の曹僕射は、左右僕射を示した。御史台を執憲といい、大夫を置いて監察御史に至った。要籍を使役する官を承令といった。左右の将軍を虎牙・豹略といった。軍使を鷹揚・龍驤といった。劉怦を范陽府留守とし、柳良器・李子千を左右内史とし、朱滔の兄の朱瓊・朱瑰・陸慶を東・西曹僕射とし、楊霽・馬寔・寇瞻・楊栄国を司文・司武・司礼・司刑侍郎とし、李士真・樊播を執憲大夫・中丞とした。その他は序列によって任命した。処士の張遂・王道を招聘して司諌とした。

  馬燧李晟を派遣し、兵を率いて易州・定州に到り、張茂昭を率いて涿州・莫州を攻撃し、朱滔の増援を絶やそうとした。翌年、清苑県が包囲され、朱滔の将の鄭景済は固く守った。朱滔は馬寔に兵一万人を率いさせて、王武俊とともに馬燧を防ぎ、自らは兵一万人あまりで清苑県を救援し、李晟の糧道を絶とうとした。兵が定州に到着したが、李晟は知らず、夜に兵を率いて帰還した。朱滔は伏兵があるのではないかと疑い、あえて追撃せず、にわかに瀛州に拠った。しかし張孝忠・李晟は兵千人を合わせて萊水に築城し、朱滔の驍将の烏薩戒は兵七百で襲撃して城の兵士数百を殺したが、李晟は出撃しなかった。鄭景済は朱滔の軍が軍旗を建てて応じるのを望見した。朱滔は進軍して李晟の陣営に迫り、李晟は戦って不利となり、城中の兵もまた出撃してきたから、李晟は大敗し、易州に逃げた。張茂昭は満城に逃げた。朱滔はすでに李晟を破っており、そこで軍を旋回させて河間に駐屯したが進まなかった。王武俊は宋端に挨拶に赴かせると、朱滔は「孤(わたし)はしばしば戦って、また病となり、医薬についているのに、王はすでに回復したと聞いている。孤は、南は魏を救援し、兄を棄てて君に叛くことは履物を脱ぐかのようだ。王は必ず疑っているが、また何が原因で許されるというのか」と怒り、宋端は帰還し、王武俊は馬寔に向かって「寡人は王が望むのなら速かに指揮にやってきて、勝負を決すれば、また何が悪いというのだろうか。王は他日に天下を合わせられましたが、寡人は六・七城を得て、節度使となるのに足るだけです」と言い、馬寔は詳細に言ったことを報告すると、朱滔はその通りだと思い、王武俊もまた使者を派遣して朱滔に挨拶させたから、朱滔は喜び、また返答の挨拶があった。しかし王武俊は心の中では含むものがあり、次第に喜ばず、田悦とともに密かに朱滔との交流を絶とうとした。

  朱泚が叛すると、馬燧らは全員軍を返し、王武俊馬寔もまた帰還した。田悦・王武俊は使者を派遣して河間に到り、朱泚の即位を祝った。王武俊は偽って馬寔とともに康日知を趙州に攻撃することを願い、その軍を覆滅しようと謀ったが、勝てなかった。馬寔が帰還すると、王武俊は餞別の宴をし、厚く贈り物をした。朱泚は人を派遣して密かに朱滔を呼び寄せ、洛陽に走らせようとした。朱滔は書簡を送って、西に向かって再拝し、触文を諸道に送って、「今突騎四十万を遣わして洛陽に急行し、皇帝と上陽宮に見えよう」と言い、王郅を田悦のもとに派遣し、共に連なって西に行くことを説いた。朱滔はもとより賦税を強要したから、王武俊らは堪えられなかった。またそれぞれに兵五千で洛陽攻撃に従事させ、皇帝を僭称しようとし、乗輿・扈従の者および赦令はすべて備わった。

  それより以前、回紇は娘を奚王の妻としたが、大暦年間(766-779)末、奚は乱れ、王は殺され、娘は逃れ帰り、平盧に立ち寄ったが、朱滔は錦や刺繍で道に貼り、到着を待ち、結婚することを願ったから、娘は喜び、許した。そこで使者を派遣して婿の礼を回紇におさめ、回紇は喜び、名馬・重宝で報いた。互いに王号を僭称すると、王武俊田悦李納とともに四人で金や財宝を回紇に納め、「四国は可汗の命令を聴くことを願っています。謹んで金や財宝を奉り、開閉や出納は、ただご命令のままに」と言い、ここに至って、郡の派遣を要請した。回紇は二千騎で従い、王武俊もまた先に軍の派遣を要請し、李懐光の補給路を絶とうとしたが、まだ到着の前に、王師は帰還した。回紇は幽州を通過すると、朱滔は酋長の達干を説いて、「もし同じく河を渡って南に行けば、玉や絹、子女を贖い、少しのことで得られるでしょう」と言ったから、達干は許諾し、朱滔は金帛を与え、「五十里ばかりして、田悦の軍を待つべきである」と約束した。朱滔の兵は五万、戦車は千乗、騎兵は二万、兵士の個人的な部下は一万あまりで、回紇兵は三千、馬や橐它(ラクダ)はその倍であった。王武俊の境を通過すると、王武俊はねぎらい、牛・酒・まぐさ・米はすべて備わっていた。しかし田悦はすでに王武俊の謀を採用しており、出ることをよしとせず、物資を野に備蓄して待機した。朱滔が貝州に到着すると、田悦の刺史の邢曹俊に朱滔に謁見させ、即時帰還すると城を閉じて守ったから、朱滔は疑い、永済県に行った。王武俊は密かに客人を派遣して朱滔と反間し、「田悦には怨みがあり、公を南で待ち、兵で公の帰路を分断しようとしているので、多少は備えられたらよろしい」と言うと、朱滔は聞いて怒り、永済県に入ると、田悦の吏を捕らえて尋問したが、その情報を得られなかったから、殺害した。回紇に大いに掠奪させ、南は澶州・衛州におよび、老幼を残さず捕らえた。田悦は大いに恐れ、城を閉ざして自ら保全した。朱滔は将の楊布を派遣して館陶県を攻略し、平恩県に駐屯して、官吏を設置した。

  朱滔は軍を整えると北に帰還し、馬寔に冠氏県に駐屯させ、田悦が死んだのを聞いて、遂に魏州を攻撃し、貝州を包囲した。ここにおいて王武俊李抱真は軍をあわせて朱滔を攻撃した。朱滔は急いで馬寔を招集して貝州に向かわせたが、歩兵や騎兵は乏しかった。翌日、たちまち戦いを約束したが、馬寔は兵士を三日休ませるよう要請し、一方、蔡雄・達干らは王武俊の防壁が堅固で攻略が難しかったから、戦うよう願った。楊布は「大王は東都を奪取しようとし、小敵にあっては怯えてました。どうやって天下に長駆しようというのでしょうか」と言い、術士の尹少伯もまた必ず勝てると言った。戦うと、二軍に乗ぜられ、大敗し、大将の朱良祐・李進は全員が捕虜となり、遺棄された武器は丘のようであった。朱滔は逃走して徳州に入った。尹少伯・蔡雄・楊布の誤りを怨み、殺害した。にわかに京師は平定され、朱滔はすでに敗れ、軍を立て直せず、逃走して幽州に戻り、上書して罪を待った。詔があって、王武俊・李抱真に大いに信任を示し、もし誠心誠意、正確であれば、咎をそそいで勲功を記録し、また最初から改めることとした。

  それより以前、朱滔は劉怦の忠誠と実力によって、留守とさせたが、敗北すると、自分をどうこうするのではないかと疑い、彷徨してあえて帰還しなかった。劉怦は到着したのを聞いて、兵を集めて鎧を修繕し、道をはさんで兵を二十里並べて迎え、朱滔を望み見ると慟哭したから、朱滔は遂に府に入った。気持ちは塞ぎきり、毎日鬱々とし、病となり、政務はすべて劉怦に委ねた。貞元元年(785)死んだ。年四十二歳で、司徒を追贈された。


  劉怦は、幽州昌平県の人である。若くして范陽の裨将となり、親が老いて病となると看護すべく、たちまち職を去った。李懐仙が節度使となると、招かれたが応じなかった。朱滔の時、功績を積んで雄武軍使となり、墾田を増やして、経費を抑えたから、優れた治世を称えられた。しばらくして涿州刺史に遷った。朱滔が田承嗣を討伐すると、上表して知府事となり、ゆったりとして軍の心をつかんだ。李宝臣が兵で朱滔を瓦橋で攻撃すると、朱滔は敗走し、李宝臣は勝ちに乗じて幽州を攻撃しようとしたが、劉怦は計略を設けて、兵を整えて守備したから、李宝臣はあえて謀らなかった。御史中丞に抜擢された。朱滔が敗走して帰還したが、終に二心を抱かず、ますます兵を治め、人々は劉怦が忠誠を捧げたのをよしとした。

  朱滔が死ぬと、軍中は尽く劉怦を推戴し、そこで軍事を総括した。にわかに詔によって節度副大使・彭城郡公となった。鎮にいることわずか三か月で死に、年五十九歳であった。兵部尚書を追贈され、諡を恭という。子は劉済である。


  劉済は、字も済である。京師に遊学し、進士に及第し、莫州刺史に任じられた。劉怦が病となると、劉済に詔して仮に州の事を司らせた。劉怦が卒すると、節度使を継承し、累進して検校尚書右僕射・同中書門下平章事に遷った。奚がしばしば辺境に侵入すると、劉済は攻撃して敗走させ、千里あまり追い込み、青都山まで到着し、二万級を斬首した。その後、また檀州・薊州北辺を掠奪したから、劉済は軍を率いて室韋と合流し、これを破った。

  王承宗が叛くと、劉済は諸将と合流して、「天子は私が趙を恨んでいるのを知っており、必ず私に命じて討伐させるだろう。趙もまた大いに私に備えている。どうか」と言い、裨将の譚忠は劉済の意を迎えて王承宗を討伐しようと思い、早口で「天子は我々に趙を討伐しようとされており、趙もまた燕に備えていない」と言うと、劉済は怒り、拘束した。趙の様子を伺うと、果して備えを設けていなかった。数日して、詔書にて劉済は出兵しないことを許された。劉済は譚忠を釈放し、謝って尋ねた。譚忠は「昭義軍の盧従史は外面上では燕と親しくし、心の内では実際には嫌っています。外面上では趙と絶交しているようにみえますが、内実は与しています。これは趙のための計画で、「燕は趙にたよって自らを固め、その怨みは甚だしいとはいえ、必ず趙に対して残忍に対処せず、だから考えるほどでもありません」と言い、趙は既に燕に対する備えをしておらず、盧従史はそこで天子に、「燕と趙は宿怨です。今、趙が討伐されて燕に対して備えておらず、これは燕が趙とともに叛こうとしています」と言っており、これは天子が知って君に趙を討伐させず、趙もまた燕に備えをしていない理由なのです」と言った。劉済は「どうすれば出撃できるか」と聞くと、「今、天子は王承宗を誅殺しようとしていますが、燕は一兵たりとも易水を渡った者はおらず、まさに潞人をして恩を趙に売らせ、忠誠をお上に売らせることになります。これはあなたの忠誼心を貯えているのを、趙を自分勝手にしているという悪名に染めることになります。ついに趙に恩義を感じさせず、悪声が天下に騒々しく鳴り響くことになるのです」と言った。劉済はそうだと思い、兵七万で諸軍に先んじて、斬首すること数千級で、また饒陽を陥落させ、瀛州に陣を敷いた。安平県に進攻し、長い間陥落させられず、劉済は次子の劉総に命じて兵八千で先に城壁を登らせ、日中のうちにその城は陥落した。その時王承宗は赦免され、劉済は中書令に昇進した。

  劉済が出撃すると、長子の劉緄を留めて代理とし、劉総を行営都知兵馬使とした。劉済の病が重くなると、劉総は側近の張玘・成国宝、および幕僚の身内や親しい者と謀って劉済を殺そうとし、そこで人に京師より来たと偽らせて、「朝廷は公が以前、瀛州に駐屯して逗留していたから、副大使(劉緄)に詔して節度使に代えようとしています」と言い、翌日、また人に「詔して節が太原に送られた」と言わせ、また人を叫びながら走らせ、「節は代州に行ってしまった」と言わせると、全軍が驚いた。劉済は憤って怒り、どうすることもできず、主だった兵や大将数十人およびもとから劉緄と非常に親しかった者を誅殺し、しばらくして劉緄を追跡し、張玘の兄の張皋を代理に代えた。劉済は朝から夕方まで食事をしておらず、喉が渇いて飲み物を求めたから、劉総は役人の唐弘実に毒を入れさせ、劉済は飲んで死んだ。年五十四歳。劉緄は涿州に到着すると、劉総は劉済の命令であると偽って殺した。そこで喪を発した。太師を追贈され、諡を荘武という。


  劉総の性格は心に悪逆を隠し、最も陰険で、すでに父を毒殺すると、軍政を領し、朝廷はその悪事を知らなかったから、詔して節度使を継がせ、楚国公に封じ、検校司空に累進させた。王承宗が再び朝廷の命を拒むと、劉総は軍を派遣して武彊県を奪取し、軍を両端に停止させ、私財の兵糧を輸送した。憲宗はこれを知って、外面に恩寵を示し、同中書門下平章事に昇進した。呉元済李師道が平定されると、王承宗は憂い死にし、田弘正は鎮州に入ったが、劉総は支援に失敗し、大いに恐れ、自らの安穏へと謀った。またしばしば父兄が崇拝しているのを見て、そこで衣食を僧侶数百人に与え、昼夜祈祷して、劉総は寺院で憩って、しばらく安穏とすることとなり、ある時はその中で寝ていたが、たちまち驚いて寝ることができなかった。晩年ますます痛ましくなり、剃髪を願い、衣は僧侶の服を着て、お祓いしてこれを除こうとした。

  譚忠が再び劉総に説いて、「天地の数は、合えば必ず離れ、離れれば必ず合います。河北は天下と離れること六十年、しばしば窮れば必ず合うのです。朱泚李希烈が自立してから、は王号を称し、郡国は兵をもてあそび、伏し目がちに互いを観察しており、危うい状態であるといってよいのですが、ついに無事でした。元和年間(806-820)以来、劉闢李錡田季安盧従史は強かったのに、ある者は都市で首を晒され、ある者は自分の身を客に追放されたことは、すべてあなたが自分で見てきた通りです。今、兵が速やかに北にやってきて、趙の人はすでに徳州・棣州の十二城を献上し、魏を助けて斉を破っているのに、ただ燕だけが一日も労することがなく、後世無事でいられましょうか。あなたのために心配することです」と言い、劉総は泣いて感謝し、そこで上疏して朝廷に願い出て、また治所を三分割し、幽州・涿州・営州を一府とし、張弘靖に治めさせるよう願った。瀛州・莫州を一府とし、盧士玫に治めさせた。平州・薊州・媯州・檀州を一府とし、薛平に治めさせた。宿将の全員の名簿を提出して朝廷に推薦した。

  当時、穆宗は暗愚で、宰相の崔植杜元穎には深謀遠慮はなく、張弘靖を厚遇しようとし、その権力を重くすべく、そのため全て劉総の地を付属し、ただ瀛州・莫州を分けて観察使を設置した。劉総は検校司徒兼侍中・天平節度使を拝命した。また僧侶の服を賜い、大覚師と賜号し、その邸宅に寺額を与えて仏寺とし、使者を派遣して節・印を持ってやってきた。当時劉総はすでに自ら剃髪しており、節・印を辞退し、遂に僧侶の服を着た。定州に行き、卒した。

  それより以前、劉総は自身の代わりを要請し、馬万五千匹を献上したが、群臣はあるものは偽りであると疑ったが、帝だけは受け入れ、給事中の薛存慶に宣慰させ、所領に一年間免税とし、銭百万緡を軍に労い、老年孤独で自分だけで生活できない者は、官吏に訪問させ、粟帛を賜った。劉総は遂に譚忠とともに行こうとしたが、軍中は代々の恩恵を思い出し、留めて進むことができなかった。劉総は首謀者十人を殺し、節を張皋に付し、夜間に出発して去り、夜明けに軍中が知ることとなった。

  詔して太尉を追贈した。子の劉礎および弟の劉約ら長安に至る者は十一人で、全員が州刺史に抜擢された。譚忠は劉総の喪を護ると、また卒した。譚忠は、絳県の人で、軍事を喜び、謀事をよくしたが、思うに健男子というべきであろう。


  朱克融は、朱滔の孫である。偏校(下級士官)として劉総に仕えた。劉総は朝廷に入ろうとした時、後に変事がおこることを心配して、その軍の優秀な人材や勇敢な者と、悪暴で制することができない者を選び、全員を朝廷に推薦し、厚く爵位をともにすることを願い、北方に羨望させ、乱心に甘んじることなくさせた。朱克融はその中に入っていた。その当時、宰相は適材ではなく、既に劉総が地を納めたから、天下は広々として覆されることはないと言っていた。朱克融らは京師に留まって、長い間任命されず、しばしば宰相のもとに詣でて自らを試験するよう求めたが、すべて許されず、精神は疲弊して衣服は破れ、飢えや寒さで求めた物はなく、心の中で怨みや怒りがつのった。たまたま張弘靖が鎮に赴くことになると、そこで全員を帰還させた。

  にわかに幽州で軍乱がおこり、張弘靖は捕らえられた。当時、朱克融の父の朱洄は、智謀があって狡猾であると称していたが、病のため家で臥せっており、軍は行って長となるよう願った。朱洄は老いと病のため辞退し、そこで朱克融を推戴して軍務を領させた。詔して劉悟を節度使として急行させたが、にわかに瀛州・冀州はすべて朱克融に付き従い、劉悟は入ることができなかった。朱克融は軍をほしいままに易州に攻略し、両県を破った。蔚州に侵攻し、易州刺史の柳公済は白石嶺で戦い、三千の首級を斬った。転進して定州に侵攻し、節度使の陳楚はその二万を破った。たまたま鎮州が叛き、田弘正を殺し、朝廷で議する者は、二賊は等しく逆賊であるとしたが、しかし朱克融は張弘靖の命を全うしてあえて害することはなかったから、全軍でまずを誅伐して、を赦すべきであるとした。朝廷は幽薊をはかって再び獲得できないとみて、そこで朱克融に検校左散騎常侍を拝命させ、幽州盧龍節度使とした。長慶元年(821)のことであった。

  翌年、弓高県を陥落させ、下博県を攻撃し、王廷湊とともに深州を包囲した。裴度は書簡で責めて諭し、朱克融はそこで帰還し、検校工部尚書に昇進し、上表して馬一万匹・羊十万を献上し、金で軍を褒賞するよう願った。敬宗が即位した当初、検校司空に遷り、辺境に駐屯する兵に時服を賜ったが、朱克融は帛が粗雑であったことを憎んで、勅使の楊文端を捕らえて上奏した。また上言して、「聞くところによると、陛下は東は洛陽に行幸されて、工匠五千人を率いて宮室の造営の補助とし、乗輿がお迎えになっているとのことですから、また三十万を願い、一年間の費用に備えたいのです」と述べると帝は怒り、裴度と相談し、怒りを忍んで不問に処し、好言でこれに答え、その謀を屈させ、呉興郡王に進爵した。

  この年、軍乱がおき、朱克融およびその子の朱延齢を殺し、詔して司徒を追贈した。次子の朱延嗣が擁立され、留後を領したが、大将の李載義が殺してとって代わり、その一族を皆殺しにした。


  李載義は、恒山愍王の後裔であると自称した。性格は自惚れの放蕩者で、好んで豪傑と遊び、強弓を引き、格闘をよくした。劉済が幽州にいた時、その能力を高く評価され、引き立てられて幕下に任命され、征伐に従い、勲功を積んで牙中兵馬使となった。朱克融が死ぬと、子の朱延嗣が朝廷の命令に背き、人を用いるのに残忍であった。李載義は軍が忍びなかったから、殺害し、その罪を朝廷に暴いた。敬宗はそこで検校戸部尚書・盧龍軍節度使を授け、武威郡王に封じた。

  それより以前、張弘靖が捕らえられると、幕下の多くは殺害され、妻子は留めて帰さなかった。ここに至って、李載義は全員を京師に護送し、召使であってもついに行かせた。にわかに李同捷が滄州・景州によって、襲封を求めたが、李載義は賊を討って自ら忠誠を示すことを願い、文宗はこれをよしとし、検校尚書右僕射に昇進した。斬首多くして功績があり、賊が平定されると、詔して同中書門下平章事となり、白玉の帯を賜い、ことさらの礼遇を示した。

  大和四年(830)、兵馬使の楊志誠に追放され、易州に逃げた。そこで上言して、「滄州の賊を破ってから、しばしば入朝を願いましたがお許しになられませんでした。今、妻子とともにこの身を入見させてくださいますように」と述べ、帝は使者に太原県の尉をあてて出迎えさせ、着物・笏・装身具を賜った。またかつて功績があり、また恭順の意を示しているから、そこで冊して太保を拝命させ、平章事とした。にわかに山南西道節度使となった。河東節度使に遷った。

  それより以前、回鶻の使者が毎年入朝していたが、通過したところでは暴虐かつ傲慢で、吏はあえて何事も禁じなかったが、ただ兵を厳にして守るだけであった。虜は慣習になれ、ますます驕り高ぶり、鞭で人をはべらせ、市区に乱入した。当時大酋の李暢なる者は、華人の言葉に明るく、もっとも凶暴であった。宿館につくと、横に縄を張り、鞭打って人を咎めた。李載義は李暢を呼び寄せて、「可汗は唐とは舅甥の関係であるために、将軍を派遣して朝貢してきており、誼みは将軍の暴力を受け入れられない。天子は厚くもてなして客人に礼をとり、謹しまないことがあれば、吏は全員死に相当する。もし将軍が部下をおさめられず、掠奪・破壊を自分勝手にするのなら、我々は必ず犯人を殺す。将軍は少しは戒められよ」と語り、そこですべて宿館の警備をやめ、二人の兵士に門を守るだけにさせた。李暢は非常に憚り、ついに罪を犯す者はいなくなった。兼侍中に昇進した。たまたま部下の吏が碑を建てて功績を記することを願い、李程に詔して辞をつくらせたが、まだ字がなかった。帝は「周書に、「すべての公正な官吏を、富ませた上で善の力で導く」とあるが、卿はこれにあたるだろう。方穀を字としなさい」と詔した。その寵愛や待遇はこのようであった。開成二年(837)卒し、年五十歳で、太尉を追贈した。

  それより以前、李載義の母は范陽に葬られたが、楊志誠に盗掘された。後に楊志誠は追放され、太原の道を進み、李載義は奏請してその心臓を刳り、母の怨みを償わせようおしたが、許されなかった。また殺そうとしたが、官吏や部下は救って免れさせようとしたが、しかし尽くその妻・息子・兵卒を殺した。その天よりの資質は驕慢であり、帝は法をまげて弾劾することはなかった。


  楊志誠は、李載義に仕えて牙将となった。李載義は天子の使者と鞠場に宴し、楊志誠はその郎党とともに騒いで蜂起し、李載義は逃走し、そこで自ら都知兵馬使となった。文宗は改めて嘉王に節度使を領させ、楊志誠を用いて留後とした。にわかに検校工部尚書となり、節度副大使に抜擢された。翌年、検校吏部に任じた。詔が下されると、邸の役人が宰相に向かって、「軍中では朝廷からの儀であるとは知らず、ただ尚書が僕射にあらためて進秩したと知るだけです。今、全府で華麗な服装で天子の命を待っており、再び尚書に復するかのようであれば、全軍をあげて恥とし、使者は軍から出ることができますまい」と言い、既に楊志誠は果して恨んだから、軍に軽蔑の言辞があり、宦官の魏宝義および他使の焦奉鸞尹士恭を捕らえて、部将の王文穎を派遣して入朝して謝罪したが、命令された官位は辞退した。帝は再び賜ったが、王文穎は受けることをよしとせず、たちまち去った。帝は責めるに忍びず、そこで使者を派遣して検校尚書右僕射に昇進させた。

  大和八年(834)、部下に追放され、軍は部将の史元忠を推戴して留後を統べさせた。楊志誠は鎮にいたとき、密かに天子の袞冕をつくり、それを着用してすべて乗輿に擬させていた。史元忠は上表して朝廷に暴露し、御史に詔して調査させ、嶺南に貶され、商州に至って誅殺された。通王に節度使を領させ、史元忠に留後を授けた。翌年、検校工部尚書とし、副大使となった。会昌年間(841-846)初頭、副将の陳行泰に殺された。陳行泰は節度使を迎えようとしたが、朝廷は返答しなかった。次将の張絳は陳行泰を殺害し、自身を起用して軍を統率させるよう求めたが、武宗は自ら張仲武を用いて代えた。


  張仲武は、范陽の人である。『春秋左氏伝』に通暁した。会昌年間(841-846)初頭、雄武軍使となった。陳行泰史元忠を殺すと、宰相の李徳裕が、河朔は軍帥の任命を願った際に、すべて返報が下されるのが非常に速かったから、軍は安泰できたが、もし少しでも下すのが遅ければ、また変事がおこると献策した。帝はこれを許したが、まだ返答する前に、果して張絳に殺害され、再度軍を誘って軍帥の任命を願った。また据え置いて返答しなかった。この当時、回鶻は黠戛斯(キルギス) に破られ、烏介可汗は天徳城を借りようとして、張仲武はその部下の呉仲舒を派遣して入朝させ、盧龍軍で回鶻を攻撃することを願った。李徳裕はそこで北方の事について尋ねると、呉仲舒は、「陳行泰・張絳は二人共遊客であって、人心は懐いていません。張仲武は、旧将の張光朝の子で、年五十歳ほど、書物に通暁し、異民族の事を学習し、性格は忠義心があって、朝廷に元通り帰順したいと願っています」と答え、李徳裕は、「軍帥とした場合、軍は再び乱れないのか」と言ったから、「張仲武は兵士の心を掴んでおり、命を受ければ必ず張絳を追放するでしょう」と答え、李徳裕は入朝して帝に「陳行泰らが節度使となるよう求めても許すべきではありませんが、張仲武はまごころを尽くそうと願っており、これを用いれば成果があり、軍もまた拒絶しないでしょう」と言い、そこで兵馬留後に抜擢し、詔して撫王に節度使を領させた。詔が下ると、張絳は果して軍に追放され、そこで張仲武を副大使・検校工部尚書・蘭陵郡公とした。

  当時、回鶻の特勒の那頡啜が赤心部七千帳を擁して漁陽県に迫り、張仲武はその弟の張仲至と別将の游奉寰らに精兵三万を率いて撃破させ、馬・牛・橐它(ラクダ)・旗指し物を鹵獲したのは数知れず、吏を朝廷に派遣して状況報告と献上したから、検校兵部尚書に昇進した。

  それより以前、回鶻は常に酋長があって奚・契丹の歳貢を監督させ、そこで中国を偵察した。張仲武は裨将の石公緒らに厚く奚・契丹の二部と結ばせ、間諜八百人あまりを捕らえて殺した。回鶻は五原に侵入し、城塞の雑虜を捕らえようとしたから、そこで宣門将軍四十七人に欺いて友好関係を結ばせ、張仲武はその部下に賄賂を送って、ことごとく謀を発覚することができ、そこで逗留して帰さず、軍の出発時期を失わせ、回鶻の人馬は病死する者が多く、これによってあえて五原の城塞を侵犯することができなかった。烏介可汗は勢力を失い、康居を根拠とし、ことごとくその残党を移し、黒車子部に依存した。回鶻は遂に衰え、王侯貴種は相継いで投降し、数千もの人を捕らえた。張仲武は上表して石碑を建てて聖功を記録することを願い、帝は李徳裕に詔して銘文を作らせ、碑を盧龍に掲げ、後世に残した。大中年間(847-860)初頭、再び奚北部および山奚を破り、捕虜や家畜を得ること数えれなかった。検校司徒・同中書門下平章事に抜擢した。卒すると、諡を荘という。


  子の張直方は、右金吾将軍として節度留後を襲封し、にわかに副大使に昇進した。挙動の多くは不法で、部下が軍乱を起こすのを恐れ、そこで狩猟にかこつけて京師に出奔した。軍中は張允伸に後の軍務を統べさせた。張直方が京師に到着すると、宣宗は使者を派遣して郊外で出迎えて労わせ、金吾大将軍を授け、その一族が多かったから、検校工部尚書の俸禄を支給した。しばらくして検校尚書右僕射に昇進した。

  性格は暴虐で、小罪でも罪として金吾使を笞打って殺したから、右羽林統軍に改められた。狩猟を好み、往々として獣網を道に仕掛けた。宿衛となるべき時に入らなかったから、驍衛将軍に降格された。奴婢は些細な過ちでたちまち殺され、その罪が加算されて、思州司戸参軍に貶された。母は驚いて「我が子はどれだけ尊いのだろうか」と言い、しばらくして再び羽林統軍を授けられた。部下を放って盗みを働かせたから、再度康州司馬に貶された。後に東都に住し、狩猟はますます甚だしくなり、洛陽の飛ぶ鳥はすべて皆張直方を知っていたから、張直方を見ると必ず群がって騒ぎ立てた。乾符年間(874-879)、左驍衛大将軍に累進した。当時鄭畋が宰相で、「張仲武は会昌年間(841-846)の時の功績第一の人物ですが、今張直方は百人を養うのすら立ち行かなく、燕への内示を受けるたびに、衣服が破れてみっともないから、辞退して赴きません。陛下は功績を記録して昔を思い出され、少しはご寛容あらせられますよう」と言葉強く申し上げたから、詔して検校右僕射に遷り、左金吾衛大将軍に昇進した。

  黄巣が京師を攻撃すると、張直方は灞上で出迎えたが、既に逃亡した者を匿い、黄巣を脅して天子に報いようとし、公卿の多くはこれを頼った。賊に発覚し、その一族は皆殺しにされた。


  張允伸は、字は逢昌で、范陽の人である。代々軍の将校であった。張直方が出奔すると、都知兵馬使として軍に推戴されて留後となり、天子は追認した。しばらくもしないうちに、検校散騎常侍となり、節度使に任じられ、累進して検校司徒・兼太傅・同中書門下平章事となり、燕国公に封ぜられた。

  龐勛が徐州で叛乱をおこすと、上書して弟の張允皐を派遣して兵を領して賊を討とうと願ったが、許されなかった。米五十万斛・塩二万斛を奉って軍費を助けたから、詔してお褒めの言葉をいただき、玉帯・宝器・絹錦を賜り、兼侍中に昇進した。咸通十二年(871)、重病のため、節・印を返還して治療に専念したいとし、詔して許し、子の張簡会を副大使とした。卒したとき、年八十八歳であった。太尉を追贈し、諡を忠烈という。

  張允伸は、性格は謙虚で慎みがあり、部下は安心した頼り、いまだかつて辺境でのおそれがなかった。子は十四人いた。張簡会は入朝し、弟は大将軍・刺史・郡佐となる者が多かったが、軍中は張公素を推戴して留後とした。


  張公素は、范陽の人である。列将として張允伸に仕え、抜擢されて平州刺史となった。張允伸が卒すると、兵を率いて喪に参じ、軍の兵士はもとよりその声望に従い、張簡会は制することができないのを知って、ただちに出奔した。張公素に詔して節度使とし、同中書門下平章事に昇進した。性格は暴虐で、瞳に白が多かったから、燕の人々は「白眼相公」と号した。李茂勲に襲撃されて、京師に逃げ、復州司戸参軍に貶された。


  李茂勲は、もとは回鶻の阿布思の後裔である。張仲武の時、回鶻の王侯とともに降伏した。性格は沈着かつ勇敢で、騎射をよくし、張仲武は優れた人材とし、兵を率いさせ、常に辺境で功績を積み、姓名を賜った。陳貢言という者がいて、燕の宿将であり、納降軍使となって、軍中は心服していたが、李茂勲は襲撃して陳貢言を殺し、挙兵する際に、偽って陳貢言が叛いたと称した。張公素は迎撃したが不利で、逃走し、李茂勲は入府すると、軍ははじめて真相を悟り、そこで推戴して州務を司り、奏上し、詔があって節度使を拝命した。にわかに病のため奏上し、詔して尚書右僕射に昇進して致仕した。上表して子の李可挙を代理とし、遂に留後を領し、進んで節度使となり、検校太尉に累進した。

  中和年間(881-885)末、太原の李克用が次第に強大化し、定州の王処存と厚く互いに同盟し、李可挙は彼らが山東を窺って自分の患いとなるのを嫌って、そこで使者を派遣して吐渾都督の赫連鐸・鎮州の王鎔と盟約して和を結び、易州・定州はもともと燕・趙に属していたから、その地を獲得し、地を分け合おうと声高に言った。そこで軍司馬の韓玄紹を派遣して沙陀を薬児嶺で攻撃し、七千級を斬首し、その将軍の朱耶尽忠らを殺し、牛・馬・武器・鎧数万を収容した。また雄武軍と戦い、戦死・捕虜一万人の損害を与えた。赫連鐸もまた沙陀を蔚州で破り、詔して赫連鐸を雲州刺史とし、李可挙を検校侍中に昇進させた。そこで勇将の李全忠を派遣して軍六万を率いて易州を包囲した。王鎔が兵で無極県を攻めると、王処存は救援を太原に求め、李克用は自ら軍を率いて救援に向かったから、鎮州の人は恐れ、退却して新城に籠もった。李克用は急襲したから、王鎔は引き揚げたが、追撃して九門郡で破った。易州は長いこと降らず、盧龍郡の将劉仁恭は地面に穴を掘って城内に侵入したから、その城を陥落させることができ、兵卒は驕った様子があった。王処存は軽装兵三千に羊の皮を被らせ、夜に野に放ち、精鋭の騎兵を他の道に伏せさせた。李全忠の軍は羊が群れているのを遠望して、先を争って走ったから、王処存は伏せていた騎兵を突撃させ、大いに破り、再び易州を奪取した。李全忠は逃げ帰り、ことごとく兵糧・武器・鎧を失い、罪となることを恐れ、そこで軍の残部を集めて反転して幽州を攻撃し、李可挙は守り切ることはできないと判断し、その一族を引き連れて楼に登って自ら焚死した。

  李全忠は、范陽の人である。仕えて棣州司馬に任じられた。芦がその部屋に生えるという出来事があり、長さ一尺で節が三つあり、不思議に思っていた。そこで別駕の張建に尋ねると、張建は「芦は茅の類で、沢に生じます。公が茅の土となる兆です。節はそれが三代に伝えるということではないでしょうか」と述べて帰り、李可挙に仕えて牙将となった。李可挙が死ぬと、軍は推戴して留後とした。光啓元年(885)、節度使を拝命したが、しばらくもしないうちに卒した。


  子の李匡威が継承し、留後を領し、昇進して節度使となった。性格は豪放磊落で、燕・薊の強兵にたのみ、軒然として天下に雄たるの志を抱いていた。赫連鐸とともに太原を攻撃し、雲州・代州をめぐって係争を繰り広げた。李克用安金俊に赫連鐸を攻撃させ、李匡威は赫連鐸を救援し、蔚州で戦い、安金俊を殺し、そこで共同で上表して沙陀を討伐することを願い、朱全忠もまた上言して協力を願い、そのため張濬はそこで兵を用いることを願った。張濬が敗れると、李克用は雲州を攻撃し、騎将の薛阿檀を前鋒とし、伏兵を河上に設けた。赫連鐸は精兵の騎兵で薛阿檀を追撃し、河に到着すると伏兵があらわれ、そのため大敗し、その将の賈塞児が捕虜となり、遂に雲州を包囲し、塹壕を掘って守り、兵を分けて井陘に出撃し、常山に駐屯し、大いに深州・趙州を掠奪した。李匡威は歩兵・騎兵一万あまりで王鎔を救援したから、李克用は帰還し、そのため赫連鐸を猛攻した。たまたま兵糧がつき、赫連鐸は州を棄てて李匡威のもとに逃げた。李克用は雲州を奪取し、上表して石善友を刺史とした。赫連鐸は、もとは吐谷渾部の酋長であった。開成年間(836-840)、その父は部族民三千帳を率いて自ら帰還し、雲州を十五年間守った。これより先、雲州の地を失ったのである。

  景福年間(892-893)初頭、王鎔は太原の将の李存孝を誘って降らせたから、李克用は怒り、王鎔を討伐した。王鎔は救援を求めたから、李匡威は将軍を派遣して赴かせたところ、李克用は撤退した。翌年、軍を再び井陘に出兵させ、李匡威は自ら軍を率いて王鎔を救援することとした。出発しようとするとき、酒を置いて大宴会を行った。その弟の兵馬留後・検校司徒の李匡籌の妻の張氏は、国で一番の美人で、李匡威は酒に酔って襲ったから、弟は怒り、李匡威の軍が博野に行くと、城によって自ら留後となった。天子はそこで検校太保を授け、節度使とした。

  李匡威の部下の多くは去り、さまよって帰るところとてなく、深州に留まり、その部下の李抱貞を派遣し、上書して入朝を願った。当時、京師はしばしば侵攻の艱難を受け、人々は震え上がり、「金頭王がやって来るぞ」と伝えあったから、皆山谷に逃亡した。李抱貞が、帰還すると、王鎔は李匡威を迎えて鎮州に住まわせた。李匡威は李抱貞を引き連れて城の西の大悲寺に登り、遠望して涙を流し、その山川が美しいのをみて、そこで李抱貞と共に王鎔についての謀を協議した。表向きは王鎔のために甲冑を修繕し、城の堀を浚い、方略を授けるとしたが、内心では軍に給付して兵士の心を自分に傾けようとした。鎮州の軍は王氏に忠誠したから、皆が李匡威を嫌った。李匡威の親の忌日に、王鎔は参列した。李匡威の兵士は甲冑の上に服を着ており、王鎔を拐って牙城に入り、戦ったが勝てず、鎮州の人は李匡威を斬って全軍に布告した。李匡籌は上表して朝廷に訴え、王鎔の罪を暴いて通達し、楽寿県・武彊県を攻撃して報復した。

  それより以前、李匡籌が簒奪すると、燕の人はこのことを不義であるとした。劉仁恭は太原に出奔し、李克用は劉仁恭の謀をたより、武州・媯州の二州を降し、李匡籌を居庸関で破った。李存審と戦い、李匡籌は再び敗れ、一族をひっさげて京師に出奔しようと、景城に行ったが、滄州節度使の盧彦威に殺され、車・馬・召使・妓女を掠奪された。妻は乳飲み子がおり、進むことができず、劉仁恭は妻を捕獲すると、李克用に納れて愛妾となった。それより以前、李匡威が逐われると、嘆息して「兄が失って弟が得たとしても、すべては我が一族のことであり、悔やむことはない。だが人材は守るに足りないことを恐れるのだ」と言い、はたして滅亡して、幽州の地は李克用の手に帰し、劉仁恭を帥とした。


  劉仁恭は、深州の人である。父の劉晟は、范陽の客人となり、李可挙によって新興県の鎮将に任じられ、そのため劉仁恭も軍中に仕えた。李全忠に従い易州を攻め、「窟頭」と号し、しばらくして将校となった。人となりは豪放で、多く智謀を有した。大志があって、かつて自ら「夢に大旗が指の端から出て、年は四十九であるから、まさしく旗指し物を持つことになるだろう」と言ったから、李匡威は劉仁恭を嫌い、景城県令に任命した。

  当時、瀛州が叛乱をおこし、守吏を殺害したから、劉仁恭は兵士千人を募集して叛乱を鎮定した。李匡威は再び将兵に蔚州を守らせたが、一年越えても交替せず、兵士は皆恨んだ。李匡籌が簒奪すると、そのため守兵は劉仁恭を擁して幽州に急行したが、李匡籌に迎撃されて敗北し、遂に一族を引き連れて太原に亡命した。李克用の劉仁恭への待遇は非常にあつく、田や邸宅を賜い、寿陽県の鎮将を拝命した。しばしば李克用に献策し、歩兵・騎兵一万で東は幽州を奪取することを願い、なおかつ先導となった。李克用は李匡籌を攻撃し、李匡籌は遁走した。劉仁恭は苻存審とともに入城し、府庫を封じて待機した。李克用は喜び、劉仁恭を留めて守らせ、充分な信頼によってその兵を分けて預けた。

  乾寧二年(895)、李克用王行瑜を攻撃し、上表して劉仁恭を検校司空・盧龍軍節度使とした。翌年、李克用が魏州を攻撃すると、盧龍軍の兵を招集し、劉仁恭は契丹の兵を送った。また翌年、李克用もまた兵をおこして朱瑄を救援したが、劉仁恭は要請に答えず、使者は数十回行き来し、ついに出兵しなかった。李克用は書簡で責めたてると、劉仁恭はそこで慢罵し、その使者を捕らえ、太原の兵士で燕にいる者を全員捕らえた。またあつく利益によって李克用の麾下の兵士を誘い、多くが亡命して帰順した。李克用は怒り、自ら兵を率いて攻撃しに来たが、勝てず、軍の喪失は半分以上に及んだ。劉仁恭は首級を朱全忠に献上し、朱全忠は上表して同中書門下平章事とした。

  すでに李克用と断絶したから、そこでますます兵を募った。光化年間(898-901)初頭、子の劉守文に滄州を襲撃させ、節度使の盧彦威は城を棄てて逃走し、遂に滄州・景州・徳州の三州の地を併合し、劉守文を用いて節度留後とし、朝廷に任命の追認を要請した。昭宗は怒って与えなかった。当時、宦官がやって来て、劉仁恭は侮って「旄節なんぞは私が自分でなすべきものであって、長安の本領に任命される必要があるだけだ。どうして拒まれるのか」と言い、これによって兵力はますます伸長し、河北の勢力をあらわした。幽州・滄州の歩兵・騎兵は全兵力で十万、公称三十万で、南はを従えた。貝州に行って皆殺しとし、清水河はそのため流れなかった。

  羅紹威朱全忠に救援を求め、朱全忠は李思安葛従周に赴かせ、内黄に陣を敷いた。劉仁恭は強さに自信があり、下令して「李思安は臆病で、先に攻撃すれば破ることができ、そうすれば魏を奪取できよう」と言い、劉守文は単可及とともに精鋭五万で、清水河の上をめぐった。李思安は伏兵を設け、自ら兵を率いて迎撃し、偽って勝たなかった。劉守文は北に追撃して内黄県に到り、李思安は兵を整えて戻って劉守文を攻撃し、伏兵が現れ、単可及を斬り、ただ劉守文は単騎で逃れ、軍で帰還できた者はいなかった。葛従周は邢州・洺州の兵をおこして魏将の賀徳倫らとともに館陶門に出撃し、夜に劉仁恭を攻撃し、八陣を破った。劉仁恭は敗走し、魏から長河までの数百里は、死体で道が覆われた。の人は迎撃して東の境で破った。劉仁恭は遂に衰えた。

  光化三年(900)、葛従周は滄州を攻撃し、劉仁恭は乾寧に立て籠もった。葛従周は軍を潜ませて老鵶隄で戦い、劉仁恭は敗れ、退却して瓦橋に立てこもり、言辞を低くして帰順して李克用に救援を求め、李克用は劉仁恭のために邢州・洺州に侵攻した。にわかに朱全忠が瀛州・莫州を奪取し、李克用は周徳威に飛狐県を攻撃させた。天祐三年(906)、朱全忠は自ら兵を率いて滄州を攻撃し、長蘆に立て籠もった。劉仁恭はことごとく男子の十五歳以上を徴発して兵とし、その顔面に「定霸都」と入れ墨し、兵士は肘に「一心事主」と入れ墨し、盧龍の村々は空となり、二十万の軍勢を得て、瓦橋に駐屯した。朱全忠は滄州を取り巻いて塹壕を築き、内外の増援を途絶させ、人々は互いに人食した。劉仁恭は戦うことを求められたがが許さず、また李克用より援軍を求められ、使者は百人往復し、ついに許した。劉仁恭は兵三万で合流して潞州を攻撃し、朱全忠の将の丁会を捕虜とし、滄州の包囲は解囲された。

  この当時、中原では繁多であったため、劉仁恭は燕が強くまた遠方の地であるをたのみとすることができ、憚ることなく、自分自身で満足した。方士の王若訥に従って長年学び、館を大安山に建造し、子女を拐ってここに送り込んだ。また僧侶を招いて、ともに講法を行わせた。粘土で銭をつくり、本当の銭は収容して穴山に隠し、作業にあたった者たちを口封じのため殺した。南方の茶を禁止し、自ら山で草を摘んで茶とし、山を大恩山と号し、私利を求めた。

  子の劉守光は劉仁恭の愛妾と密通し、事が発覚すると、劉仁恭は劉守光を勘当した。李思安が侵攻して石子河に陣を敷いた。劉仁恭は大安山にあって、城中に防衛の備えはなかった。劉守光は兵を率いて出撃すると、李思安は退却し、そこで軍を反転して大安山を攻め、劉仁恭を捕らえて別室に幽閉し、側近・召使・愛妾を殺し、ついに盧龍軍を領有した。


  賛にいわく、朱滔はその兄朱泚を脅して入朝させ、兵を率いて東に向かい、帝と称して自らを尊いものとし、名目上は朱泚を助けるといいながらも、志は知るべきである。朱克融にいたって再び幽州を得たが、朱氏は種を残すことはなく、その禍は朱泚と等しいものであって、族滅されたのは前後に隔たりとなったからである。


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