関播 かんばん
719-797
中唐の宰相(在任782-784)。字は務元、衛州汲県(河南省衛輝市)の人。三国志で有名な関羽の子孫であったという。進士に及第し、淮南節度使
鄧景山の幕下に任用され、右補闕、河南兵曹参軍事、浙東・淮南節度判官、滁州刺史、都官員外郎、吏部侍郎を歴任した。建中三年(782)宰相
盧𣏌が御しやすいとみなされ、推薦を受けて中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となったが、万事は盧𣏌が決するだけであった。
朱泚の乱がおこり、徳宗が奉天に逃亡するとこれに従った。盧𣏌が失脚した後も宰相に留まったが、朝野の反対を受け、建中四年(783)十二月、宰相を罷免されて刑部尚書、知刪定使となった。武廟十哲の廃止を建言して、裁可された。
咸安公主の回鶻への降嫁に同行し、帰還すると兵部尚書に任じられた。太子少師で致仕した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2024年07月22日 01:50