巻一百五十一 列伝第七十六

唐書巻一百五十一

列伝第七十六

関播 董晋 袁滋 趙宗儒 竇易直



  関播は、字は務元で、衛州汲県の人である。進士に及第した。鄧景山が青斉・淮南の節度使であったとき、二度とも幕下に任用された。右補闕に遷った。神策軍使の王駕鶴と婚姻関係となったから、元載に憎まれ、京師から出されて河南兵曹参軍事となったものの、数県にわたって職務を行い、優れた成績を見せた。陳少游が浙東・淮南の節度使となると、上表して判官となり、滁州刺史をなった。李霊耀が叛くと、陳少游は淮上に陣を敷き、盗賊がハリネズミの針のように沸き起こったが、関播は財力を貯え、軍に給付し、人々は愁い苦しむことはなかった。楊綰常袞は皆関播をよしとし、引き上げて都官員外郎とした。

  徳宗が即位した当初、湖南峒の賊の王国良が蜂起して州県を脅かし、制することができなかった。関播に詔して宣慰させることとなり、そこで事情を知らせ、殿中で対面した。帝は政治の要略を尋ね、関播は、「政治の根本は、有道の賢人を得て治めるのが要なのです」と答え、帝は「朕は近頃詔を下して賢才を求め、また使者を派遣して考課しており、残っている者を探し、優れた者を選んで用いているが、どうか」と尋ねると、関播は「陛下は賢人を求め、また推薦させているとはいえ、しかしながら名を求める文辞の士を得ているに過ぎず、どうして有道の賢人があっても牒を奉って推薦を願うことをよしとしましょうか」と答えた。帝は喜んで、「卿はしばらく下がりなさい。また改めて議論しよう」と言ったが、関播は「詔を奉って賊を平定するのに、受命しないようなやつがおります。臣は州兵を発してこれを平定させていただきたい」と言い、帝は「よろしい」と答え、帰還すると、再び給事中に遷った。故事では、諸司の甲庫は令史といった下級役人が担当しており、横領して悪事をなしていた。関播はすべて士人に変えたから、当時の人はその法を正しいものとした。

  吏部侍郎に任じられた。帝は宰相を求め、盧𣏌は常に関播が温和で穏やかであるから制しやすいとし、そこで従容として関播の人物は宰相に任じ、その穏やかで重厚な人物は流動を鎮めることができると言った。そこで中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命したが、政務はすべて盧𣏌が決した。かつて帝の前で政務を論じたが、関播の意見は不可であり、その場から進み出て発言しようとしたが、盧𣏌は目配せして禁止したからたちまち止めた。盧𣏌は場を退くと関播を責めて「君は寡黙だからこそ、ここにいるのだ。どうして口を開いて事を荒立てようとするのか」と言い、関播はそこで恐れおののいてあえて共にすることはなかった。

  当時、李元平・陶公達・張愻・劉承誡は軽薄の者を引き連れて、関播の門下に遊学し、よくおびただしい詭弁を語り、功名によって自ら喜んでいた。関播は全員を将軍や宰相たる人材であると言い、しばしば帝に用いるよう願った。李元平はもと宗室の末裔で、軍事を論じるのを好み、天下の士大夫を見下してましな者がいないと言ったから、人々は怨み憎んだ。李希烈が叛くと、帝は汝州は賊に占領されると要衝となるから、刺史は軟弱かつ疲弊して任に耐えないとみていた。関播は盛んに李元平を称えたから、帝は召見すると、左補闕に任命した。数日もしないうちに、検校吏部郎中、兼汝州別駕、知州事に任じた。李元平が到着すると、工夫を募集して城壁を築いて掘を浚渫したから、李希烈は密かに亡命者に応募させ、約数百人が中に入ったが、李元平は悟ることがなかった。賊は将軍の李克誠は精鋭の騎兵を率いて城に迫ると、募集された工夫が内応し、李元平を縛って李希烈のもとに馳せ参じ、矢を地に送った。李希烈は李元平が小躯で髭がなかったから、李克誠に「お前に李元平を捕らえさせたのに、その子どもを連れてきたのではないのか」とふざけ、そこで漫罵して「目が利かない宰相はお前を私に当たらせたが、どうして私が浅はかになるのを待ったのか」と言い、偽の御史中丞に任じた。関播はこのことを聞いて「李元平の功績がなった」と偽り、必ず賊を滅ぼして功績を立てると言ったが、左右の者はこれを笑った。しばらくもしないうちに、偽宰相に任命され、その二心を告げる者がいると、李元平は一指を断ち切って自ら誓った。陶公達らは李元平が賊に屈したから、全員用いられなかった。

  関播は帝が乱を逃れて奉天に行幸するのに従った。盧𣏌白志貞はすでに貶されたが、関播はなお宰相の地位にあり、議する者は不平を言い、遂に罷免されて刑部尚書となった。韋倫らは「宰相は最善の策をつくさず、天子を彷徨わせました。どうして尚書とするのが可とされるのでしょうか」と述べ、連れ立って朝廷で泣いた。しばらくもしないうちに、知刪定使とした。それより以前、上元年間(760-761)、詔して古の名将十人を選んで武成廟に配享し、十哲が孔子を助けたようにさせた。関播は奏上して「太公望は、古の賢臣で、今はその下を亜聖と称えています。孔子の十哲は、全員当時の弟子で、今配享するのは年や世代が同一ではありません。これを止めますよう願います」と述べ、詔して裁可された。

  貞元年間(785-805)初頭、検校尚書右僕射となり、持節して咸安公主が回鶻に降嫁すると、虜(回鶻)人は関播の清廉さを重んじた。帰還すると兵部尚書に任じられた。太子少師となって致仕し、車や馬を売却し、門を閉ざして外の事に触れなかった。卒した時、年七十九歳であった。太子太保を追贈された。

  それより以前、李希烈が死ぬと、ある者は李元平が賊に屈したとはいえ、謀によって苛求させなかったと言い、そのため死を免れて珍州に流された。たまたま赦免されて帰還すると剡中に行ったが、観察使の皇甫政がその到着を上表したから帝は怒り、遂に流されて賀州で死んだ。


  董晋は、字は混成で、河中虞郷の人である。明経科に合格した。粛宗が彭原に行幸すると、行在に上書し、秘書省校書郎を拝命し、翰林に待制した。京師から出されて淮南の崔円に従って、淮南府の判官となった。朝廷に戻ると、祠部郎中に遷った。

  大暦年間(766-779)、李涵は節を持って崇徽公主を回紇に送り、董晋を判官に任命した。回紇が功績をたのんで、使者を見て驕り、そこで「毎年馬を交易して唐に送り届けているのにこちらに入ってくる代価が不足している。どうしてか」と尋ねたから、李涵は恐れて答えようとせず、しばしば董晋に目配せし、董晋は「我々は馬がないというわけではないのに、あなたがたと交易するのは、あなたがたへの贈り物としては充分ではないのか。あなたがたは毎年五回やって来て、辺境の役人は死んだ馬の皮まで数えて代価を支払っている。天子はあなたがたの功労を忘れていないから、役人に勅して不問にしている。それなのにあなたがたはかえって代価について、我々に望まれるのか。さまざまな異民族は我々とあなたがたと組んでいるから、あえて争わないのだ。あなたがた父子が平和で、馬を飼って繁殖させられるのは、我々のおかげではなければ誰のおかげだ」と言い、回紇の人々はみな南面して平伏し、あえて言うものはいなかった。帰還すると秘書少監に遷った。

  徳宗が即位すると、太府卿を授けられた。十日もしないうちに、左散騎常侍、兼御史中丞、知台事となった。京師から出されて華州刺史となった。朱泚が叛くと、兵を派遣して華州を攻撃し、董晋は華州をすてて行在に逃げた。国子祭酒に改められ、恒州を宣慰した。引き返して河中府に到着すると李懐光が背いたから、董晋は李懐光に「朱泚は臣となってその君主に叛きました。思い通りとできたところで、公には何の関係がありましょうか。また公の位は太尉となっており、朱泚が公を寵遇したところで、また何の位を加えようというのでしょうか。彼が君主に仕えることができなかったのに、臣として公に仕えることができましょうか。公が彼に仕えることができて、君主に仕えることができないことがありましょうか。公は賊を敵としてもなお力が有り余っています。もし襲撃して占領し、宮殿を祓い清めて天子を迎えれば、大悪があったとしてもつぐないができましょう。公を誰があげつらいましょうか」と説得し、李懐光は涙を流して喜び、董晋もまた泣いた。また同じ話をその将兵に語ると、全員が拝礼した。そのため李懐光は驕り高ぶっていても、朱泚を助けることはなかった。

  帝が京師に戻ると、左金吾衛大将軍に移り、尚書左丞に改められた。この時、右丞の元琇韓滉に排斥されて罪とされ、韓滉の権勢は朝廷に振るった。董晋は宰相に面会すると、元琇は罪ではないと唱え、士大夫はその節を立派であるとした。貞元五年(789)、門下侍郎同中書門下平章事(宰相)となった。竇参は董晋が宰相となると、裁可の大事に関わらず董晋に諮問し、董晋は法を守って態度は謹慎で、異論を述べることはなかった。竇参はその甥の竇申を吏部侍郎にしたいと思い、董晋に仄めかして上奏させた。帝は怒って「竇参が卿に迫ってしたことではないのか」と言ったから、董晋は謝罪し、詳細にそうなった理由を述べた。帝はそこで竇参の過失を尋ねると、董晋はあえて隠すことはなく、これによって竇参は宰相を罷免された。董晋は恐れ、上疏して固く辞職を願った。貞元九年(793)、罷免されて礼部尚書となり、兵部尚書として東都留守となった。

  当時、宣武軍の李万栄が病となって死に瀕しており、詔して董晋を検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)とし、宣武節度副大使、知節度事に任じた。李万栄が死ぬと、鄧惟恭が宣武軍を統率した。董晋は任命を受けると、兵を召集せず、ただ幕府はお供とともに馬で疾走して従うだけで、即日出発した。鄭州に到着したが、出迎えの者は来ず、人で停止して様子を見るよう勧めた者がいたが、董晋は聞かず、直ちに汴に到着した。郊外までやって来ると、鄧惟恭は始めて出迎えた。城に入ると、ただちに軍政を委ね、改めることがなかったから、軍は心服して董晋に礼があるとし、その謀をはかることはなかった。それより以前、鄧惟恭は李万栄と代わろうと謀り、そのため吏を派遣せず、董晋を疑っていたから、あえて入らせなかった。董晋が入ってきたという情報を聞くと、愉快となって平静を保つことができなかった。汴の兵士はもとより驕慢で乱をたのんでいたから、かつて勇士を挟んで幕下に伏せさせ、早朝・夕方に交替で休ませ、董晋は免れることができた。鄧惟恭はそこで大将の相里重晏らと結んで叛乱を企て、董晋は発覚するとその与党を殺害し、鄧惟恭を捕らえて京師に送った。帝は鄧惟恭が李迺を捕らえた功労を鑑みて、死を免れて汀州に流した。帝は董晋が儒者としての軟弱さを恐れ、詔して汝州刺史の陸長源を司馬とし、董晋の補佐とした。董晋は謙虚かつ節倹な人物で、事があれば多くは習慣に従ったから、そのため軍はだいたい安んじた。陸長源は法を守って厳格で、しばしば旧事を改めようとした。董晋は最初は許したが、後にすべて止めて用いなかった。税財政は孟叔度に委任したが、孟叔度の人となりは軽率で、軍中はこれを嫌った。董晋が軍にあることおよそ五年で卒し、年七十六歳であった。太傅を追贈され、諡を恭恵という。

  董晋が宰相となると、五月朔日に、天子が御座し、公卿は前庭にいならび、侍中が群臣を代表して祝賀を述べれば、竇参が摂中書令として、詔を伝えるはずであった。しかし竇参は病気となってしまい、公卿が互いに顔を見合わせたが、まだ詔がなかった。董晋が従容として進み出て、「摂中書令の臣竇参が病で実行できないから、臣が竇参の代わりに実行します」と言い、南面して詔のことばを宣べ、進退の礼儀作法は大変慣れていた。金吾将軍の沈房は喪に服していたが、公除(服喪が終わる前に強制的に官に呼び戻されること)されたが、常に喪服で朝廷に入っていた。帝は疑って董晋に尋ねると、「故事では、朝官の期(一年)以下の喪の場合、服は絁縵(花紋のない図案の荒いかとりぎぬ)で、衣は浅色に合わせず、南班もまた同様です」と答えた。また董晋に冠冕の制を尋ねた。「古で冠冕を服する場合、玉を佩びる時は急ぎません。堂上では足跡が相接するように、堂下では足跡が互いに離れるように、君主の前でははしり進むのみです。今は走っては転倒する者がいます。式の条文では、朝臣は皆綾袍で、五品以上は金玉を帯びますが、飾り立ててお上にお仕えするのが理由となっています。そのため漢の尚書郎は香を口に含んだというのも、老莱が派手な子供用の服を着たというのも、君や父を喜ばせるということでは根源が同一なのです。そうであるなら絁縵を着用したところで、また非礼なのです」と答え、帝はその発言をその通りだと思った。詔して宮中に入る官人は走ってはならず、期以下の喪は慘服(一年以下の喪服)を着て朝会に出ることを禁止し、群臣の本品綾袍・金玉帯させるのは、董晋によって復制した。

  子の董渓は、字は惟深で、父と同じく明経科に及第し、三遷して万年県令となった。王承宗を討伐する時、度支郎中に抜擢され、東道行営糧料使となった。軍事物資の横流しを罪とされ、封州に流されたが、長沙で死を賜った。子の董居中は、詩をよくし、張籍に称えられた。


  陸長源は、呉の人で、字は泳という。祖父の陸余慶は、天宝年間(742-756)太子詹事となり、清廉の誉れがあった。

  陸長源は学識豊かで、始め昭義軍薛嵩の幕下に任じられた。薛嵩は奢侈にふけり、常に従容として諌めた。薛嵩は「君でなければどうして諌められようか」と言った。建州・信州の二州の刺史を歴任した。韓滉が江淮転運使に兼任すると、辟署されて御史中丞に任命され、韓滉の副官となった。京師に入って都官郎中に遷り、再び京師から出されて汝州刺史となった。遂に宣武軍に遷り、政務はすべて司馬である陸長源から出た。それより以前、法を厳しくして驕慢な兵を正し、董晋に掌握させようとしたが、うまく行かなかった。しかも判官の楊凝孟叔度らもまた些細なことに厳格で、孟叔度は邪悪かつ放縦で、しばしば俳優の軽薄な笑いをして喜んだから侮られた。董晋もまた緊張が緩み、陸長源はたちまち切り盛りして正した。董晋が卒すると、陸長源は留後の事を統率し、「将兵は長らく慢心であったから、私が法によって治そう」と大言したから、軍は始めて恐れた。軍中は府庫の絹を出して董晋の喪のために服をつくることを願ったが、許さなかった。強く願うと、その給料の支給を停止した。孟叔度も支給を希望するとともに、支給は塩で実施したから、塩の価格は高くなり、絹布は安くなり、人々は塩二斤ほどしか得られなかったから、全軍が大いに怒った。ある者が陸長源に勧めて「故事では、大事件があれば厚く軍に賜うことになっており、軍はそうすれば安泰なのです」と言ったが、陸長源は「他の時、河北の賊は銭で守兵を買収して節度使となったが、私はそうするのは忍びない」と言い、軍の怒りはますます激しくなった。陸長源の性格は剛直で変事に適さず、また備えもしなかった。わずか八日で軍乱となり、陸長源および孟叔度らを殺してその肉を食べ、兵は統率を失って大いに掠奪した。死んだ日、詔があって節度使を拝命しており、遠きも近くも嘆いた。尚書左僕射を追贈された。

  陸長源は冗談を好んで威儀がなかったが、清廉潔白で自ら軍を率いた。汝州を去るとき、車二乗が送った。「私の祖父が魏州を去るとき、車一乗であり、しかも書籍がその半分であった。私は先人に及ばないのを恥じる」と言ったという。

  陸長源が死ぬと、監軍の倶文珍は密かに宋州刺史の劉全諒に後務を統括させた。劉全諒が到着すると、その夜に軍は再び叛乱し、大将および軍人五百人を殺して平定した。帝はそこで詔して劉全諒を検校工部尚書・宣武節度使とした。


  劉全諒は、初名は劉逸淮で、ここに至って名を賜った。もとは懐州武涉県の人である。父の劉客奴は、防衛の兵士として籍を幽州に留め、平盧軍に仕え、優れた人材として力量があらわれた。開元年間(713-741)、室韋の首領の段普洛がしばしば辺境を攻撃したから、節度使の薛楚玉は劉客奴に段普洛を単騎で襲撃させ、斬首して帰還した。兵卒から昇進して、左驍衛将軍を拝命し、遊奕使となった。性格は謹厳かつ純朴で、しばしば戦功があった。安禄山が叛くと、平盧節度副使の呂知誨を節度使とした。賊は韓朝暘を派遣して誘い、呂知誨はそこで投降し、賊は安東副都護の馬霊察を殺害した。劉客奴は不満を持ち、諸将とともに呂知誨を殺し、使者を派遣して安東の将の王玄志とともに奏上した。天宝十五載(756)、劉客奴を柳城郡太守、摂御史大夫・平盧節度使とし、名を劉正臣と賜い、王玄志を安東副大都護とした。劉正臣は使者を派遣して海を航海して平原に到り、太守の顔真卿と結びつきあった。顔真卿は喜び、子を人質として兵糧をもたらし、また軍の出兵を要請した。到着以前に顔真卿は平原を放棄したから、帰還した。そこで范陽を襲撃したものの、史思明に敗北して、逃げ帰ったが、王玄志に毒殺された。

  劉全諒は劉玄佐に仕えて牙将となり、勇猛果敢で騎射をよくするから劉玄佐に厚遇された。累進して兼御史中丞となった。劉玄佐の子の劉士寧が擁立されると、劉士寧は宋州刺史の翟良佐が自分に従わないのを疑い、表向きは各地に巡行すると言い、到着すると劉全諒に代わらせ、そのため汴の将兵の多くは心を寄せた。政務を見ること八か月で卒した。尚書右僕射を追贈された。軍中は韓弘を擁立して節度使にしたという。


  袁滋は、字は徳深で、蔡州朗山県の人で、陳の侍中の袁滋の後裔である。博覧強記であった。若くして道州刺史の元結に師事し、読書して自らその義を解き、二人は結びつきあって重んじた。後に荊・郢の間をさまよい、学校をつくって講義を授けた。建中年間(780-783)初頭、黜陟使の趙賛は朝廷に推薦し、処士に起用され、校書郎を授けられた。累進して張伯儀何士幹の幕下に任じられ、詹事府司直に昇進した。部下の官吏が金を盗んだとされ獄に下されたが、袁滋はこれを冤罪とした。御史中丞の韋貞伯がこの事を聞いて、上表して侍御史とした。刑部・大理が罪人を再審するとき、公平さを失っていたが、袁滋が法を守るのを憚り、そのため権勢によって奏請したが、袁滋はついに上奏文に署名しなかった。工部員外郎に遷った。

  韋皋が始めて西南夷を招き寄せると、南詔の畢牟尋も内属してきた。徳宗は郎吏から宣撫する者を選んだ。皆行くことを嫌がったが、袁滋の番になると辞退しなかったから、帝はお褒めの御言葉を賜った。祠部郎中、兼御史中丞に抜擢され、金紫を賜い、持節して出発した。翌年帰還し、使者としての指名を果たし、諌議大夫となった。尚書右丞に遷り、吏部の選を司った。京師から出て外任することを求め、華州刺史となった。政務は清廉かつ簡潔で、流民がやって来ると、地を給付して住まわせ、その村を義合里と名付けた。しかし専ら慈悲を政策の根本とし、未だかつて法令を設けず、民は愛して従った。法令を犯す者があれば、時々法規から外れて釈放した。盗賊を捕らえると、ある時はその窮乏を哀れんで、財を出して償いをした。召還されて左金吾衛大将軍となり、楊於陵が後任となった。袁滋が出発するとき、耆老たちが道を遮ったから去ることができず、楊於陵は「私はあえて袁公の政治は変えない」と諭させたから、人々は皆取り囲んで拝礼し、そのため去ることができたが、涙を流さない者はいなかった。

  憲宗が監国となると、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。劉闢が叛くと、袁滋に詔して剣南両川・山南西道安撫大使とし、道中半ばで、検校吏部尚書・平章事として剣南東・西川節度使となった。当時、賊があちこちで群発し、また袁滋の兄の袁峰が蜀で劉闢に脅かされており、袁滋は身を保全できないことを恐れ、長らく進まなかったから、吉州刺史に貶された。しばらくもしないうちに、義成節度使に遷された。滑州は尚武の地で、東には淄青、北には魏博があり、袁滋は防備を厳重にして真心と信頼で接し、招いて来させるよう勤めた。李師道田季安は恐れて服した。同地にいること七年、百姓は祠を立ててお祭りをした。戸部尚書となって召還され、検校兵部に改められ、山南東道節度使を拝命して荊南に遷った。

  呉元済が叛くと、袁滋は蔡兵が強く、部下とともに欲するものを同じくし、一朝一夕の計略では降すことができず、方略を広くして、その心を離間させるべきであるとした。兵を留めること三年となり、徴発してますます強くなり、詔して銭を出すことを禁じて継続させた。袁滋は天子が出兵を嫌っていると推測し、自ら上表して入朝し、淮西討伐を止めるよう議そうと願い、道すがら蕭俛銭徽が議を阻む者を罪として退けていると聞いて、袁滋は自分の謀を翻し、改めて必ず勝つと言い、天子の意に従うべくし、そこで帰還した。にわかに高霞寓が敗れると、帝は恩信によって賊を動揺させようと思い、また袁滋がかつてあれこれ言っていたから、そこで彰義節度使を授け、唐州を仮に治所とした。また袁滋は儒者であるから、陽旻を唐州刺史とし、その兵を率いさせた。袁滋は先祖の墳墓が蔡にあり、呉少陽の時に墓を修し、馬が秣をとることを禁じ、また袁氏の者たちは多く呉少陽の幕下に職を得て、俸給を得ていた。袁滋が到着して統治すると、斥候を去らせ、呉元済と通好した。賊が新興を包囲すると、袁滋はへりくだった言葉で和解を仲介し、賊はそのため袁滋を組みやすしとみて防備をしなかった。当時、帝は戦況悪化を責め、袁滋が任命されてから六か月たったものの功績がなかったから撫州刺史に貶した。しばらくもしないうちに、湖南観察使に遷った。累進して淮陽郡公に封ぜられた。卒したとき、年七十歳で、太子少保を追贈された。

  袁滋が病となると、遺言を作成して後事を処理し、三年して完成し、すべて箇条書きにしてあった。性格は寛大で、袁滋と接する者は、皆心の奥底をみたかのようだと言ったが、家人に至っては喜怒を見ることができなかった。住居や衣食を軽視した。『春秋』をよくし、かつて劉惲の「悲甘陵賦」が善を褒め悪を退け、『春秋』の筆法に逆らっているが、その文は廃すべきではないとして、そこで後序を著した。篆書・隸書に巧みで、古法の趣きがあった。子の袁均は右拾遺、袁郊は翰林学士となった。


  趙宗儒は、字は秉文で、鄧州穰県の人である。八代の先祖の趙彤は、後魏の徴南将軍であった。父の趙驊は、字は雲卿で、若くして学を嗜み、学んでもなお清く剛直であった。開元年間(713-741)、進士に推薦されて及第し、太子正字に補任され、雷沢県・河東県の丞に任じられた。采訪使の韋陟は優れた人物だと思い、上表して幕下に任じた。また陳留采訪使の郭納の支使となった。安禄山が陳留を陥落させると、趙驊は賊に捕らえられた。当時、江西観察使の韋儇の族妹は、夫は畿官であって賊に供給しないため殺され、妻は没されて婢となった。趙驊は哀れんで、銭で韋氏を贖い、厚く給付した。賊が平定されると、親戚を訪ねて帰したから、当時の人はその義を高く評価した。趙驊はかつて賊の手に陥ったから、晋江県の尉に貶された。しばらくもしないうちに、召還されて左補闕を拝命し、尚書比部員外郎に遷った。建中年間(780-783)初頭、秘書少監に遷った。あつく友と交わって義を行い、艱難に遭っても騒ぎ立てるようなことはしなかった。若くして殷寅顔真卿柳芳陸拠蕭穎士李華邵軫と親しく、当時の人は「殷顔柳陸、李蕭邵趙」と一纏めに呼んだが、よくその交りを全うしたのを言ったのである。趙驊の位は省郎に過ぎず、衣食は乏しく、俸給も少なかったから、子どもたちは常に歩かせたから、人々は賛美した。涇原の兵が叛くと、趙驊は山谷に隠れ、病死した。華州刺史を追贈された。

  趙宗儒は進士に及第し、校書郎を授けられ、合格し、陸渾県の主簿に補任された。数カ月して、右拾遺・翰林学士を拝命した。当時、父の趙驊は秘書少監に遷り、徳宗はその一門を寵遇しようとし、一日で一緒に任命した。再び司勲員外郎に遷った。貞元六年(790)、考功事を領した。至徳年間(756-758)より以後、人事考課は実態を失い、内外の官はすべて中の上に考課され、殿は最も混淆したが、趙宗儒にいたって、黜陟使として詳細で的を得ており、憚ることはなかった。右司郎中の独孤良器・殿中侍御史の杜倫を過失によって考課を退け、左丞の裴郁・御史中丞の盧佋は考課を降して中の中とし、およそ中の上に入った者は、わずかに五十人であった。帝は聞いてよしとし、考功郎中に昇進した。累進して給事中となった。貞元十二年(796)、本官によって同中書門下平章事(宰相)となり、金紫を服とすることを賜った。宰相の座にいること二年、罷免されて太子右庶子となり、退隠して慎ましやかにすごし、朝請の儀礼に参加するだけであった。吏部侍郎に遷り、召見されて、「卿が門を閉ざしてから六年、だからここに拝したのだ。以前に先臣(趙驊)と一緒に任命したが、どうして思わずにいられようか」と労ったから、趙宗儒は顔を俯いて涙を流した。元和年間(806-820)初頭、検校礼部尚書となり、東都留守に任命された。三遷して検校吏部・荊南節度使となり、余剰な守備兵二千人を削減した。山南西道・河中の二鎮の節度使を経て、御史大夫を拝命し、吏部尚書に改められた。

  穆宗が即位すると、詔して前の朝廷で召集した賢良方正科の者を、役人に委ねて試験させようとした。趙宗儒は建言して、「制に応じて来た者は、天子が臨問すべきです。役人に試験させることは、国の古い決まりではありません。お止めいただきますよう」と述べたから、詔して裁可された。にわかに検校右僕射、守太常卿となった。太常に「五方師子」楽があり、大朝会でなければ演奏しなかった。帝は音楽を嗜み、宦官が教坊を領していたから、そこで文書を逓送して取り出した。趙宗儒はあえて異議を申し立てず、このことを宰相に訴えた。宰相はこの事は役人が専らにしているから、預かり申すことには応じなかった。態度がはっきりしないから職に適していないとされ、罷免されて太子少師となった。大和年間(827-835)初頭、太子太傅に昇進した。文宗は召寄せて政治の理を尋ねた。「尭・舜の教化は、慈愛と倹約のみです。願わくば陛下、これを守られますように」と答え、帝はその発言を受け入れた。大和六年(833)、司空を授けられ、致仕した。卒した時、年八十七歳であり、冊立して司徒を追贈され、諡を昭という。趙宗儒は文学によって将軍・高官の地位を経て、位は宰相に任じられたが、威儀・規矩がなく、統治で瑣末な事を生じさせて名声を失った。


  竇易直は、字を宗玄といい、京兆始平県の人である。明経科に推挙され、校書郎に補任命された。十年間藩鎮の辟召(地方高官の裁量による下僚の登用)に応じず、合格したから、藍田県の尉となった。累進して吏部郎中となった。元和六年(811)、御史中丞に昇進した。陜虢観察使から、京師に入って京兆尹となった。万年県の尉の韓晤が受託収賄の罪に問われ、竇易直は部下に取り調べさせ、収賄が三十万であることがわかったが、憲宗はまだ調査が尽くされていないと疑い、詔して調査させると、三百万となったから、竇易直を貶して金州刺史とした。しばらくもしないうちに、起用されて宣歙・浙西観察使となった。

  長慶二年(822)、李㝏が汴州で叛き、竇易直は庫の財物を出して軍に褒賞しようと思ったが、ある者が褒賞を給付するのに名目がなければ、必ず患いが生じると言ったから、そこで中止した。当時、江・淮河は日照りのため、輸送物は滞留して進むことができず、軍の兵士は竇易直の前言を聞いており、その部将の王国清は輸送物を指して軍を突き動かして乱を謀った。竇易直はこれを知って、王国清を捕らえて獄に送ると、その与党数千人は集団でわめきながら獄に入り、王国清を奪取し、大いに掠奪しようとした。竇易直は楼に登って「乱を誅することができた者は、一つの首級あたり千万を褒賞しよう」と号令すると軍は喜び、かえって乱をなす者三百人あまりを縛り、竇易直は全員を斬った。京師に入って戸部侍郎、判度支となった。長慶四年(824)、同中書門下平章事(宰相)となり、門下侍郎に転じて、晋陽郡公に封ぜられた。そこで判度支を辞退し、その俸給三ヶ月分を据え置いたから、詔があって判度支を停任とした。文宗が即位すると、検校尚書右僕射・同平章事に任じられ、山南東道節度使となった。京師に入って左僕射・判太常卿事となった。しばらくして、検校司空、鳳翔節度使となった。病のため京師に帰還した。卒すると、司徒を追贈され、諡を恭恵という。

  竇易直は公職にあって潔癖であることを自ら喜び、宰相となったが、今まで親族・郎党を引き立てて用いたことはなかった。それより以前、元和年間(806-820)、鄭余慶が議して、僕射の上日の儀制において、隔品官と亢礼せずと言ったが、当時、竇易直は中丞で、奏上して論駁した。自身が僕射となると、自ら「隔品致敬」を採用したから、当時の人々は嘲け笑った。

  子の竇紃は、仕えて渭南県の尉・集賢校理となった。妻の父の王涯が禍いを受けると、宦官は竇易直の子だと知って、死を免れることができ、循州司戸参軍に貶された。


  賛にいわく、関播李元平を推挙して汝州を守らせたが、賊に縛られてその臣下となった。宰相は人となりを知らず、果して亡国すべきところを、徳宗はこれによって宰相を責めなかったから、あやうく天下を失うところであった。董晋は軟弱で目前の安逸を求め、袁滋は恩義・信頼によって賊の心を傾けさせようとしたが、世の中を全くわかっていない人で、どうして功名を語るべく機会なぞあろうか。


   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百五十 列伝第七十五 『新唐書』巻一百五十一 列伝第七十六 巻一百五十二 列伝第七十七

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年08月03日 01:27
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。