袁滋 えんじ
749-818
中唐の官人・宰相(在任805)。字は徳深で、蔡州朗山県(河南省確山県)の人。
元結の門人で、荊州・郢州の間で私学をつくって教授したが、黜陟使の
趙賛の推薦を受け、校書郎に任じられ、
張伯儀・
何士幹の幕下に任じられ、詹事府司直となり、部下の冤罪を抗弁したことを注目されて侍御史、工部員外郎となった。南詔に使者として派遣され、帰還すると祠部郎中、兼御史中丞、諌議大夫、尚書右丞、華州刺史を歴任した。永貞元年(805)憲宗が監国となると中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となり、
劉闢が叛くと、剣南両川・山南西道安撫大使に任じられ、さらに宰相を罷免されて剣南東・西川節度使となった。しかし劉闢を恐れて赴任しなかったから吉州刺史に左遷され、後に義成節度使となった。戸部尚書、検校兵部、山南東道節度使、彰義節度使となったものの、朝廷が討伐を進める
呉元済に対して消極的措置をとったから撫州刺史に左遷され、湖南観察使に遷った。子に
袁郊がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2024年07月25日 22:43