劉仁軌

劉仁軌 りゅうじんき

600頃-685
初唐の武将・宰相(在任665-670、672-685)。汴州・尉氏(河南省開封付近)の人。字は正則。諡は文献。隋末喪乱の間に育ち、独学で文史に通じた。息州参軍で起家、給事中に累進した。奸臣李義府に憎まれて青州刺史におとされ、660(顕慶5)年の遼東征討には、漕運に失敗した罪で兵卒として従軍したが、百済の余衆が謀反し、唐将劉仁願を府城に囲むと、検校帯方州刺史を拝してこれを救い、663(竜朔3)年には、日本の百済援軍を白村江に迎え撃ち、400余隻の船を焼いて全滅させ、百済の余衆を平定し、劉仁願に代わって百済の地を鎮撫した。任地においてはよく民の産業をおこし、屯田を営み、功により6階を超進して帯方州刺史を拝した。665(麟徳2)年、帝が泰山に封じたとき、新羅・百済・耽羅・倭4国の酋長を率いて会におもむき、大司憲を拝し、さらに右相兼検校太子左中護にすすみ、楽城県男に封じられた。668(総章元)年、熊津道安撫大使兼浿江道総管となり、李勣の副となって高句麗を平定、金紫光禄大夫を拝し、太子左庶子同中書門下三品に累進した。674(咸亨5)年、雞林道大総管となり、新羅を討って大勝し、公爵にすすみ、675(上元元)年、左僕射兼同中書門下三品(宰相)を拝して政事をつかさどった。685(嗣聖2)年、文昌左相同固閣鸞台三品の職のとき没した。開府儀同三司并州大都督を贈られ、乾陵に陪葬された。

参考文献

参考文献『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

外部リンク

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最終更新:2024年11月27日 01:33
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