劉允章 りゅういんしょう
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晩唐の官人。字は蘊中。
劉寛夫の子。貢挙に及第し、翰林学士承旨、礼部侍郎、中書舎人を歴任。咸通八年(867)に権知礼部貢挙として貢挙を司った。鄂岳観察使となり、咸通九年(868)
龐勛の乱において、朝廷に兵の邕管への派遣を申し出たのに対して、兵の合流を危惧した上奏を行った。その後一時期左遷されたらしく、
撫王府長史となり、乾符三年(875)
涼王傅に任じられた。東都留守となったが、広明元年(880)十一月十七日、
黄巣の乱において、洛陽が黄巣軍の侵攻にあうと、百官を率いて降伏した。そのためその家は断絶となった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2025年01月23日 22:40