龐勛 ほうくん
?-869
唐末の反乱指導者。南詔の進攻に対し安南防衛のため武寧軍(徐州)から召募派遣された桂川屯成軍の糧料判官。
龐挙直の子。彼らの中心は、驕卒銀刀都の亡命・群盗化していたもので、貪猥な藩鎮首脳部が軍資欠乏を名目に交替期2年を経ていたのに、さらに1年の延期を決定したのでひじょうに憤激し都頭らを殺し、龐勛を都将に推して帰還した(868)。途中ほとんど抵抗をうけず、揚子江を下り淮南に入り、節帥
令狐綯の怯懦に乗じ、銀刀都の残徒を集め宿州をおとした。龐勛はみずから兵馬留後を称し、さらに民衆・土豪等の積極的援助を受けて、徐州を攻陥し、藩帥
崔彦曾らを捕えた。淮河流域の諸群盗が急ぎ参集して一大勢力となり、節銭を求めて得られず、
康承訓らの唐朝討伐軍を各地に破り、揚子江岸に進出、寿州を囲んで貢物·商貨を奪い、唐朝を震撼させた。このころより龐勛らの驕奢もようやくはなはだしく、討伐軍の整備に対する強制徴兵や収奪は、民心を離反させた。進水・柳子で大敗し、崔彦曾らを殺して唐朝との対決を覚悟した。しかるに柳子で再敗し、味方の土豪らも脱落し、宿州の守将
張玄稔もくだって徐州はおとされ、龐助らは沙陀の精騎の急追をうけ蘄県で敗死し、濠州の守将
呉迥も壮烈な最期をとげた。これより5年後、この方面から
王仙芝・
黄巣の大乱が勃発する。
参考文献
『アジア歴史事典』8(平凡社,1962)
外部リンク
最終更新:2024年06月13日 18:13