黄巣

黄巣 こうそう

835-884
中国、四川を除いてほとんど全中国を荒らし回り、唐朝崩壊の契機をつくった大農民反乱(875-84)の指導者。大斉皇帝(在位878-884)。承天応運啓聖睿文宣武皇帝。曹州冤句の人。私塩すなわち塩の密売をするかなりの富商で、任侠にとみ亡命の人を養い騎射に巧みで、しばしば科挙に応試したが及第しなかった。黄巣はあるいは昆仲8人と行をともにし、数千人を集めて乱を起こした。875年6月王仙芝の乱に呼応して立ちあがり、翌年12月の新州までほぼ彼と行を同じくしたが、このとき唐朝の招撫策にのり王仙芝だけが官にあずかったことから、両者は別行動をにいたった。黄巣は、この後河南、山東を縦横に攻略し、王仙芝敗死(878)後はその余衆をおさめ、推されて王となり衝天大将軍と号した。これより長江を渡り、はるか虔州までもおとしいれ、江南を荒らし、鎮海節度使の高駢の軍に追われて福建から広州におもむいた。ここで唐朝と妥協をはかり、天平・広州の節度使をもとめて許されず、怒って広州を攻略し、外人12万を殺して南の諸州を略奪した。しかし、士卒が多く病死したので北帰を決意し、桂州からいっしょに湘江をくだり襄陽におもむこうとして曹全晸に破られ、江浙方面に転戦した。淮南の節帥行営都統の高駢が、黄巣平定の功を独占しようとして、淮南にあった諸藩の討伐軍をかえしたすきに渡江してたちまち淮河をこえて北上した。このころから安定政権樹立の意欲を示して、天神大将軍と称して東都洛陽に進撃し、880年11月これをおとしいれた。12月には堂々と長安にはいり、このため僖宗は急ぎ四川に落ちのびた。黄巣の反乱軍は、貧者にはほどこし、富者を追放し、貴族官僚を捕えて殺したという。黄巣は、従来の流賊主義を清算し唐朝に代わる政権をつくった。皇帝の位につき、国を大斉と号し、金統と改元し、官制を整備した。しかし、長安近辺にその支配をかぎられた黄巣の政権は経済的基盤を欠き、いきおい微発、略奪を行なって人心を離反させ、唐朝の反撃体制の前に動揺した。とくに、唐朝が用した沙陀の李克用の強兵と梁田陂で戦って大敗し(883)、長安を撤退して陳州に至ったが、趙犫の頑強な抵抗にあい、これを包囲すること300日舂磨寨という人肉給糧所さえ設けた。その被害は周辺数十州におよぶほどの飢餓と荒廃をもたらしたが、ついにおとしいれることができなかった。これからふたたび李克用に急迫され、王満渡で決定的打撃をうけ、郷里冤句をさしてのがれたが、泰山の南東狼虎谷に至って884年6月、甥の林言に命じて首をはねさせ、悲劇的最後をとげた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 黄巣
『旧唐書』巻二百下 列伝第一百五十下 黄巣

参考文献

『アジア歴史事典3』(平凡社,1960年)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』黄巣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%A3

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最終更新:2024年06月13日 18:21
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