崔倰 さいりょう
753-823
中唐の官人。字は徳長。唐代に「七姓十家」と称され、唐初に編纂された『氏族志』では唐室李氏を抑えて一等とされて太宗の怒りを買った名門中の名門である博陵崔氏第二房の出身。その世系は、崔琨→崔経→崔弁→崔楷→崔士約→崔説→崔弘峻→崔儼→崔晊→崔濤→崔儀甫→崔倰である。祖父の崔濤は
崔沔とは従兄弟にあたり、父は宰相
崔祐甫の又従兄弟にあたる。安平粛公。蔭位により太廟斎郎から太平県・東陽県の主簿となり、湖南江西観察使に
辟署されて賓佐となったが、連座して官位は一時期停滞した。復して宣州録事参軍となり、以後、徴税・財務官僚畑を歩み、監察裏行、河陰院塩鉄留後、侍御史、膳部員外、充転運判官、膳部郎中、荊襄十道両税使、蘇州刺史、潭州刺史、湖南都団練観察使を歴任した。元和十五年(820)権知戸部侍郎、判度支となる。長慶元年(821)工部尚書、判度支となったが、成徳軍節度使への資金を出し渋ったため、
田弘正の死の原因となった。翌年正月、検校礼部尚書、兼鳳翔尹、充鳳翔隴節度使となり、同年三月、河南尹となる。長慶三年(823)二月卒。子に崔巌がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』巻一百四十二 列伝第六十七 崔祐甫 倰
『旧唐書』巻一百一十九 列伝第六十九 崔祐甫 植再従兄倰
外部リンク
最終更新:2026年03月27日 00:18