楊玄感

楊玄感 ようげんかん

?-613
隋の叛臣。弘農・華陰(陝西省渭南県)の人。父は隋の大官楊素。堂々たる美丈夫で、読書を好み弓馬に長じた。若くして父の功により柱国を授けられ、郢州刺史となって治績があり、鴻臚卿・礼部尚書を歴任した。宰相の子として性高慢であったが、文学を愛好して天下の名士がその門に集まった。煬帝朝の政治の乱脈、加えて日々独裁者の帝に忌まれていくことから、帝を廃せんと機会をねらった。圧制と高句麗戦役に苦しむ民衆の抵抗が続発すると、黎陽倉の輸送司令官の任に当たった彼は、軍糧輸送を遅らせて親征軍の困窮を策した。613(大業9)年、隋将の来護児が反したと偽り、黎陽の役丁を徴発し、諸弟および李密らと挙兵した。渡河して洛陽に達するころ、乱にしたがう者は十余万に上った。都城に迫ったが、守備隊・関中軍・遠征軍の攻囲をうけ、兵を長安に転じた。途中追撃軍に敗れ、葭盧戌(河南省盧氏県西)に弟の楊積善と刺しちがえた。これを機として、内乱は質的に拡大した。『隋書』『北史』に伝がある。

列伝

『隋書』巻七十 列伝第三十五
『北史』巻四十一 列伝第二十九

参考文献

『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

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最終更新:2025年10月23日 12:22
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