煬帝

楊広

569-618
隋第2代の皇帝。姓名は楊広、廟号は世祖。謚の煬帝は、日本古来の読みくせで「ようだい」と読む。煬とは、内を好み礼を遠ざく、礼を去り衆を遠ざく、天に逆らい民をしいたぐの意とされる。高祖文帝の第2子, 母は文献独孤皇后(独孤信の娘)。幼時から機敏で賢く、兄弟の中でとくに父母の寵愛をうけ、13才のとき、父の即位とともに晋王とされ(581)、行軍元帥として、南朝の陳を滅ぼして隋の中国統一を達成し(588)、また江南の反乱や突厥の侵入をおさえて力があった。彼は学を好み文をよくし、父母の歓心や衆望を得るのにつとめたが、内実はすこぶる邪知にたけ、母の強いしっと心を利用し、巧みに策動して皇太子の兄楊勇を失脚させて、これに代わった(600)。ついで604(仁寿4)年北周系漢化胡族の出身で、陰険な策謀政治家である権臣の楊素が、文帝にうとまれているのを利用し、これとむすんで病床にあった父帝を殺し、その寵愛する宣華夫人陳氏、容華夫人蔡氏を自分の意にしたがわせ、文帝の遺詔と偽って楊勇およびその子弟を殺して即位した。煬帝は即位すると、文帝以来の蓄積によって盛んに土木事業をおこし、605(大業元)年、東都洛陽城の修築を営んで地方の富商を集め、そこには顕仁宮、西苑をつくって奢侈のかぎりをつくし、さらに男女100万人を動員して黄河と淮水とをむすぶ通済渠を開くとともに、淮水と揚子江とをつないで江都(江蘇省)にいたる邗溝を改修し、608年には黄河から北して北京方面の涿郡にいたる永済渠を、10年には揚子江から杭州(浙江省)にいたる江南河をつくり、また北方の突厥をおさえるために長城を修築した。煬帝はこの南北を通ずる大運河を遊楽の用に供したが、しかしそれは揚子江下流域の米産地帯と長安、洛陽などの消費都市揮とをむすんだばかりでなく、高句麗に対する軍事体制を確功立したものであり、また南北の政治的分裂の融合や文化の交流に大きな役割を果たした。煬帝は対外的には積極政策をとり、東西突厥の威圧、懐柔につとめ、高昌国を来貢させ,吐谷渾を征して西域の交通路を安全にし、また南方では劉方をつかわして林邑(チャンパ)を討ち、常駿をつかわして赤土国(スマトラのパレンバン方面)を入貢させ、さらに陳稜、張鎮周らに流求(台湾)を征伐させた。煬帝は即位のころ、戸ロの増加、国庫の充実によって、婦人(丁妻)や奴婢、部曲の租・調を除き,また丁男を21才から22才以上に改めて租税を軽減したが、しきりに土木をおこして外征につとめ、豪奢をこととしたことは、文帝以来の蓄積を使い果たし、民衆の生活を窮乏におとしいれた。しかも隋は建国日浅く,江南の豪族や山東・河北方面の旧北斉地域の反抗運動が根強く行なわれ、対外的には突厥、高句麗関係が不安な状態にあり、これに加えて、煬帝の弟の秦王楊俊は、その妃に殺され、蜀王楊秀と漢王楊諒とは、兄楊勇の廃太子事件、煬帝即位の犠牲となって庶人とされ、したがっって煬帝には彼を助けるべき兄弟もなかった。このような状況のもとに、煬帝が612(大業8)年、高句麗遠征を敢行して失敗したことは、隋の政治的権威を失墜し、各地に農民暴動の勃発をみるにいたった。当時、隋廷内部には官僚の派閥争いがあり、危険を感じた楊素の子の楊玄感が、礼部尚書の地位にありながら反乱を起こし(613)、これを契機として、農民暴動が全国的に広まり、それは煬帝の第2次高句麗遠征も挫折させた。このようにして拡大する反乱のさなか、煬帝は616(大業12)年、江都の離宮におもむき、不安におののきながらも歓楽にその日を過ごしていたが、翌年唐公李淵(唐の高祖)が挙兵して長安に入り、はるかに煬帝を尊んで太上皇とし、その孫代王楊侑(恭帝)をたてて帝とし、年号を義寧と定めた。時に煬帝は依然江都にあって北帰の意志なく、これがため、従う軍士の間に強い不満がおこり、618(義寧2、唐・武徳元)年、ついに彼らは宇文化及を首謀者として蜂起し、煬帝はその徒の令狐行達のために殺され、そのときかたわらにいた帝の愛子、12才の趙王楊杲も斬殺された。蕭皇后が帝および楊杲の遺骸を収めて西院の流珠堂に葬ったが、のち陳稜が呉公台のもとに葬り、ついで唐が雷塘に改葬したと伝える。蕭皇后が元徳太子楊昭、斉王楊聴を、蕭嬪が趙王楊杲を生んだ。

本紀

『隋書』巻三 帝紀第三
『隋書』巻四 帝紀第四
『北史』巻十二 隋本紀下第十二

参考文献

『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

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最終更新:2025年01月25日 12:34
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