楊素 ようそ
?-606
隋の官僚。弘農・華陰(陝西省渭南県)の人。字は処道。諡は景武。祖父楊喧は北魏の諫議大夫。父楊敷は北周の汾州刺史となり北斉にとらわれた。楊素は豪放らい落で学問・文学に長じ書にすぐれた。北周朝中外記室より起家,北斉・陳との戦いに功があり、楊堅(
文帝)とむすんで隋の建国に力を尽くした。隋初に上柱国・御史大夫にのぼったが、妻の鄭氏といさかって「もしおれが天子となったらお前はきっと皇后の資格はあるまい」といったかどで一時免官された。陳討伐が始まると、信州総管に起用され、大艦を建造して荊州方面を攻略平定した。ついで起こった李稜・高智慧ら江南一帯の乱を鎮定したのち、
蘇威に代わって尚書右僕射となり、
高熲と朝政を専掌した。また仁寿宮の造営、突厥達頭可汗の南進阻止、
独孤皇后の葬儀の司宰など威名ますますあがり、諸子一族すべて高官にのぼった。田宅・奴婢・米帛等の賜与はばくだいな額にのぼり、東西両京に豪奢な邸宅をかまえ、地方都市にも邸店、水磑・田宅を列置した。性高慢で朝臣たちを侮ったので、しだいに
文帝に忌まれたが、楊広(
煬帝)とむすんで、太子楊勇、蜀王楊秀を庶人におとし、漢王楊諒の反乱をひき起こした。しかし晩年は煬帝にも忌まれ、死を待ちのぞんだ。死後、子
楊玄感が反乱を起こした。文集10巻があったが伝わらない。『隋書』『北史』に伝がある。
列伝
『隋書』巻四十八 列伝第十三 楊素
『北史』巻四十一 列伝第二十九 楊敷 子素
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社,1962年4月)
外部リンク
最終更新:2025年07月13日 02:28