蕭穎士
717-768
唐の玄宗・粛宗ころの文学者。蘭陵(江蘇省武進県)の人。広陵(江蘇省江都県)にいた。字は茂挺。諡は文元先生。また蕭夫子・蕭功曹ともいわれた。南朝の梁の鄱陽王蕭恢七世の孫。父の蕭旻は莒県の丞であった。735(開元23)年進士対策第一となり、天宝(730-749)初めに秘書正字となった。文名天下に聞こえ、
韋述らの談客であり、弟子も多く、日本(一説に新羅)も招請して師としたいと申し出たという。ときの宰相の
李林甫の権勢に屈しなかったため、官吏としては栄達しなかった。安史の乱ののち、河南採訪使の
郭納にはかりごとを述べたがいれられず、山南節度副使の
源洧の掌書記となり、のち揚州功曹参事となり、52才で汝南に客死した。よく後進を推引したことは有名である。『梁蕭史譜』20巻、『游梁新集』3巻、『文集』10巻の著書があったが、いまは『蕭茂挺集』1巻(『常州先哲遺書』所収)を残すのみ。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』4(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2023年06月22日 01:29