◆一部抜粋◆
ここ三回ほどシステム論の話をするんですが、あらかじめ言っておくと、非常にきついところがあって、うまく整理できるかわかりません。それでもシステム論をやるのは、科学がどのように哲学に影響してくるか、そのコントラストを、科学哲学を概観することを通してみていこうと思っているからです。科学には、社会体制という含意もあるし、知性の体系という意味もあるということから、やはりシステムだという観点からみたい。
システムと言った時にまず私たちが目にするのは、いろんなものが沢山あるということ。沢山のものが関係しているということです。このとき関係の内実がどういうものかは言わないわけです。一般的な意味で関係をしている。その関係があるために一つのまとまった全体は、要素となっている個々の部分をただ集めただけのもの以上のもののようにとらえられる。というのが一応、一番ゆるいシステムの共通了解らしいのですよね。でもね、こう言って、何かを言ったことになるでしょうか。確かにそう見えるよねということはわかる。じゃあその実態は何ですか。そう言われた時に、何でもアリなんですよね。逆にいうと、一つ一つの要素をただ足し合わせただけということがもうよくわからないわけですよ。極端な話を持ち出すと、数学の集合論において、1+1=2と、1 1 1 1 1 1…と並んでいることは違う、ということを言って、数のシステムとかいうことをいうわけですよ。でも、後者のように、ただ1が並んでいるなんということを、私たちは考えるでしょうか。システムは「部分の総和<全体」という不当式で表せるわけね。でも「部分の総和」って何でしょう? 「全体」と言った時にどこまでが全体なのでしょう? そういうことを真面目に考えだそうとするとわからなくなるわけですよ。だからみんなそれぞれシステムに内実を与えようとして、いろいろ考えるわけですね。
(……)物理学や数学がすごく成功を収めた理由というのは、実をいうと情報を無視するからです。これは僕の議論だけれども。
皆さんは「情報」というと、モノを思い浮かべると思います。情報を組み立てて何かを作るという、プラモデルみたいなイメージがすごくあるでしょう。ところが情報にはもう一つ意味がある。与えられた情報を持っているということは、私たちを縛るんですよ。すでに与えられているある情報と矛盾するような情報を持ってはいけないという縛りが。つまり、ある情報を忘れるということはその情報から自由になるということでもあるんです。その制約によって分裂していたものが、一緒になることができる。そういう側面が忘れるということには、すごくあるんです。でもここほとんど言われていない。もちろんシステム論を議論している人の中にはそういう人もいますけれども、普通の科学哲学の流れの中から行くと、ほとんどここのところに触れる人はいません。むしろ社会システム論の中で、そういう議論をする人が多いようです。
足りない情報って一体何でしょう。どうして私たちは足りない情報ということをいうことができるんでしょう。誰が、それが足りないと決めるんでしょう。世界に情報が足りないという概念とは一体どこにあるのでしょう。
見るということを考えるときに、なぜ内容が大事なのか、という問いかけにつながります。内容というものは、言い換えるとすれば資源なんですよ。内容とは資源を貯めることなんです。記憶は典型的な情報資源ですよね。これらは僕の解釈ですけど、哲学において、見るということと、知識を蓄えるということ、これらは二つとも資源に関することなんです。それではなにに対する資源なのでしょうか。ギリシャにおける運命に対する資源なんですよ。行為とは資源を使う場面なんです。認識は資源を貯める場面なんです。当然、資源を貯めること自身も行為ですから、入れ子構造になっているわけです。でも資源という概念を使って見るということ考えることが重要なんです。
最終更新:2012年10月03日 13:51