アリストテレスは、誰にでも好奇心があると書いているが、その好奇心を支えている最も重要な感覚が「目」であるとしている。つまり、「見る」こと、「観察」こそが好奇心の土台ということになる。だから、観察法こそが、あらゆる分野で最も重要な探求の出発となる。
 どのような内容でも、目の障害がない限り、「見る」ことから始まる。科学的方法や実験もその次である。
 しかし、先に書かれているように、観察法にはいくつかの欠点がある。その欠点としてあげられている2番目が、プライベートな行動の観察は困難であるとして、排泄があげられている。確かにそうだろう。だが、「排便教育」と呼べる教育実践があり、極めて高く評価されている。もちろん、多くの教師によって行われているわけではないし、近年こうした実践はますます難しくなっていると考えられる。しかし、教師と生徒と親の協力関係が築かれた場合には、この実践は大きな成果を期待できることも事実だ。
 排便教育は、汲田氏が紹介しているもので、小学校での生活教育の一貫である。基本は排便が人の健康状態を表しているということから、できるだけ毎日排便の様子を観察し、記録する実践である。もちろん、広い意味での食育と結びついており、健康的な排便を促す食事の教育なども合わせて行う。そして、規則正しい、栄養価の高い食事と、規則正しい生活(起床と就寝)が、規則正しい排便を促進し、生活や食事が乱れると、下痢や便秘という健康的でない状態に陥るというわけである。そして、単に食事や排便だけではなく、一日の生活記録をとって、チェックをする。
 もちろん、排便の観察は本人以外がすることはなく、本人が納得して行うものである。しかし、その結果を記録し、検討することは、学級集団が機能していれば、学級として行うことは可能である。
 この実践には当然のことながら、たくさんの批判があったようだ。排便のリズムは多様であって、決して毎日でなければならないということもないし、また朝でなければならないということもない。しかし、この実践は排便のリズムを感覚的に強制しているというわけである。もちろん汲田氏はそのことを否定せず、画一的なリズムを強制するようになってはならないとしているが、ただ、各人の規則的なリズムがあり、それをめざすことは、健康教育としては大切であるという一線は主張している。「観察法」の問題としては、その先の実践的課題ということになるので、触れないが、困難であっても、観察の意味があるということは確認する必要がある。
 観察こそ、あらゆる科学研究の出発であり、また適切な行動の前提でもある。

わけい
最終更新:2007年11月20日 16:11