教材研究(1)

 今回は道徳の教材だ。
1 道徳の教科書は、なかなか微妙な内容が多く、しかも、出来不出来が激しい。もっとも出来不出来をどのように考えるかは、道徳教育をどのように考えるかによるので、簡単には言えないが。道徳というものが、人の心に響くという観点を重視すれば、やはり、文章は、「作り物」ではないことが重要だと思われる。この場合「作り物」とは、道徳教育のために、わざわざ書いた、当人の話ではない作り物という意味である。
 子どもが主人公として、一人称で登場する文章を、大人が道徳教材として書いているというようなものである。こういう文章は、たいていの場合、非常にわざとらしい感じである。
 今回取り上げる教材も、おそらく「作り物」という感じがする。子どもの作文という形をとっているが、まったくリアリティが感じられないのだ。リアリティの感じられない教材で、道徳教育が可能なのだろうか。
 そういうことは、さておき、リアリティが感じられない教材であっても、批判的にさまざまな検討をすることによって、役に立つ教材にすることは可能である。しかし、それは、扱う者の力量にかかっている。
 できるだけ役に立つべく検討をしてみよう。

2 話の内容は概略、次のようなものである。
 主人公の少年は、何をするにも遅いので、「スロー」というあだ名をつけられて悩んでいる。学校に行きたくないと感じることもある。思い切って、親に相談したところ、父親は「気にするな」といい、母親は「勉強で頑張ったら」という返事。
 そこでよほど、先生に相談しようと思うが、またいろいろと言われるのではないか、と思ってやめた。
 ちょうどそのころ、猫をもら、普段は可愛がっているのだが、学校でいじめられたときなどは、猫にあたってしまう。あたっているときには、スッキリするのだが、後味がわるい。
 ある日、クラスの帰りの反省会で、いつも遅い人がいて迷惑している、という発言をした人がいて、そのとたん、「スロー、スロー、スロー」という大合唱が起きてしまい、さすがの先生も注意をした。
 その日も猫をいじめてしまうが、猫は悲しそうに少年を見る、というような内容である。
 教材の末尾に指導の観点のようなことが書かれていて、少年が猫に辛くあたらないようになるためには、どうすればいいか、というようなことが書かれている。

 さて、この教材は何を考えさせたいのだろうか。もちろん、この教材で考えるべきことは、たくさんあるだろう。
 いじめについて、教師の学級経営、いじめ対応、親のいじめ対応、少年の猫へのやつあたり、クラスの生徒たちのいじめ、等々。
 しかし、残念ながら、この文章にリアリティがないので、子どもが真剣に考えて、生産的なものが引き出せるかは、かなり疑問である。
 したがって、ここでは、子どもへの指導という観点ではなく、もっと広く、教師や親の対応も含めて、考えてみよう。

3 教師について考えてみよう。
 いじめがひどくなる学級というのは、たいてい教師自身の生徒への対応の中に、いじめを許容したり、あるいはけしかけてしまう要素がある。教師が断固として、いじめを許さない、また、教師自身がいじめる体質をもっていないときには、学級のいじめは、それほど深刻になることはないと考えてよい。生徒はたいてい教師のそうした資質をみて、いじめを行なうものだ。
 この教師はどうだろうか。
 残念ながら、この教師は、いじめを許さないという資質を十分にもっているとは言えない。
 第一に、並び方等からいじめに発展してしまうということは、並び方等について、厳しく指導している、素早く並べない生徒はだめだ、というような感覚をもっていると予想される。そもそも、現代社会において、すぐに並ばねばならないというような事態は、よほどの例外的な場合を除いて存在しないだろう。大人の社会で、一秒一刻を争うというようなことは、ある特別の仕事に関わっている場合だけであって、組織全体として集合するような場合は、普通は、三々五々集まってくるような雰囲気であろう。

 整列!気をつけ!前へ習え!右向け右!

 こんな号令は、警察とか、消防とか、軍隊のような特別な職業にしか、おそらく存在しないだろう。そういう職業につく場合は、それなりの訓練をするのだから、学校でやる必要があるのだろうか。そういうことを考えると、並び方等の時間に過敏になることは、いじめを誘発するような指導になってしまう危険性もある。
 整列といって、数秒間で並ぶことを求めるか、あるいは、1、2分の余裕をみて、並び終えるのを教師が待っているか、この違いは、生徒たちの間の関係認識に、やはり影響すると考えるべきだろう。
 必然性がないなら、前者のような指導が必要であるとは、私は思わない。後者で十分だ。そして、無意味に前者を生徒たちに求めているとしたら、やはり、それは、生徒間にいじめを生む土壌を醸しだすことになる、あるいは、少なくともそういう可能性、危険性を認識しておくべきだ。
 そして、次の教師の対応は、「スロー」という掛け声が起きたときのことだ。この文章によると、その声があまりに大きかったので、思わず教師は注意したということになっている。すると、もし小さな声で数名が言っていただけなら、この教師は注意もしなかったのだろうか、ということになる。つまり、大きな声じゃなければ、そうした悪口をいうことを許容していると疑わざるをえないのである。
 それは、「反省会」の持ち方からも推測される。
 午後の授業の最後の学級会で、注意すべき行動をとった人に対して、生徒が注意する発言を促すような「反省会」は、ときどき見られるものだ。逆に、褒めあい会的なものもある。両方行なう会もあるようだ。
 どのような会をするか、教師の姿勢が端的に現れるものだろう。
 これまで、学生たちの経験談を聞いてきて、「注意型」の反省会で、よい結果が生まれることはほとんどないと感じている。私の感覚からしてもそうだ。
 極端な言い方になるが、そうしたやり方は、教師公認の「公式いじめ会」ともいえる。悪いことは、じっくり考えさせることが大切なのであって、みんなが圧力をかけるような感じで悪いことを指摘するやり方で、反省し、認識して行動を改める可能性は、非常に低いのではないか。「恐いからやめる」か、「言われることに慣れてしまって改まらないか」のどちらかの可能性がほとんどだろう。
 つまり、こうした反省会を行なっているという点でも、この教師がいじめの温床つくりに寄与している面が感じられるのである。

2 次に親の対応だ。
 このような相談をされたら、親はどう対応するのがいいのだろうか。
 この文章での親の対応はどう評価すべきだろうか。
 まず、非常に一般的な対応と考えられる。つまり、世の中の圧倒的多数の親は、このように対応するのではないか、と思われる内容になっている。圧倒的多数の親がこう対応するとしたら、それを単純に批判しても仕方ないだろう。
 「気にするな」というのも、ある面賢明な対応だ。そんなこといちいち気にしていても仕方ない、というのは、生活の知恵に違いない。人から言われることを気にしていれば、息苦しくなるだけだ。言う方も気にするから、面白がる面があるだろうから、言われる側が何も気にしなければ、そのうち言わなくなる可能性が高い。
 母親の対応もよくあると思われる。つまり、欠点があっても、別の面で自信をもっていれば、そんなことは気にならなくなるということだろう。確かにそれは真実だ。だが、たぶんのこの少年は、勉強でやり返せるほどの自信はないのだろう。そういう自信があれば、もともと悩みはしないかも知れない。そういう意味で、母親の対応は、やはり、ずれている。
 つまり、思い切って相談した少年が、期待していた答えでないことも確かだ。
 この教材研究の中で、「共感してほしかったのだ」という意見がでた。ロジャース流カウンセリングの「共感」ということだろう。しかし、共感とはなかなか難しいものだ。とくに、この場合、行動がのろいことがいじめの理由になっていて、多くの大人は、のろいことは悪いことだと思っている。子どもだから、一般的な感情とは異なるとしても、やはり、心の底では、もっと素早く行動しないからだ、という感情をもつのが普通だ。カウンセラーは、テクニックとして共感を示すものをもっているが、親はそうしたテクニックをもっているわけではない。したがって、かなり理解のある親なら、共感的姿勢を示すことで、子どもの悩みを緩和することができるが、多くの親にとっては、それほどやさしいことではない。
 次に考えられるのは、教師に自ら相談しにいって、子どもに対するいじめに適切に対応してほしいと訴えることだろう。これは、少なからず存在する。
 表面的にいじめがそれでなくなることもあるようだ。もちろん、いじめが表面的になくなれはいいとするか、あるいは、それでは不十分であるとするかは、簡単にはいえないが、少なくとも、表面的にでもいじめが消えれば、改善であることは確かだ。
 しかし、教師が「適切」に対応できない場合があると、事態は悪化することもあるようだ。特にこの教師の場合、自らの中にいじめ許容体質があると考えられるので、親が相談にいくと事態を悪化させることも考えねばならない。
 第三に考えられるのは、親自身が子どもを観察し、必要なら指導してみることだ。子どもがこうした性質であるとすると、親のどちらかが子ども時代似たような経験をもっている可能性が高く、それをどのように克服したか、そうした経験を参考にしながら、子どもを変えていくことは可能かも知れない。ただ、それも観察力や指導力が親にないと難しい。

3 いじめている子どもたちはどうか。
 この子どもたちのいじめの特徴は、とくに隠れたいじめではなく、おおっぴらにやっているという点である。つまり、この文章で見る限り、いつものろまな少年に対して、先生ではなく、子どもたちが自主的に注意しており、それを教師が黙認、あるいは奨励している図が見える。もちろん、それは誤解であるかも知れないが、この文章自体が、子ども自身が書いたものではなく、大人が教材用に書いたものと見られるから、そのように解釈することは可能だろう。あくまでも「解釈問題」に過ぎないのだから。
 そうすると、やはり、教師自身の子ども観、教育実践観を変える必要がある。教師の姿勢が変わらない限り、そもそも教師がこのいじめを真剣に注意し、やめさせるような指導はしないのではなかろうか。

4 少年はどうか。
 では少年はどうだろうか。この教材の趣旨からすると、他の面はともあれ、猫にやつあたりをするのはよくないので、それを止めさせるためにはどうしたらいいのか、というのが、教材に付された指導内容である。もちろん、弱い者がいじめられると、さらに弱い者をいじめる、というのが、社会的差別の基本的性質であるから、これは、単なるいじめではなく、差別の構造を示しているともいえる。
 まずは、より弱い者へのやつあたりがいけいないことは指導しなければならないし、また、少年がいじめられて悩んでいる以上、そのことは少年も十分わかるだろう。そのことをわからせることができないとしたら、教師も親も失格というべきだ。
 しかし、もちろん、それで済む話ではない。少年自身がいじめられていることが、猫へのやつあたりのの原因なのだから、少年へのいじめが、なんらかの形で解決しなければ、別の形でストレスが生じ、発散されることになる。
 可能性は3つあるだろう。
 もちろん、ベストはいじめそのものが解決されること。このために、少年自身が生徒たちに訴える、教師に相談する、等いろいろな手段があるとしても、最終的にめぜすのは、いじめの解決である。
 第二は、少年自身が、おそいという行動パターンを直すように努力することも、是非はともかく、ひとつの手段となる。その場合、少年が悪いことを認めるのか、という意見も出てくる可能性があるから、注意すべきではあるが。
 第三は、母親のいうように、別のこと、例えば勉強をしっかりして、そちらで自信をもつという方法だ。
 これらは、もちろん、適宜組み合わせながら指導するのがよいだろう。

 最後に、この教材は、やはり、リアリティが欠けているという点において、子どもに教える道徳教材としては、適切なものではないように思われる。しかし、もっと自由な立場で検討できるなら、いろいろなことを考えさせてくれるという点では、面白い教材といえよう。(わけい)
最終更新:2008年06月09日 21:43