アウグスティヌス
キリスト教がローマの迫害やギリシャ思想に対抗してその勢力を拡大するためには、信徒への強化事業に力を注ぐ一方で、その教養に学問的な意味づけをして信仰の合理性を示す哲学が必要になってきたため、その必要に応じて生じてきた中世哲学が、教父哲学と
スコラ哲学である。
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家である。カトリック教会、聖公会および東方正教会などの聖人でもあり、日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。
なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名の「アウグスティヌス」であるため、本項のアウグスティヌスはこれと区別して「ヒッポのアウグスティヌス」と呼ばれる。
アウグスティヌスの生涯
アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカと異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステに生まれた。若い頃から弁論術の勉強をし、まずタガステに近いカルタゴ、のちにイタリアで弁論術を学ぶ。
キリスト教に回心する前は、一時期マニ教を信奉していたが、
キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。マニ教は古代ペルシアのゾロアスター教を元に派生した宗教で、マニ(3世紀の人)が開祖である。世界に明と暗=善と悪、二つの原理があるとした宗教だ。しかし、アウグスティヌスはその後ネオプラトニズムを知り、ますますマニ教に幻滅を感じ、当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに行き、更にその北に位置するミラノで弁論術の教師をしていた。ある日、帰宅途中のある時、「Tolle,lege」(取って、読め)という歌の一節を耳にしたため、部屋に戻って聖書を開き読むと一気に迷いが晴れ、キリスト教徒になる決心がついた(=回心)。この出来事を機に教師を辞め、洗礼を受けて入信し、修道生活に入ったといわれている。
アウグスティヌスは母モニカの死後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、この時に彼が定めた規則はアウグスティヌスの戒則と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会はアウグスティヌスの定めた会則を元に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。
391年、北アフリカの都市ヒッポの教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。
430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日とあわせるように古代思想の巨人はこの世を去った。
思想
アウグスティヌスの思想的影響はキリスト教にとどまらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではない。
アウグスティヌス自身は
プラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。
またラテン教父の間にあったストア派ことにその禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。
アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は後のアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。
アウグスティヌスは、人間は原罪によって罪を犯さずにはいられない性を受けて、自由を失い、罪悪の奴隷になってしまったのだから、救済を求める権利は持っていないと説いている。それゆえ、救済は全く神の恩寵であり、この救済はキリストの贖罪によって行われ、その事業を担うものこそがキリストの代理者としての教会であると主張している。
しかし、忘れてはならないのはこのようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌスの悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があったということである(ペラギウス論争といわれる一連の論争はキリスト教における原罪理解の明確化に貢献している。)。
中世カトリックを代表する神学者トマス・アクイナスもアウグスティヌスから大きな影響を受けた。
近代に入ってアウグスティヌス思想から影響を受けた神学者の代表として、ジャン・カルヴァンとコルネリウス・ヤンセンをあげることができる。カルヴァンは
宗教改革運動の指導者の一人としてあまりに有名だが、ヤンセンはあくまでカトリック教会内にとどまった。しかし、ヤンセンの影響はジャンセニスムとしてカトリック教会内に大論争を巻き起こすことになる。
ほかにもアウグスティヌスの時間意識(神は「永遠の現在」の中にあり、時間というのは被造物世界に固有のものであるというもの)も西洋思想の一部となったし、義戦(正義の戦い)という問題も扱っている。これもドナティスト論争という当時の神学論争の歴史的文脈から理解しないと誤解を招くが、アウグスティヌスは異端的になったドナティストを正しい信仰に戻すためなら武力行使もやむをえないと考えた。
また神学者としては聖霊が父と子から発出することを、語り手・ことばによって伝えられる愛の類比などによって説いた。この立論は後のフィリオクェ問題における西方神学の聖霊論の基礎のひとつとなった。
信仰実践の面では、西方における共住修道のあり方に、ベネディクトゥスに次ぐ影響を与えた。アウグスティヌスが一時実践した共住修道の修道規則とされたものは、中世末期にアウグスティノ会の設立へとつながり、これはカトリックにとどまらず、
ルターを通じて宗教改革とプロテスタント的禁欲の思想へも影響を与えている。
現代ではアウグスティヌスがソフトウェアなどの知的財産の無償性を唱えた最初の人物であるとみなされることがある。
彼自身は哲学について述べているのだが、思想というのは物質と異なり、自由に共有されるべきものだとアウグスティヌスは考えていた。
アウグスティヌスは圧倒的に人気があったため、自然な流れで聖人となり、1303年に教皇ボニファティウス8世によって教会博士とされた。また、彼が死去した日とされる8月28日は、記念日とされている。
彼は西方においては醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、多くの地域、都市の守護聖人ともなっている。
著作
最も広く読まれているアウグスティヌスの著作は『告白』(~400年)である。その名の通り、自らの悩み、回心、信仰などについて述べた書物である。そ
彼によれば、人間を根源から動かす力は「愛」(Amor)である。人間の本質は愛ですが、その向かう先の選択(すなわち何を愛するか)を誤ってはならない。もちろん正しい愛とは、神へと向かう愛であると彼は考えている。
他人を愛するのは、物を愛するのとは違う。物を自分のために愛して、それを用いる時、物はその存在を損なわれ事になる(食べ物を愛する場合を考えてみてほしい)。他の人間を愛する場合には、自分自身を愛するようにその人を愛さなければならない。
貧乏で困っている人を愛しパンを与える愛は、けっしてその人からの見返りを期待してはいない。またその際、善い事をしようという意思によってパンを与えるのでもない。ただ善への意思によってそうした行いをするのである。こうした愛はカリタスと呼ばれる。
また彼はパウロの言葉である信仰・希望・愛の三つを強調したと言われている。これらをキリスト教の三元徳と呼ぶ事もある。また、その他彼の著作として、『ヨハネ福音書注解』(~419年)
『三位一体論』(〜417年)『神の国』(~426年) など著作として残されているが、「告白」などから現存しない著作があることも知られている。
アウグスティヌス名言集
参考URL
ja.wikipedia.org/wiki/アウグスティヌス
www.saiton.net/keitai/048.htm
りえ
最終更新:2007年03月25日 00:32