アカデメイア

アカデメイア [Akad meia]

紀元前387年頃、プラトンアテネの郊外に建てた学園であり、その名は、もともと学園のあった公園の名前で、その地を英雄アカデモスが領有していたとの伝説に由来するとされる。アカデメイア創立の時、プラトンは四十歳であり、八十歳で亡くなるまでの四十年間、このアカデメイアで「教育」と自らの「著述」に全力を注ぎ続けた。

創立理由

プラトンが、この学園を創立した理由には、実は、そこには師ソクラテスに対する弟子としての深き誓いが込められていた。
ソクラテスは、全く無実の罪で死刑に処された。プラトンは師を不当に逮捕し殺した当時の指導者と社会に対し、すさまじい怒りを発した。
その無念の思いは彼の生涯の原点となり、また悪しき権威と権力への糾弾の念は、彼の全著作のすみずみにまで強く脈打っている。
 プラトンは“ソクラテスのごとく正しき善き人を迫害する社会は、大きくゆがんでいる”“この誤れる政治と社会を断固、革命し変革せねばならない”。
 そのためには、正しい意味での「哲学」によって、正しき人間と正しき社会をつくる以外にない ― と決意した。そして彼は、その誓いのままにアカデメイアを創立し、多くの人材を育成していった。
このようにアカデメイア誕生の淵源には、生死を超えた崇高な「師弟の精神」と、「社会変革への理想」が、厳としてあった。プラトンの最後の著作「法律」には、“教育こそ、すべての人が生涯を通じ、力の限り、やらなくてはならないものである”とある。

アカデメイアについて

アカデメイアの学生は十五歳から十八歳で入学したという。
また、学員(学生と研究生の総称)の人数は、正確な記録はないようだが、プラトンの時代の人数を四十二人と挙げた研究もある。これは聴講した全員ではなく、主な弟子の数と考えられるが、いずれにしても“少数精鋭主義”であったことは確からしい。教えるものと学ぶ者が、身近に触れ合い、全人格をぶつけて磨き合いながら、ともに学問に励んでいった。
 有名なアリストテレスがアカデメイアに入学したのも十七歳の時といわれる。この時、プラトンは六十歳。アリストテレスは、プラトンが八十歳で亡くなるまでの二十年間、このアカデメイアにとどまり、研究生活を続けている。最も大切な青春の二十年を師のもとで研究ひとすじに生きぬいたのである。彼はプラトンから「本読み係」とか「頭脳」とか呼ばれていた。
 くる日もくる日も、寸暇を惜しみ、本を読んで読み切った。徹底して思索に思索を重ねた。そして若き日の盤石の基礎の上に、一生を通して、プラトンとアカデメイアの名を不朽のものにしていったのだ。  
 アカデメイアの人材輩出の歴史は紀元前三八七年の創立から、九百年以上にわたって続いていくが、529年東ローマ皇帝ユスティニアヌスにより異教思想の温床として閉鎖された。しかし、後継の陣列がとぎれなく続いた、その輝かしい歩みは「黄金の連鎖」と呼ばれ、たたえられている。

参考URL
www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/akademeia.htm
http://www2.iiv.ne.jp/akademeia/ - 11k
dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=0014020-0000&kind=jn&mode=5

りえ
最終更新:2007年04月02日 00:03