「さァて、なんなんだろうな? お前には分かるか、シン・アスカ?」
男の言葉にシンはさらに警戒の色を強める。じっとりとした汗が頬を伝い、地面へと落ちる。
「……なんで俺の名前を知ってる? いったいなんなんだお前は!?」
「おいおいおい、そう慌てるなよ。ザフトレッドの名が泣くぜ?」
シンの血の気が引いた。デスティニーもまた驚きを隠せないようで目を見開いていた。一方でシーラたちは
男が発した言葉の意味が分からずに戸惑っている。
……そう、シンがこの街で自身が異世界の人間であることを明かした人物は三人だけだ。アリサ、カッセル、
シェリル、誰もがこの秘密を他人に口外するような者ではない。そしてシンは異世界から来た軍人ということまでは話していたが、ザフトレッドなど説明が面倒になりそうな単語を用いたわけではない。
つまり、本来なら知るはずのないことを知っているのだ。この黒ずくめの男は。
「答えろっ! お前は誰だ!?」
叫びながらシンは男の方へ一歩踏み出す。ナイフの間合いに入るためではない、威嚇のための一歩だった。
「ボウヤ、落ち着くんだ。自分のペースを乱すんじゃない」
状況を把握しきれてはいないものの、シンの行動に一抹の不安を抱いたリサは男から目を離さずにシンに注意を促す。
だがシンにその言葉は届かなかった。自身の正体を知る者との対面ということもあるが、それ以上にシンの中で
ある種の感情が徐々に熱を帯び始めていた。
――なんだ、これは……?
それは怒り、それは恐怖、それは悲しみ、それは憎悪……
様々な感情が複雑に入り混じった異様な激情、歪んだ鏡を覗き込んでいるかのような違和感と嫌悪感、それら
がシンから冷静な判断力を奪っていた。
「ハァ……さっきからなんだ誰だってウザってェな。そんなこと何度も繰り返し聞いたところで」
男は心底うんざりしたように大げさに溜息をつく。不自然なまでのオーバーリアクションの中で、さりげなく左手
が背後へと回されたのをシンは見逃さなかった。
「――命取りにしかならねェぞ?」
ヒュッ、という風切り音とともにシンから見て左側に『何か』が飛び出した。その正体を見極めようとシンの視線が
飛んでいった『何か』を追う。
――石?
かろうじて捉えた、何の変哲もないように見える小石。一秒と経たずそれが落ちていた岩にぶつかったところで、
シンは、己の致命的な隙に気が付いた。
「マズっ……!?」
男へと注意を戻したところで間に合うはずもなかった。十歩程度離れていたはずの距離はこの一瞬の間にゼロ
まで縮まり、男はシンの持つナイフの間合いの内側まで肉迫していた。
すかさず右肘がシンの中心へと叩き込まれる。完全に不意を突かれた一撃に防御もままならなかったシンは、
雄牛の突進を食らったように撥ね飛ばされた。
「が、あッ……」
受身も取れず芝生の上を転がったシンはすぐに立ち上がろうとする。
だがそれは叶わない。身体の奥――芯まで徹った衝撃によって走った激痛がシンの行動を阻害していた。
「ハ……ヒャハハハハハハ!! 反射神経が良すぎるのも困ったモンだなァ!」
男が哂う。耳障りな声には抑えきれない喜悦が満ち満ちていた。
「サイコーだ。痒いとこにやっとこさ手が届いたってェのか? まァなんでもいい。シン・アスカ、もっともっとお前が苦しむ姿を見せてくれよ」
「シン君!?」
「ボウヤっ!」
刹那の間に陥った仲間の窮地を救おうとリサたちがシンの元へと駆け出す。
しかし、
「ハッ! 観客はステージに上がらないでくださいってなァ!」
男が空間を薙ぐように腕を振るう。その延長、腕の軌跡をなぞるように炎の壁がリサたちの行く手を阻んだ。
――じょ、冗談だろ……!?
男が使ったのは魔法、それは専門の知識に乏しいシンからも一目瞭然だった。
だが問題はその規模だ。炎の壁はすぐにその勢いを増し、反対側が見えなくなるほどにまで厚く激しいものと
なった。轟々と燃え盛る炎はこの広場を両断し、ついには天窓に届きそうなほどの高さにまで成長したのだ。
これほど強力な魔法は滅多に見ることはない。この世界において魔法というものは絶対的なアドバンテージで
はないからだ。50年前の戦争が終わると共に、多くの危険な魔法が封印された。現存する魔法は日常生活の糧
となるものや破壊力が極力抑えられたものしか残っていない。男が使った魔法は、そう教えられたシンの常識を
完膚なきなまでに叩き潰してしまった。
「……ってオイ、向こう見えなくなっちまった。加減すんのすっかり忘れちまった」
男は少し困ったように頭を掻いていたが、あっさりと諦めシンの方へと向き直った。
「ま、なっちまったモンは仕方がねェ。ギャラリーなしじゃ盛り上がりに欠けるが、さっさとおっぱじめようじゃねェか、
理性なんか軽くブッ飛ぶほど楽しい楽しい殺し合いをなァ」
男の口元が再び愉悦に歪む。痛みに耐えながら立ち上がったシンは、その様子を見てひとつの確信を得た。
――目的までは分からないけど、コイツの狙いは俺ってことか。
わざわざこんな形で隔離までしたのだ。炎の向こうにいるであろう他のメンバーをそれほど気にかけてる様子も
ない、溢れ出る殺意を隠そうともせずにシンへと突きつけていることからも間違いではないだろう。
「……お前、」
「また『誰だ?』ってか? 馬鹿のひとつ覚えもいいとこだなァ、オレのどこを見たら聞かれたことを懇切丁寧に
教えてくれるような親切なヤツに見えるんだァ?」
睨みつけるシンを嘲笑いながら男はゆっくりと腰からナイフを抜く。
「まァ、呼び名のひとつもないってのはこっちも不便といやぁ不便だ。そうだな、シャドウってのはどうだ?」
口の端を吊り上げながら男――シャドウは無造作にナイフを構えた。
鞘の形状から肉厚のマチェットナイフと考えていたシンだったが、その予想は外れた。半ばほどで折れ曲がっ
た稲妻状のナイフ、光を反射しないつや消しの黒刃。
「シャドウ……?」
「あァ、パッと思いついた割りには意外にピッタリな名前じゃねぇか。シャドウ、シャドウか……ハ、ハハハハハハハ!
コイツは傑作だ!」
狂笑。何がそんなにおかしいのか、男は高らかに狂った笑い声を上げていた。
「さァて、こっちは予定にもなかった自己紹介まで済ませたんだ。遠慮なくやらせてもらうぜェ!」
ドン! という大地を蹴りつける音と共にシャドウはシンに襲い掛かる。地を這うような疾走の最中にナイフを
逆手に持ち替え、脛を狙って刃を振るう。
「っ!」
瞬時にその軌道を読んだシンは真上に飛んで斬撃を躱し、カウンターを狙って蹴りを放つ。
「ハッ!」
短い嘲笑と同時にシャドウの上体がさらに沈み、シンの脚が空を切った。前転の要領で頭と脚の位置を入れ
替えたシャドウはその勢いをすべて踵に乗せて宙に浮いたままのシンに叩きつける。
「ぐっ……!?」
なんとか左腕でその一撃を受けたシンは後方に弾き飛ばされた。転倒しかけたシンはナイフを持ったままの右手を地面に着いて受身を取り、着地した直後に腰のベルトからスローイングダガーを引き抜いて投げつける。
バキンッ!
逆立ちの状態のまま脚を鞭のようにしならせてダガーを弾き、シャドウは回転しながら立ち上がった。
――なんて動きをするんだよ、コイツ。
ビリビリと痺れる左手に一瞬視線を向け、シンの額に浮かんだ汗の一滴が流れ落ちる。コーディネイターである
シンと同等か、あるいはそれ以上の身体能力に加えて変則的で柔軟な動き、それでいながら一撃の重さは折り紙付きだった。
初めて出会うタイプの相手にシンの中で緊張感が膨れ上がった。
「ハハッ、楽しいなァおい。もっともっとギア上げてこうじゃねェか」
対するシャドウは未だ余裕を残していた。あれだけアクロバティックな挙動を見せて息一つ乱していない。それ
どころか口元には不敵な笑みさえ浮かんでいる。
「くっ……」
シンは一歩間合いを開ける。底知れぬ相手の実力を目の当たりにして自然と身体が動いてしまったのだ。
そして、その反射的な行為は裏目に出てしまう。
「あァ? おい、おいおいおいフザけんなよな。ヤる気が萎えちまうだろうが」
シャドウは呆れた口調でくるりとナイフを回転させ、順手に構え直す。
「しょうがねェなァ……ここはひとつ、オレが直々に盛り上げていこうじゃねェかっ!」
裂迫の気合を放ちながら、シャドウは先ほどよりもさらに速さを増してシンに襲い掛かる。
「う、おおおおおおおおおおおお!」
自らを鼓舞するために雄叫びを挙げながら、シンは野獣の如き一撃を真っ向から迎え撃った。
シンとシャドウの戦いが熾烈化し始めた一方、リサたちはそそり立つ炎の壁を突破しようと試みを続けていた。
「シーラ、そっちはどう!?」
「だ、ダメです。端の方までずっと炎が広がってて」
「この炎、フレイムジェイル? でもこんな規模でなんて見たこともない……」
炎は時間が経つとともに徐々にではあるが厚みを増し、強引に突破することは不可能なほどになっていた。
物理魔法で穴を空けることも考えられたのだが、向こう側が見えずシンに当たってしまうという可能性があり、それ以前にクリスの魔法でこの炎の壁を突き抜けられるのかという懸念もあって試すこともできずにいた。
「このままじゃボウヤが……」
「あの、デスティニーちゃんだけでも上から行かせることはできないですか?」
シーラが炎の壁をずっと見つめているデスティニーを見ながらおずおずと提案するが、リサは苦い顔で首を横
に振った。
「これだけ大きな炎なんだ、気流に巻き込まれたらおチビちゃんがどうなるかわかったもんじゃない」
シーラの表情に宿った絶望が色濃くなる。リサもまた苦渋に満ちた思案を続けていた。
そんな中で、クリスは何かに思い当たったようにひとつの答えに辿り着こうとしていた。
「たしかに凄い魔力だけど、この構成……うん、間違いない! り、リサさん! もしかしたらなんとかなるかも!」
「ホントかいクリス!?」
「は、はい。でも少し時間が……」
小さな希望を見出してリサたちはクリスの話に耳を傾ける。
その輪から外れ、デスティニーは炎の壁の中腹あたり――ほんの一瞬、向こう側が見えた場所を睨むように
見据えていた。
「マスター、今行きます」
意を決したようにデスティニーは唇を噛み締め、背中から大剣を引き抜いた。
ナイフの切っ先がわずかにシンの頬を裂き、血が刃の軌跡を追うように散った。
「ちっ!」
「ヒャハハハハハ! どうしたァ、もっとスピード上げんぞォ!」
刃と刃がぶつかり合い、火花が舞う。反撃に繰り出された蹴りは空を切り、瞬時に右手から左手へと移った凶刃が再びシンに襲い掛かる。
まるで先を読まれているかのようにシンのナイフが相手を捉える事はなく、シャドウのトリッキーな動きにはかろう
じて付いていけるという危ういバランスが続いていた。
だが、ここに来て天秤はシンの不利な方に傾き始めた。
「ぐっ……!?」
黒刃を避けるために強引に身体を捻った瞬間、鈍い痛みがシンを襲った。
外側ではなく、内側からの痛み。最初に食らった一撃が毒のようにじわじわとシンの身体を蝕み始めていた。
大きな傷こそないものの、動きが鈍くなったシンの身体のところどころから血が流れ始めていた。
「そォら、もう一発……」
勢い付いたシャドウがさらに刃を振り上げた瞬間、炎の壁の一部が爆ぜた。
「あァ?」
「っ、なんだ!?」
二人の視線が炎の壁に集中する。外側から内側に飛び込んできた『何か』によって空いた穴はすぐに塞がったが、
その『何か』は炎に包まれながらも見事に侵入を果たした。
「あれは、まさか」
シンの脳裏にひとつの名前が思い浮かぶ。それに応えるかのように炎の中から紅の翼が広がり、噴き出した光
の粒子が纏った炎をすべて弾き飛ばした。
――全体が煤けたトリコロールカラーのボディ、両手には貼り付いたようにアロンダイトが握られており、肩を
大きく上下させて荒い呼吸を繰り返している。
「デス子っ!」
思わぬ援軍の登場にシンは思わず声を上げる。対してシャドウは興が削がれたのか、つまらなそうに鼻を鳴らしながら呟く。
「なるほどな、炎の薄いところに無理やり突っ込んできたのか。猪は猪なりにない頭使ったってわけだ」
対照的な反応を見せる二人を見下ろし、デスティニーは息を整えながら状況の把握に努めていた。
「マスター……」
自らが慕う主が身体中を朱に染めている姿にわずかに目を見張り、その元凶――シャドウに向かってらしくないほどに敵意を込めた視線を突きつける。
「よくも、マスターを!」
アロンダイトを構え、背中の翼を展開させてデスティニーはシャドウに向かって突撃する。
疾い、あまりにも疾いデスティニーの姿を目の前にして、しかしシャドウが焦る様子はなかった。
「――まァ、この程度のことなら十分に想定内だけどな。よかったなァ出番ができて」
「……っ!? 避けろデス子!」
シャドウの意味深な言葉に嫌な予感を察したシンが叫ぶ。それに一瞬遅れる形で、デスティニーに向かって
赤い光芒が放たれた。
「えっ? きゃあああああっ!」
シンの発した警告に気付いたデスティニーは反射的に両の手の甲からビームシールドを展開する。直後に
左手のシールドにビームが着弾し、空中で大きく姿勢を崩した。
シンの視線が光が飛んできた方向を辿る。そこにいたものを目にして、シンの顔に驚愕が走った。
……くすんだ青と白に彩られたボディ。背中には漆黒に染まった羽が広がり、そこから光の粒子が舞っていた。
背部から展開され左手に構えられた黒いビーム砲からは煙がゆっくりと立ち昇っていた。
――似てるけど、違う……
シンの知る『それ』とは明らかに異なる雰囲気を持つMS、呆然としながらもシンの口から言葉が漏れた。
「黒い、デス子……?」
ビーム砲を収納し、黒い翼のデスティニーは無表情にシンへ視線を向けた。
最終更新:2008年07月11日 17:22