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如月千早-05

「はぁ……」
 事務所のデスクに突っ伏して呻く。今日の分の報告をまとめなければならないというのにその気力が湧かないのだ。
 今日のレッスンもいつもと同じだった。着実に千早はダンスのスキルを磨いてはいるものの、美希と並んで踊れ
るレベルまでは至っていない。美希の方はここ最近でかなり上達しているのだが、それでも千早と比べると差が
出てしまう。
 美希のダンスは元からの才能もあってのことだろうし、千早の歌は今日までの積み重ねがあってこそのものな
のだ。互いに秀でているものに差がありすぎたのがここに来て響いてきた。特に千早は歌以外のことにはほとん
ど眼もくれず今日まで活動してきたというのだから、この短期間で美希と同等になることを求めるのは酷というもの
だろう。
 ――たしか、あと二週間だっけ。
 そう、明日からは秋スペのために用意された曲のレッスンが始まるのだ。もはや残された時間はわずかだった。
 自分が彼女たちのために何ができるのか、そんな思考のループに陥ったシンは他の仕事に実を入れることが
出来ないでいた。

「お疲れ様でー……ってシン、まだ終わってないの?」 
 のっそりと顔を上げると、呆れ顔でこちらを見る律子さんの姿があった。今日はアイドルとしての仕事は入って
いなかったはずなので事務仕事で遅くまで残っていたのだろう。
「まったく、そんなに大した量でもないでしょ? 仕事が入ってたわけじゃないんだから」
「すいません……」
 そう、ここ最近はレッスンしか行っていないので報告書自体はすぐに書き終わる程度のものなのだ。
 だというのに、うまくまとまらない。気付けば秋スペの――正確に言えば千早の――ことを考えてしまい、この程
度の仕事ですら手間取るほどになってしまっている。そんな自分が情けなかった。
「千早のこと、そんなに気になる?」
「そりゃ……気になりますよ」
 レッスンの不調を目の当たりにしているだけではなく、おぼろげながら彼女の家庭事情にも触れたのだ。気に
ならないわけがない。
「ふぅん、そうなんだ」
 キラリと眼鏡の奥で瞳が光った。初めて見る反応だってので少し面食らった。

「あの、何か?」
「ううん、いいの。気にしないで」
「はぁ」
 どう見ても気にせずにはいられない反応だったのだが、とりあえず下手に突っ込むのは避けたほうがいいような
雰囲気だった。
「それはともかくとして、早く報告書仕上げないとね。私はもう上がるから」
 もっともな指摘に何も言うことが出来ず、ぐったりしつつ真っ白な報告書と再び向き合う。
「そうそう、言い忘れてた。千早のことで分からないことがあったら彼女に直接聞いたほうがいいわよ。千早の
場合、面と向かって正直に接したほうがいいから」
 それじゃ、と言って律子さんは事務所を後にした。
「……直接、か」
 その手段を取るにはいろいろと覚悟がいるだろう。
 何よりの問題は、もし話を聞けたとしても千早の力になることがでいるかなのだが……
 溜息を吐き、先程までピクリとも動かなかったペンを走らせた。


「じゃあまずは一通り合わせてみよう。二人とも準備はいいか?」
「……はい」
「美希はいつでも大丈夫!」
 二人の返事に頷き、プロデューサーはスタッフに指示を出す。ブースの中で曲が流れ始め、二人のアイドルが
それぞれリズムを取りながら歌を歌い始める。
「夜の駐車場で、アナタは何も言わないまま……」
「ラジオから流れるメロディ、私は今日を振り返るの……」
 サビが終わったところで思わずプロデューサーに耳打ちする。
「いったいどんな魔法使ったんですか?」
「俺だって驚いたよ。ま、美希には元から才能があったってことかな」
 軽く通しただけだというのにかなりの完成度だった。千早はもちろん、美希も以前とは比べ物にならないほどの
歌唱力を発揮し、そこかしこからスタッフの感嘆の声が上がった。
「ここまでは予想通り、あとは……」
 しかし、プロデューサー――そしておそらくは自分も――の表情から険しさが取れることはなかった。


 大体ではあるが歌合せを完了させ、場所を移してダンスの練習が始まった。千早と美希もジャージに着替え、
真剣な顔で踊っている。
「千早、もっとスピーディに踊らないと曲のイメージに合わないぞ!」
「は、はい!」
「美希は美希でアピールが強すぎる! 今回は一人で踊るんじゃないってことを忘れるな!」
「はいなの!」
 傍から見た印象では、千早は美希になんとか付いていこうとして無理に踊っているようだった。しかし美希の方
もデュオで踊ることに慣れていないのか、いつものキレがないように感じる。
「本番ではこれを踊りながら歌わなきゃならないんだ、残りの時間全部使ってでもダンスの流れを身体に覚えさ
せるぞ!」
『はい!』
 こちらが口を挟む余地もなかった。いつもはどこか抜けているプロデューサーも意識を二人のダンスに集中さ
せている。
 徐々に激しさを増すレッスンの中、今の自分が出来ることは石のように静かに事を見守ること、そして水とタオルを持っていくタイミングを見逃さないことだった。


「5分間休憩に入る。ちゃんと水分補給するんだぞ」
 そう言ってプロデューサーはダンスのコーチと共にスタジオから出て行った。相変わらずプロデューサーの顔
には険が残っていたので気になったが、今はすぐに二人の元に行かなければならないと気を取り直した。
「二人ともお疲れ。これ、水とタオル」
「うん……ありがとうなの、マネージャー」
「…………」
 美希はいつもの態度とはうってかわっておとなしくなっており、千早に至っては無言のまま俯き加減で水を受け
取った。肉体的な疲労はもちろんあるだろうが、おそらくはそれ以上に思うように上手く踊れないことが響いてい
るのだろう。
「まぁまだ初日だし、これからきっとよくなるさ」
 自分でも気休めにしかならないことは分かっているのだが、そう言う他なかった。


「えっと、千早」
 嫌な沈黙に耐えられなくなり、つい千早に話しかけてしまった。そんな自分に驚いていると、少し不機嫌そうな
瞳がこちらを見据えた。
「……なんですか?」
 問いかけられるが返事に窮する。何を話すかも考えないままに声をかけてしまったのだから、誰よりも自分が
混乱していた。
「あ~、その、えっと」
 目の前でさらに千早の表情が険しくなっていく。早く何かを言わなければ、という焦りからさらに頭が真っ白に
なっていく。

 ――千早のことで分からないことがあったら……

 空白になった部分に昨晩のやり取りが浮かび上がってきた。今聞くべきことではないのだろうが、今を逃してし
まえばずっとうやむやのままになってしまうような予感があった。
「……あのさ、なんか悩みとかあるのか?」
「――、」
 わずかに乱れていた千早の呼吸が止まり、直後に攻めるような視線がこちらに向けられた。だがそれをあえて
無視して続ける。
「俺は詳しいことは知らないし、無理に知ろうとは思わない。けどさ、それでも何か力になりたいんだ」
 『知らない』ということがどれだけ幸福であり、罪であるかは元の世界で痛感している。だからこそ同じ過ちは
繰り返したくなかった。
 プロデューサーのように立ち回ることは自分にはできないだろうが、どんなことでも力になれるのなら例え雑用
だろうと全力で尽くすつもりだ。
「……私、は」
 千早の口が開く。しかし言葉は出てこない。
 ――あの夜の時と同じだった。
 美希がこちらと千早の顔を見比べながら心配そうな顔をしていたのが見えたが、今はただ千早の話を待つこと
にした。
 そのまま沈黙が続き、瞬く間に5分が過ぎようとしていた。
「……そろそろ休憩終わりだな、プロデューサー呼んでくる」
 汗を吸ったタオルを引き取って背を向ける。今の千早たちは例え一秒だけでも時間が惜しいのだ。
「あ……」
 千早の声に反応して足が止まった。しかしそれっきり何も耳に届くことはなく、再び歩き出す。今度は引き止め
られるものは何もなかった。

 結局何も聞くことができなかった。悩みがあることは確かで千早が何かをこちらに伝えたがっていることは知るこ
とができたが、結局そこまでだった。
 何もできないことが何よりも辛いということを、久しく実感して唇を噛み締めた。


「……あのさ、なんか悩みとかあるのか?」
 その言葉を聞いた瞬間、私は自分でも驚くほどの怒りを感じました。
 冷静に考えれば彼には何も落ち度はないはずなのに、その質問に対して反発してしまったことから理不尽な
感情が出てきてしまったのだと思います。
 ……原因は分かりきってます。両親の喧嘩が、ここ最近になってさらに激しいものになっていってること。私が
どれだけ殻にこもろうとしても聞こえてくる、罵声に怒声、それに泣き声。
 よりによってなんでこの時期に……そう何度訴えても収まることはありませんでした。
 そのことを話したところで何が変わるわけでもない。だから私は何も語らないつもりでした。
 だけど……
「俺は詳しいことは知らないし、無理に知ろうとは思わない。けどさ、それでも何か力になりたいんだ」
 さっきの言葉とは違って、今度は切実な思いを感じました。紅い瞳には真剣でいて、そしてどこか子どもっぽさ
が残っていて、なぜかあの子のことを思い出しました。
 ――あのときに話せなかったことを話してみてもいいかもしれない。
 そう思っても、私はあのことを話すことができませんでした。
 少し辛そうな顔をして去ろうとした彼を引き止めても、結局何も言えずに……

 ふと後悔から我に返って視線を上げると、美希が少し不満そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
「美希……? どうかしたの?」
 そう聞いてみると、美希はしばらくの間腕を組んで何かを考えるように瞳を伏せて、やがて瞳を開いた。
「んとね、千早さんはマネージャーのことどう思ってるの?」
「どうって……」
 少し頼りないところもあって、基本的には真面目で、あれだけ着替えを覗いたり女性の胸を触ったりするのは
偶然ということにしても感心しないけど、容姿はそれなりに……
「って、別に意識なんてしてないです! えぇ、プロデューサーと一緒であくまで仕事の上の関係だけで!」
「? なんでそんなに慌ててるの? 美希はただどう思ってるのって聞いてるだけだよ?」
 ……くっ、真面目になったと思ったけど、掴み所のないところは相変わらずね。
 そんなことを考えている間に、美希はどこか嬉しそうに語り始めました。
「あのね、ミキはここに来たときは周りの人のこととか全然気にしてなかったの。アイドルに元から興味があったわ
けでもなかったから、ただ適当にトップアイドルにまでなれればいいなぁって思ってたの」

 今までの美希の態度から薄々そういうことは感じていました。そしてあの夜から、美希は驚くほど変わった。
「でもね、ハニー……じゃなかった、プロデューサーさんに助けられてから気付いたの。ミキたちはいろんな人た
ちに助けられながらアイドルだなぁって」
 それは自分でも分かっています。こんな歌うことしか取り得のない小娘がここまで来れたのはひとえにプロデュー
サーのおかげだし、懸命にサポートしてくれるマネージャーにも感謝している。
 だけど……それは美希が言いたいこととは、少し違う気がした。
「みんなでがんばろうよ。ミキは千早さんと一緒に歌ったり踊ったりできて嬉しいし、楽しんでやったほうがきっと
うまくいくと思うから」
 楽しんで、そういえばそんな風に考えることが最近ではあまりなかった。大好きな歌を歌っても、家では辛いこと
しかなかったからなのかもしれません。
「休憩終わり、続きをやるぞ!」
 プロデューサーが戻ってきてレッスンがまた始まりました。それからのレッスンは、いつもとは少し違って充実感
を感じることができました。

 そして、この頃から少しだけマネージャーのことを意識し始めている自分に気付いたのでした。






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最終更新:2008年09月22日 02:41
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