夢を見ました。
春香たちと出会う前、自分の歌をさらに高みへと鍛え上げるために765プロダクションの事務所へと足を踏み
入れたあの日。
それまでの私は家にまるで温かみを感じなくて、夜になって両親が帰ってきても喧嘩ばかりして、自分の家のはずなのに自分の居場所がなくて……ずっと、抜け殻のように生きてました。
唯一、すでに果たせなくなってしまった約束のために独学で歌の技術を身に付け、ただそれだけを生きること
の糧にして日々を過ごしてきました。
それから何年か経ったある日、相も変わらず激しく言い争う両親から逃げて自分の部屋に駆け込むと、どこから
か歌が聞こえてきたのです。
技術も何もない稚拙な歌。でも私はそれを聞いて、昔は自分もこんな風に歌っていたということを思い出しました。
――ただ一人のために、ひたすらに。
運命というのは不思議なもので、ちょうどその頃に765プロダクションのアイドル候補生募集の広告を見ました。
そして、自分でも不思議なほどにすんなりとアイドルになることを目指し始めたのです。
本音を言うと、少しだけ怖かったです。
でも、迷っているうちに自分がどんどん沈んでいってもう二度と這い上がれなくなるような気がして、両親に何も
相談せずに応募してしまいました。
初めて事務所を見たときは不安だったけど、今まで培ってきた自分なりの歌を信じて、私はアイドルとしての
第一歩……いえ、アイドルの世界への入り口に立つ資格を得ました。
事後承諾の形になったけど、母は私がアイドルになることに歓迎こそしなくても反対もしませんでした。でも
父は、最後まで私の話を聞こうともしませんでした。
そうして私は、私なりの歌を歌うためにアイドルになりました。
……かつての想いを遂げるために。忘れることのできない過去に縛られて。
秋スペのオーディションまで、残り一週間となっていた。
日々行ってきたレッスンの成果が出始めてるのか、歌とダンスの合わせも徐々に良くなっていっている。
千早のダンスの上達が心配されていたのだが、だんだん調子が出てきたのかなんとか美希に付いていける
程度にはなっていた――本人曰く「このダンスだけです」とのことだったが――。
そして今日、心強い助っ人が現れたのだった。
「あれ? 今日はいつもの人いないの?」
早朝、レッスンスタジオに足を踏み入れた美希の第一声がそれだった。ちなみに『いつもの人』とは先にスタジ
オ入りしているはずのダンスレッスン講師のことだ。
「プロデューサー、これはいったい?」
千早の疑問はもっともだ。マネージャーである自分ですら今日何か特別なことをするとは聞いていなかった。
「ふっふっふ……今日は特別なゲストを呼んでるのだ! 二人とも、入ってきていいぞ」
プロデューサーがそう言い終えると同時に、スタジオの扉が開かれた。
「おはようございます~」
「へっへー、おはようございますっ!」
「あずささんに真? なんでここに」
予想外だった私服姿の二人の登場に思わずプロデューサーへと目を向けた。
「今日から一週間は他のみんなの表現を学んでもらうよ。一緒にレッスンしながらね」
突然の予定変更に美希と千早は顔を見合わせた。それもそのはずだ、自分ですらまだまだダンスのレッスンを
積んでいくものだと思っていたのだから。
「今日からは歌とダンスの合わせのみに専念する。昨日までやってきたのと同じね」
「みんなで……ですか?」
そういうこと、とプロデューサーは軽く笑いながらスタジオから出て行った。どうやら本当に四人だけでやらせる
つもりらしい。
その背中を追おうとして、一度千早たちの方を振り向く。
「先に始めといてくれ。すぐ戻るから」
そう告げて今度こそプロデューサーを追いかける。
「よーし! それじゃあジャンジャンバリバリ行ってみよう!」
「さっすが真くん、カッコいいね!」
「う……や、やっぱりプリプリでフワフワな感じで行こう!」
「それは今回の曲のイメージとは合わないと思うけど」
「うふふ、とりあえず曲を流すわね~」
背中に楽しげな声を受けながら、扉を閉じた。
「プロデューサー!」
「ん? どうかしたのかい?」
どこかに連絡しようとしていたのか、携帯を片手にプロデューサーがこちらを振り向いた。
「どうかした、じゃないですよ。どういうことですか今日のレッスン」
「さっき伝えたとおりだけど」
「それに納得がいかないから聞いてるんです!」
まるで他人事のような態度に我知らず声を荒げてしまう。そんな自分を見たからかプロデューサーは頭をかき
ながら少し考え込むように俯き、意を決したように顔を上げた。
「はっきり言おう、もう俺たちができることはないよ」
その一言に、すでに熱くなっていた頭が沸点を越えた。
「そんな無責任なっ……!?」
そう叫びかけたところで、目の前に人差し指を突き出されて出鼻を挫かれる。指の向こうでプロデューサーが
真剣な表情をしているのが見えた。
「勘違いしないでくれ。あの二人はもう俺がアドバイスしなくてもいいレベルになったってことだよ」
「はぁ?」
二度目の不意打ちに怒気は一気に引いていった。それに入れ替わるように疑問が湧いてくる。
「だって、まだ一週間あるじゃないですか?」
「一週間も、だね。今の美希と千早なら歌とダンスの合わせにそう時間もかからないだろうし」
「ならなんで……」
プロデューサーはこちらに突きつけた指を引っ込め、淡々と説明を始める。
「余裕がありすぎると焦ってしまう子もいるんだ。本当にこのままでいいのか、もっと上達できるんじゃないか、って
ね。そういう子は本番にうまく実力を発揮できなくなってしまうことが多いんだ」
真っ先に千早の顔が思い浮かんだ。彼女の場合、少しでも時間があればレッスンに打ち込んでいるのでプロ
デューサーの言う焦りからの無茶をしてしまうのは十分に考えられることだった。
「かといって、もうレッスンの必要はないと直接言うこともできない。今の今まで張り詰めさせていた緊張を解いてしまうと反動からやる気が削がれてしまうこともあるからね」
「だから、レッスンの代わりにみんなで歌とダンスを合わせることにした……?」
「自然体で歌と踊りを合わせるためのリラックスも兼ねてね。納得してくれたかな?」
……言いたいことは分かった。筋も通っていると思うし、反論するようなことは何もない。
だけど、
「なんか、落ち着かないです」
「まぁ気持ちは分かるよ、俺も最初はそうだったし。とにかく、今はオーディションまで二人を信じてみようじゃないか」
さぁ戻った戻った、と追い返される。仕方なくスタジオへの道を辿る途中、自分の中にモヤモヤした感情がある
ことに気付いてしまった。
――信じたいのは、俺も同じはずなのに……
プロデューサーから何度も信じろと言われたはずなのに。不安なのか、それとも誰かを信じるということに躊躇
があるからなのか、考えれば考えるほどにその不鮮明な感情が広がっていく感じがした。
曲が終ってそれぞれ息を整えた後、どこを改善するべきかを四人で話し合うことになりました。
「う~ん、ボクはサビに入る前のパートは動きをもっと鋭くしたほうがいいと思うなぁ」
「鋭くって、こんなカンジ?」
「そうじゃなくて、こう……ビシッ! ってさ」
ダンスは美希と真が、歌は私とあずささんが主に案を出し合うという図式が最初から出来上がっていました。
二人ともプロデューサーからある程度は私たちがどれだけできるかを聞いているようで、過度な修正はしない
方針のようです。私にとっても美希にとっても、無理なく直せる程度の意見が次々と出てきました。
「二番の入りはおとなし目にするといいかもしれないわね~。せつなさを込めたほうが歌詞ともマッチするだろうし。
ちょっと歌ってみるわね~」
そう言って紡がれた旋律は、あずささんの言ったとおりにこの歌の良さを引き出せていました。
そして同時に、私の胸に懐かしい想いが蘇ってきたのです。
――いつか見た夢の中でも聞こえてきたあの歌、私がここにいるきっかけになった歌。
あずささんの歌はとは似ても似つかないはずなのにどこか同じもののように思えて、
そして……今の私にはその響きを表現することができないことに気付いてしまいました。
どうして? 私はずっとこんな歌を歌うためにこの道を選んだのに。
私にはあの約束を果たせないということ?
それとも、その約束があるから?
「――千早さん?」
「えっ?」
声に驚いて前を見ると、美希がすぐそばまで顔を寄せていました。文字通り目と鼻の先にいたのに気が付かな
いなんて……
「大丈夫? ひょっとして疲れが溜まってるのかしら?」
「千早。オーディションも近いし、辛いならあまり無理しないほうがいいよ」
いけない、このままじゃレッスンに支障が出てしまう。早く調子を戻さないと。
「あの、大丈夫で……」
「てりゃー!」
私が言い終える前に、突然美希が抱きついてきました。頭を胸に埋められるように抱え込まれたせいで息が
できなくなり、直に感じる弾力にわずかながら理不尽な怒りが……くっ。
「ちょ、ちょっと美希!?」
なんとか真に助けられて事なきを得たのだけど、軽く咳き込む私の前に美希が仁王立ちしていました。
「美希……?」
「も~! 千早さんさっきからちっとも楽しそうにしてないよ!」
「あ……」
――楽しんでやったほうがきっとうまくいく。
少し前に彼女に言われたことを思い出す。
「楽しく、やろ?」
そう言いながら微笑む彼女を見て、私は今の悩みをしばらく置いておくことにしました。
それからのレッスンはいろんな意見が飛び交って、少しだけ心の晴れた私にはいつも以上に充実したように
感じられました。
ただ、その最中に、
――『彼』ならどうするんだろう? どう思うんだろう?
そんな荒唐無稽な疑問が浮かんでは消えていったのが少しだけ気になりました。
事務所の屋上、手すりに寄りかかりながら月を見上げる。
薄い雲が被さって輪郭がぼやけたその姿は、さながら今の自分の心情を表しているようだった。
「……空気読んでるなぁお前」
呆れたように呟いたところで何か反応があるわけでもない。最近こんなことをしている自分は異常なんじゃない
かとすら思うこともある。
結局、自分の中にある感情は分からずじまいだった。今日は特に影響があったわけではないのだが、明日
以降に何か起こるのかもしれない。よりにもよってこの時期にこんな問題を抱え込んでしまうとは。
「――マネージャー?」
下から届いた声に視線を下げる。雑居ビルの入り口近くでこちらを見上げる千早の姿が見えた。
「そんなところで何してるんですか?」
「何って……反省会、みたいなもんかな」
我ながら怪しいと思いながらもそう言う他なかった。まさか月の相棒に愚痴っていると言えるはずもない。
「反省会、ですか」
「あぁ、といっても千早たちに何か問題があったわけじゃないから。別に気にしなくていい」
はぁ、という声を聞く前に再び月を見る。途切れた雲の隙間から月が顔を覗かせていた。
――あぁ、そうか。
少しだけ見えてきた気がした。
要するに、自分は恐れているのだ。信じることを、裏切られることを。
だから自然と壁を作ってしまう。これ以上自分の中に入ってこられないように。これ以上自分の心が傷つかない
ように。
なんて自分勝手な感情だろう。自分をさらけ出せずに誰かを信じ、誰かの信を得ようとしていたなんて。
「……なぁ、千早」
「はい?」
「俺さ、千早の歌好きみたいだ」
視線を下げる。突然のことで千早は呆気に取られていたようだが、何故か急に顔を真っ赤にした。
「い、いきなり何を言い出すんですか?」
「いやさ、そう考えるともっと秋スペを成功させたくなってきた」
おそらくはそれが答え。正答とまではいかないかもしれないが、少なくとも今ここにある感情は確かに。
「がんばろうな、千早と美希ならきっと最高のステージにできるから」
「……そうですね。元からそのつもりでしたけど、期待に応えようと思います」
そう言って千早は少しだけ笑った。心なしかいつもより調子がよさそうだった。
「それじゃ、また明日」
「はい、またレッスン場で」
屋上と道路、傍から見ればおかしい会話だったかもしれないが、実際の距離よりも少しだけ近づけたような気がした。
――そして一週間後、『秋の大感謝祭スペシャル』のオーディションが開かれた。
最終更新:2008年09月22日 02:44