「きゃああああ!!エッチ馬鹿スケベ変態信じられないわよ!」
「待った誤解!」
夢の中でもう一度ティアナさんに殴られたような気がして、俺ことシン・アスカは
見慣れた部屋の中で目を覚ました。
もう痛んではいないはずの頬が、つい先刻叩かれたばかりように赤く腫れ駕っている。
手で触れる叩かれた頬の痛みと柔らかい胸の感触に、妙な背徳感を覚えながら、俺は覚束ない足取りで風呂場に向かった。
途中やかましく鳴り響く携帯のアラームを布団の中に押し込み強引に黙らせる。
寝汗で臭うシャツを洗濯機の中に乱暴に投げ入れ、シャワーのコックを捻る。
残念ながら、熱いシャワーも俺の鬱屈した精神状態までは洗い流してはくれず、モヤモヤとした感覚だけが全身にへばりついている。
俺は、まるで悲喜劇の主人公になった気分だと嘯き、鏡に写った自分自身を見つめた。
「最悪だ」
鏡に写った顔は酷い物で、普段に比べ十分な睡眠時間を取っているに関わらず、
腫れぼったい目に、あろう事か目の下に隈まで出来ている。
「はは…今日商談があったら間違いなく失敗だったな」
最高の気分で終わるはずの夜は最低な気分で終わりを告げ、一夜明けた今もこれま
た最低な気分で朝を迎えてしまった。
俺は自嘲気味にそれこそヤケクソ気味に微笑んでみるが、鏡の中の俺はピクリとも笑い返してはくれなかった。
「別にあそこまで怒らなくても」
自己弁護するように嘯くが、どう考えても俺が悪い。
幾ら事故とは言え、見ず知らずの人間に胸を揉まれ慣れている女性など居ないだろう。
羞恥や怒りよりも嫌悪感の方が勝っているはずだ。
特に彼女は未成年で、恐らく妹のマユと同じ位の年齢だから、余計に気難しい年代だ。
(あの年頃の女の子から見れば、俺のような年齢でも十分オジさんの見えるんだろうな)
「立ち直れないかも…」
キモイとか言われなかっただけでも、奇跡かも知れない。
「あぁでも変態って言われたかも」
俺は、可愛がっている妹から「キモイ!変態!」と言われる場面を想像すると、自
然と胃が重くなって行くのは感じる。
幸いながら妹との関係は良好そのもので、今迄表立ってキモイなどと罵倒された事
は無いが、今日の事を知られるとどう転ぶか分からない。
アスランは、人の悪口は言わないが、どうにも口が堅いようで軽い。
後でさり気無く口止めしようかと考えてたが、仮にも上司にあれ程の迷惑をかけたのだ。
やはり率先して謝ると言うのが筋だろうか。
俺は暗い気分のまま、風呂場から上がり、クローゼット中から着替えを取り出した所で、
そう言えばとふと思い出した事があった。
「俺…一週間休みだっけ」
すっかり忘れていたが、やり過ぎた俺は上層部の目に止まり、一週間の強制有給の刑に処されていたのだ。
「どうしようか」
背広に袖を通し、冷蔵庫の中からミネラルウォターを取り出し一気に飲み込む。
昨日の内に冷やしていたトマトを丸齧りにしヨーグルトで流し込む。
サラリーマンの悲しい性かな、一度染み付いた生活習慣は変える事は出来ず、頭の
中で別の事を考えているに関わらず、俺は自動的に出社の準備を整えていた。
まぁ今のままグダグダ考えていても埒があかないと考えた俺は、まずは、出社して上司に謝ろうと思い立った。
「おはようございます」
「おはよう」
いつのも受付係に挨拶し、俺は自分のオフィスへと足を速める。
総合商社"オーブ"
名前こそシンプルだが、ご飯のお供の佃煮に始まり、MSまでとオーブが取り扱う商品は多種多用だ。
ここまで多角経営に手を伸ばしたら、社が傾きそうな物だが、オーブ代表ウズミ・ユラ・アスハの"他社の利益に介入しない"と
良く分からない経営理念が功を奏したのかしないのか。
企業から三十年と少し。
兎に角良く分からない内にオーブはあれよあれと言う間に日本経済の中枢にまで食い込んでいった。
エレベーターに乗り、絨毯敷きの廊下を通り、欧州課のあるオフィスへと向かう。
欧州課資源調達班。
手短に言えば、欧州各国のレアメタルなどの希少金属の買い付けが俺の仕事だった。
一応社のエース級の人材が集められ、言って見ればオーブの最前線と言う奴だ。
オフィスにもう少しと言う所で、俺は見知った顔に出会った。
喫煙室の隣にある自販機で、腰に手を当てデカビタCを一気飲みしている見た目麗しき女性。
肩口まで伸びた金色の髪に、地中海の海を彷彿させるサファイヤブルーの瞳。
街を歩けば十人が十人振り返る程の美人だ。
だが、その派手な外見に関わらず着ている服は、グレーのパンツスーツと実に地味な物で折角の美貌が霞んでしまっている。
だが、その容姿に騙されてはいけない。一度騙されたが最後、そいつは、未来永劫心に消えない傷を負うことになるからだ。
「レイまたそんな格好して」
これが『本当の女なら』本当に勿体無い事だと思いながら、俺は朝何度目かの溜息を付いた。
「シンか」
金髪碧眼の女性が振り返る。
大体予想は付いていると思うが、こいつの名前はレイ・ザ・バレル。
俺の幼馴染で正真正銘の『男』だ。
イギリスのやんごとなき御方の血筋に名を連ねる身分らしいが、本人にそれを聞こうとすると口をへの字に曲げ、三日は口を聞いてくれ無くなるのでレイの前で絶対のタブーだったりする。
「俺も色々と面が割れてるからな。敵情視察も苦労する」
レイは嘆息しやれやれとばかり両腕を組み苦笑いする。
「でも、女装する意味無いだろ」
「余計なヤッカミを買う必要も無いだろう」
「バレたって堂々と乗り込んで実力でねじ伏せれば良いだけの気が…」
レイは溜息を付き、次いで俺を見て微笑む。
「それはお前の領分だ、シン。俺は凡人だからな。凡人は凡人らしく知略姦計張り巡らせて貰うさ」
女装の何処に知略姦計の要素があるのだろうか。
俺は頭痛を覚えるが、レイは飄々とした態度で笑みを崩さない。
「何偶に俺の事を本当に女と間違えた馬鹿がディナーを奢ってくれたりしてな。夕食代が浮いて助かる」
「殆ど趣味じゃないか」
「気にするな。俺は気にしない」
「俺が気にするよ」
俺は溜息を付きながら、自販機から缶コーヒーを買い飲み始める。
「で、そんなにめかし込んで何処行ってたんだよ?」
「デトロイトだ。アクタイオン社の新作発表会があったんでな。こっちには今朝着いたばかりだ」
「ご苦労様。アクタイオン社の新作ってウチのGATシリーズのパクリ商品って噂の」
「裏コードはGAT再編計画だそうだ。」
「物は言い様だよな。で、結果は?」
レイは微笑みながら、俺の肩に手を置く。
「所詮は二番煎じだ。十年以上前からコツコツとMS開発のノウハウを溜めてきた俺
達相手では無い…と言いたい所だが、侮って良い相手では無いな。勿論負けるつもりも無いが」
ニヤリと不適に笑うが、女装された格好で言われてもどうにも迫力が無い。
むしろ不気味さが際立っているだけのような気がする。
大体レイはその外見に似合わず案外筋肉質なんだ。無駄な筋肉が無いと言うか、腹筋だって割れてるし、
触って見れば分かるけど鉄かって思う程硬い。
確かに毛深いって程じゃ無いけど、肩何か触られると一発でバレるような気がするんだけど。
「なぁレイ…つかぬ事をお聞きしますが…前々から気になってたんだけど…無駄毛の処理とかどうなさってるんですか?
具体的に言うと脛毛とか」
「当然剃ってるが…何か問題でも」
「見えないのに?」
「仕事に必要なのは丁寧さと正確さだ」
「あぁそう…」
もうそれ絶対趣味だろ。
意味不明のはぐらかされ方をされたが、俺はレイが変な道、主に歌舞伎町方面に永久就職しない事を微力ながら願った。
「それで、今日はどうしたんだシン。確か有給だったはずだが」
「ああ…えっと」
特に考えも無しいつも通り会社に来てしまっただけなので、本当に何も考えて無い
自分に気がつき、俺は困惑を通り越し呆れてしまう。
「いや、その、ちょっと気になる事があって。確認だけしようかなって」
しどろもどろになりながらも何とか答えて見たけど、果たして誤魔化せただろうか。
「お前も十分仕事中毒だな」
レイは相変わらずポーカーフェイスを崩さず、一度だけニヤリと笑う。
「気にするな。俺は気にしない」
俺がレイのお決まりの台詞を取るとレイはムッとし表情を作る。
その様子が可笑しくて、俺はレイにばれないように忍び笑いを漏らした。
「また連絡するよ」
「了解した」
俺は少しだけ気が紛れた事を自覚し、挨拶もそこそこにその場を後にする。
「ワーカーホリック…か」
『シンは私を見てないもの…見てるのは仕事だけ』
長い廊下を歩く最中、いつかの誰かの台詞を思い出しながら、俺は胸に残った僅か
な淀みをその手で握りつぶすように、記憶の奥底に閉じ込めた。
「すみませんでした!」
「ん…あぁ」
デスクに腰掛たアスランが困惑したような表情を作り、大量の書類から顔を上げた。
「そんな事を言いにわざわざ休みの日に会社まで来たのか」
「そんな事って…」
俺にとっては大問題何だ。元々物事を走りながら考える俺で、謝るのは苦手だけど、恥も外聞も無い訳じゃないんだ。
自分が間違っていると思えば素直に謝りもする。
大体俺は、アスランに貸しを作る事が死ぬ程嫌何だ。
「気にしなくていいぞシン。確かにお前の責任がゼロと言う訳じゃないが、お前が全面的に悪いってわけじゃない。あれは事故だ」
「でも…上司の顔を潰したかと思いまして」
「思っても無い事を口に出すな気持ち悪い」
(こいつ、人が謝ってるのにこの態度は無いだろ)
俺は思わず大声を出しそうになったが、寸での所で堪える事に成功した。
俺は、思わず掛けた方が集中力が出るとご自慢の伊達眼鏡を、鼻眼鏡に内緒で交換してやろうかと思う。
「それだけならもう行けシン。お前は今休暇中だ。他の人間に邪魔になる。用事を済ませたら帰れよ」
全くタマに殊勝な心がけを出してみればこの様だ。
アスランは、もう用は終わりだとばかりに、俺をオフィスから追い出しにかかる。
「それでは!失礼致しました!」
「あぁそうだ。失礼された!」
慣れない事はするもんじゃ無いと、俺は思いながら精一杯の悪態を付きながら課長室を後にした。
「あの野郎…」
俺の様子を傍から見れば怒り心頭と言った感じだっただろう。
普通大の大人が顔を真っ赤にして怒り狂えば、何事かと西へ東の大騒ぎになるが、
同僚達は、またいつのも事だと割り切り、苦笑しながら俺に労いの言葉を投げかけてくる。
上司に横柄な態度を取る部下も問題だが、大人げ無く部下に張り合う上司もどうだろうかと、
半ば物見遊山のような対応を取られるのも何か釈然としない。
裏では俺対アスランの言い争いが賭けの対象になっているそうだ。
因みオッズは七対三。俺が三でアスランが七と非常に不名誉な掛け率となっている。
俺個人には納得は行かないが、俺が言い争いで且つ勝率はそんな物で変に正確で嫌になる。
それ程までに俺対アスラン・ザラのいざこざは、欧州課資源調達班の日常行事と化していた。
俺は乱暴に自分の席に付き、オフィスの様子を見渡してみる。
自慢では無いが俺達の部署は忙しい。
特に午前中のこの時間は、取引先や現地エージェント達との電話連絡で目も回るような忙しさだ。
誰も自分の席について仕事しておらず、携帯を肩と首の間に挟み歩きながら仕事をしている。
皆目や手で挨拶はしてくれるが、自分の仕事に集中している。
確かに暇を持て余した人間は邪魔になるだけだ。
その点に言えばアスランの言った事は正しいが、もう少し言い方を選んでくれても良いと思う。
俺はパソコンを立ち上げ、今後のスケジュールとメールを確認し、ヤフーのニューストピックだけを見てパソコンの電源を早々に落とした。
オフィスは宛ら戦場のように喧々囂々と人の声が飛び交っている。
俺は自分だけが取り残されたような寂しさを覚えながら、やっぱり帰ろうと鞄を持ち席を立とうとした瞬間だった。
ピリリと間抜けな音を立て、電話が鳴る。皆手一杯の様子な為、俺が渋々に内心嬉々としながら電話を取った。
もし、俺の休暇が潰れるようなトラブルでも出れば儲け物。
鬱屈した気分で一週間を過ごすよりは、仕事に忙殺された方が幾万倍もマシだった。
「はい。欧州課資財調達班」
「受付の田中ですけど。資財班のアスカさん居ます?」
「俺ですけど」
「ああ、アスカさん。良かった、まだいらっしゃったんですね」
朝挨拶した受付嬢の顔を思い出す。
外来と言う時点で俺の淡い希望は消え去った。
考えて見れば、本当に対処不能のトラブルが起きたのなら、交換を通さず俺の携帯
に直接電話が掛かって来るはずだ。
残念な事に俺の電話は頑なに沈黙と守り続けている。
「なんですか?」
「えっとですね。お客様が来てるんですけど。
舌打ちしたい気分で一杯だったが、気分を取り直して一体誰だ来たのかと、先週ま
でのスケジュールを総ざらいするが心当たりが無い。
「名前何て言いました」
「八神さんって方なんですけど…どうしますか?」
「えっ…」
その名前を聞いた瞬間、昨日の出来事が鮮明に蘇り、俺は思わず受話器を取り落としていた。
最終更新:2008年10月13日 23:10