なきむし狼と羊-03

「あった……これが…」



艶やかな黒髪を背中にたらした慎ましやかな空気を孕んだ少女というには少し大人びている女性はそっと膝を付く。
柔らかな質感と微かに白磁の膝が灰に汚れてしまうのにも構わずに、そっと膝を付いたまま、『ソレ』に手を伸ばす。
よくよく見ると、あちこちが灰と煤で汚れながらも、白魚のような手で『ソレ』を手に取ると、優しく、其処に詰まっているものを愛しむ様に撫でる。
ソレは薄汚れた絵本であり、女性が立っているのは廃墟というには余りにも建物としての名残を残していない家跡であった。
本来なら一冊の絵本など、それこそ燃え尽きて、灰となっていてもおかしくないのに、まるで、必要な役割があるからと『奇跡』が起こったようだ。
本の表紙を撫でながら、女性 ――― セツコ・オハラはその本の表紙の汚れを拭い取る。


『なきむし狼と羊』



「あったよ……あったよ、シン君……」


セツコは切なげに呟いた。そこは嘗てのシン・アスカの家の跡であった。
ロゴスを追い出し政権がセイラン家から再びアスハ家に移り、一応の落ち着きを取り戻した今、ZEUTHはオーブの恩人として停泊を許可されていた。
補給の見返りとして、ZEUTHは用心棒という役割を負っていた。
当のシン・アスカはその事について何も言ってはいない。何故なら彼は既にZEUTHにはいない。
ザフトの手から離れたZEUTHとザフトは事実上敵対関係にあり、ザフトであるシンとZEUTHのセツコはつまるところ何時戦う事になっても
おかしくない。セツコはソッと、下腹部に手をあてる。ソレは無意識の行為だった。

あの夜、シンに抱かれて目覚めた彼女の傍らには、既にシンの姿は無かった。
しかし、彼に放たれた精の感触が、精の熱が、未だに身の内に篝火の様に残り、セツコの身も心も焙り続けている証であった。






それはまだひつじがおしゃべりができたころのおはなしです。

あるところに仲の良いひつじのかぞくがすんでおりました。
ひつじの男の子はすこしだけかぞくと自分がちがっていることがきらいでした。
「どうしてぼくのごはんだけちがうの?」と男の子がきくとおとうさんは「おまえは体がよわいからこれはおくすりなんだよ」といいました。
「どうしてぼくだけ白い毛じゃないの?」と男の子がきくとおかあさんは「さむい夜はおかあさんがいっしょにねてあげるからよ」といいました。
「どうしてぼくだけつめがちがうの?」と男の子がきくと男の子のいもうとは「きっと、わたしをまもってくれるためなんだよ」といいました。
かぞくはとてもやさしく、男の子はそうなのだとおもっていました。





「シン君…どうして………」
「何が…ですか?」

ザフトに向かおうとするシンの背に向かって声をかけたのはセツコであった。
不思議と静まりかえったアーガマの一室、そこはシンがシミュレーション等で遅くなった場合や、戦闘の際にアーガマで整備することになった場合に備えて間借りしていた一部屋であった。シンとセツコの声がやけに大きく響いた。
ミネルバ共々ザフトに戻るため、シン達は明日までに各々ZEUTH各艦においてある私物を片付けるように、そう指令が下っていた。
実際には、情報漏洩を防ぐため、シミュレーションやデッキに存在するMSのデータの抹消が目的であり、事をすぐに構える事をよしとしなかったZEUTH側は、ザフトの主張に理がある点をも考慮してコレに意義を唱えなかった。

「どうして……ザフトに行くの?」
「行く…?戻るの間違いでしょう?」
普段の激情家な表情は隠れ、シンはあたかもレイの如く冷めた瞳を向ける。
セツコは、その瞳に突き刺さるような痛みを覚える。弟のように思っているはずの少年に、そんな視線を向けられたからなのか、セツコには自分自身がわからなかった。ただ、セツコはミネルバがザフトに戻ると聞いて、反射的にシンの事しか思い浮かべることが出来なかった。

「シン君は…シン君はおかしいとは思わないの?この世界で今覇を唱えている人達を」
「議長が独裁者になるんじゃないのかっていう類の言葉なら聞き飽きましたよ」
先手を打たれて、セツコは口を噤む。
議長の持つ不穏な歪みを、彼なら…このZEUTHで共に過ごしてきた彼ならば気付いている可能性も考えていた。
そして、もし気付いていなくても、訴えかければきっと残ってくれると思っていた。

「俺は言いましたよね、セツコさんには。世界から戦争を無くしたい。皆と戦ってきて、異星人にも色んな人がいて、色んな考えがあるって知って、それで馬鹿なりに色々考えました。どうすれば出来るかって……世界から戦争を無くすにはどうすればいいのかって……」
シンに不意に向けられた瞳に、鼓動が高鳴るのを覚えながら、セツコはシンが其処まで考えていた事に内心驚きを禁じえない。
ただ、ひたすらに我武者羅に戦っていると思っていたからだ。

「それで思ったんです。きっかけはフリーダムを沈めた時でした」

セツコはあの日を今でも覚えている。
全身から殺意、憎悪、怒りを火花のように迸らせ、紅蓮の炎を閉じ込めた瞳で、フリーダムをシンが撃墜した日を。
見ていて、セツコは最初、自分が涙を流しているのに気付かなかった。
腕でも頭でも好きなだけ切り裂けと言うように、まるで自分の命をベットに常に博打に出るような戦い方だった。
セツコ達とのシミュレーションではもっと長期的にZEUTHのロボットの力を借りながらの包囲網を想定していた。
シンがあくまでも中心となり、戦うが、所々危うい場面があれば即座に自分やカミーユがアシストに入る予定であったが、実際にはシンが一人で片を付けた。
その命すら、ガンダムの武装の一つに羅列されているのではないのかという戦い方に、セツコはどうしようもなく涙が流れた。
見ていて哀しくて堪らなかった。
ぶつける命が磨り減り、完全に消えてしまうのが先か、命を奪い取るのが先なのか。
シンにそんな戦い方をして欲しくなかったのに、何も失くすものが無いという戦い方はセツコの胸をズタズタに切り裂いた。






ある日、男の子のかぞくはおおかみにたべられてしまいました。男の子はうんよくにげることができました。

男の子がおなかをすかせながらあるいていると、ひつじのむらにつきました。
そこは、くもにおおわれて、お月さまのあまり見えないむらでした。
ひつじたちはよそものの男の子に冷たくします。男の子はいいました。
「ぼくはひつじなんだ。おとうさんもおかあさんもいもうともしんじゃっておうちがもうないんだ」
かわいそうにおもった一匹のひつじは男の子にたずねました。「おとうさんとおかあさんはどんなひとだったの?」
男の子はいいました。「とってもフカフカの白い毛で、とってもおとなしくてやさしかったよ」
ひつじはまたたずねました。「おとうさんとおかあさんはきみのことをたいせつにしてくれたの?」
男の子はいいました。「うんそうだよ。ぼくはびょうきのせいで体がよわくて、りっぱな毛もなにもないけど、おとうさんもおかあさんもやさしかったよ」
ひつじはにっこりとわらっていいました。「だったら君はひつじだよ」と。
男の子は村にすむことになりました。男の子はとてもやさしいよい子だったので、村のひつじたちもだんだんとなかよくなっていきました。
ところが、男の子はびょうきのせいで、村のひつじのたべものがどうしてもたべられませんでした。
とても苦くて、みんなのたべているものを男の子はこっそりとすてて、むらのはしにある湖の水をのんでくらしていました。






「どれだけ強くても、どれだけ綺麗事をほざこうが、たった一人の力なんてたかが知れてるって……」

ゾッとする声だった。
セツコは、本当にそれがシンの口からもたらされた声だとは思えなかった。
奈落の其処から吹き込む隙間風のように、冷え冷えとて、嘲笑と嫌悪を含んだ何処までも昏い声。

(目の前に居るのは本当にあのシン君…?)
怒って、笑って、負けん気が強くて、生意気で、でも一度懐くと子犬のように甘えん坊で。
照れ臭そうに飴玉をくれて、味覚の無いセツコの心を温かくしてくれた不器用で優しいシンなのかと愕然とした。

「アスランもそうです。どれだけ凄い英雄だろうと、一年足らずの新兵に撃墜されて……戦争ごっこなんてやってるからくたばるんですよ」
アスランだけではなく、自分自身をも嘲るようにシンは少しだけ視線を下に向けながら呟く。

「ZEUTHもそうです。こんな独立愚連隊にいたままじゃ……どれだけ正しい事をしていても世界は変わらない……」

「そんな事…そんな事ない!!私たちの戦いは無駄なんかじゃない!!それはシン君が一番知ってるはずだよッ!」

「セツコさん……」

「私は現に、皆に…シン君がいなかったら……」
そう、自分はシンという存在に救われていたのだ。

「私……ずっとシン君に自分を重ねていた……勝手かもしれないけれど、自分と一緒の境遇なのに、ドンドン強くなっていくシン君を見てたら、私もあんな風になれるかもしれない、あんな風になりたいって、そう思ってた」

いつか自分も彼のように悲しみに屈するのではなく、糧として己の強さに出来たら、
セツコは目標として、憧れとして、同類としてのシンという存在を見るたびに自らを鼓舞していた。

「セツコさんが俺なんかを目指す必要なんてないですよ……」
吐き捨てるように呟くシンに、セツコの胸の痛みは否応に増す。

「そんな事ない。シン君がどれだけ平和を望んでるのかも知ってる……だって、だってずっと見てきたから!!」
「――――― ッ!?」

言ってから、セツコは弾みで飛び出した自分の言葉に赤くなる。
おぼろげに抱いていた感情に、自分自身が不意打ちを受けたようだ。
冷めた眼で見ていたシンの瞳が初めて驚愕に見開かれる。その頬にはセツコと同じく朱が差している。


「此処には、シン君と同じくらい平和を渇望している人たちがいる。皆それぞれの正義を持って、ソレを尊重し合っている。
だから私たちは自分達が胸を張って正しいと思える戦いをしてこれた。だから……だから私はそんなZEUTHでなら……
皆となら戦えるって…そう信じてる……だからシン君も……」

そう言い掛けたところで、ダンッという音がセツコの耳朶を劈く。
肩がビクリト跳ね上がり、俯きかけていたセツコの視線が持ち上がると、苛立たしげに壁を殴り付けたシンの強い射抜くような視線にぶつかる。


「一人一人を救えたって……正しいからって………それじゃ意味がない…それだけじゃ意味がないんだよッ!!」




ある日、その日はめずらしくお月さまのみえるよるでした。
男の子はお月さまをみながら湖にいくと水を飲もうとしました。するとおどろくことに、湖におおかみがかくれていました。
男の子は自分をおいかけてきたのだと、あわてて村にかえりました。
すると、お月さまにてらされて明るくなった村のひつじたちはみんな男の子をみてにげだしました。
男の子は「どうしてみんなにげるの?」とたずねました。
すると、一匹のひつじが「だってきみおおかみじゃないか」といいました。
男の子は「ぼくはひつじなのにどうしてそんないじわるをいうんだ」とおこってひつじをのみこんでしまいました。

すると、男の子はびっくりしました。「どうしていつものごはんのあじがするんだろう?」

男の子がみたのは男の子のかおだったのです。




睨み付けるシンの視線に、後退りしそうになる足を必死に振るい立たせると、セツコはシンの視線を真っ向から受け止めた。
それを、一瞬辛そうに瞳を揺らがせながら、シンは膿を搾り取るように呻く。

「俺は正義の味方になんてなれなくてもいい……戦争をなくせれば……それにはここで、ZEUTHでちんたら正しい行いってやつをやってたんじゃ、また……またマユみたいな小さな子が死んでいく……また……また俺みたいな人殺しのガキが生まれる……」

人殺し、以前に自嘲するように呟いたシンの言葉が過ぎる。

「俺は正しくなくてもいい……すぐに、世界を変えたい…議長についていけば、とりあえずはそれが出来る……それが独裁だろうと何だろうと、
人が死ぬ世界よりはマシでしょう?一人も救えない正しい世界と、一人でも多くの人が生きられる間違った世界なら……俺は間違ってても構わない…」


「……本当にそう思ってるの…?シン君は今の世界が間違ってるから戦ってるんでしょ…?マユちゃんは間違った世界に殺されたんでしょう?
それなのに、シン君はまた間違った世界を作る事に貢献するの?その世界は本当に人が死なない世界になるの?」

セツコはシンの言葉に滲み出る苦悩と、苦痛を知りつつも、敢えて言葉を緩めず、最も痛いところを抉る言葉を向ける。
例えそれで彼に嫌われようとも、誤った道に進ませることを、一人のシンを大切に想う者として看過出来なかった。

「世界は人で出来てるんだよ?だったら間違った世界で人が死なないなんて有り得ない……もし死なないのだとしたら、それは最初から死んでいないだけ…
生きてるわけじゃない……」


「煩い……」


「シン君が作ろうとしてるのはそんな世界かもしれないんだよ?だとすれば…シン君は……」


「煩い……」


「いずれシン君は……自分の手でマユちゃんを殺してしまうんだよ…?」




「煩いッ!!!!」




セツコの視界がくるんと回転し、視線の先が部屋の天井だと気付いたときには、セツコは完全にベッドに縫い付けられていた。
ようやくシンに自分が押し倒されているのだと理解するものの、不思議と拒否感も嫌悪感も沸かなかった。
シンは、痛みを必死に堪えるように、眉間に皺を寄せてセツコを睨み付ける。



「煩いんだよッ!!いつもいつも悲劇の聖女様みたいな面で、自分はいつも綺麗ですって顔でッ!!
アンタは良いよな?いつだって悲劇を受ける側で、正しくて、綺麗で、仇はあんな馬鹿みたいにわかりやすい悪党だから復讐だってみんなに応援されて、同じように復讐した俺にはどいつもコイツも憎悪がどうとか、向こうにも正義があっただとか、コソコソ、コソコソ好き勝手に言いやがる。
同じ境遇で重ね合わせる?アンタみたいなお綺麗な人と俺みたいな馬鹿なただの人殺しのガキが同じわけ無いだろ!?それでも、それでも、でかい力があれば今度こそ守れるかもしれないのに…今度の今度こそは守れるかもしれないのに、俺がマユを殺すって……アンタが……よりによってアンタに言われて…じゃあどうすれば良いんだよ?ザフトには仲間がいるんだ、レイもルナも。そいつらと一緒に戦うんだ、それを余所者のアンタに……クソッ…クソッ…何でアンタが…よりによってそんな……放っておいてくれよ……」

堪えきれずに、シンは肩を震わせて、押し倒したセツコの胸に頭を預けるように、俯く。
セツコは、ようやく先ほどまでの冷めた斜に構えた態度に合点が行った。
きっと、シンは酷くぶれているのだ。何を信ずるべきで、何が正しくて、どの道を選ぶべきなのか。
けれども、自身を『人殺し』と牢記している故に、正義の味方として映るZEUTHの仲間達と、軍人としての仲間達との狭間で心を磨り減らした挙句に、『自分に相応しい場所』として、より血生臭さの漂う道を選択したのだ。


すると男の子のいちばんなかよしのひつじがやってきってこういいました。
「きみはひつじだよ」
おともだちはいいます。「ただ病気のせいで白い毛がないんだよ」と。
おともだちはいいます。「きみはいちばんのおともだちだから、ぼくをたべて病気をなおしなよ」と。
おともだちはいいます。「げんきになればきっとまたおともだちができるよ」と。

男の子のおともだちは、男の子はおおかみだけど、とてもやさしい子だとしっていたのです。
だから、ひとりぼっちにしてしまわないように、元気になってほしいとおもいました。
やさしい男の子なら、元気になればきっといつかたくさんのおともだちができるとおもったのです。

男の子はこまりました。おともだちがさっきからとてもおいしそうにおもえたからです。
男の子はこまりました。おともだちをたべてしまったら自分となかよくしてくれる子は一人もいなくなってしまうからです。

男の子はむらの灯りになっているたき火をおもいだしました。



「俺は……セツコさんが恨めしいです…俺と同じ境遇だって聞いてて……それなのに、いつだって綺麗で、胸を張れて……だからアンタを見る度に……泣きたくなった…自分が酷く惨めに見えて……きっとアンタみたいになれたら俺も家族に胸を張れるのにって…疎めしかった…いっそ汚してやりたいくらいに……」

凶暴な野獣のような鋭い狂気が瞳に立ち昇るのを見ても、尚且つセツコは不思議と圧し掛かっているシンを跳ね除けようとは思わなかった。
コーディネイターとの身体能力差を考慮に入れての諦観などではなく、シンの触れる手、首筋をくすぐるシンの吐息、全てをセツコの身体は
拒絶しようと思っていなかった。それどころか、寧ろ受け入れている。

「いいよ…?」

その言葉は、するりとセツコの喉を滑り落ちた。
シンの瞳が、僅かに怯えたように見開かれる。

「あ、アンタ馬鹿かよ…そうじゃなかったら意味わかってます……俺の言ってる意味?」
シンの方が眼に見えてうろたえているのが、セツコには妙に可笑しく、そして、そんなシンが可愛らしかった。
クスリと、笑みを零すのを見て、シンの瞳にわずかに、苛立ちが生じる。

「もしかして、経験豊富だからっていう余裕ですか?」

「ううん……こんな体勢で凄く恥かしいけど……その……私………まだ、そういう経験………無いの……」

そう呟くと頬を染めて瞳を伏せるセツコに、一瞬心奪われる。
余りにも、その仕草が可憐であり、純粋に清らかな乙女としての麗しさと、儚さが美しさとなって、シンの思考を綺麗に削ぎ取ってしまった。
しかし、負けず嫌いな性格と、今更後に引けない体勢に、シンは更に語尾を荒くし、まるで脅すように囁く。


「言っときますけど、童貞だから怖気づいて出来ないとか、そういう展開なんて期待してるんじゃないでしょうね……」

その言葉に、微かにセツコの眉がピクリと動き、シンはようやく自分の脅しが利いたかと思う。
セツコは、眉を顰めて、シンを事の外強い視線で見上げると、桜の花弁のような唇を震わせる。

「……誰かと…したことがあるの……?」

「ええ…ルナと」

その言葉に、セツコは肩をピクリと震わせる。シンは、ようやく彼女が怯え始めたのだと半ば安堵するような思いを抱く。
経験豊富ではないが、確かに嘘は吐いていない。そして、このまま、セツコに頬を張られて、彼女が部屋から出て行ってくれれば良い。
そうすれば自分はZEUTHを抜ける踏ん切りが付く。
そして、自分の中の未練を、決して届かない彼女への憧れを断ち切ることが出来る。
そうなれば、自分は最早ZEUTHではなくザフトとして戦っていける、シンは次に来るセツコの拒絶の言葉を受け止める覚悟をそっと決める。

しかし、セツコは暫らく唇を噛み締めたかと思うと、さっきよりも一層強い視線でシンを見上げる。
思わず、シンはその視線に気圧される。


「いいよ……シン君の好きにして……ルナちゃんと同じことをしてくれて……」
「はぁッ!?あ、アンタ……何、馬鹿な事言ってるんだよ……ッ!?」
「ふ~ん…やっぱりハッタリだったんだぁ~だから出来ない…ンッッ!?」


わざとらしいくらいに意地悪く、露骨に煽るセツコの言葉は塞がれた。
シンの少しかさついた唇によって、ふわりとした花弁のようなセツコの唇は塞がれていた。
初めて味わう感触に、驚きながら、セツコの手はそっとシンの背中に回される。
唇をシンの舌が割って入り込むと、ビクリとしたセツコの頭を逃さぬようにシンは押さえつけ、セツコの口内を思うがままに、
出来るだけ、『優しくしないように』シンは蹂躙していく。
セツコもまた、それから逃れようとする力を徐々に抜きつつ、ぎこちなく舌で応じる。
互いに絡めあう舌の動きが、お互いにもう引き返すつもりのない事を幾百、幾千の言葉よりも雄弁に語っていた。






男の子はいいました。「ぼくはおおかみなんだ、だからもうひとりぼっちなんだよ」と。

そうして男の子は火の中にとびこんでしんでしまいました。

男の子のおともだちはうまれてはじめてなきました。

なみだがなくなってもなきました。

いつまでもいつまでもなきました。

それをきいていたひつじたちもいつのまにかないていました。

そのうち、ひつじたちはなおしゃべりのことばをわすれてしまいました。

ひつじたちはなきごえしかでなくなりました。






「シン…君…」
ぽたり、ぽたりと滴が零れ落ちる。セツコの瞳からはとめどなく、涙が溢れて止まらなかった。

読み終えた絵本をシンであるかのように、包み込むように胸に抱く。

傍らにいなかった、あの夜の明け方。
ただ、シンはセツコの傍らに小さなメモを残していた。
『オーブに停泊する機会があったら、俺の代わりに墓参りに行ってもらってもいいですか?』
そう住所と共に一文記されていた。
まるで、自分は二度とオーブの土を踏まないとでも言うように。
まるで、自分は二度と家族の元を尋ねることがないと言うように。



「駄目だよ…シン君…まだ、そんな事絶対に…」


奇跡のようにこの本が残っていた。
奇跡のように自分がコレを見つけることができた。
まるで何かのメッセージのように。



「今度、シン君に読んでもらわなきゃいけないんだから……」



きっと、その時には自分の肉体の感覚の欠如は進行している、一時的な視覚の欠落がいずれ永遠のものとなる日も遠くない。
だとしたら、シン以外に誰がこのお話しを読むのだろうか。シン以外に誰がセツコにこの話を読み聞かせるのだろうか。
セツコはシンと二人だけの時間にしてしまおうと、胸に棲む密かな独占欲と共に決める。

セツコは空を見上げる。

満月の光が滲んだ視界越しに万華鏡のように光る。

あのソラの向こうで火に身を投げる日を待つ彼を取り戻さなければならない。

セツコが言ってあげなければいけないのだ。





「あなたは一人ぼっちじゃないよ」と。





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最終更新:2008年11月30日 00:04
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