「……なぁノーマッド、ここはどこだ?」
天幕の奥に透けて見える巨大な円筒状のオブジェを、呆然とした顔で眺めながら、シンは床に転がるぬいぐるみに問いかけた。
『ヴァニラさんの部屋ですね。それが何か?』
即答するノーマッドを思わず蹴り飛ばしたい衝動に駆られるが、昂る感情をぐっと抑え込み、
「次の質問だ、ノーマッド。俺はどうしてこんなところにいるんだ?」
『失礼な! ヴァニラさんのお部屋に、しかもヴァニラさん直々に招待されておきながら「こんなところ」とは何事ですか。恥を知りなさい、恥を。
心優しいヴァニラさんは風邪をひいた貴方を心配して、こうして快癒の儀式まで行ってくれているというのに……貴方一体何様のつもりですか!?』
「お前が一体何なんだ」
立腹したように足元で怒声を上げるノーマッドを軽くあしらい、シンは額に掌を当てる。
頭が痛い、風邪が悪化したのかもしれない。
香を焚いているのか、部屋の中には何とも言えない奇妙な香りが充満している、病人に快適な環境とはとても言い難い。
部屋の奥の祭壇に安置されたオブジェの傍では、ヴァニラが一心不乱に祈りを捧げている、あれが恐らくノーマッドの言う「快癒の儀式」とやらなのだろう。
とっとと終わらせて帰って寝たい……というシンの本音は、一生懸命に祈ってくれているヴァニラの手前、口に出されることはなかった。
その時、祭壇の頂でくるくると石臼のように回転していた円筒状のオブジェが、不意にピタリと動きを止めた。
「……来ます」
ぽつりと呟くヴァニラに「何が?」と返す暇も無く、まず大地が揺れ始め――、
そして――、
はっはっはっはっ……――!
ハシル、走る、奔る、はしる、はしれ、奔れ、走れ、ハシレ。
ハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレハシレ!
まるで迷路のように入り組んだ基地の通路を、シンはただひたすらに走り続ける。
脚が重い、呼吸が苦しい、視界は霞み、舌先にはピリピリとした痺れを感じた。
骨が、筋肉が、神経が、臓物が……全身のあらゆる箇所が悲鳴を上げているのが分かる。
しかしシンは立ち止まらない、立ち止まれない、立ち止まることなど出来はしない。
苦痛に負けて脚を止めること、それは人生の終焉に直結しているのだから。
立ち止まれば即座に〝アレ〟に喰い殺される……背中に忍び寄る不気味な足音に怯え、確実に近づく〝化け物〟の息遣いに、シン・アスカは間違いなく怯えていた。
『無様ですね、シン・アスカ。また負け犬に成り下がるつもりですか?』
「煩いな! 仕方ないだろ……」
小脇に抱えるノーマッドが放った痛烈な皮肉に、シンは反射的に言い返す――が、咄嗟に口に出た反論の言葉は、自分でも思わず驚いてしまう程に弱々しいものだった。
負け犬……嗚呼、そうだ、ノーマッドの言う通り自分は負け犬に違いない。
目の前の〝敵〟に背を向けて逃げ出し、「〝アレ〟正面から立ち向かうのは愚の骨頂」と自分を無理矢理正当化しながら、今も無様に逃げ続けている。
折角手に入れた新しい居場所も、護ると決めた大切な人も、全て投げ出して、見捨てて、ただ自身の生存のためだけに醜く足掻いている。
これが負け犬と呼ばずに、一体何だというのか。
「仕方ないんだよ……」
まるで自分自身に言い訳するように、シンは力無い声で同じ言葉を繰り返す。
床を踏み締める度に、一面に広がる血液か体液かも判らぬ濁った水溜りが雫を撥ね上げて靴底を汚した。
純白だった筈のエンジェル隊の制服は血に塗れ、今や真っ赤に染まっている、まるでかつてシンが纏っていたZAFTの軍服のように。
咽せ返るような死臭と血臭が立ち籠める通路を、まるでごみのように足元に転がる屍体を踏み越えながら、シンはひたすら進み続ける。
自分が一体どこへ向かっているのか、そんなことはどうでも良い。
ここは地球から遥か何万光年も離れた銀河の果て、トランスバール皇国。
古代文明の遺産〝ロストテクノロジー〟の回収を主な任務とし、銀河の平和と安全を守るために日夜戦い続けるギャラクシーエンジェル隊はもういない。
もう、誰も生きていない。
何もかもが、虚しかった……。
きっかけはヴァニラが行った快癒の儀式、それが全ての始まりだった。
ヴァニラの一族が信奉する〝神〟を召喚し、その力によって怪我や病を癒すという秘術にヴァニラは挑み、そして成功した。
しかし御神体を依り代にしてこの世に顕現した〝神〟は、召喚主であるヴァニラを殺して暴走を始め、今やエンジェル隊基地全体を呑み込もうとしている。
ミルフィーユや蘭花、ミントにフォルテ、そしてウォルコットすらも既に死んでいる、全員があの〝化け物〟に殺されてしまった。
居場所を蹂躙し、大切な者達を殺し、破壊と殺戮と略奪の限りを尽くす〝理不尽〟を前に、シンは何も出来なかった。
余りの絶望の大きさに心が壊れてしまったのか、無力に泣くことすら出来なかった。
ただ逃げることしか、出来なかった。
いつの間にか、シンは格納庫に辿り着いていた。
照明の落とされた薄暗いハンガーで、鋼の巨人がシンを無言で見下ろしている。
モビルスーツ・デスティニー、数多の戦場を共に薙ぎ払ってきた最強の相棒は、しかし今のシンにとっては冷徹な死神にしか見えなかった。
必死に逃げていた筈なのに、気がつけば戦うことしか逃げ道が残されていない……何という皮肉だろう。
デスティニーと出会ったあの時、議長から言われた通り、自分はどこまでも戦士としてしか生きられないということだろうか?
どれだけ逃げても、〝運命〟はどこまでも追って来る……目の前の物言わぬ機械仕掛けの巨人に、そう言って嗤われたような気がした。
『ヴァニラさんはきっと貴方のことが好きだったんですよ。シン・アスカ』
脇に抱えたままのノーマッドが、唐突にシンに声をかけた。
「……何だよ、いきなり」
投げやりな口調で問い返すシンに構わず、ノーマッドはまるで独り言を言うように淡々と言葉を続ける。
『仮に他のエンジェル隊の誰か――例えばミルフィーユさんとかが風邪に罹ったとしても、ヴァニラさんはきっと〝神〟を召喚してまで助けようとはしないでしょう。
貴方が好きだったからヴァニラさんはあんな無茶をして、貴方が好きだったから命を捨ててでも護ろうとしたんですよ。ヴァニラさん、最期に笑ってたでしょう?』
ノーマッドの独白に、シンは無意識に下唇を噛み締める。
あの時、ヴァニラの制御を離れて暴走を始めた〝神〟に真っ先に狙われたシンを、ヴァニラは文字通り身を盾にして護った。
軍服を染める赤の色彩の殆どは、その時に流れたヴァニラの血である。
シンの腕の中で徐々に温度を失っていくヴァニラの死に顔は、確かにノーマッドの言う通り笑っていた、初めて見たヴァニラの笑顔だった。
大切な人を護れて満足したのだろうか、だとしたら――大馬鹿だとしか言い様が無い。
「ノーマッド、俺はどうしたら良いんだろう?」
『貴方のしたいようにすれば良いんじゃないですか?』
途方に暮れたような表情で問うシンに、ノーマッドは投げやりな口調で吐き捨てた。
『どうせ答えなんて決まってるんじゃないですか? だから貴方は私を連れてきたんでしょう』
まるで全てを見透かすようなノーマッドの物言いに、シンは思わず苦笑を零し、目の前に佇む己の〝運命〟を真っ直ぐに見上げた。
本当に、どいつもこいつも大馬鹿ばかりだ……俺なんかのために自分の命を投げ出したヴァニラも、折角ヴァニラに貰った命を捨てようとしている俺自身も。
パイロットシートに座り、コンソール中央の起動スイッチを押し込む。
久し振りのデスティニーのコクピットだが感傷に浸る暇は無い。
ぬいぐるみの中に手を突っ込み、シンは幾何学的な紋様が表面に描かれた透明なカード――ノーマッドの本体を取り出した。
「いけるか、ノーマッド」
『愚問ですね。私に不可能はありませんよ』
シンの最終確認にノーマッドは武者震いするようにカードの表面を振動させ、勝ち気な口調でそう答える。
『それに大変全く真に遺憾なことに――私達の相性は最高ですから』
「……ああ、そうだな」
さりげなくつけ加えられたノーマッドの科白に、シンは一瞬手を止め、小さく笑いながらカードを操縦パネル下のスリットに挿入する。
その瞬間、シンは〝運命〟をノーマッドに委ねた。
「シン・アスカ!」
『PZR-2000ノーマッド!』
左右の操縦桿を握るシンと、デスティニーと一体化したノーマッドの声が重なる。
「『――デスティニー、行きます!』」
二人の勇ましい名乗りと共にデスティニーが発進しようとした、その時――隔壁を突き破り、まるで柱のように巨大な触手がデスティニーに襲い掛かった。
「ちぃ……もう気づかれたか!」
舌打ちしながらシンは片手でパネルを操作、もう片方の手で操縦桿を倒しながら両足のフットペダルを踏み込んだ。
床板を踏み抜くような勢いでデスティニーが鋼鉄の足を一歩踏み出し、槍のように突き出した右手で迫り来る触手を鷲掴みする。
瞬間、掌底部に内蔵されたジェネレーターが唸りを上げ、零距離から撃ち放たれたビーム弾が触手を粉砕した。
更にデスティニーは背中の大型砲を腰だめに構え、天井に狙いを定めて躊躇なくトリガーを引く。
放たれたビームの奔流が隔壁を纏めて吹き飛ばし、外(宇宙)まで続く巨大な大孔を穿った。
血に塗れたような真紅の刃金の翼を羽撃かせ、デスティニーは文字通り突貫で作り上げた脱出路を抜けて宇宙へ飛び出した。
まるで林檎の芯のような衛星を丸ごと改造した超巨大軍事要塞、エンジェル隊基地――その面影は今や無く、モニター越しにシンの目に映るものは巨大な触手の集合体だった。
更に触手の隙間から僅かに覗く、無機物で構成されている筈の基地の表面は不気味に脈打ち、基地を覆い尽くす無数の触手はまるで蛇のように生々しくのたくっている。
「あれが、〝神〟……?」
『……醜悪ですね』
嫌悪感を隠しもせずに吐き捨てるノーマッドに、シンも手放しで――勿論比喩だが――賛同する。
デスティニーが背中に背負う、身の丈を超える長大な対艦刀を引き抜き、その切っ先を目の前の〝神〟に向けた。
どれだけ逃げても、〝運命〟はどこまでも追って来る……上等ではないか、ならばどこまでも抗ってやろう。
神だろうと、運命だろうと、そんなものは全部薙ぎ払ってやる!
「『お前は俺達が倒すんだ……今日、ここでっ!!』」
シンとノーマッドの怒号と共に、デスティニーは大きく広げた鋼鉄の羽根の隙間から更に光の翼を噴出し、虹色の軌跡を描きながら眼前で蠢く〝神〟に突進する。
余りにも大きな敵……しかしシンは立ち止まらない、逃げ出す訳にはいかないのだ。
今、この瞬間――シン・アスカの本当の戦いは始まった。
――TRUE END 3:それでも俺は戦い続ける
最終更新:2009年01月30日 23:33