「シ~ン君♪」
「……んあ?セツコさん…」
普段からは考えられない程に弾んだ声が頭上からふわりと舞い降り、シンはうつらうつらとしていた意識を揺り動かされる。
日を背に、自分を見下ろすセツコの亜麻色の髪が日の光を浴びて形容し難い輝きを放っている事に、シンはしばしば言葉を失う。
見るものの心をすべからく温かくさせる笑みを、瑞々しい唇にほんのりと浮かべながら、
セツコはちょこんと寝転がっていたシンの隣に腰掛ける。
年上の女性である事を忘れそうなほどに可愛らしい仕草に、知らず知らずシンの口元に笑みが零れる。
「こんなところで寝てると風邪引くよ?」
「コーディネイターは滅多に風邪なんて引きませんよ」
「もう、そんな事言って!いっつも不養生なんだから…」
「あはは…」
眉を顰めて、弟を叱るようにシンを睨み付けるものの、可愛らしいと思えこそ、迫力は無きに等しかった。
それでも、痛いところを突かれたのは確かであり、シンは力なく笑う。
不意に心地良い風に乗ってセツコだけの、甘い香りがシンの鼻腔をくすぐる。
どくんと、シンは自身の鼓動が一つ高く跳ね上がったのを実感する。
風に乱れた髪をかき上げる仕草一つに、こうも容易く自分は心揺さぶられるものなのかと、
シンは熱を帯びていく頬を袖でそれとなく隠しながら焦る。
そんなシンの様子に気付く事無く、セツコは暫し心地良さ気に風に身を任せる。
「あ、あの…セツコさん」
「ん?なに?」
「いや、その、どうしたんですか?一体」
「どうしたって?」
「いや、何か嬉しそうだし…」
今にも鼻歌が聞こえてきそうなほど、何処か浮ついたようなセツコに、シンは恐る恐る尋ねる。
基本的に、喜びも悲しみも控えめに表現するこの女性がこれ程に喜色満面なのは滅多に無い。
それ故に、シンはこの笑顔を崩したくないなと半ば恐れるように問うたのだ。
シンの瞳を真っ直ぐに見つめた後、セツコは、グロスの塗られた唇を更に嬉しさを抑えきれないといった風に緩める。
まるで、今日学校であった嬉しい事を親に話したくてウズウズしている少女のようである。
セツコの無垢な微笑みにシンはこの笑顔を独り占めしているという事実に目眩を覚える。
そんなシンの胸に湧き上がる幸福感と優越感が伝染ったように、セツコは頬を薔薇色に染めると、下腹部にゆっくりと手を当てる。
まさか、という言葉がシンの脳裏に生じるが、それを堪えながらセツコの言葉を待つ。
セツコは頬を染めながら、窺うようにシンを見つめる。
紅と翡翠の視線が刹那、交叉する。
「三ヶ月だって…」
うっとりとした瞳で下腹部を撫でるセツコに、シンは一瞬思考が真っ白になる。
そんなシンの様子に、セツコは不安気に眉を顰める。
「迷惑……だった…?」
シンは呆然としていた自分に叱咤する。
自分の愚鈍さが彼女に不安を与えているのだと察し、それを恥じる。
すぐさま首を振ると、セツコの肩を両手で掴む。
「全然!!っつーか嬉し過ぎて、あの、その、えっと、何ていうか……俺…頭真っ白になって…」
「じゃあ……産んでも…いい?」
上目遣いに窺う仕草に、自分の負担になりたくないというのが眼に見えてわかるセツコのいじらしさに、シンの感情は最早抑えが利かなかった。
肩に乗せていた手を背中に回し、少しだけ乱暴にセツコを抱き寄せる。
腕の中で「キャッ」と可愛らしい悲鳴が聞こえたが、シンは構わずにセツコを抱き締める。
存分にセツコの温もりと、香りと、柔らかさを堪能した後で、名残惜しさを振り払うように引き剥がし、真っ直ぐにセツコの瞳を見つめる。
耳まで真っ赤になったセツコに愛しさが込み上げてくる。
「産んでもいいです!!………っていうか産んでください!!俺、絶対に幸せにしますから!!」
シンの言葉に、しばし声を失ってから、セツコは両手を口に当てる。
翡翠色の瞳には澄み切った湖のような雫が溢れ出す。
ポロポロと、宝石のような涙を零しながらセツコはシンの胸に頬を摺り寄せる。
「うん…うん…幸せにしてね……ううん、幸せになろう?一緒に……一緒に…」
「ハイ……一緒に幸せになりましょう。俺と、セツコさんと……生まれてくる子供で」
「うん……!!」
幸せな時にも人は泣く事が出来るのだと、己の視界が滲んでいくをの感じながら思った。
◇
「………ッ」
「お目覚めになりましたか?マスター」
固い岩場にもたれ掛かるように眠りに就いていたシンは、耳朶を震わせる無機質な声に、すぐさま思考を働かせる。
「夢か……ハッ」
自嘲の息を漏らす。
まるで、先ほどまで見ていた夢が、己の女々しさの象徴のようにシンには思えた。
傍らで座り込む少女は、無表情の中に、微かに気遣うような瞳を向けてくる。
その位置が、先ほどまで見ていた夢の中の『彼女』と同じだと思い至り、シンは顔を顰める。
彼女の代わり等いない。
いてたまるものかと唇を噛み締める。
「どのような夢を御覧になられていたのですか?」
「………別に……お前に話すものでもない」
吐き捨てるように呟くと、少女は特に傷付いたように眉を顰めるわけでもなく、ただ「わかりました」とだけ呟く。
昔日の自分の傍らには花のように可憐で儚く、美しい佳人が寄り添っていた。
現在の自分の傍らには復讐の剣であり、自身を苛む象徴である人形が鎮座している。
余りの落差に皮肉な笑いを上げようとするものの、唇からは罅割れた壁から吹き込む風のような吐息が零れるだけだった。
笑うことさえ満足に出来ないのかと、自分の心に問うてみる。
ただひたすらに戦い、彷徨うだけの日々。
ならば傍らにあるこの少女の形をした人形と自分の違いとは何だと純粋に疑問に思う。
きっと、魔力だか何かシンにもよく理解の出来ない、特にしようとも思わないもので動いているのがこの人形であり。
ドロドロとしたタールのような、そして青く燃え続ける憎悪を糧に、辛うじて人間らしさの証明のように流れる血で動いているのが自分である。
動力源の違い以外に特に違いが見当たらないなと、他人事のように思うが、同時にそれはそれで相応しいと思えた。
傍らに人形を置いている自分もまた生きた屍のようなものだ。
帳尻の合った組み合わせではないか。
幸せの絶頂にいた時の夢。
数年前の事なのに、昨日の事のように思い出される。
しかし、シンには何故か同時に遥か過去の出来事に感じられる。
古い遺跡を見て、そこで生活していただろう人々の営みを目にすることも、そこに溶け込む事も不可能な事と同様に、
それは最早決して手に入らないものに思えた。
そして、それはきっと確信であるだろう。
きっと、この旅路を終えて手に入るものなど何も無い。
そもそも何かを得るためにしているわけでもない。
ただ、『彼女』のいない空洞を直視出来ないだけなのだ。
「行くぞ」
「ハイ」
それを悲しいとも、シンは思わなかった。
最終更新:2009年02月06日 22:07