少女には歌があった。
技巧も何もない、子供が大人を真似て歌うような稚拙な歌だ。
それを聞く者は一人だけいた。
少女は笑っていた。
――それから八年の時が過ぎた。
変わらず少女には歌があった。
その技術はプロとして通用できるほどのものとなった。
その歌を聞く者は比べ物にならないほど多くなった。
……だが少女は、笑わなくなった。
「千早と美希を?」
「あぁ、今度はあの二人を組ませようと思う」
その日の仕事が終わり、報告を済ませた後に突然切り出された話に思わず聞き返してしまった。
「……ハードル高くないですか? 正直あの二人が組むところって想像できないんですけど」
千早は歌で、美希はモデルとダンスでそれぞれ徐々に活躍の場を増やしている。この二人が組むとなれば話
題性としては十分だろう。ただ、生真面目な千早と怠け癖の強い美希とでは水と油の関係だ。性格的な意味で
相性が合わないことは彼女たちを知る一人としてよく分かっているつもりだ。
もちろん、それはこのプロデューサーもよく知っているはずだった。
「それは百も承知だよ。でも、だからこそやる価値があると俺は思っている」
その目に一切の迷いはなかった。いつも通り、彼女たちを信じていると言わんばかりの輝きがあった。
「ってことは、もう新曲も決まってるんですよね?」
「いや、ダンスの振り付けまでできてるよ。早くしないと間に合わないからね」
間に合わない? と聞き返すと、プロデューサーは自信たっぷりに告げた。
「――彼女たちのデビューは、『秋の大感謝祭スペシャル』だ!」
『秋の大感謝祭スペシャル』
通称秋スペと呼ばれるこのイベントは全国に生中継されるほどの規模で行われる、年に四回しかない音楽の
祭典の一つだ。もちろんプロのアーティストもこぞって参加してくるので、新人が挑むには敷居の高すぎるイベン
トなのは事実である。
「本気ですか?」
「言ったろ? やる価値はあるって」
確かに、765プロは今まで音楽の祭典に出場した経験はない。ここで出場を果たせたならば一気に名前に箔
がつくだろう。それほどのものなのだから生半可では通用しない世界である、ということなのだが。
「とにかく、時期がギリギリなんだ。シン君も可能な限りサポートお願いするよ」
「……なんでそんな切羽詰った状況までこの話しなかったんです?」
そう問いかけると苦笑が返ってきた。
――結局、思い切ったことする割にはいつも通りなんだな。
そう考えると、不思議といつも通りに慌しくなりながらも上手くいきそうな気がした。
もちろん、それは甘い考えだった。
この日この瞬間が千早と美希、自分とプロデューサーにとって激動の日々の始まりだったのだった。
……いろんな意味で。
「こら美希! 真面目に練習しろって!」
「む~、だって~」
「だってじゃない! ほら、さっきのところもう一回!」
「え~」
やる気のない美希の声が聞こえてくる。やはり美希の方のレッスンも難航しているようだった。
「……美希はいつも通りみたいですね」
「まぁ秋スペの存在自体知らなかったようだしね……そっちはどうだい?」
「これからです。こっちの方も少し気になったんで」
プロデューサーに缶コーヒーを渡してスタジオ内の美希を見る。相変わらず眠そうな目をしながら長い髪を揺ら
している。
「変に気負って臨まれても困るんだけど、さすがに美希は気が抜けすぎだな」
軽い調子で言ってはいるが、言葉ほど楽観的に考えていないことが見て取れた。美希の扱いに慣れているプ
ロデューサーも今回ばかりは苦戦の極みらしい。
「こっちは俺がなんとかするから、君は千早を支えてくれ」
「分かりました」
秋スペまであと三週間と少し、二週目まで仕事が入っている。その間はプロデューサーは美希に、自分は千早
に付きっ切りになるだろう。
時間は無駄にできない。できる限りのサポートをしなけらばならない。
「あぁそれと……これ、ありがとう」
肩越しに振り返ると、視線は美希に向けたまま缶コーヒーを掲げていた。
「動きにキレがない! もう一度最初から!」
「くっ……はい」
千早が悔しそうに呻いている。素人目から見ても美希と比べて見劣りするのが分かるのだから、それも仕方の
ないことだが。
この二週間で二人は徹底的にそれぞれの長所に追従できるように――千早はダンス、美希は歌唱力――レッ
スンに力を入れていく予定だ。残る一週で新曲の合わせとダンスに打ち込み、オーディションは期限ギリギリの
四週目で挑む……というのが今月の計画だ。
――何度聞いても無茶な話だよな。
そう考えずにはいられないのだが、それでも彼女たちはやるしかないのだ。
「……少し休憩しましょう」
ダンスレッスンの講師が溜息を吐きつつ指示を出す。
千早は何かを言おうと口を開きかけたが、言葉を発することなく無言で頷いた。
「お疲れさん」
「別に疲れてはいません」
こちらに向かってきた千早に労いの言葉をかけたが突っぱねられた。成果があまりないせいか気が立っている
らしい。
「あまり、うまくいってないみたいだな」
「……分かってはいるんです。ダンスが得意ではないことだけじゃなくて、自分の力が入りすぎてるのも原因だって」
しかしどうしても秋スペのことを意識してしまう、と千早は語った。
――変に気負って臨まれても困る、か。プロデューサーの心配してた通りだ。
アイドルとしてではなく、歌手であることを活動の根幹としている千早にとってはとりわけ今回の仕事には多大
なプレッシャーを感じているのだろう。心なしかいつもよりも動きが悪いように見える。
「まぁ、とにかく今は休んで次に備えてくれ」
そう言ってミネラルウォーターを差し出す。少し温くなってしまったが、それでも喉を潤すことには支障ないだろう。
「ありがとうございます」
受け取った千早はしばらく手の中でペットボトルを転がし、ようやくキャップに手をかけた。それを見届けてから
自分の缶コーヒーのタブに指をかける。二、三口飲んだところで、こちらを見ている千早に気付いた。
「何?」
「あ、いえ……シンさんはコーヒーが好きなんですか?」
「ん? あぁ、好きな銘柄があるくらいには好きかな。千早は?」
「私も好きです。缶ではなくて、ドリップで淹れたものですけど」
そう言って千早はボトルに口をつける。だがその後も何度かこちらを窺う態度が目に付いた。
「飲んでみるか?」
どこか物欲しそうな顔をしていたせいか自然とそんなことを言っていた。が、
――まて、それはいわゆるその、間接……
そんな当たり前のことに気付いたのは、千早の表情が呆気に取られたものになってからだった。
「悪い! 今のはナシ! 忘れてくれ!」
「は、はい!」
気まずい、あまりにも気まずい空気を誤魔化すかのようにコーヒーを一気に飲み干す。逆にやることがなくなっ
てしまってさらに居心地が悪くなってしまったが。
――落ち着け、こういうときは素数を数えるんだ。
頭の中で数え上げる。それだけで徐々に思考は平静を取り戻していった。ありがとうプ○チ神父、でも天国を
目指すのは勘弁な。
「……そういえば、こんなことで千早と話したことってなかったよな」
時間が経って落ち着いたためか、今さらそんなことに気付いていた。
「え?」
「初対面のときにもなんかとっつきにくいっていうか、壁みたいなの感じてさ。だからあんまり話した覚えがないっ
ていうか」
他のアイドルたちとの会話にも感じた、認められたような嬉しさがあった。他愛のない話かもしれないが、それが
違う世界から来た自分にとっては些細な喜びだった。
「なんか今日はコーヒーの話とかで少しはお互いに楽しめたっていうか。あ、そういえば千早もコーヒー好きなの
……千早?」
……それに浮かれていたせいで、千早の変化を察することができなかった。
両手で握り締めたペットボトルに目線を落とし、先程まで浮かんでいた年相応な少女の顔から一転して険しい
表情になっていた。
「ち、千早?」
「私、楽しそうにしてましたか?」
「え? あ、あぁ少しは」
それからさらに千早の顔が険しくなった。横から見ている限りではその表情が何を意味しているのかが分からな
かった。
「……そろそろレッスンに戻ります。水、ありがとうございました」
そう言って立ち去る千早の背中を、ただ見送るしかなかった。
――マズった、のか……?
再開されたレッスンで、やはり千早の動きはぎこちないものだった。
――レッスンが終わって諸々の報告を終えた後、突然背後から声をかけられた。
「あらぁ、シン君。お疲れ様」
「あ、お疲れ様です。あずささん」
振り返るとすでに普段着に着替えたあずささんがいた。今日は雑誌に掲載するグラビアの撮影だけだったはず
なのだが。
「こんな時間まで残ってるなんて珍しいですね」
まさかまた迷ってるのか、という不安が過ぎったがどうも違うらしい。
「ちょっと聞きにくいことなんだけど……千早ちゃん、いつも通りだった?」
その質問に、わずかだが鼓動が跳ね上がった。
「どう、してそんなことを?」
唐突なことで声が震えてしまった。それで察しがついたのか、やっぱりと小さく呟く声が聞こえた。
「何かあったんですか?」
事務所の屋上で仰向けになって寝転ぶ。鍵が掛かっていて普通ならば誰も入れない場所なのだが、外の階段
からよじ登って入ることはできる。
「……なんてこった」
マユの携帯を片手に月を見上げながらぽつりと呟いた。
……あずささんから聞いた話を思い出す。
――二日くらい前に、夜中の公園で千早ちゃんを見つけたの。
――声をかけたら「なんでもないけど、今夜一晩泊めてほしい」って言われて……
――私ひとり暮らしだし、とにかく話を聞こうと思って部屋に案内したんだけど、お茶を入れてくる間にソファー
で眠っちゃってたの。
――疲れていたみたいだし、むりやり起こす気もなかったからお布団をかけようとしたのよ。
――そのとき寝言が聞こえちゃって……「もうあんな家にいたくない」って。
ため息が秋の夜風に混じって消えた。胸の奥に溜まったどうしようもない感情だけが残った。
――俺はこれからどんな顔をして千早に会えばいいんだ?
知らなかった、と言うだけならば簡単だ。それでこの後悔が消えるのなら何度だって言うだろう。
「……なぁ、俺はこれからどうすればいいんだ?」
月に向かって問いかける。いつもと同じく、答えが返ってくることはなかった。
――それからというものの、千早との会話がさらに減ってしまった。
千早の事情を断片的ではあるが知ってしまったことで望まずともぎこちない間柄になってしまい、そのことで
余計に自分の不甲斐なさを実感してしまった。美希の方もあまり芳しくはないらしく、プロデューサーも頭を抱え
ていた。
仕事と並行した強化レッスン、さらに彼女たちのコンディションも決して良いとは言えない状態、様々な要素が
秋スペのプレッシャーにさらなる重みを加えていった。
それを改善する術を考え付くことができない自分を歯がゆく思いながら、ただ彼女たちを眺めていくような日々
だけが過ぎていった。
そして、秋スペまで時間が三週間を切った。
「お疲れ様です」
「あ……送っていくよ」
すでに夜も更けてかなり経っている。そこまで遠くないとはいえ、この時間に十五歳の少女を一人にするのは
気が引けた。
「別に、大丈夫ですよ。そこまで遠くないですから」
素っ気無く断られた。今にして思えば、休日も事務所に来ていたのは家にいたくなかったからということだった
のだろう。そこに他人を招くことを嫌うのは当然のことではある。
「じゃあ途中まで送る。ちょっと夜風に当たりたいし」
本音を言えばプロデューサーは美希を送っていったのに対して自分がこのまま何もしないということに耐えられ
なかったからなのだが。
「まぁ、それなら……」
と千早が言いかけたところで、壊れんばかりの勢いでドアが開け放たれた。
「た、大変です!」
入ってきたのは小鳥さんだった。 いつもの落ち着いた姿はなく、顔を真っ青にしながら大きく呼吸を繰り返している。
「小鳥さん!? どうかしたんですか?」
らしくない姿を目にして嫌な悪寒が背筋を走った。呼吸を落ち着かせながら小鳥さんが口を開く。
「ぷ、プロデューサーと美希ちゃんが、事故にあったって……」
――事故?
その言葉を理解する前に、さらに言葉は続く。
「美希ちゃんは無事みたいだけど、プロデューサーがトラックに撥ねられて……近くの病院に運ばれたって、美希ちゃんから」
頭の中が、真っ白になっていた。
考えるよりも先に身体は床を蹴って駆け出していた。
最終更新:2008年07月11日 20:05