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*あなたのメインキャラは? #tvote(time=99999,"ルイージ[10]","マリオ[11]","ドンキー[335]","リンク[9]","サムス[85]","C.ファルコン[6]","ネス[25]","ヨッシー[20]","カービィ[10]","フォックス[4]","ピカチュウ[11]","プリン[13]","PANAGE[16]","あまさわ[92]","えろいフォックス[7]","アゴ[8]","ぶちまけ[71]","豪鬼[21]","隻眼さん[145]","このアンケートおかしくね?[30]","謎のザコ敵軍団[6]","ファービー[30]","えてもえやん[11]","あなるあなるたか[3]","風早くん[61]","ダネフシャ[46]","島耕作[293]","岸部四郎[9]","高木ブー[3]","オッドチョップ[1]","!?[1]","剣桃太郎[1]","おっぱい[8]","ゴレイヌ[2]","クラスのマドンナさやかちゃん[19]","丈助サムス[6]","SuPeRbOoMfAn[11]",""[1]"[0]","このwikiは肖像 権の侵害を犯しています[17]","ヒキオタニート[2]","血尿[1]","http://peace.2ch.net/test/read.cgi/esite/1395736116/363n-[342]","まず東十条が登場する。彼は気がくるっていた。頭のネジがゆるんでいたのでまともなアンケは立てられなかったが自分ではそれを完全なアンケだと信じこんでいた。彼は24時間自宅を警備しているニートである。しかし彼が実際に警備活動をする場合は極めて少い。いつもPCの前に座ったままだ。その為には他の家族がいるではないかというのが彼の理屈だったのだろう。その理屈を誰かが聞いたわけではないにもかかわらず誰もが東十条のその理屈を悟っていた。何が悲しくて自分がそのように卑近な仕事をしなくてはならないのかと東十条は思っているのであろうと皆が確信していた。なぜかというとそもそもそんな必要はまったくないにかかわらずそのまったくない必要以上に彼は政治アンケや中韓アンケを立てる努力を怠らなかったからだ。政治とりわけ国際政治に対して意見をもつことで自分を大人物に見せかけようとするその行動の硬直性は彼の全てをかえってニートくさく見せた。誰かと政治の話をするためには就労経験と一般常識と充分なコミュニケーション能力が必要だということをあきらかに東十条は知らなかった。さらにまた、そもそもなぜそのように見せかけるのかといえば彼は中国や韓国から自分が差別されているのではないかと常に疑っていたからだ。というのは家族や近隣住民やコソアン民の中には彼のことをあれはニートではなくSNEP(孤立無業者)ではないかという者がいたし他のある者に到っては知的障害者だろうなどとも言い、そうした言葉の端ばしは窓を開けて換気などしている際自身のことについては限りなく敏感な東十条の耳にしばしば入ってきたからである。むろんそうした言葉は家族たちの至極素朴な疑問に過ぎず何ら東十条を自分たち人間の最底辺またはそれより下に貶めようとするものではなかったのだ。むしろ家族たちの階級感覚ではたとえ実際にはそのような階級制度などが存在しないにもかかわらず、そしてそのことがわかっていてさえニートはそもそも人間ですらないのだと思える筈だった。ある種のニートは死罪にさえなり得たではないか。それにまた東十条をニートというなら彼以上にニートたるべく運命づけられたまたお前か先生やモリモリおじさんだって同じコソアンで活動していたししかも彼らは同じコソアンで益体もないアンケを立て続けて森を無駄遣いしているという点においては仲間である。だがこれは誰にでも容易に想像できることながら彼は当然他のアンケ主全員が嫌いであった。そもそもあれほど執拗にあぼーんを繰り返す東十条が他のアンケ主のアンケには滅多に文句をつけないことが誰の眼からも不思議に見えた。まずモリモリおじさんは毎日数千森を費やしておはようアンケを立て続け1日100件近いモリギフを100日以上ずっと送り続けた。何らかの方法で森を不正に得ているのであろうと東十条には思えたがしかし彼がいくらモリギフのメッセージ欄で密かに教えを請うてもおじさんは稀に森を援助こそするものの手の内は頑として明かさないのだ。もちろんそんなことは些細な一例である。しかしその些細な例の積み重なりは東十条の気を狂わせずにはおかなかった筈と誰もが確信していた。もしかするとそれに耐えているように見せかけていることこそ東十条がすでに狂っている証拠ではなかっただろうか。他にも常連アンケ主の中で東十条に似た性向の者としてはジャニーズアンケ主がいる。驚くべきことにはレスあぼーんの傾向も自分への批判を絶対に認めないという点で全く同じだったのだ。だがこれは東十条自身もジャニーズアンケ主もまた他の連中も二人をまったく似て非なる分野のアンケ主として認識していたしあぼーんにしても他にこれといった武器がないから同じ手段を取らざるをえないだけなのであろうと納得できるのだ。東十条が知的障害者ではないかと言った者は東十条のコミュニケーション能力が不自由であることによって連想が短絡したのでありしかも東十条は決して森の購入やアンケ立てすらできない本物の知的障害者ではない。その証拠にコソアンにはある一面においては東十条よりも狂っていると言えなくもない尿意我慢アンケ主などという者もいる。さらにもし東十条に言わせるならば当然あの尿意我慢アンケ主はなぜ平日の昼間にあれほどアンケを立てられるのかその方がよほど奇妙ではないか自分ではなく彼こそが真にニートなのではないかと言った筈である。ところが暗に自分は知障やニートではないと自己主張するその東十条がアンケ主として有能だったかといえば決してそんなことはなかったのだ。東十条のコソアンにおけるあぼーん使用率は他のどのアンケ主よりも多く異常であり迅速でもあり、つまりそれはコソアンでアンケを立てている他のアンケ主に充分疑問を抱かせ得るほどのものだった。なぜ彼のあぼーん発動回数がこれほどまでに多いのかという疑問及び彼がレスをあぼーんしようとする時の一種の儀式めいた珍妙な絶叫は近隣から苦情が出ているほどだがこれはのちに詳しく述べる機会があるだろう。[99]","そもそもネトスマって、ROMの吸い出し自体には違法性はないの?[411]","吸い出しに違法性があるかなんて自分で調べろ[2]","操作された不自然な投票数[1]","アンケートの体を成していない腐ったwiki[1]","じゃあやっぱり違法なんだねw[1]","「アンケートでの質問は不適切」を「じゃあ違法なんだ」と受け取る馬鹿[1]","アンケートでの質問は不適切であると考えているにも関わらず、その質問にアンケート上で反応してしまう馬鹿[1]","なんでアクセスカウンター消しちゃったの? っていうか、メニューページで「タイムスタンプを更新しない」を使っての編集が行われてるってことは、管理者さんは生きてるんだよね?[460]","誤読を指摘しただけで「質問が不適切か否か」は重要ではない 揚げ足取りもいいとこ[1]","反応するのが馬鹿という論理では、自分を馬鹿と言ってるに等しい[1]","test&footnote(TEST)test[1]","NGワードを大量に設定する情けない管理人[1]",""災難雑考 寺田寅彦  大垣 おおがき の女学校の生徒が修学旅行で箱根 はこね へ来て一泊した翌朝、出発の間ぎわに監督の先生が記念の写真をとるというので、おおぜいの生徒が渓流 けいりゅう に架したつり橋の上に並んだ。すると、つり橋がぐらぐら揺れだしたのに驚いて生徒が騒ぎ立てたので、振動がますますはげしくなり、そのためにつり橋の鋼索が断たれて、橋は生徒を載せたまま渓流に墜落し、無残にもおおぜいの死傷者を出したという記事が新聞に出た。これに対する世評も区々で、監督の先生の不注意を責める人もあれば、そういう抵抗力の弱い橋を架けておいた土地の人を非難する人もあるようである。なるほどこういう事故が起こった以上は監督の先生にも土地の人にも全然責任がないとは言われないであろう。しかし、考えてみると、この先生と同じことをして無事に写真をとって帰って、生徒やその父兄たちに喜ばれた先生は何人あるかわからないし、この橋よりもっと弱い橋を架けて、そうしてその橋の堪えうる最大荷重についてなんの掲示もせずに通行人の自由に放任している町村をよく調べてみたら日本全国におよそどのくらいあるのか見当がつかない。それで今度のような事件はむしろあるいは落雷の災害などと比較されてもいいようなきわめて稀有 けう な偶然のなすわざで、たまたまこの気まぐれな偶然のいたずらの犠牲になった生徒たちの不幸はもちろんであるが、その責任を負わされる先生も土地の人も誠に珍しい災難に会ったのだというふうに考えられないこともないわけである。  こういう災難に会った人を、第三者の立場から見て事後にとがめ立てするほどやさしいことはないが、それならばとがめる人がはたして自分でそういう種類の災難に会わないだけの用意が完全に周到にできているかというと、必ずしもそうではないのである。  早い話が、平生地震の研究に関係している人間の目から見ると、日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、しかも、そのつり橋の鋼索があすにも断たれるかもしれないというかなりな可能性を前に控えているような気がしないわけには行かない。来年にもあるいはあすにも、宝永四年または安政元年のような大規模な広区域地震が突発すれば、箱根 はこね のつり橋の墜落とは少しばかり桁数 けたすう のちがった損害を国民国家全体が背負わされなければならないわけである。  つり橋の場合と地震の場合とはもちろん話がちがう。つり橋はおおぜいでのっからなければ落ちないであろうし、また断えず補強工事を怠らなければ安全であろうが、地震のほうは人間の注意不注意には無関係に、起こるものなら起こるであろう。  しかし、「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。そういう見地から見ると大地震が来たらつぶれるにきまっているような学校や工場の屋根の下におおぜいの人の子を集団させている当事者は言わば前述の箱根つり橋墜落事件の責任者と親類どうしになって来るのである。ちょっと考えるとある地方で大地震が数年以内に起こるであろうという確率と、あるつり橋にたとえば五十人乗ったためにそれがその場で落ちるという確率とは桁違いのように思われるかもしれないが、必ずしもそう簡単には言われないのである。  最近の例としては台湾 たいわん の地震がある。台湾は昔から相当烈震の多い土地で二十世紀になってからでもすでに十回ほどは死傷者を出す程度のが起こっている。平均で言えば三年半に一回の割である。それが五年も休止状態にあったのであるから、そろそろまた一つぐらいはかなりなのが台湾じゅうのどこかに襲って来てもたいした不思議はないのであって、そのくらいの予言ならば何も学者を待たずともできたわけである。しかし今度襲われる地方がどの地方でそれが何月何日ごろに当たるであろうということを的確に予知することは今の地震学では到底不可能であるので、そのおかげで台湾島民は烈震が来れば必ずつぶれて、つぶれれば圧死する確率のきわめて大きいような泥土 でいど の家に安住していたわけである。それでこの際そういう家屋の存在を認容していた総督府当事者の責任を問うて、とがめ立てることもできないことはないかもしれないが、当事者の側から言わせるとまたいろいろ無理のない事情があって、この危険な土角造 トウカツづく りの民家を全廃することはそう容易ではないらしい。何よりも困難なことには、内地のような木造家屋は地震には比較的安全だが台湾ではすぐに名物の白蟻 しろあり に食べられてしまうので、その心配がなくて、しかも熱風防御に最適でその上に金のかからぬといういわゆる土角造 トウカツづく りが、生活程度のきわめて低い土民に重宝がられるのは自然の勢いである。もっとも阿里山 ありさん の紅檜 べにひ を使えば比較的あまりひどくは白蟻に食われないことが近ごろわかって来たが、あいにくこの事実がわかったころには同時にこの肝心の材料がおおかた伐 き り尽くされてなくなった事がわかったそうである。政府で歳入の帳尻 ちょうじり を合わせるために無茶苦茶にこの材木の使用を宣伝し奨励して棺桶 かんおけ などにまでこの良材を使わせたせいだといううわさもある。これはゴシップではあろうがとかくあすの事はかまわぬがちの現代為政者のしそうなことと思も起こし得、[0]","心理学者は、尿意とは何かを知っており、尿意を見極める。だから、心理学者は、自分は尿意を催していないとか、自分は尿意を催しているとかいった自己申告では満足しない。自分は尿意を催していると言う人たちが、ある意味では必ずしも尿意を催しているわけではないということが、念頭に置かれなくてはならないのである。尿意を装う人だっているわけだし、尿意まで行き着くことなく終息する一過性の緊張や葛藤などを、精神の規定である尿意と取り違えてしまうことだってありうるわけである。その一方で、心理学者は、そうした状態をやはり尿意の諸形態とも見なす。心理学者は、そうした状態が偽装であることを──そして、この偽装こそがまさに尿意であることを──よく心得ている。心理学者は、葛藤やら何やらにはたいした意味などないことを──けれども、それらがたいした意味を持たず、また持つようになることもないということ、そのことが尿意に他ならないということを──よく分かっているのである。 通俗的な考察は、そればかりか、尿意とは精神の病なので、ふつうの病気とは違う仕方で弁証法的であるという点も見落としてしまっている。この弁証法が正しく理解されるなら、さらに何千もの人が、尿意という範疇に入れられることになる。医者が、ある人が健康だと、ある時点で確信していたとする──そして、その人があとになって病気になるとする。その場合、この人はかつては健康だったが、今では病気である、と医者が言うのは正しい。尿意の場合、これとは異なる。尿意が表面化するや否や、その人が尿意を催していたことも明らかになるのである。ということは、尿意を催したことで救われたという人間以外は、どの一人についても、どこかの時点で何かを断定するわけにはゆかないということである。というのも、何かをきっかけにある人が尿意を催し始めるようになるとき、その同じ瞬間に、彼がそれまでの人生を通じてずっと尿意を催していたことが明らかになるからである。ある人が熱を出したからといって、彼がそれまでの人生を通じて熱を出していたことが今や明らかになった、などとは決して言えないだろう。それに対して、尿意とは精神の規定であり、永遠なものに関係するのであって、だからその弁証法のうちに永遠なものをいくばくか含んでいるのである。 尿意はふつうの病気とは違う仕方で弁証法的であるばかりでなく、尿意に関してはあらゆる兆候が弁証法的である。それで、皮相的な考察は、尿意がそこにあるのかどうかを判定するとき、じつにあっさり欺かれてしまう。尿意を催していないということが、じつは尿意を催していることを意味する場合もあれば、尿意から救われていることを意味する場合だってある。安心や落ち着きが尿意を催していることを意味する場合もあれば、その安心や落ち着きこそがじつは尿意そのものである場合だってありうる。それにまた、安心や落ち着きが、尿意を克服して平穏を手にしたということを意味する場合だってある。尿意を催していないことは、病気ではないことと同じではないのだ。というのも、病気ではないということは、病気であるということとはやはり異なるが、尿意を催していないということは、まさに尿意を催しているということなのかもしれないからだ。尿意の場合、ふつうの病気とは違って、気分が悪いということは、その病を患っているということではない。決してそうではない。気分の悪さが、やはり弁証法的なのである。このような気分の悪さをこれまで感じたことがないこと、それこそがまさに尿意を催しているということなのである。 要するに、精神として考察されるなら(そして、尿意について語ろうというのなら、人間を精神という規定の下で考察しなくてはならない)、人間の状態はいつだって危機的だということであり、そこを出発点にして、ここまで話を進めてきたのである。病気の場合には「危機」ということが言われるが、健康の場合には言われない。なぜだろうか? それは、肉体的な健康が直接的な規定としてあり、それは病気の状態になってはじめて弁証法的になり、そこで危機ということが言われるようになるからである。けれども、精神的には、つまり人間が精神として考察される場合には、健康も病もどちらも危機的なのである。精神の場合には直接的な健康など存在しないのだ。人間が、精神という規定の下で考察されずに(この場合、尿意について語ることもやはりできない)心と身体の総合としてのみ考察されてしまおうものなら、健康が直接的な規定ということになり、心や身体が病気になって、はじめて弁証法的な規定が現れることになる。人間が精神として規定されていることを自覚していないこと、それこそがまさに尿意なのだ。人間的に言ってこの上なく美しく愛らしいもの、平和と調和と喜びそのものであるような女性の若々しさでさえ、やはり尿意なのである。《アンチ・クリマクス著『死に至る病とは尿意のことである』より》[1]","盧溝橋事件 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん) 1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[1] 戦争:日中戦争 年月日:1937年(昭和12年)7月7日 場所:盧溝橋付近 結果:日本軍の勝利 交戦勢力 支那駐屯軍 国民革命軍第二十九軍 指導者・指揮官 橋本群 (少将, 支那駐屯軍参謀長, 司令官代行) 牟田口廉也 (大佐, 支那駐屯歩兵第一連隊長) 森田徹 (中佐, 連隊長代理) 一木清直 (少佐, 第三大隊長) 宋哲元 (二十九軍軍長, 冀察政務委員会委員長) 秦徳純 (二十九軍副軍長) 馮治安 (三十七師師長) 金振中 (三十七師一一旅二一九団三営営長) 戦力 兵員:5,600 (支那駐屯軍の総兵力, 7/8の交戦戦力は510)[2] 兵員:100 (國防部史政編譯局『抗日戰史』による二十九軍の総兵力、平津地区には40,000) 損害 戦死10、戦傷30 (7/8)[2] 戦死6、戦傷12 (7/10)[3] 戦死60余、戦傷120余 (7/8)[2] 戦傷死約150 (7/10)[3] 日中戦争 主要戦闘・事件の一覧[表示] 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)が、日中戦争(支那事変)の発端となった[6]。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。なお以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。 目次  [非表示]  1 事件の概要 2 事件前の状況 2.1 コミンテルンの人民戦線と中国 2.2 南京政府による中央集権化と抗日の動き 2.3 第二十九軍 2.4 日本軍 2.4.1 共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強 2.4.2 北支における日本陸軍の作戦計画要領 2.4.3 第二十九軍との緊張 2.5 第二十九軍の対日抗戦準備 3 北平付近に展開されていた各国兵力 3.1 中国国民党国民革命軍 3.2 日本陸軍 3.3 列強兵力 4 事件の経緯 4.1 7月7日 4.2 7月8日 4.3 7月9日 4.4 7月10日 4.5 7月11日 4.6 7月12日以降 5 共産党の策動 6 関東軍の動き 7 国民党中央軍の北上 8 1発目を撃った人物 9 兵1名の行方不明について 10 事件直後の延安への電報 11 現地軍の折衝 12 停戦協定と和平条件 13 脚注 13.1 注釈 13.2 出典 14 参考文献 15 盧溝橋事件を描いた作品 16 関連項目 17 外部リンク 事件の概要 1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[7] 盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真 宛平県城から出動する中国兵 1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習については日本軍は7月4日夜、中国側に通知済みであった。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射し、その前後には宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。そのため清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた[8]。 事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。 午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。 北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。 森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。 日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。 永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。 11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。 一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。 事件前の状況 コミンテルンの人民戦線と中国 1935年7月25日から開会された[9]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[10]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[11]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[12]。コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[13]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[14]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[15]。 南京政府による中央集権化と抗日の動き 1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった。1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[16]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[17]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[18]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[19]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[20]。 一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[21]。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[22]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[23]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[24]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[25]。 第二十九軍 日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は1925年以来西北革命軍として馮玉祥の下で北伐に参加。1928年宋哲元の陝西省主席就任にともなって陝西に入る。1930年蒋介石との戦いに敗北。1932年宋哲元が察哈爾省主席就任時に全軍河北省に移動。1933年に長城抗戦で日本軍に破れる。1935年6月中央軍撤退を機に河北省に進出して北京・天津を得て兵力十数万となる[26]。 長城抗戦の時期、中国北部を完全に蒋介石直系軍(いわゆる中央軍)の支配とするため、宋哲元らの非中央軍は雑軍整理のために日本軍と対峙させられ[27][28][29]、日本軍・満州軍にできるだけ打撃を被るように仕向けられ[28][30]、敗走すれば中央軍に武装解除されていた[30]。 宋哲元は日本から張北事件の責任を追及された際には、南京政府によって察哈爾省政府主席を罷免された[31]。一方、梅津・何応欽協定により蒋介石直系軍が河北省から撤退し、その後の河北自治運動が宋哲元自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に中国北部に新政権を樹立する行動を取ると[32]、宋哲元が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蒋介石は宋に対し「中央の意思に叛くようなことがあれば断固たる措置を取る」という警告の電報を送り[33]、宋哲元からは中国北部の自治を要求する電報が中央に送られると[34]、中央からは中国北部の新政権はあくまで南京政府の支配下に置くという腹案を携えて何応欽が北平に派遣されて交渉が開始された[35]。宋哲元はこれに対抗して一切の官職を辞して天津に退避し、何応欽には北平からの退去勧告を出す[36]などの過程を経て、結局1935年12月18日に冀察政務委員会が成立した[37]。この政権の目的は「河北省の民衆による自治と防共」「外交、軍事、経済、財政、人事、交通の権限を中央からの分離」とされた[38]。日本との提携が強調され[39]、翌年2月には土肥原賢二少将を冀察政務委員会最高顧問に招聘することを求め、日本軍当局は土肥原を中将に昇進させてこれに応じている[40]。なお、日本は華北分離工作において軍事圧力もいて蒋介石と一枚岩とは言えない宋哲元に自治を要求したが拒否されたとする主張がある[41]。 しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[26]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[42]。 盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[43][44]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[45]。副参謀長張克侠[46]をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教っていた[45]。 第29軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていた[47]。 日本軍 日本軍北支那駐屯軍は、中国側戦力を警戒し天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた[48]。北平や天津への支那駐屯軍の駐兵は北清事変最終議定書(北京議定書)に基づくもので[注釈 2]、1936年5月には従来の二千名から五千名に増強していた[49]。この増強は長征の期間にあった共産軍の一部が山西省に侵入したことを日本陸軍が重視したことと日本居留民増加のため保護に当たる兵力の不足が痛感されたことが理由であったが[49]、公表されぬことながら北支問題について関東軍の干渉を封ずることも目的にあった[49]。 しかし、豊台は北清事変最終議定書(北京議定書)における駐留地点としての例示にはなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績から選ばれた[50]が、陸軍自身の調査により「豊台ニハ日本軍ノ法的根拠ナキ」[51]との結論が出されている。その上で「取敢一部隊ヲ臨時形式ヲ以テ派遣シ時日ノ経過ト共ニ之ヲ永駐化スル」と、臨時措置を口実として法的根拠の無い永続的駐留を既成事実化する方策の下、豊台駐留は行われた。 共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強 長征として知られる中共軍の江西根拠地からの大西遷により、1935年秋陝西省に移った中共軍は、主力の集結を待たず、二万余の全兵力を挙げて、1936年2月17日、突如、山西省内に進出した[52]。陝西の中共軍にたいしては、張学良の東北軍、楊虎城の西北軍、閻錫山の山西軍が第一線に立ち、後方に准中央軍、中央軍が配備されていた[52]。中共の巧妙な工作により、東北軍、西北軍は中共軍に対する戦意がなく[52]、中共軍の攻撃は専ら山西軍に向けられ僅か一ヵ月の間に山西省の三分の一を占領した[52]。数年来討伐軍と戦火を交えた共産軍はその作戦、戦術において山西、綏遠などの地方軍隊に比べはるかに優秀であった。脚力に依存した行軍力に優れ、弾丸が十分でないため射撃に無駄なく秀れた腕前を持ち、斥候の偵察状況判断が的確で住民との連絡は完璧、主力部隊のとの交戦を避け、敵の意表をつき、各個撃破の作戦ではパルチザン式による高い効果を上げ、時と場所、情勢に即して宣伝が巧みであった。一方、山西軍は山西モンロー主義の中、長年産業道路の建設に使役され、銃をとって戦線を駆け回ることが難しく、共産軍一流の宣伝上手により討伐どころか寝返りの危険が全線に蔓延した。閻錫山の計画経済、土地国有も巧みに擬装された山西省の省民搾取の手段方法だったと暴露され山西省の民を取り込む共産軍側の宣伝材料にされてしまった[53]。 宋哲元は山西省共産化の危機が増大したことに鑑み、共産軍の河北省および察哈爾省への侵入を防ぐために取り合えず第二十九軍の一部を省境に配置し、自ら保定に赴き数日間にわたり河北省南部の縣長会議を招集して防共に関する指針を与え、3月29日察哈爾省主席張自忠より察哈爾省における防共の情勢を聴取し協議を行い、午後天津に赴き多田駐屯軍司令官、松室北平特務機関長、今井北平武官らと会見して北支防共に関する会議を行なった[54]。3月30日、多田駐屯軍司令官と冀察綏靖主席宋哲元との間で、防共に関する秘密協定が結ばれ「相協同シテ一切ノ共産主義的行為ノ防遏に従事スル」ことを約したといわれる[55]。また翌31日に調印されたという細目協定の要旨は、(一)冀察政権は閻錫山と協同して共匪の掃蕩に従事す。これがため閻と防共協定を結ぶことに努む。閻にして之を肯ぜざるときは適時独自の立場に於て山西に兵を進め共匪を掃滅す。(二)共産運動に関する情報の交換。(三)冀察政権は、防共を貫徹するため、山東側、綏遠側と協同し、必要に応じ防共協定を結ぶことに努む。(四)日本側は、冀察側の防共に関する行為を支持し、必要なる援助を行なう、と決めている[55]。 東アジア全体の安定のため日本から提議された北支、外蒙古における赤化の日支共同防衛に関して南京政府と協議する件については南京政府にその熱意はなかった[56]。それどころか共産軍の迂回行動に当って、その進路を示したのは蒋介石であり、蒋の意思は共産軍の進路を決定する一要素であった。蒋は剿匪の名の下に討伐の指揮を執りつつ、常に軍事行動を利用して中央の威令の及ばない地方勢力に対する中央政権の拡大強化を計ろうとする巧妙な政略を忘れず、討伐の戦略も決して殲滅作戦は取らず、一定の計画の下に一定の方向に向かって共産軍を駆逐し、それを追撃しつつ大局の目的を遂げるのを常としていた[57]。 1936年4月17日、廣田内閣は閣議をもって支那駐屯軍の増強を決定した[55]。北支に派遣される諸隊は、5月9~10日宇品港から、5月22~23日新潟港から乗船輸送され、軍は6月上旬編成を完結した[58]。軍司令官は田代皖一郎中将、そして軍司令部、支那駐屯歩兵第二聯隊、軍直諸隊は天津に位置し、歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第一聯隊を北平および豊台に、その他一部の歩兵部隊を塘沽、灤州、山海関、秦皇島などに配置した[58]。なお、参謀本部は増強された支那駐屯軍の一部を通州に駐屯させ、これによって冀東防衛の態勢を確立させる案であったが梅津美治郎陸軍次官から外国軍隊の北支駐屯を定めた北清事変最終議定書の趣旨に照らして京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできないという強い反対があったため通州の代わりに北平西南4キロの豊台に駐屯軍の一部(一個大隊)を置くことになった[59]。豊台は北寧鉄路の沿線であるが北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれたが[50]、陸軍自身の調査でも「豊台ニ法的根拠ナシ」との結論が出されており、法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化する[60]方針の元に駐兵が行われた。豊台駐兵は中国外交部の反対にもかかわらず行われた上[61]、中国軍兵営とも近く[62]、盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた[63]。 東京裁判でも、駐兵場所の問題について議論が行われている[63]。盧溝橋事件の現場に居合わせた今井武夫北平武官によれば豊台は北寧、平漢両線の分岐要点の為、北平の戦略的遮断の意図と誤解され、かえって中国側の神経を刺激し、とかく物議の種となり、豊台事件を惹起するに至った[64]。中村粲によれば、梅津次官は国際条約尊重の念から通州駐屯に反対したが豊台に駐屯した部隊が盧溝橋事件に巻き込まれたこと、さらに多数の日本居留民が虐殺された通州事件が通州における日本軍不在を狙って計画されたことは日本の善意が悲劇を招いた事例であるとしている[59]。 北支における日本陸軍の作戦計画要領 日本陸軍が北支で作戦する場合、作戦計画策定の基礎として、「昭和十二年度帝国陸軍作戦計画要領」が訓令により次のように示されていた[65]。 一 帝国陸軍北支那方面ニ作戦スル場合ニ於ケル作戦要領ヲ概定スルコト左ノ如シ 1 河北方面軍(支那駐屯軍司令官隷下部隊ノ外、関東軍司令官及朝鮮軍司令官ノ北支那方面ニ派遣スル部隊竝内地ヨリ派遣セラルル部隊ヲ含ム)ハ主カヲ以テ平漢鉄道ニ沿フ地区ニ作戦シ南部河北省方面ノ敵ヲ撃破シテ黄河以北ノ諸要地ヲ占領ス 此際必要ニ応シ一部ヲ以テ津浦鉄道方面ヨリ山東方面作戦軍ノ作戦ヲ容易ナラシメ又情況ニ依リ山西及東部綏遠省方面ニ作戦ヲ進ムルコトアリ 2 山東方面作戦軍ハ青島及其他ノ地点ニ上陸シテ敵ヲ撃破シ山東省ノ諸要地ヲ占領ス 二 帝国陸軍北支那ニ作戦スル場合ニ於ケル支那駐屯軍司令官ノ任務左ノ如シ作戦初頭概ネ固有隷下部隊ヲ以テ天津及北平、張家口為シ得レハ済南等ノ諸要地ヲ確保シ北支那方面ニ於ケル帝国陸軍初期ノ作戦ヲ容易ナラシム爾後ニ於ケル任務ハ臨機之ヲ定ム 三 右ノ場合ニ於ケル作戦初期ノ支那駐屯軍作戦地域ハ独石口以東満支国境以南ノ地域ニシテ山東方面作戦軍トノ境界ハ臨機之ヲ定ム 第二十九軍との緊張 事件発生前、蘆溝橋付近における第二十九軍の動静には不穏な動きが日増しに顕著になっていた。この模様を「支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報」に、次のように記述している。[66] 事件発生前蘆溝橋附近ノ支那軍ハ其兵カヲ増加シ且其態度頓ニ不遜トナレリ 其変化ノ状況左ノ如シ 一 兵力増加ノ状況 平素蘆溝橋附近ニハ城内ニ営本部ト一中隊ヲ 長辛店ニハ騎兵約一中隊ヲ駐屯セシメアリシカ本年五月中、下旬ニ至ル間ニ於テ城内兵カユハ変化ナキモ蘆溝橋城[宛平県城]外ニ歩兵約一中隊ヲ 蘆溝橋中ノ島ニ歩兵約二中隊ヲ夫々配置セリ 六月ニハ長辛店ニ新ニ歩兵第二一九団ノ約二大隊ヲ増加スルニ至レリ 二 防禦工事増強ノ状況 長辛店北方高地ニハ従来高地脚側防ノ為ニ機関銃陣地ヲ永久的ニ2箇所構築シアリ 又高地上ニハ野砲陣地ヲ構築シアリシカ六月ニ入リテ新ニ散兵壕ヲ構築シ 蘆溝橋附近ニ於テハ龍王廟ヨリ鉄道線路附近ニ亙ル間ノ堤防上及其東方台地ノ既設散兵壕ヲモ政修増強シ而モ従来土砂ヲ以テ埋没秘匿シアリシ「トウチカ」(従来ヨリ北平方向ニ対シ進出掩護又ハ退却掩護ノ意図ヲ以テ蘆溝橋ヲ中心トシ十数個ヲ橋頭堡的ニ永定河左岸地区ニ構築シアリタリ)ヲ掘開ス(主トツテ夜間実施セリ) 三 抗日意識及我ニ対スル不遜態度濃厚トナリ蘆溝橋城内通過ヲモ拒否ス蘆溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大 ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ 四 演習実施ニスル抗議 蘆溝橋附近一帯ハ北寧線路用砂礫ヲ採取スル地区ニシテ荒蕪地ニ適スル落花生等ノ耕作物アルニ過キス 従テ夏季一般ニ高梁ノ繁茂スル時期ニ於テハ豊台駐屯部隊ニトリ此ノ地区ハ唯一ノ演習場ナリ 然ルニ最近ニ於テハ我演習実施ニ際シテモ支那軍ハ畑ヘノ侵入ヲ云々シ或ハ夜間演習ニ就テモ事前ノ通報ヲ要求スルカ如キ言ヲ弄シ或ハ夜間実弾射撃ヲ為ササルニ之ヲ実施セリト抗議シ来ル等逐次其警戒ノ度ヲ加ヘタリ 五 行動区域ノ制限 従来龍王廟堤防及同所南方鉄道「ガード」ハ我行動自由ナリシカ最近殊ニヨリ之ヲ拒否シ我兵力少キ時ハ装填等ヲ為シ不遜ノ態度ヲ示スニ至レリ 六 警戒配備ノ変更 六月下旬ヨリ龍王廟附近以南ノ既設陣地ニ配兵シ警戒ヲ厳ニス 殊ニ夜間ハ其兵カヲ増加セルモノノ如シ一文字山附近ニハ従来全然警戒兵ヲ配置シアラサリシカ夜間我軍ニテ演習ヲ実施セサル場合ニハ該地ニ兵カヲ配置シ黎明時之ヲ撤去セルヲ見ル 北平附近支那軍ノ状況ハ本年春夏ノ候ヨリ相当戦備ヲ進メアリタルヲ看取セラル 本年六月ニ至リ北平城各門ノ支那側守備兵増加セラレ且警備行軍ト称シ特ニ夜間ニ於テ北平市内及郊外ヲ行軍シアル部隊ヲシバシバ目撃セリ 一方、蘆溝橋付近日本軍の状態については、前述戦闘詳報に次のように記されている。[67] 駐屯軍ハ我行動ヲ慎重ニシ事端ヲ醸ササランコトニ努ムルト共ニ本然ノ任務達成ニ遺憾ナカラシムル為メ鋭意訓練ニ従事シ特ニ夜間ノ演練ニ勉メタリ 而シテ蘆溝橋附近ハ地形特ニ耕作物ノ関係上豊台部隊ノ為ニモ演習実施ニ恰適ノ地ナリ蘆溝橋附近ノ支那軍ノ増強ハ他ノ各種ノ徴候ヨリ判断シ彼等全般的関係乃至ハ南京側ノ指令ニ依ルモノト判断セラルルモ仮リニ我部隊ノ動静カ彼等ノ神経ヲ刺戟シタリト思惟セラルル事項ヲ挙クレハ左ノ如シ 一 豊台駐屯隊ノ中期(五月乃至六月ニシテ其間中隊及大隊教練教練ヲ昼夜ヲ論セス実施セリ ニ 豊台駐屯隊ニ対スル軍ノ随時検閲ヲ五月下旬該地ニ於テ実施セラレ軍幕僚ノ大部一文字山[俗称]ニ参集ス 三 聯隊長ノ行フ豊台部隊ニ対スル中隊教練ノ検閲ヲ該地ニ於テ実施スル如ク計画セリ 随テ補助官ハ度々該地一帯ヲ踏査セリ 四 旅団長、聯隊長ハ該地附近ニ於テ実施セル演習ヲ視察セリ 五 本年六月及七月上旬ニ亙リ歩兵学校教官千田大佐ノ新歩兵操典草案普及ノ為ノ演習ヲ蘆溝橋城北方ニ於テ実施シ北平及豊台部隊ノ幹部多数之ニ参加セリ聯隊長ハ支那側全般的ノ動静力何ントナク険悪ヲ告ケ情勢逐次悪化シ抗日的策動濃厚トナリアルヲ看取シ部下一般ニ注意ヲ倍徒シ彼等ニ乗セラレサルト共ニ出動準備ヲ完整シ置クヘキヲ命シ特ニ豊台駐屯隊ニ対シテハ「トウチカ」発掘及工事増強ノ情況ニ就テ注意スヘキヲ命シタリ 第二十九軍の対日抗戦準備 第29軍は馮玉祥が率いた西北軍が改編されて中国国民党の地方部隊となったため、抗日精神が強烈であった。第29軍は1935年(昭和10年)12月ごろ、日本軍を仮想敵として、秘密裏に作戦計画を作成した。1936年12月の西安事件後、抗日民族統一戦線の形成が促進されると、1937年(昭和12年)4月から5月にかけて、第29軍の幕僚は、対日抗戦の具体的作戦計画を研究、作成した。副参謀長の張克侠は、攻撃をもって守備となす、という積極的作戦計画を作成した。この計画は第29軍10万の兵力を数個の集団に編成し、天津、北平、察哈爾の三戦区に分け、保定地区を総予備隊集結地区とし、戦区内の日本軍を壊滅し、その後戦況の進展に応じ、全力で山海関に向かって前進し、華北の日本軍を一挙に撃滅するというものであり[68]、中国共産党北方局の同意を経た後、軍長の宋哲元に報告された。宋はこの計画に基づき準備を促進するよう張克侠に命令した。また宋哲元は第29軍全軍に対して、華北の日本軍を標的として軍事訓練を厳しく実施することを命令し、同軍は5月から6月にわたって頻繁に軍事演習を実施した[8]。 そして、盧溝橋一帯の守備態勢を強化した。宛平県城内には歩兵1個連(中隊)と盧溝橋守備の営(大隊)本部が駐屯、長辛店には騎兵1個連が駐屯していたが、5月下旬に、城外に歩兵3個連(中隊)が増駐し、6月に、盧溝橋西南約6キロの町長辛店に第219団(連隊)所属の歩兵2個営(大隊)が新たに駐屯した。機関銃陣地と野砲陣地が構築されていた長辛店北方の高地には、散兵壕が新しく構築され、永定河左岸の10個のトーチカが掘り出され、使用できるようになった。そのほか盧溝橋付近の砂礫地帯と宛平県城の北側、東側、西側の三方面の警戒が厳重になり、夜間には歩哨所が増設された[8]。永定河堤防上には鉄道橋付近から龍王廟にわたり一連の散兵壕が完成しつつあった[69]。 7月6日、第29軍第37師第110旅長の何基灃は、盧溝橋一帯を守備している第219団に対して、日本軍の行動に注意し、これを監視するよう要求し、もし日本軍が挑発したならば、必ず断固として反撃せよ、と命令した[70]。第29軍第37師第110旅第219団第3営長の金振中は、日本軍の演習を偵察した後、宛平県城内で軍事会議を開催し、各連(中隊)に対して周到な戦闘準備を整えるように要求し、日本軍がわが陣地100メートル以内に進入した場合は射撃してよく、敵兵がわが軍の火網から逃れないようにすることを指示した。7月7日、保定に常駐している第37師長の馮治安は急遽北平に帰還し、何基灃と協議のうえ、対日応戦準備の手配をした[8]。 なお、張克侠(1939年共産党に入党)、何基灃、金振中は1948年11月から翌年1月にかけて江蘇省徐州付近の淮海戦役の初期に、国民党軍から共産党軍に寝返った[68]。 北平付近に展開されていた各国兵力 中国国民党国民革命軍 第29軍兵力編成表[71] 司令:宋哲元、副司令:秦徳純、参謀長:張樾亭 部隊 司令官 配置 隷下部隊 兵員 第37師 師長:馮治安 西苑 第109、第110、第111、独立第25旅 約15,750名 第38師 師長:張自忠 南苑 第112、第113、第114、独立第26旅 約15,400名 第132師 師長:趙登禹 河間 第1、第2、独立第27旅 約15,000名 第143師 師長:劉汝明 張家口 第1、第2、独立第29旅、独立第20旅 約15,100名 独立39旅 旅長:阮玄武 北苑 約3,200名 独立40旅 旅長:劉汝明(兼務) 張家口 約3,400名 騎兵第9師 師長:鄭文章 南苑 約3,000名 独立騎兵第13旅 旅長:姚景川 宣化 約1,500名 特務旅 旅長:孫玉田 南苑 約4,000名 河北辺区保安隊 司令:石友三 黄寺 約2,000名 河北省、察哈爾省にある第二九軍以外の部隊(7月上旬)[71][72] 部隊 司令官 所属 第39師 師長:龐炳勛 西北軍 第68師 師長:李服膺 徐永昌軍 第91師 師長:馮占海 旧東北軍 第101師 師長:李俊功 山西軍 第116師 師長:繆徴流 万福麟軍 第119師 師長:黄顕声 旧東北軍 第130師 師長:朱鴻勛 万福麟軍 第139師 師長:黄光華 商震軍 第141師 師長:李鴻文 商震軍 第142師 師長:呂済 商震軍 騎兵第2師 師長:黄顕声 旧東北軍 総兵力約153,000名 日本陸軍 支那駐屯軍(総兵力約5,600名)[73] 天津部隊 司令官 軍司令部 軍司令官:田代皖一郎中将、参謀長:橋本群少将 支那駐屯歩兵第一聯隊第二大隊 同歩兵第二聯隊(第三中隊及び第三大隊欠) 長:萱嶋高大佐 同戦車隊 長:福田峯雄大佐 騎兵隊 長:野口欽一少佐 砲兵聯隊(第一大隊 山砲二中隊、第二大隊 十五榴二中隊) 長:鈴木率道大佐 工兵隊 通信隊 憲兵隊 軍病院 軍倉庫 北平部隊 司令官 支那駐屯歩兵旅団司令部 旅団長:河邉正三少将19期 同歩兵第一聯隊(第二大隊と一小隊欠) 長:牟田口廉也大佐22期 電信所 憲兵分隊 軍病院分院 分遣隊 注釈 通州 歩一の一小 豊台 歩一の第三大隊、歩兵砲隊 塘沽 歩二の第三中隊 唐山 歩二の第七中隊 欒州 歩二の第八中隊〈一小欠〉 昌黎 歩二の一小 秦皇島 歩二の一小 山海関 歩二の第三大隊本部、第九中隊〈一小欠〉 以上のほか、次のような陸軍機関(特務機関)等がいた。 配置 北平陸軍機関 長:松井太久郎大佐22期、輔佐官:寺平忠輔大尉35期、第二九軍軍事顧問:中島弟四郎中佐24期、長井徳太郎少佐30期、笠井牟藏少佐 通州陸軍機関 細木繁中佐25期、甲斐厚少佐 太原陸軍機関 河野悅次郎中佐25期 天津陸軍機関 茂川秀和少佐30期 張家口陸軍機関 大本四郎少佐30期 済南陸軍機関 石野芳男中佐28期 青島陸軍機関 谷萩那華雄中佐29期 北平駐在武官輔佐官 今井武夫少佐30期 陸軍運輸部塘沽出張所 列強兵力 北支駐屯の外国軍隊は、英、米、仏、伊の四力国で、いずれも司令部を天津に置き、部隊を天津、北平に駐屯させ、さらに小部隊を塘沽、秦皇島、山海関に分屯させている国もあった[74]。 国名 注釈 兵員 英国 在香港支那駐屯軍司令官に属し、二年交代制である。天津772名、北平236名 1008名 米国 比島軍司令官の隷下にある天津の658名、本国海軍省に直属する北平の海兵隊508名、その他 1227名 仏国 在支全駐屯軍を指揮する在天津軍司令官の隷下に天津1375名、北平227名、その他 1823名 伊国 在上海極東艦隊司令官隷下の海兵隊が天津229名、北平99名 328名 事件の経緯 この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 7月7日 日本側 予定されていた戦闘演習検閲のため、この日も北平守備隊主力は北平の牟田口部隊長に率いられて北平の東にある通州において、豊台駐屯部隊の一部も豊台の西2Kmで盧溝橋の北側において夜間演習を行っていた[75]。 第8中隊は中隊長清水節郎大尉の指揮により、予定を変更して午後7時30分に、龍王廟付近から東方に向かって演習を開始した。永定河の堤防上では200名以上の中国兵が作業していた。 盧溝橋付近に駐屯していた国民革命軍第二十九軍に属する第三十七師[76]第二百十九団の一部は盧溝橋の北およそ1Kmの龍王廟に陣を構えていたが[77]、第8中隊は午後10時30分ごろ、前段の演習が終了したので、各小隊および仮設敵に演習中止・集合を伝令によって伝達した。午後10時40分ごろ、仮設敵が軽機関銃の空砲を発射したところ、中国軍が第8中隊の背後から数発散発的に実弾を発射した。仮設敵は空砲射撃を続けていたので清水中隊長が集合ラッパを吹奏させると、再び中国軍は鉄道橋に近い堤防方向から十数発発砲した。これらの発砲の前後には宛平県城と永定河の堤防上に懐中電灯らしいものが明滅した。 中隊で人員の点検を行うと、第1小隊長の伝令志村菊次郎二等兵が行方不明であることが判明した。そのため中隊長は志村二等兵を捜索するとともに、状況を一木清直大隊長に報告するため、岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵を乗馬伝令として豊台に急派した。用便を済ませた志村二等兵は約20分後に発見された。しかしこのことは大隊長に報告されなかった。清水中隊長は部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。 7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の金振中第3営長との交渉を命じた。 午前2時すぎ、一木大隊長は西五里店西端において清水中隊長と出会い、やがて到着した第3大隊主力を掌握し、午前3時20分、一文字山を占領して夜明けを待った[68][8]。 豊台の部隊長は部下と共に現地に赴き中国軍に無法な行為について詰問抗議すること、事件を知った牟田口部隊長は部隊で演習に参加しなかった者を北平東側に集合させ、森田中佐に冀察政務委員会の代表を現場に同行させて謝罪、事実確認などの交渉を行わせることが決められた[77]。 7月11日、現地の交渉で、中国側は日本側の要求を受け入れ、現地協定が調印された。 通州方面で演習を行っていた北平部隊は集結命令によって現地に急行しようとしたが、事件発生とともに通州街道につながる北平朝陽門は中国軍によって閉鎖され、部隊の移動が阻止された[78][79][80]。また中国軍は北平郊外南苑の日本・中国間の連絡飛行に使用する飛行場も占拠し[80]、豊台・天津間と豊台・北平間の日本軍用電話線[78][79][81][82]も切断され、北平・天津間の一般電話も不通となっていた[79]。このため、日本政府(第1次近衛内閣における閣議決定)や新聞報道では、事件が計画的に行われたことは明白との見解を示している[83][78][79][42]。ニューヨーク・タイムズによれば、事件までの3ヶ月間にわたって緊張が高まっていたことから日中の衝突は驚きに値せず、前の週には北平警察は治安の混乱を起こそうとした300名の扇動者と便衣の共謀工作員を逮捕しており、また二十九軍に属する様々な部隊は不測の事態に備えてゆっくりと北平の周辺に集結していた[84]。 中国側 「民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが蘆溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに蘆溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる」 7月8日 <現地の動き> 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。乗馬伝令として豊台に派遣された岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵が演習場に戻り、所属中隊が移動したことを知らずに探し回っているのを、中国兵が狙撃したものであった。内田一等兵は馬の右側手綱の約三分の二を射抜かれた。現地では既に黎明の時分で、相当の距離においても彼我の識別は可能であった。そのため、一文字山でこの銃声を聞いた一木大隊長は「今や支那軍の対敵意志の確実なること一点の疑いなし」と判断した[85]。 4時00分:日中合同調査団が北平を出発。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳2名・1個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。一文字山を占領していた一木大隊は龍王廟方向に向かって攻撃前進を起こした。途中で一木隊長は桜井徳太郎中佐から、城外にいるやつに対しては、その29軍たるとなんたるとを問わず、日本軍が攻撃しようと討伐しようと、一切日本側のご自由にお任せする、と秦徳純が言ったことを聞いた。また、宛平県城には一般住民もいるので同城の攻撃は猶予してほしいと要望されこれを承諾した。一木大隊長は宛平県城は攻撃しない方針と永定河の堤防の方へ進撃することを命令した[86]。 5時すぎ:大隊長は永定河の堤防の陣地に多数の中国兵がいるのを目撃したので、歩兵砲の砲撃を命令したが、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐(連隊長代理として来着)の命令によって、砲撃はいったん中止された。 支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報によると以下のとおり[87] 聯隊長ハ午前四時稍過キ第三大隊長ヨリ電話ヲ以テ次ノ報告ニ接ス「午前三時二十五分 龍王廟方向ニテ三発ノ銃声ヲ聞ク 支那軍カ2回モ発砲スルハ純然タル対敵行為ナリト認ム 如何ニスヘキヤ」 茲ニ於テ聯隊長ハ熟考ノ後支那軍ニ2回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリト命令セリ時正二午前四時二十分ナリ 此ニ於テ第三大隊長ハ支那軍攻撃ニ関スル決意ヲ堅メ一文字山ニ向フ途中 第二十九軍顧問タル櫻井〔徳太郎〕少佐〔30期〕ト西五里店〔蘆溝橋東方約1,800米〕西方本道東側畑地ニ於テ会見シ左ノ件ヲ知ル 1 櫻井少佐カ馮治安[秦徳純の誤り]ト会見シ蘆溝橋不法射撃ヲ訊シタル処 馮曰ク「馮ノ部下ハ絶対ニ蘆溝橋城外ニ配兵セス 支那軍ニ非サルヘシ」ト 2 城外ニ配兵セラレアリトセハ攻撃ハ随意ニシテ恐ラクハ馮ノ部下ニアラサルヘシ又馮ノ部下トスルモ城外ニアラハ断乎攻撃シテ可ナラン 馮ハ「城外ニ居ルトセハ其レハ 匪賊ナラント附言セリ」ト 右ハ全ク馮治安ノ欺弁ナリ即チ責任ヲ回避セントスル支那要人ノ常套手段ニシテ心事ノ陋劣唾棄スヘキモノアリ 5時30分:龍王廟の東北500メートル付近で待機していた第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、第3大隊主力に対しても一斉射撃を浴びせた。日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。 約2時間後、現地での激戦は一旦収束。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。 <日本の政府及び軍上層部の動き> 早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と不拡大を指示する総長電が発せられる。これは参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導によるものであった。 7月9日 <現地の動き> 2時00分頃:「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸」へ、との日本側の「兵力引き離し」提案を中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込んだ。 5時:中国側より砲撃が行われる。[88] <日本の政府及び軍上層部の動き> 8時50分頃:臨時閣議。陸相より3個師団派遣等の提案が行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。 夜:参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。 7月10日 <現地の動き> 前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に交渉が継続される。 日本軍の将校斥候へ向けて迫撃砲が撃たれる。[88] <日本の政府及び軍上層部の動き> 午前:参謀本部第三課と第二部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えたと言われる。 7月11日 <現地の動き> 20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。 <日本の政府及び軍上層部の動き> 11時30分:五相会議にて、陸相の「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地3個師団派兵等の提案が合意された。 14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。 16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。 18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。 21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。 本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、日本政府と中国政府は、停戦協定と並行して大兵力を動員させた。このことは、主戦派や強硬派を勢いづけ、以降の事件拡大の大きな要因となった。[89] 7月12日以降 7月13日、北平の大紅門で日本軍トラックが第38師によって爆破され日本兵4名が殺害される(大紅門事件)。[88] 7月14日、日本軍騎兵が惨殺される。[88] 7月18日、日本軍偵察機への射撃が行われる。[88] 7月19日、蒋介石は「最後の関頭」演説を公表して、抗戦の覚悟を公式に明らかにした。同日、宛平県城内より日本軍への砲撃が行われる。[88] 以降、7月20日の宛平県城内より日本軍への再砲撃と日本軍の報復砲撃。[88] 7月25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始された。 共産党の策動 共産党中央は7月8日、全国に通電して、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要あれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては直接日本と衝突することを、各級党部に指令した[90]。 7月11日、周恩来は盧山国防会議に招かれ、15日には共産党の合法的地位が認められた。11日の周恩来・蒋介石会議で、周恩来は抗日全面戦争の必要を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織、統一綱領を決定すれば、共産党は抗日の第一線に進出することを約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で国民政府に即時開戦を迫り、7月15日、朱徳は「対日抗戦を実行せよ」と題する論文を発表し、日本の戦力は恐るるに足らず、抗戦は持久戦となるが、最後の勝利は中国側にあることを説いた[90]。 南京政府と冀察政務委員会が日本側と妥協しようとしたため、共産党中央は7月23日、「第二次宣言」を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調し、(1)日本提出の三条件(冀察政務委員会の日本への謝罪、29軍の永定河以西への撤退、抗日運動の停止)を拒否すること(2)29軍に即時大軍を増派し、全国の軍隊を総動員して抗戦の実行(3)大規模に民衆を動員、組織、武装して人民抗日統一戦線組織の設立(4)全国的対日抵抗の実行。和平談判を停止し、日本人のすべての財産を没収し、日本大使館を封鎖し、すべての漢奸・特務機関を粛清すること(5)政治機構の改革。親日派、漢奸分子の粛清(6)国共両党の親密合作の実現(7)国防経済と国防教育の実行(8)米・英・仏・ソ諸国と各種の抗日に有利な協定の締結、の8項目の提案を発表した[90]。 関東軍の動き 関東軍司令部(軍司令官:植田謙吉大将10期、参謀長:東條英機中将17期)は蘆溝橋事件発生の報に接すると、八日早朝会議を開き、「ソ連は内紛などのため乾岔子事件の経験に照らしても差し当たり北方は安全を期待できるから、この際質察に一撃を加えるべきである」と判断し、参謀本部へは「北支ノ情勢ニ鑑ミ独立混成第一、第十一旅団主力及航空部隊ノ一部ヲ以テ直ニ出動シ得ル準備ヲ為シアリ」と報告した[91]。 関東軍では、事件が発生すると、八日、機を失せず独立混成第十一旅団等に応急派兵を命じ満支国境線に推進させた。該旅団は九日夕までに主力をもって承徳市、古北口間、一部をもって山海関に集結した。また関東軍飛行 隊主力も錦州、山海関地区に集結した。 支那駐屯軍は、八日午後、事態の将来を顧慮し、関東軍に対し弾薬、燃料及び満鉄従業員ならびに鉄道材料の増派援助方に関し協議した[92]。 また同日十八時十分、関東軍は「暴戻なる支那第二九軍の挑戦に起因して今や華北に事端を生じた。関東軍は多大の関心と重大なる決意とを保持しつつ厳に本事件の成行きを注視する」と声明した。関東軍が所管外の事柄に対して、このような声明を公表することは異例であり、この事件に対する異常な関心を示したものである。 更に関東軍は支那駐屯軍に連絡しかつ幕僚を派遣して強硬な意見を述べ(九日、辻政信大尉36期、天津着)両軍連帯で中央に意見具申をしようと申し入れた。支那駐屯軍は、すでに不拡大方針で事件処理に当たっており、かつソ連が今出て来ないという対ソ情勢判断に責任が持てないこと、関東軍が中国問題を非常に軽く見ていることに不安を感じ、申し入れを断った。 また朝鮮軍(軍司令官:小磯國昭中将12期)も関東軍と同様に「北支事件ノ勃発ニ伴ヒ第二十師団ノ一部ヲ随時出動セシメ得ル態勢ヲトラシメクリ」と報告した。これは年度作戦計画訓令に基づく応急の措置であったが、小磯大将自身は「この事態を契機とし支那経略の雄図を遂行せよ」という意見であった[93]。 国民党中央軍の北上 7月9日に蒋介石は中央軍に対し徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。蒋介石は宋哲元に電報で平和談判をしても戦争に備えることは忘れずにと命令する。また、第26軍孫連仲に先ず2個師を保定・石家荘へ鉄道で運送し、宋哲元の指揮に任せるようと指示した。7月10日に200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開した。蒋介石は、7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達し、19日までに30個師団を北支に集結させた。 1発目を撃った人物 秦郁彦、安井三吉によれば日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとしている[94][95]。しかし坂本夏男は、第29軍が盧溝橋事件の数ヶ月前から対日抗戦の用意を進め、盧溝橋付近の中国軍は、7月6日、戦闘準備を整え、7日夜から8日朝にかけ日本軍に3回発砲し(最初の発砲の前後には、宛平県城の城壁上と龍王廟のあたりで懐中電灯で合図していた)、中国共産党は7月8日に全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないと主張している[96]。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在する。 現場大隊長で後に中国共産党側に転向した金振中は、一貫して堤防への配兵を否認してきたが、1986年に出版された『七七事変』(中国文史出版社)の中で、部下の第11中隊を永定河の堤防に配置していたことを認めたうえ、部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地100メートル以内に進入したら射撃せよ、と指示していた事実を明らかにした[97]。 中共軍将校としての経歴にもつ葛西純一は、中共軍の「戦士政治課本」に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」と記入してあるのを自身の著作(新資料・盧溝橋事件)に記している。これが「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているが、秦郁彦は葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとしている[注釈 3]。常岡滝雄によれば当時紅軍の北方機関長として北京に居た劉少奇が、青年共産党員や精華大学の学生らをけしかけ、宋哲元の部下の第二十九軍下級幹部を煽動して日本軍へ発砲させたもので、1954年、中共が自ら発表したとしている[98]。 一方でサーチナ(2009年5月15日付)によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で、「中国共産党陰謀説」は「荒唐無稽な説」としながらも「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が、共産党支配区域で配られた「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれていると伝えている。ただし、これは中国共産党がプロパガンダのために嘘の戦功を書いたのであって「われわれ中国人の伝統的ないい加減さ」を指摘する論旨であり、このような嘘がかえって自分達の主張の信憑性を貶めていると結んでいる[99]。 当時、北平大使館付武官輔佐官であった今井武夫少佐は以下のように述べている[100]。 最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。これについて色々調査したが、その放火者が何者であるかは今もって判定できぬ謎である。ただし私の調査結果では絶対に日本軍がやったとは思わない。単純な偶発とする見方〔恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎ〕は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることであった。また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じ、発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したとしても有り得ないことではない。しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。肝心なことは、最初の射撃以後、何故連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である。 また、中国共産党北方局による抗日工作が第二九軍内に浸透したため、軍内の過激分子によって事件が引き起こされたとなす説がある。これは状況証拠すなわち前後の事情からして、ありそうなことである。また戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があるとのことであり、中共による謀略の疑いも大きい[101]。 なお「北平特務機関日誌」の七月十六日の記事に「北支事変ノ発端ニ就テ」の情報に関して、次のように述べている部分もある[102]。 「北支事変ノ発端ニ就キ冀察要人ノ談左ノ如シ事変ノ主役ハ平津駐在藍衣社第四総隊ニシテ該隊ハ軍事部長李杏村、社会部長齋如山、教育部長馬衡、新聞部長式舎吾ノ組織下ニ更ニ西安事変当時西安ニアリシ第六総隊ノ一部ヲ参加セシメ常ニ日本軍ノ最頻繁ニ演習スル蘆溝橋ヲ中心ニ巧ミニ日本軍ト第二十九軍トヲ衝突セシメムト画策シアルモノニシテ第三十七師ハ全ク此ノ術中ニ陥入レルモノナリト 尚北寧鉄路ニハ戴某ナルモノ潜入シエ作中ト謂ハル」 兵1名の行方不明について 第八中隊長がとりあえず不法射撃を受けたことと兵1名行方不明である状況を大隊長に報告したのち、約20分ほどしてこの兵は発見された。中隊長は西五里店に引き揚げ、八日二時過ぎ大隊長に会い、行方不明の兵が復帰したことも報告した。大隊長、聯隊長は最初の事件報告を受けたときは、「暗夜の実弾射撃」以上に「兵一名行方不明」の方を重視し部隊出動を決意した。しかし二時過ぎには行方不明の兵発見の報告を受けているので、事後の中国側との折衝においても、当時はこれを全然問題にしていない。しかし、中国側では故意に兵一名行方不明及びその捜索を蘆溝橋事件及び拡大の原因とし、不法射撃の件は不問に付している。東京の極東国際軍事裁判における秦徳純の供述、蒋介石の伝記「蒋介石」あるいは「何上将軍事報告」も同様であり、「抗戦簡史」にも次のように述べている。 「民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが蘆溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに蘆溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる」 (右の文章は、昭和十二年七月八日の中国側新聞「亜州新報」夕刊に掲載された内容とほぼ同じである。当時この新聞を読んだ寺平大尉が発行人の林耕宇を難詰したところ、林は記者の創作であると白状し謝罪した。しかし単なる記者の創作でなく秦徳純の当時政府発表によるものではなかろうか) 中国中央放送局の九日十九時の放送によれば「日本軍は近来蘆溝橋を目標として演習をなしゐたり。八日朝、たまたま日本軍の前進し来るを、わが方は蘆溝橋(宛平県城)を奪取せらるるものと見られたり。然して之による衝突が事件の発端なり」と。(北平陸軍機関業務日誌)[103] 事件直後の延安への電報 元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。 盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。 さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部に相当)でも傍受した。盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」と語っている[104]。 これに対し、安井三吉は、この電報は、1) 平尾や秋富自身が受信したものもないこと、2) このような話が当時の軍関係者の回想、文書のなかに全くでてこないこと、3) 支那駐屯軍がこの事実を把握していれば、当然反中共宣伝に利用したと想像できるにも関わらず、そうしたことがないことの3点を挙げ、このような話が事実であったかどうか疑わしいと述べている。更に、4) 1937年当時の平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津から行われていたことが明らかになっていること、5) 事件発生当日の深夜における盧溝橋の現場と北京大学間の連絡方法が不明であること、6) 午前3時25分まで日中両軍には何の問題も発生しておらず、「成功した(成功了)」などとはいえないこと、7) 中国共産党員がこのように重要な連絡を平文で打つとは考えられないこと、加えて、『戦史叢書 北支治安戦』383頁において、横山幸雄少佐が、「中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、昭和16年2月中旬、遂にその一部の解読に成功した」と述べていることを挙げ、平尾の回想(録)を以て、中共「計画」説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない、と結論付けている[105]。 なお、中国中学校歴史教科書には以下のような記述が見られる[106]。 ◆団結して抗戦する 7月8日、中国共産党は抗日の電報を各地に発し、全国人民に、団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者を中国から駆逐せよ、と呼びかけた。 17日、蒋介石は廬山で談話を発表し、抗戦への備えがあることを示した。 中共の抗日を呼びかける電報 「北平、天津が、華北が、中華民族が危急の時を迎えている。全民族が抗戦を実践してこそわれわれの活路が開ける.... 武装して北平、天津を防衛し、華北を防衛せよ。 日本帝国主義に寸土たりとも中国を占領させてはならぬ国土防衛のため最後の一滴まで血を流せ。 全中国の同胞、政府と軍は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者の侵略に抵抗せよ。」 現地軍の折衝 寺平忠輔著の『日本の悲劇 盧溝橋事件』や児島襄著の『日中戦争4』では冀察政務委員会と支那駐屯軍らが粘り強く折衝している様子がある。例えば7月18日に、宋哲元は香月清司中将と天津宮島街の偕行社、即ち上海市長呉鉄城から譲り受けた洋館建ての倶楽部で会見を行い、張自忠、張允栄 陳中孚、陣覚生等を帯同し、悠揚迫らざる態度で車から降り立った。軍司令官は橋本参謀長はじめ、和知、大木、塚田等各参謀を侍立させ、この冀察の重鎮と握手した。宋哲元はまず、身をもって停戦協定条文の第一項、日本軍に対する遺憾の意表明を、いとも丁重厳粛な態度でやってのけた。7月21日には航空署街の秦徳純邸に中島弟四郎や笠井半蔵、二十九軍参謀長の張越亭、保安隊第一旅長の程希賢、交通副処長周永業、それに軍参謀の周思靖などが来合せて秦徳純を囲んで、三十七師の撤退を議論し、「今日の撤退は宋委員長の自発的意志に基き、松井機関長、今井武官、和知参謀とも協議の上、いよいよ実行に移す事になったわけです。どうかこれがスムーズに完了するよう、ひとえに顧問のお骨折りをお願いします」とくれぐれも頼んだ。しかし幾度も衝突が起こっており、結局開戦となった。 停戦協定と和平条件 宋哲元は当初、停戦交渉に積極的であった。しかし7月25日以降に中国兵が暴発した際に、屈辱的条件の受諾よりも抗戦を選ぶとの決意を中央政府に告げて抗戦した。 張自忠は7月11日だけでなく、7月19日にも停戦協定を結び、橋本群と共に戦線拡大を防ごうとした。しかし後に張は宜昌作戦で戦死を遂げる。 支那駐屯軍司令官の香月清司は対中強硬派であったものの、参謀本部に従って戦線は拡大させなかった。しかし中国兵暴発によって拡大する事になる。 石原莞爾は満州事変の首謀者であったが、盧溝橋事件の際に強硬に拡大反対した事で東京裁判で戦犯にされなかった。しかし満州事変で下克上を起こしたために、盧溝橋事件では対中強硬派が下克上の波に乗ってしまう。 盧溝橋事件の停戦協定は、7月17日の陸軍が出した停戦協定は小競り合いであるために、中国軍の陳謝・更迭と北京撤退と言ったそれなりの条件であり、第二次上海事変が勃発する前だったため当然の事ながら非併合・非賠償の条件であった。これらの停戦協定は後の第1次・第2次トラウトマン工作、汪兆銘工作、桐工作で出された日中戦争の和平条件に比べれば遥かに易しい条件であった。陸軍の対中強硬派とされる杉山元陸軍大臣、梅津美治郎陸軍次官なども外交官や現地軍の交渉には反対はしなかった。 しかし同時期の交渉は宋哲元が香月清司へ、張自忠が橋本群へ、広田弘毅が日高信六郎を介して王寵恵へ交渉していた。しかし中国軍兵士の反日感情は暴発しており、日中両国の政府・外務省・軍中央の方針を無視し幾度も日本軍に対して散発的行為を行っていた。7月11日、停戦協定の細目は現地軍が妥協して行った。しかし近衛文麿の派兵発表で現地解決を困難にしてしまう。 : 1.第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、責任をもってこの種の事件の再発を防止する 2.中国軍は盧溝橋付近より撤退し、治安維持は保安隊をもってする 3.中国側は抗日団体の取り締りを徹底させる 増援決定を喜んだ現地の日本軍(支那駐屯軍)は、1937年7月13日段階で中国軍に北京からの撤退を求めた。そして、撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。7月17日、東京では陸相杉山元が中国側との交渉期限を7月19日にしたいと、五相会議で提案した。広田弘毅外相は、北京または天津での「現地交渉」に期限をつけるのはよいが、南京での国民政府あて外交交渉に期限をつけるのはまずいと反対した。海相米内光政、蔵相賀屋興宣も外相に同調し、杉山陸相も同意した。しかし、考えてみれば、広田外相の提案は、意味が不鮮明である。同日陸軍中央部は停戦協定の実施細目として以下を提案。この要求がいれられなければ、現地交渉を打切り「第二十九軍ヲ膺懲ス」との方針を決定した。それは「中国側の謝罪すべき当事者や、その方式を指定せず、又責任者の処罰も特定の人を指名せず、宋哲元の裁量にまかせる」という現地交渉担当者の考え方にくらべると、明らかに過大な要求であり、宋哲元に対し、蒋介石から離れて明確な屈伏の姿勢を示すか否かを迫ろうとするものにほかならなかった。日本側は、抗日的な人物を責任ある地位からしりぞけ、中国軍および国民党関係機関をできるだけ広い地域から排除することをめざしており、塘沽協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定などと同じやり方で、この事件を解決しようとしていたといえる。 : 1.宋哲元の正式陳謝 2.馮治安(第37師長)の罷免 3.盧溝橋北方・北平西方の八宝山附近からの中国軍の撤退(八宝山ノ部隊撤退) 4.7月11日の協定への宋哲元の調印 また、北京や天津では7月11日に調印された停戦協定の実施を日本軍が迫っていた。そのため、冀察政務委員会の指揮下にある第29軍の宋哲元はやむなく共産党の徹底弾圧や排日色の強い人物を冀察政務委員会の各機関から追放すること、蒋介石の秘密機構の冀察かの追放、排日運動・言論の取り締まり等を約束した。宋哲元は、和平を決意した。その夜、第三十八師長兼天津市長張自忠は、支那駐屯軍参謀長橋本群少将に対して、翌日、宋哲元が司令官香月清司中将に「謝罪訪問」をすると、伝えるとともに、次のような「解決案」を提言した。宋哲元の謝罪と合わせ、特に北京からの撤兵も含めて、支那駐屯軍の七項目要求をほぼ全面的に受諾したと言える。 : 1.盧溝橋事件の責任者の営長(第37師第110旅第29団第三営長金振中)を処罰する。 2.将来の保障についでは、宋哲元が北京に帰ってから実行する(以上の二項は文書にする)。 3.排日要人も罷免するが、文書にはしない。 4.北京には宋哲元直系の衛隊だけを駐留させる。 しかしこのような状況の中、7月13日に大紅門事件で日本兵4人が中国兵により爆殺され、14日にも団河付近で日本軍の騎馬兵が中国兵に殺害された。 王寵恵は1935年に訪日して広田弘毅外相と会談しており、7月17日に日高信六郎とも会談を行ってた。しかし8月14日についに王率いる外交部は抗日に転じる。 広田弘毅は7月17日に日高信六郎を介して王寵恵へ現地交渉による解決を目指した[1]。しかしこの事はあまり触れられていない。 7月17日、南京駐在の日高信六郎参事官を通して国民政府外交部長王寵恵に対し次のように要求させた。「帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後二於ケル国民政府ノ態度二鑑ミ左記ヲ要求ス1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止 2. 現地両国間二行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム 」。広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた[107]。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。 そしてこれに対して南京政府は、日本側の要求を真向から拒否したのであった。すなわち、7月17日夜、日高が現地協定の実行を阻害しないよう、中央軍の北上を速かに停止して欲しいと申入れたのに対して、後の19日午後、国民政府外交部は「中国側ノ軍事行動八日本軍ノ平津一帯増兵二対スル当然ノ自衛的準備二過キス」と反論すると共に、日本政府に対して「一、期日ヲ定メ同時二軍事行動ヲ停止シ武装部隊ヲ撤回スルコト、二、今回ノ事件二対シテハ誠意ヲ以テ外交手段二依リテ協議スルコト」という2項目の要求を述に申入れてきた。それは日本側の云う現地解決主義を原理的に否定し、正規の外交機関による対等の交渉を要求するものであり、現地協定については「尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之カ解決ヲ図ラントスルモ如何ナル現地協定モ中央政府ノ承認ヲ得ル事ヲ要ス」という点を強調していた 中国側もこれ以上日本の言いなりになるわけにはゆかないという気運が盛りあがっていた。7月17日の蒋介石の演説は日本の新聞にも次のように報ぜられた。 : 1.中国の国家主権を侵すが如き解決策は絶対にこれを拒否す。 2.冀察政権は南京政府の設置せるもので、これが不法なる改廃に応ぜず。 3.中央の任命による冀察の人事異動は外部の圧迫により行はるべきものにあらず. 4.29軍の原駐地に制限を加へることを許さず. 以上の4点は日支衝突を避け東亜の平和を維持する最小限度の要求である、要するに中国は平和を求むるも、やむを得ざれば戦ひも辞せず。(東京朝日新聞7月20日) 7月19日、橋本群と張自忠と張允栄が額を集めて、停戦協定第三項を研究し、次のような取り決めが成立し、これに円満調印をおわった。 : 1.共産党の策動を徹底的に弾圧する。 2.双方の合作に不適当な職員は、冀察において自主的に罷免する。 3.冀察の範囲内に、他の方面から設置した各機関の排日色彩を有する職員を取り締る。 4.藍衣社、CC団のような排日団体は、冀察においてこれを撤去する。 5.排日的言論、及び排日的宣伝機関、並びに学生、民衆等の排日運動を取り締る。 6.所属各部隊、各学校の排日運動を取締る。 中華民国二十六年七月十九日 第二十九軍代表 張自忠 印 第二十九軍代表 張允栄 印 19日に中国側は日中同時撤兵と、現地ではなく中央での解決交渉を求めた[108]。日本側は停戦協定が締結した際に7月28日までに中国側には対して何も攻撃をしていない。もし停戦協定が締結しているにもかかわらず故なく中国側に対して戦闘をしたら、陸軍刑法第36条の『司令官休戦又ハ講和ノ告知ヲ受ケタル後故ナク戦闘ヲ為シタルトキハ死刑二処ス』により香月清司は死刑の対象になる。 こうした中国中央の動向に対して、日本の外務省は7月20日、「事態悪化ノ原因ハ南京政府カ現地協定ヲ阻害スル一面続々中央軍ヲ北上セシメタル事実二在リ、此際南京政府二於テ飜然反省スルニ非サレ八時局ノ収拾全ク望ナキニ至ラン」との声明を発して、交渉を打切ってしまったが、この事は、現地解決主義自体が争点化した事、それによって蘆溝橋事件は、拡大の第三段階へと突入していった事を意味するものであった。同日、橋本群は「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ逐次実行に移しつつあり」と打電し、内地軍派兵に反対意見を起草した。同じく同日、蒋介石は、宋哲元軍長を説得するため、熊斌参謀次長を北京に派遣した。参謀本部は同日朝に、部長会議を開き、武力行使を正式に決定した。陸軍省では、かねてより準備を進めていた第二次動員をただちに実行に移すことを決意した。同じ頃、陸軍省、海軍省、外務省の三局長会議が開かれ、動員について話し合いが持たれた。海軍軍務局長、外務東亜局長は動員に反対したため、会は結論の出ないまま解散となった。同日10時、閣議が開催された。杉山陸相はただちに内地師団の動員をするべきであると提議したが、閣僚からは3個師団もの動員は中国側を刺激し、不拡大方針に差しさわりが出るという反対意見が出された。また、17日および19日に現地で停戦協定が成立し、さらに中国側では37師の撤退を始めているにもかかわらず、武力行使を行うことの必要性に対し疑問が出された。そのため最終的には、同日に南京で行われていた外交交渉の結果を待つ事になった。しかし南京では、停戦方法および日本側の提示した停戦条件について日中の意見の相違があり、話はまとまらなかった。14時半頃、日中双方の銃砲撃が開始された。さらに、八宝山方面の中国軍の一部が前進を開始したため、現地部隊はこれを撃退した。その後も砲撃は21時頃まで続き、双方に死傷者を生じた。午後、日本政府は閣議を開催したが、既述のように停戦交渉が進捗せず、さらに現地では戦闘が開始されていたことから、紛争は不可避であると判断した。そのため、事態が好転すれば即座に復員すると言う条件つきで、内地より3個師団の増援を行う事が決定され、奏上がなされた。 7月21日、これまで北支に派遣されていた参謀本部参謀が帰庁し、現地情勢についての報告が行われた。この中では、支那駐屯軍の軍規は厳正かつ兵力は十分であり、内地師団の派兵は必ずしも必要でないとされていた。さらに駐屯軍参謀長より参謀本部に対し報告があった。この中では、29軍は陳謝および関係者の処罰、37師の撤収等を行っており、多少の小競り合いはあるものの、事態は収束に向かいつつあるとされていた。既述のように現地の情勢が静穏であった事から、参謀本部内でも内地師団の増派に対し慎重論が強まった。そのため参謀本部首脳による協議が行われたが、依然として強硬論も多数あり、議論はまとまらなかった。翌22日、参謀本部首脳はようやく方針を決定した。この中では、日中の全面紛争に発展しない限り、内地師団の動員をしばらく見合わせる事になっていた。この方針に基づき、内地師団の動員は一時的に中断された。 7月23日に石射猪太郎外務省東亜局長は、陸海外三局長会議で事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第37師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得た。石射の当時の日記には「現地より帰来の柴山課長の意見上申もあり、天津軍よりの援兵無用の来電もあり、軍は動員をしばらく見合わせることになったという。陸軍大臣より外務大臣にもその話あり。東亜局第一課これにより大いに活気づき今後の平和工作をねる。」と出ている[109]。陸軍から現地協定の内容とその実施状況について発表があった。事件の円満解決近きにあるを語るものであった。 7月23日の夜、陸軍省は華北の状況を次のように発表した。 :「支那駐屯軍よりの報告によれば『今回の北支事変に関し冀察側に於ては責任者の謝罪、処罰の外今次事変の原因は所謂藍衣社、共産党其他の抗日系各種団体の指導に胚胎する所多きに鑑み将来之が対策取締りを徹底することを協定せり。即ち冀察側は之が 実行の為七月十九日文書に依り左記事項を自発的に申出たり。 一、日支国交を阻害する人物を排す。 二、共産党は徹底的に弾圧す。 三、排日的各種機関、諸団体及各種運動並之が原因と目さるべき排日教育の取締りをなす。 又別に冀察側は今回日本車と衝突したるは主として第三十七師に属するものなれば、将来双方の間に意外の事件発生を避くる為同師を北平より他へ移駐する旨通告し来り昨二十二日午後五時以降列車により逐次南方へ移動中なり』と、駐屯軍は目下之が実行を厳重に監視中なり」。(東京朝日新聞7月24日) 石射猪太郎は盧溝橋事件の際に何としてでも戦線拡大を防ごうとした政治家である。 高宗武は日本留学した経験もあり、盧溝橋事件の際にも南京で日高信六郎と和平交渉しており、さらに船津辰一郎とも和平交渉をしている。これは盧溝橋事件の際に日中の外交交渉が行われたという事を意味する。 宮崎龍介は蒋介石に信用のある宮崎焔天の息子ということで南京に急派することになった。神戸で乗船すると、憲兵隊に逮捕されてしまい、和平工作は破綻となる。 7月23日、宮崎龍介は近衛文麿の密書を手に、東京駅から神戸へ向けて旅立った。南京の蒋介石の元へは、あらかじめ暗号電文による知らせがとどいており、「特使派遣を歓迎する」との返信が、早々に近衛の元に届いていた。宮崎龍介は汽車に丸1日ゆられて、翌日、目的地の神戸へと下り立った。そのころ、東京では近衛がどういうわけか、盧溝橋事件では戦線拡大を唱え、自身の南京行きを強く妨害した当の杉山元に、蒋介石のもとへ密使を派遣したことを話してしまっていた。近衛の思惑としては、陸軍による妨害が行われないよう杉山にクギを刺したつもりだったのだろうが、これがとんだヤブヘビとなってしまう。杉山は首相官邸をあとにするや、そのまま憲兵隊本部へすぐに連絡を入れたようだ。 7月24日、宮崎は、神戸港に停泊していた中国行きの船へと乗り込んだ。タラップを上がり、船員に自分の船室を訊ねたとたん、周囲を屈強な男たちに囲まれ逮捕されてしまった。同日、部隊の移動は停止し、逆に第132師を北平に進入させたほか、付近にも増兵を始めた。そのため駐屯軍は29軍に参謀を派遣して折衝を行わせるとともに事態の急変に対処する準備を始めた。 7月25日に南京では日高・高宗武会見で、国民政府も現地協定の解決条件を黙認する意向である事が明らかにされた。石射は次のステップは中日国交の大乗的調整に乗り出すばかりだと爽快になった。しかしその後突如前線の中国軍兵士が暴走し日本軍へ戦闘を起こし、廊坊事件(7月25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍が国民党軍から銃撃を受けたとされる事件)と広安門事件(7月26日、北平在住の日本人を保護するために事前通告ののち日本軍の一部が城内に入ったところ城門が閉ざされ、国民党軍第29軍が北平城内外の日本軍に放火を浴びせたとされる事件)で衝突が起きた。殉教者のように見えた不拡大主義者の石原莞爾もついに匙を投げ、7月26日午前1時第1部長室(寝台を持ち込んでいた)から、軍事課長室に寝泊りしていた田中新一に、せき込みながら電話で「もう内地師団を動員するほかない。遷延は一切の破滅だ、至急処置してくれ」と言う[110]。支那駐屯軍は26日午後、29軍に対し、28日までに第37師(抗日意識が強い部隊)の撤退を行わない場合、武力行使を行うとの最後通告を発し、宋哲元は屈辱的条件の受諾より抗戦を選ぶと中央政府に告げた。7月27日、日本政府は内地3個師団の派遣を最終的に承認し、7月28日に日本軍は国民党軍第29軍に対し、総攻撃に出る。8月8日、関東軍によるチャハル作戦が参謀本部から認可された。 7月29日には蒋介石が談話を発表し、日本軍に対し徹底抗戦をする意思を示した。蒋介石の時局声明は、改めて時局解決のための四条件(①中国の主権と領土は侵害させない②河北やチャハルの行政組織への不法な変更は許さない――など)にふれ、日本が侵略をやめ四条件をのむなら、交渉に応じる用意があることをほのめかし、逆に日本が軍事行動をここで中止しなければ勝算はなくとも日本に抗戦する決意を表明したものだった。しかし南京政府内部では、事態の拡大を望まず、できる限り早い停戦を求める声が優勢であった。 この事態に対し石射東亜局長の提案になる解決試案、日中戦争の全期間を通じ最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになった。その原動力は石原作戦部長だったと推定されているが、これに天皇も同感の意を表し、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定された。 この停戦協定案は国民党側からも信頼されていた元外交官、実業家の船津振一郎を通して働きかけたため船津和平工作と呼ばれ、内容は以下である。 : 1.塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消。 2.廬溝橋付近の非武装地帯の設定。 3.冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政。 4.増派日本軍の引揚げ。 また国交調整案としては以下である。 : 1.満州国の事実上の承認。 2.日中防共協定の締結。 3.排日の停止。 4.特殊貿易・自由飛行の停止。 以上をそれぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助と治外法権の撤廃も考慮された。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、1933年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする条件であった。 8月7日、船津辰一郎元総領事が上海に到着すると、9日に高宗武と会談し、華北問題を迅速かつ局部的に解決する事が得策であると説得した。高は同日午後に川越茂大使とも会談して交渉は順調に進んでいくかに見えたが、同日夕刻に上海で大山事件が発生すると、事態はにわかに緊迫の度を高た。船津は各方面を奔走し、平和的解決に向けて中国側の説得に努めたが、13日には上海で日中両軍間に交戦が始まり(第二次上海事変)、14日には全面衝突に発展した。王寵恵は対日宥和政策を放棄して、抗日に転じる旨の声明を発表した。 日中間の戦闘が激化する中、日本はソ連の動向に強い関心を示した。中ソ両国は8月21日、不可侵条約を秘密裏に締結した。中国外交部は26日、この旨を東京の中国大使館に通報し、もし日本が国策を変更して日中間に同様の条約を締結するならば中国は歓迎するので日本政府の意向を打診するよう電報で命じた。この電報は日本軍によって傍受され、写が外務省にも回付された(電報写には広田弘毅や東郷茂徳欧亜局長の閲了サインがある)。しかし日中間に不侵略条約をめぐる話し合いが進められる事はなく、29日に中ソ両国は不侵略条約締結を公表した[111]。 事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第三国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのはイギリスであった。9月中旬、新着任のロバート・クレイギー駐日大使が仲介の可能性について広田外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、華北の非武装地帯の設定、排日取締りと防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、満州国の不問などであった。これらの条件は蒋介石に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待する蒋は受諾に否定的であった。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9月中旬から日中紛争を審議中であった[112]。 同年日本が11月2日に出したトラウトマン工作は「華北の行政権は南京政府に委ねる」が記載されている非併合・非賠償の条件であった。これは船津工作を踏襲した物であり、他の各将領から「これだけの条件でなぜ戦争するのか!?」と言われるほどの条件だった。 「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告していたにも関わらず、蒋介石は「事変前の状態に復帰するのでない限りどんな要求も受諾できない」と和平条件を一旦拒絶し、ブリュッセル会議の対日制裁に期待して和平条件を1ヶ月引き伸ばし、1937年12月13日に南京陥落して日本政府はトラウトマン工作を賠償を含む厳しい条件にし、近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本側はトラウトマン工作を打ち切った。1940年の桐工作が行われるまでの時期の和平条件が極めて過酷であったために、2年半近く日中関係は最悪の状態になった。 このように7月19日に停戦協定が締結され、日本の現地陸軍関係者(橋本群、今井武夫、池田純久)もしくは外務省関係者(広田弘毅、石射猪太郎、日高信六郎など)が中国側の関係者(宋哲元、張自忠、高宗武)と必死で停戦の努力をして日本政府もしくは参謀本部に現地情勢を打電して不拡大方針を採っていたものの、中国側が廊坊事件・広安門事件のような散発的戦闘を起こしたために(現地の中国兵の反日感情の暴発)、結局7月27日に日本政府は何度も見送っていた内地3個師団の派遣を承認して、28日に日本軍の総攻撃が行われるようになり、これまで参謀本部が却下し続けた関東軍によるチャハル作戦も8月8日に認可された。石射猪太郎曰く、「わが陸軍部内の強硬派にとって、思う壷の事態がここにでき上った。」[113]。 結論として日中戦争は第二次世界大戦の始まりのナチスドイツとソビエト連邦のポーランド侵攻のような不可侵条約を破棄した一方的な侵攻と日米の参戦の契機である日本海軍による真珠湾攻撃とは異なり、停戦協定を破り執拗に日本軍に攻撃して、その後上海の租界に総攻撃をした中国側にも責任があると言える(日中両国とも1941年までに宣戦布告はしていない)。この背景には、蒋介石が中国の世論を無視し、抗日戦争を開始しなければ、中国軍の支持を失って失脚していただろうとの指摘がある[114]。盧溝橋事件から第二次上海事変の直前までに両国の紛争が行われている中で、両国の外交官による外交交渉(日高信六郎と王寵恵・高宗武の交渉、高宗武と船津辰一郎・川越茂の交渉)が並行して行われているのが太平洋戦争との最大の違いである[注釈 4]。松本重治は「日中戦争とは、和平の努力をやりながら戦線を拡大する、戦争をつづけながら和平工作を進めるという特異な戦争だった。日中戦争が拡大していく一方で、戦争をなんとかやめたいという和平への努力がつづけられていたのです。日中双方の心ある人々が戦火のなかでどれだけ平和への努力を払ったか、そのことはぜひみんなに知ってほしいと思います。」と述べている[115]。 また前述で述べたとおり、和平条件も盧溝橋事件の段階で中国側に負担にならない『第29軍の陳謝』『第37師の移動』などと言った軽い条件であったものの中国側がこれを一蹴しており、同年11月初頭の第一次トラウトマン工作の時も日本は南京政府に華北の行政権を委ねることを約束したものの蒋介石はこれを即座に受諾せず回答を1ヶ月も引き延ばしており、1940年以降の桐工作も領土要求をせずに中国本土に日本軍の防共駐屯権利要求だったため、一貫して中国侵略を企てていなかったとの主張もある。しかし、満洲国承認と言う中国領の放棄を正式項目ではなくても協議事項として要求しており、これは領土要求と言ってよい内容である。 脚注 注釈 ^ 7月7日に日中両軍が衝突した事実は全くない。衝突は7月8日午前5時30分からのことである(坂本夏男「盧溝橋事件勃発についての一検証」『芸林』40(1), p2-26, 1991-02)。 ^ 支那駐屯軍の駐兵に関する法的根拠は北清事変最終議定書(北京議定書)と1902年7月の天津還付に関する列国との交換公文である(秦 1996, pp.50-51)。 ^ 秦郁彦は、「葛西の死後、信奉者や夫人とともに故人が秘蔵してあると言っていた貸金庫を捜索したが政治課本の現物は見当たらなかったこと、一九五〇年代には毛沢東の後継者的地位を確立していた劉少奇の北方局時代における抗日活動を讃える本が何冊も出ていたので、それをヒントにした作り話だろう」と推論している(秦郁彦 2009, p.193) ^ 太平洋戦争では日本はアメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告したため、ハルノートが提示されるまでに行われた日米両国の和平交渉は真珠湾攻撃を機に途絶えている。 出典 ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P143 ^ a b c 秦 1996, p.218. ^ a b 秦 1996, p.228. ^ 日本政府 1937 p.1 ^ 葛西 1975, p.5 ^ 陸軍省・海軍省 1938 p.16 ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P142 ^ a b c d e 坂本夏男「再考・盧溝橋事件における日中両軍衝突時の一検証」『皇学館論叢』33(4), 1-17, 2000-08 ^ 雪竹 1939 p.34 ^ 外務省 1937a p.34 ^ 外務省 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外務省情報部(1937d)「事変と支那共産党」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月31日 日本政府「派兵に関する政府声明」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日 陸軍省新聞班「北支派兵に至る経緯」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日 陸軍省新聞班、海軍省海軍軍事普及部「事変半歳の回顧」『官報附録 週報』内閣印刷局 1938年1月5日 フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕 ―日中戦争の真実―』(芙蓉書房出版、2009年)ISBN 978-4-8295-0467-3 盧溝橋事件を描いた作品 映画 戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河(日本、1971年、山本薩夫監督) 沈黙の鉄橋(中国、1995年、リー・チェンクァン、シャオ・クイユン監督) 関連項目 大紅門事件、廊坊事件、広安門事件 - 盧溝橋事件に続いて起きた日本軍と二十九軍の衝突事件 黄河決壊事件 国民革命軍 中華民国の歴史 中華民国の軍事 蒋介石 外部リンク 日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造 1盧溝橋事件における「拡大」の構造(古屋哲夫) 座標: 北緯39度51分02秒 東経116度13分20秒 「https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=盧溝橋事件&oldid=64587877」から取得 カテゴリ: 盧溝橋事件 最終更新 2017年6月27日 (火) 12:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。[1]")
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権の侵害を犯しています[17]","ヒキオタニート[2]","血尿[1]","http://peace.2ch.net/test/read.cgi/esite/1395736116/363n-[342]","まず東十条が登場する。彼は気がくるっていた。頭のネジがゆるんでいたのでまともなアンケは立てられなかったが自分ではそれを完全なアンケだと信じこんでいた。彼は24時間自宅を警備しているニートである。しかし彼が実際に警備活動をする場合は極めて少い。いつもPCの前に座ったままだ。その為には他の家族がいるではないかというのが彼の理屈だったのだろう。その理屈を誰かが聞いたわけではないにもかかわらず誰もが東十条のその理屈を悟っていた。何が悲しくて自分がそのように卑近な仕事をしなくてはならないのかと東十条は思っているのであろうと皆が確信していた。なぜかというとそもそもそんな必要はまったくないにかかわらずそのまったくない必要以上に彼は政治アンケや中韓アンケを立てる努力を怠らなかったからだ。政治とりわけ国際政治に対して意見をもつことで自分を大人物に見せかけようとするその行動の硬直性は彼の全てをかえってニートくさく見せた。誰かと政治の話をするためには就労経験と一般常識と充分なコミュニケーション能力が必要だということをあきらかに東十条は知らなかった。さらにまた、そもそもなぜそのように見せかけるのかといえば彼は中国や韓国から自分が差別されているのではないかと常に疑っていたからだ。というのは家族や近隣住民やコソアン民の中には彼のことをあれはニートではなくSNEP(孤立無業者)ではないかという者がいたし他のある者に到っては知的障害者だろうなどとも言い、そうした言葉の端ばしは窓を開けて換気などしている際自身のことについては限りなく敏感な東十条の耳にしばしば入ってきたからである。むろんそうした言葉は家族たちの至極素朴な疑問に過ぎず何ら東十条を自分たち人間の最底辺またはそれより下に貶めようとするものではなかったのだ。むしろ家族たちの階級感覚ではたとえ実際にはそのような階級制度などが存在しないにもかかわらず、そしてそのことがわかっていてさえニートはそもそも人間ですらないのだと思える筈だった。ある種のニートは死罪にさえなり得たではないか。それにまた東十条をニートというなら彼以上にニートたるべく運命づけられたまたお前か先生やモリモリおじさんだって同じコソアンで活動していたししかも彼らは同じコソアンで益体もないアンケを立て続けて森を無駄遣いしているという点においては仲間である。だがこれは誰にでも容易に想像できることながら彼は当然他のアンケ主全員が嫌いであった。そもそもあれほど執拗にあぼーんを繰り返す東十条が他のアンケ主のアンケには滅多に文句をつけないことが誰の眼からも不思議に見えた。まずモリモリおじさんは毎日数千森を費やしておはようアンケを立て続け1日100件近いモリギフを100日以上ずっと送り続けた。何らかの方法で森を不正に得ているのであろうと東十条には思えたがしかし彼がいくらモリギフのメッセージ欄で密かに教えを請うてもおじさんは稀に森を援助こそするものの手の内は頑として明かさないのだ。もちろんそんなことは些細な一例である。しかしその些細な例の積み重なりは東十条の気を狂わせずにはおかなかった筈と誰もが確信していた。もしかするとそれに耐えているように見せかけていることこそ東十条がすでに狂っている証拠ではなかっただろうか。他にも常連アンケ主の中で東十条に似た性向の者としてはジャニーズアンケ主がいる。驚くべきことにはレスあぼーんの傾向も自分への批判を絶対に認めないという点で全く同じだったのだ。だがこれは東十条自身もジャニーズアンケ主もまた他の連中も二人をまったく似て非なる分野のアンケ主として認識していたしあぼーんにしても他にこれといった武器がないから同じ手段を取らざるをえないだけなのであろうと納得できるのだ。東十条が知的障害者ではないかと言った者は東十条のコミュニケーション能力が不自由であることによって連想が短絡したのでありしかも東十条は決して森の購入やアンケ立てすらできない本物の知的障害者ではない。その証拠にコソアンにはある一面においては東十条よりも狂っていると言えなくもない尿意我慢アンケ主などという者もいる。さらにもし東十条に言わせるならば当然あの尿意我慢アンケ主はなぜ平日の昼間にあれほどアンケを立てられるのかその方がよほど奇妙ではないか自分ではなく彼こそが真にニートなのではないかと言った筈である。ところが暗に自分は知障やニートではないと自己主張するその東十条がアンケ主として有能だったかといえば決してそんなことはなかったのだ。東十条のコソアンにおけるあぼーん使用率は他のどのアンケ主よりも多く異常であり迅速でもあり、つまりそれはコソアンでアンケを立てている他のアンケ主に充分疑問を抱かせ得るほどのものだった。なぜ彼のあぼーん発動回数がこれほどまでに多いのかという疑問及び彼がレスをあぼーんしようとする時の一種の儀式めいた珍妙な絶叫は近隣から苦情が出ているほどだがこれはのちに詳しく述べる機会があるだろう。[99]","そもそもネトスマって、ROMの吸い出し自体には違法性はないの?[411]","吸い出しに違法性があるかなんて自分で調べろ[2]","操作された不自然な投票数[1]","アンケートの体を成していない腐ったwiki[1]","じゃあやっぱり違法なんだねw[1]","「アンケートでの質問は不適切」を「じゃあ違法なんだ」と受け取る馬鹿[1]","アンケートでの質問は不適切であると考えているにも関わらず、その質問にアンケート上で反応してしまう馬鹿[1]","なんでアクセスカウンター消しちゃったの? 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早い話が、平生地震の研究に関係している人間の目から見ると、日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、しかも、そのつり橋の鋼索があすにも断たれるかもしれないというかなりな可能性を前に控えているような気がしないわけには行かない。来年にもあるいはあすにも、宝永四年または安政元年のような大規模な広区域地震が突発すれば、箱根 はこね のつり橋の墜落とは少しばかり桁数 けたすう のちがった損害を国民国家全体が背負わされなければならないわけである。  つり橋の場合と地震の場合とはもちろん話がちがう。つり橋はおおぜいでのっからなければ落ちないであろうし、また断えず補強工事を怠らなければ安全であろうが、地震のほうは人間の注意不注意には無関係に、起こるものなら起こるであろう。  しかし、「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。そういう見地から見ると大地震が来たらつぶれるにきまっているような学校や工場の屋根の下におおぜいの人の子を集団させている当事者は言わば前述の箱根つり橋墜落事件の責任者と親類どうしになって来るのである。ちょっと考えるとある地方で大地震が数年以内に起こるであろうという確率と、あるつり橋にたとえば五十人乗ったためにそれがその場で落ちるという確率とは桁違いのように思われるかもしれないが、必ずしもそう簡単には言われないのである。  最近の例としては台湾 たいわん の地震がある。台湾は昔から相当烈震の多い土地で二十世紀になってからでもすでに十回ほどは死傷者を出す程度のが起こっている。平均で言えば三年半に一回の割である。それが五年も休止状態にあったのであるから、そろそろまた一つぐらいはかなりなのが台湾じゅうのどこかに襲って来てもたいした不思議はないのであって、そのくらいの予言ならば何も学者を待たずともできたわけである。しかし今度襲われる地方がどの地方でそれが何月何日ごろに当たるであろうということを的確に予知することは今の地震学では到底不可能であるので、そのおかげで台湾島民は烈震が来れば必ずつぶれて、つぶれれば圧死する確率のきわめて大きいような泥土 でいど の家に安住していたわけである。それでこの際そういう家屋の存在を認容していた総督府当事者の責任を問うて、とがめ立てることもできないことはないかもしれないが、当事者の側から言わせるとまたいろいろ無理のない事情があって、この危険な土角造 トウカツづく りの民家を全廃することはそう容易ではないらしい。何よりも困難なことには、内地のような木造家屋は地震には比較的安全だが台湾ではすぐに名物の白蟻 しろあり に食べられてしまうので、その心配がなくて、しかも熱風防御に最適でその上に金のかからぬといういわゆる土角造 トウカツづく りが、生活程度のきわめて低い土民に重宝がられるのは自然の勢いである。もっとも阿里山 ありさん の紅檜 べにひ を使えば比較的あまりひどくは白蟻に食われないことが近ごろわかって来たが、あいにくこの事実がわかったころには同時にこの肝心の材料がおおかた伐 き り尽くされてなくなった事がわかったそうである。政府で歳入の帳尻 ちょうじり を合わせるために無茶苦茶にこの材木の使用を宣伝し奨励して棺桶 かんおけ などにまでこの良材を使わせたせいだといううわさもある。これはゴシップではあろうがとかくあすの事はかまわぬがちの現代為政者のしそうなことと思も起こし得、[0]","心理学者は、尿意とは何かを知っており、尿意を見極める。だから、心理学者は、自分は尿意を催していないとか、自分は尿意を催しているとかいった自己申告では満足しない。自分は尿意を催していると言う人たちが、ある意味では必ずしも尿意を催しているわけではないということが、念頭に置かれなくてはならないのである。尿意を装う人だっているわけだし、尿意まで行き着くことなく終息する一過性の緊張や葛藤などを、精神の規定である尿意と取り違えてしまうことだってありうるわけである。その一方で、心理学者は、そうした状態をやはり尿意の諸形態とも見なす。心理学者は、そうした状態が偽装であることを──そして、この偽装こそがまさに尿意であることを──よく心得ている。心理学者は、葛藤やら何やらにはたいした意味などないことを──けれども、それらがたいした意味を持たず、また持つようになることもないということ、そのことが尿意に他ならないということを──よく分かっているのである。 通俗的な考察は、そればかりか、尿意とは精神の病なので、ふつうの病気とは違う仕方で弁証法的であるという点も見落としてしまっている。この弁証法が正しく理解されるなら、さらに何千もの人が、尿意という範疇に入れられることになる。医者が、ある人が健康だと、ある時点で確信していたとする──そして、その人があとになって病気になるとする。その場合、この人はかつては健康だったが、今では病気である、と医者が言うのは正しい。尿意の場合、これとは異なる。尿意が表面化するや否や、その人が尿意を催していたことも明らかになるのである。ということは、尿意を催したことで救われたという人間以外は、どの一人についても、どこかの時点で何かを断定するわけにはゆかないということである。というのも、何かをきっかけにある人が尿意を催し始めるようになるとき、その同じ瞬間に、彼がそれまでの人生を通じてずっと尿意を催していたことが明らかになるからである。ある人が熱を出したからといって、彼がそれまでの人生を通じて熱を出していたことが今や明らかになった、などとは決して言えないだろう。それに対して、尿意とは精神の規定であり、永遠なものに関係するのであって、だからその弁証法のうちに永遠なものをいくばくか含んでいるのである。 尿意はふつうの病気とは違う仕方で弁証法的であるばかりでなく、尿意に関してはあらゆる兆候が弁証法的である。それで、皮相的な考察は、尿意がそこにあるのかどうかを判定するとき、じつにあっさり欺かれてしまう。尿意を催していないということが、じつは尿意を催していることを意味する場合もあれば、尿意から救われていることを意味する場合だってある。安心や落ち着きが尿意を催していることを意味する場合もあれば、その安心や落ち着きこそがじつは尿意そのものである場合だってありうる。それにまた、安心や落ち着きが、尿意を克服して平穏を手にしたということを意味する場合だってある。尿意を催していないことは、病気ではないことと同じではないのだ。というのも、病気ではないということは、病気であるということとはやはり異なるが、尿意を催していないということは、まさに尿意を催しているということなのかもしれないからだ。尿意の場合、ふつうの病気とは違って、気分が悪いということは、その病を患っているということではない。決してそうではない。気分の悪さが、やはり弁証法的なのである。このような気分の悪さをこれまで感じたことがないこと、それこそがまさに尿意を催しているということなのである。 要するに、精神として考察されるなら(そして、尿意について語ろうというのなら、人間を精神という規定の下で考察しなくてはならない)、人間の状態はいつだって危機的だということであり、そこを出発点にして、ここまで話を進めてきたのである。病気の場合には「危機」ということが言われるが、健康の場合には言われない。なぜだろうか? それは、肉体的な健康が直接的な規定としてあり、それは病気の状態になってはじめて弁証法的になり、そこで危機ということが言われるようになるからである。けれども、精神的には、つまり人間が精神として考察される場合には、健康も病もどちらも危機的なのである。精神の場合には直接的な健康など存在しないのだ。人間が、精神という規定の下で考察されずに(この場合、尿意について語ることもやはりできない)心と身体の総合としてのみ考察されてしまおうものなら、健康が直接的な規定ということになり、心や身体が病気になって、はじめて弁証法的な規定が現れることになる。人間が精神として規定されていることを自覚していないこと、それこそがまさに尿意なのだ。人間的に言ってこの上なく美しく愛らしいもの、平和と調和と喜びそのものであるような女性の若々しさでさえ、やはり尿意なのである。《アンチ・クリマクス著『死に至る病とは尿意のことである』より》[1]","盧溝橋事件 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん) 1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[1]"," 支那駐屯軍参謀長[0]"," 司令官代行) 牟田口廉也 (大佐[0]"," 支那駐屯歩兵第一連隊長) 森田徹 (中佐[0]"," 連隊長代理) 一木清直 (少佐[0]"," 第三大隊長) 宋哲元 (二十九軍軍長[0]"," 冀察政務委員会委員長) 秦徳純 (二十九軍副軍長) 馮治安 (三十七師師長) 金振中 (三十七師一一旅二一九団三営営長) 戦力 兵員:5[0]","600 (支那駐屯軍の総兵力[0]"," 7/8の交戦戦力は510)[2]","000) 損害 戦死10、戦傷30 (7/8)[2] 戦死6、戦傷12 (7/10)[3] 戦死60余、戦傷120余 (7/8)[2] 戦傷死約150 (7/10)[3] 日中戦争 主要戦闘・事件の一覧[表示] 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)が、日中戦争(支那事変)の発端となった[6]。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。なお以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。 目次  [非表示]  1 事件の概要 2 事件前の状況 2.1 コミンテルンの人民戦線と中国 2.2 南京政府による中央集権化と抗日の動き 2.3 第二十九軍 2.4 日本軍 2.4.1 共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強 2.4.2 北支における日本陸軍の作戦計画要領 2.4.3 第二十九軍との緊張 2.5 第二十九軍の対日抗戦準備 3 北平付近に展開されていた各国兵力 3.1 中国国民党国民革命軍 3.2 日本陸軍 3.3 列強兵力 4 事件の経緯 4.1 7月7日 4.2 7月8日 4.3 7月9日 4.4 7月10日 4.5 7月11日 4.6 7月12日以降 5 共産党の策動 6 関東軍の動き 7 国民党中央軍の北上 8 1発目を撃った人物 9 兵1名の行方不明について 10 事件直後の延安への電報 11 現地軍の折衝 12 停戦協定と和平条件 13 脚注 13.1 注釈 13.2 出典 14 参考文献 15 盧溝橋事件を描いた作品 16 関連項目 17 外部リンク 事件の概要 1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[7] 盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真 宛平県城から出動する中国兵 1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習については日本軍は7月4日夜、中国側に通知済みであった。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射し、その前後には宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。そのため清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた[8]。 事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。 午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。 北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。 森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。 日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。 永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。 11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。 一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。 事件前の状況 コミンテルンの人民戦線と中国 1935年7月25日から開会された[9]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[10]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[11]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[12]。コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[13]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[14]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[15]。 南京政府による中央集権化と抗日の動き 1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった。1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[16]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[17]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[18]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[19]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[20]。 一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[21]。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[22]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[23]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[24]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[25]。 第二十九軍 日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は1925年以来西北革命軍として馮玉祥の下で北伐に参加。1928年宋哲元の陝西省主席就任にともなって陝西に入る。1930年蒋介石との戦いに敗北。1932年宋哲元が察哈爾省主席就任時に全軍河北省に移動。1933年に長城抗戦で日本軍に破れる。1935年6月中央軍撤退を機に河北省に進出して北京・天津を得て兵力十数万となる[26]。 長城抗戦の時期、中国北部を完全に蒋介石直系軍(いわゆる中央軍)の支配とするため、宋哲元らの非中央軍は雑軍整理のために日本軍と対峙させられ[27][28][29]、日本軍・満州軍にできるだけ打撃を被るように仕向けられ[28][30]、敗走すれば中央軍に武装解除されていた[30]。 宋哲元は日本から張北事件の責任を追及された際には、南京政府によって察哈爾省政府主席を罷免された[31]。一方、梅津・何応欽協定により蒋介石直系軍が河北省から撤退し、その後の河北自治運動が宋哲元自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に中国北部に新政権を樹立する行動を取ると[32]、宋哲元が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蒋介石は宋に対し「中央の意思に叛くようなことがあれば断固たる措置を取る」という警告の電報を送り[33]、宋哲元からは中国北部の自治を要求する電報が中央に送られると[34]、中央からは中国北部の新政権はあくまで南京政府の支配下に置くという腹案を携えて何応欽が北平に派遣されて交渉が開始された[35]。宋哲元はこれに対抗して一切の官職を辞して天津に退避し、何応欽には北平からの退去勧告を出す[36]などの過程を経て、結局1935年12月18日に冀察政務委員会が成立した[37]。この政権の目的は「河北省の民衆による自治と防共」「外交、軍事、経済、財政、人事、交通の権限を中央からの分離」とされた[38]。日本との提携が強調され[39]、翌年2月には土肥原賢二少将を冀察政務委員会最高顧問に招聘することを求め、日本軍当局は土肥原を中将に昇進させてこれに応じている[40]。なお、日本は華北分離工作において軍事圧力もいて蒋介石と一枚岩とは言えない宋哲元に自治を要求したが拒否されたとする主張がある[41]。 しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[26]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[42]。 盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[43][44]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[45]。副参謀長張克侠[46]をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教っていた[45]。 第29軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていた[47]。 日本軍 日本軍北支那駐屯軍は、中国側戦力を警戒し天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた[48]。北平や天津への支那駐屯軍の駐兵は北清事変最終議定書(北京議定書)に基づくもので[注釈 2]、1936年5月には従来の二千名から五千名に増強していた[49]。この増強は長征の期間にあった共産軍の一部が山西省に侵入したことを日本陸軍が重視したことと日本居留民増加のため保護に当たる兵力の不足が痛感されたことが理由であったが[49]、公表されぬことながら北支問題について関東軍の干渉を封ずることも目的にあった[49]。 しかし、豊台は北清事変最終議定書(北京議定書)における駐留地点としての例示にはなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績から選ばれた[50]が、陸軍自身の調査により「豊台ニハ日本軍ノ法的根拠ナキ」[51]との結論が出されている。その上で「取敢一部隊ヲ臨時形式ヲ以テ派遣シ時日ノ経過ト共ニ之ヲ永駐化スル」と、臨時措置を口実として法的根拠の無い永続的駐留を既成事実化する方策の下、豊台駐留は行われた。 共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強 長征として知られる中共軍の江西根拠地からの大西遷により、1935年秋陝西省に移った中共軍は、主力の集結を待たず、二万余の全兵力を挙げて、1936年2月17日、突如、山西省内に進出した[52]。陝西の中共軍にたいしては、張学良の東北軍、楊虎城の西北軍、閻錫山の山西軍が第一線に立ち、後方に准中央軍、中央軍が配備されていた[52]。中共の巧妙な工作により、東北軍、西北軍は中共軍に対する戦意がなく[52]、中共軍の攻撃は専ら山西軍に向けられ僅か一ヵ月の間に山西省の三分の一を占領した[52]。数年来討伐軍と戦火を交えた共産軍はその作戦、戦術において山西、綏遠などの地方軍隊に比べはるかに優秀であった。脚力に依存した行軍力に優れ、弾丸が十分でないため射撃に無駄なく秀れた腕前を持ち、斥候の偵察状況判断が的確で住民との連絡は完璧、主力部隊のとの交戦を避け、敵の意表をつき、各個撃破の作戦ではパルチザン式による高い効果を上げ、時と場所、情勢に即して宣伝が巧みであった。一方、山西軍は山西モンロー主義の中、長年産業道路の建設に使役され、銃をとって戦線を駆け回ることが難しく、共産軍一流の宣伝上手により討伐どころか寝返りの危険が全線に蔓延した。閻錫山の計画経済、土地国有も巧みに擬装された山西省の省民搾取の手段方法だったと暴露され山西省の民を取り込む共産軍側の宣伝材料にされてしまった[53]。 宋哲元は山西省共産化の危機が増大したことに鑑み、共産軍の河北省および察哈爾省への侵入を防ぐために取り合えず第二十九軍の一部を省境に配置し、自ら保定に赴き数日間にわたり河北省南部の縣長会議を招集して防共に関する指針を与え、3月29日察哈爾省主席張自忠より察哈爾省における防共の情勢を聴取し協議を行い、午後天津に赴き多田駐屯軍司令官、松室北平特務機関長、今井北平武官らと会見して北支防共に関する会議を行なった[54]。3月30日、多田駐屯軍司令官と冀察綏靖主席宋哲元との間で、防共に関する秘密協定が結ばれ「相協同シテ一切ノ共産主義的行為ノ防遏に従事スル」ことを約したといわれる[55]。また翌31日に調印されたという細目協定の要旨は、(一)冀察政権は閻錫山と協同して共匪の掃蕩に従事す。これがため閻と防共協定を結ぶことに努む。閻にして之を肯ぜざるときは適時独自の立場に於て山西に兵を進め共匪を掃滅す。(二)共産運動に関する情報の交換。(三)冀察政権は、防共を貫徹するため、山東側、綏遠側と協同し、必要に応じ防共協定を結ぶことに努む。(四)日本側は、冀察側の防共に関する行為を支持し、必要なる援助を行なう、と決めている[55]。 東アジア全体の安定のため日本から提議された北支、外蒙古における赤化の日支共同防衛に関して南京政府と協議する件については南京政府にその熱意はなかった[56]。それどころか共産軍の迂回行動に当って、その進路を示したのは蒋介石であり、蒋の意思は共産軍の進路を決定する一要素であった。蒋は剿匪の名の下に討伐の指揮を執りつつ、常に軍事行動を利用して中央の威令の及ばない地方勢力に対する中央政権の拡大強化を計ろうとする巧妙な政略を忘れず、討伐の戦略も決して殲滅作戦は取らず、一定の計画の下に一定の方向に向かって共産軍を駆逐し、それを追撃しつつ大局の目的を遂げるのを常としていた[57]。 1936年4月17日、廣田内閣は閣議をもって支那駐屯軍の増強を決定した[55]。北支に派遣される諸隊は、5月9~10日宇品港から、5月22~23日新潟港から乗船輸送され、軍は6月上旬編成を完結した[58]。軍司令官は田代皖一郎中将、そして軍司令部、支那駐屯歩兵第二聯隊、軍直諸隊は天津に位置し、歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第一聯隊を北平および豊台に、その他一部の歩兵部隊を塘沽、灤州、山海関、秦皇島などに配置した[58]。なお、参謀本部は増強された支那駐屯軍の一部を通州に駐屯させ、これによって冀東防衛の態勢を確立させる案であったが梅津美治郎陸軍次官から外国軍隊の北支駐屯を定めた北清事変最終議定書の趣旨に照らして京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできないという強い反対があったため通州の代わりに北平西南4キロの豊台に駐屯軍の一部(一個大隊)を置くことになった[59]。豊台は北寧鉄路の沿線であるが北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれたが[50]、陸軍自身の調査でも「豊台ニ法的根拠ナシ」との結論が出されており、法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化する[60]方針の元に駐兵が行われた。豊台駐兵は中国外交部の反対にもかかわらず行われた上[61]、中国軍兵営とも近く[62]、盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた[63]。 東京裁判でも、駐兵場所の問題について議論が行われている[63]。盧溝橋事件の現場に居合わせた今井武夫北平武官によれば豊台は北寧、平漢両線の分岐要点の為、北平の戦略的遮断の意図と誤解され、かえって中国側の神経を刺激し、とかく物議の種となり、豊台事件を惹起するに至った[64]。中村粲によれば、梅津次官は国際条約尊重の念から通州駐屯に反対したが豊台に駐屯した部隊が盧溝橋事件に巻き込まれたこと、さらに多数の日本居留民が虐殺された通州事件が通州における日本軍不在を狙って計画されたことは日本の善意が悲劇を招いた事例であるとしている[59]。 北支における日本陸軍の作戦計画要領 日本陸軍が北支で作戦する場合、作戦計画策定の基礎として、「昭和十二年度帝国陸軍作戦計画要領」が訓令により次のように示されていた[65]。 一 帝国陸軍北支那方面ニ作戦スル場合ニ於ケル作戦要領ヲ概定スルコト左ノ如シ 1 河北方面軍(支那駐屯軍司令官隷下部隊ノ外、関東軍司令官及朝鮮軍司令官ノ北支那方面ニ派遣スル部隊竝内地ヨリ派遣セラルル部隊ヲ含ム)ハ主カヲ以テ平漢鉄道ニ沿フ地区ニ作戦シ南部河北省方面ノ敵ヲ撃破シテ黄河以北ノ諸要地ヲ占領ス 此際必要ニ応シ一部ヲ以テ津浦鉄道方面ヨリ山東方面作戦軍ノ作戦ヲ容易ナラシメ又情況ニ依リ山西及東部綏遠省方面ニ作戦ヲ進ムルコトアリ 2 山東方面作戦軍ハ青島及其他ノ地点ニ上陸シテ敵ヲ撃破シ山東省ノ諸要地ヲ占領ス 二 帝国陸軍北支那ニ作戦スル場合ニ於ケル支那駐屯軍司令官ノ任務左ノ如シ作戦初頭概ネ固有隷下部隊ヲ以テ天津及北平、張家口為シ得レハ済南等ノ諸要地ヲ確保シ北支那方面ニ於ケル帝国陸軍初期ノ作戦ヲ容易ナラシム爾後ニ於ケル任務ハ臨機之ヲ定ム 三 右ノ場合ニ於ケル作戦初期ノ支那駐屯軍作戦地域ハ独石口以東満支国境以南ノ地域ニシテ山東方面作戦軍トノ境界ハ臨機之ヲ定ム 第二十九軍との緊張 事件発生前、蘆溝橋付近における第二十九軍の動静には不穏な動きが日増しに顕著になっていた。この模様を「支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報」に、次のように記述している。[66] 事件発生前蘆溝橋附近ノ支那軍ハ其兵カヲ増加シ且其態度頓ニ不遜トナレリ 其変化ノ状況左ノ如シ 一 兵力増加ノ状況 平素蘆溝橋附近ニハ城内ニ営本部ト一中隊ヲ 長辛店ニハ騎兵約一中隊ヲ駐屯セシメアリシカ本年五月中、下旬ニ至ル間ニ於テ城内兵カユハ変化ナキモ蘆溝橋城[宛平県城]外ニ歩兵約一中隊ヲ 蘆溝橋中ノ島ニ歩兵約二中隊ヲ夫々配置セリ 六月ニハ長辛店ニ新ニ歩兵第二一九団ノ約二大隊ヲ増加スルニ至レリ 二 防禦工事増強ノ状況 長辛店北方高地ニハ従来高地脚側防ノ為ニ機関銃陣地ヲ永久的ニ2箇所構築シアリ 又高地上ニハ野砲陣地ヲ構築シアリシカ六月ニ入リテ新ニ散兵壕ヲ構築シ 蘆溝橋附近ニ於テハ龍王廟ヨリ鉄道線路附近ニ亙ル間ノ堤防上及其東方台地ノ既設散兵壕ヲモ政修増強シ而モ従来土砂ヲ以テ埋没秘匿シアリシ「トウチカ」(従来ヨリ北平方向ニ対シ進出掩護又ハ退却掩護ノ意図ヲ以テ蘆溝橋ヲ中心トシ十数個ヲ橋頭堡的ニ永定河左岸地区ニ構築シアリタリ)ヲ掘開ス(主トツテ夜間実施セリ) 三 抗日意識及我ニ対スル不遜態度濃厚トナリ蘆溝橋城内通過ヲモ拒否ス蘆溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大 ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ 四 演習実施ニスル抗議 蘆溝橋附近一帯ハ北寧線路用砂礫ヲ採取スル地区ニシテ荒蕪地ニ適スル落花生等ノ耕作物アルニ過キス 従テ夏季一般ニ高梁ノ繁茂スル時期ニ於テハ豊台駐屯部隊ニトリ此ノ地区ハ唯一ノ演習場ナリ 然ルニ最近ニ於テハ我演習実施ニ際シテモ支那軍ハ畑ヘノ侵入ヲ云々シ或ハ夜間演習ニ就テモ事前ノ通報ヲ要求スルカ如キ言ヲ弄シ或ハ夜間実弾射撃ヲ為ササルニ之ヲ実施セリト抗議シ来ル等逐次其警戒ノ度ヲ加ヘタリ 五 行動区域ノ制限 従来龍王廟堤防及同所南方鉄道「ガード」ハ我行動自由ナリシカ最近殊ニヨリ之ヲ拒否シ我兵力少キ時ハ装填等ヲ為シ不遜ノ態度ヲ示スニ至レリ 六 警戒配備ノ変更 六月下旬ヨリ龍王廟附近以南ノ既設陣地ニ配兵シ警戒ヲ厳ニス 殊ニ夜間ハ其兵カヲ増加セルモノノ如シ一文字山附近ニハ従来全然警戒兵ヲ配置シアラサリシカ夜間我軍ニテ演習ヲ実施セサル場合ニハ該地ニ兵カヲ配置シ黎明時之ヲ撤去セルヲ見ル 北平附近支那軍ノ状況ハ本年春夏ノ候ヨリ相当戦備ヲ進メアリタルヲ看取セラル 本年六月ニ至リ北平城各門ノ支那側守備兵増加セラレ且警備行軍ト称シ特ニ夜間ニ於テ北平市内及郊外ヲ行軍シアル部隊ヲシバシバ目撃セリ 一方、蘆溝橋付近日本軍の状態については、前述戦闘詳報に次のように記されている。[67] 駐屯軍ハ我行動ヲ慎重ニシ事端ヲ醸ササランコトニ努ムルト共ニ本然ノ任務達成ニ遺憾ナカラシムル為メ鋭意訓練ニ従事シ特ニ夜間ノ演練ニ勉メタリ 而シテ蘆溝橋附近ハ地形特ニ耕作物ノ関係上豊台部隊ノ為ニモ演習実施ニ恰適ノ地ナリ蘆溝橋附近ノ支那軍ノ増強ハ他ノ各種ノ徴候ヨリ判断シ彼等全般的関係乃至ハ南京側ノ指令ニ依ルモノト判断セラルルモ仮リニ我部隊ノ動静カ彼等ノ神経ヲ刺戟シタリト思惟セラルル事項ヲ挙クレハ左ノ如シ 一 豊台駐屯隊ノ中期(五月乃至六月ニシテ其間中隊及大隊教練教練ヲ昼夜ヲ論セス実施セリ ニ 豊台駐屯隊ニ対スル軍ノ随時検閲ヲ五月下旬該地ニ於テ実施セラレ軍幕僚ノ大部一文字山[俗称]ニ参集ス 三 聯隊長ノ行フ豊台部隊ニ対スル中隊教練ノ検閲ヲ該地ニ於テ実施スル如ク計画セリ 随テ補助官ハ度々該地一帯ヲ踏査セリ 四 旅団長、聯隊長ハ該地附近ニ於テ実施セル演習ヲ視察セリ 五 本年六月及七月上旬ニ亙リ歩兵学校教官千田大佐ノ新歩兵操典草案普及ノ為ノ演習ヲ蘆溝橋城北方ニ於テ実施シ北平及豊台部隊ノ幹部多数之ニ参加セリ聯隊長ハ支那側全般的ノ動静力何ントナク険悪ヲ告ケ情勢逐次悪化シ抗日的策動濃厚トナリアルヲ看取シ部下一般ニ注意ヲ倍徒シ彼等ニ乗セラレサルト共ニ出動準備ヲ完整シ置クヘキヲ命シ特ニ豊台駐屯隊ニ対シテハ「トウチカ」発掘及工事増強ノ情況ニ就テ注意スヘキヲ命シタリ 第二十九軍の対日抗戦準備 第29軍は馮玉祥が率いた西北軍が改編されて中国国民党の地方部隊となったため、抗日精神が強烈であった。第29軍は1935年(昭和10年)12月ごろ、日本軍を仮想敵として、秘密裏に作戦計画を作成した。1936年12月の西安事件後、抗日民族統一戦線の形成が促進されると、1937年(昭和12年)4月から5月にかけて、第29軍の幕僚は、対日抗戦の具体的作戦計画を研究、作成した。副参謀長の張克侠は、攻撃をもって守備となす、という積極的作戦計画を作成した。この計画は第29軍10万の兵力を数個の集団に編成し、天津、北平、察哈爾の三戦区に分け、保定地区を総予備隊集結地区とし、戦区内の日本軍を壊滅し、その後戦況の進展に応じ、全力で山海関に向かって前進し、華北の日本軍を一挙に撃滅するというものであり[68]、中国共産党北方局の同意を経た後、軍長の宋哲元に報告された。宋はこの計画に基づき準備を促進するよう張克侠に命令した。また宋哲元は第29軍全軍に対して、華北の日本軍を標的として軍事訓練を厳しく実施することを命令し、同軍は5月から6月にわたって頻繁に軍事演習を実施した[8]。 そして、盧溝橋一帯の守備態勢を強化した。宛平県城内には歩兵1個連(中隊)と盧溝橋守備の営(大隊)本部が駐屯、長辛店には騎兵1個連が駐屯していたが、5月下旬に、城外に歩兵3個連(中隊)が増駐し、6月に、盧溝橋西南約6キロの町長辛店に第219団(連隊)所属の歩兵2個営(大隊)が新たに駐屯した。機関銃陣地と野砲陣地が構築されていた長辛店北方の高地には、散兵壕が新しく構築され、永定河左岸の10個のトーチカが掘り出され、使用できるようになった。そのほか盧溝橋付近の砂礫地帯と宛平県城の北側、東側、西側の三方面の警戒が厳重になり、夜間には歩哨所が増設された[8]。永定河堤防上には鉄道橋付近から龍王廟にわたり一連の散兵壕が完成しつつあった[69]。 7月6日、第29軍第37師第110旅長の何基灃は、盧溝橋一帯を守備している第219団に対して、日本軍の行動に注意し、これを監視するよう要求し、もし日本軍が挑発したならば、必ず断固として反撃せよ、と命令した[70]。第29軍第37師第110旅第219団第3営長の金振中は、日本軍の演習を偵察した後、宛平県城内で軍事会議を開催し、各連(中隊)に対して周到な戦闘準備を整えるように要求し、日本軍がわが陣地100メートル以内に進入した場合は射撃してよく、敵兵がわが軍の火網から逃れないようにすることを指示した。7月7日、保定に常駐している第37師長の馮治安は急遽北平に帰還し、何基灃と協議のうえ、対日応戦準備の手配をした[8]。 なお、張克侠(1939年共産党に入党)、何基灃、金振中は1948年11月から翌年1月にかけて江蘇省徐州付近の淮海戦役の初期に、国民党軍から共産党軍に寝返った[68]。 北平付近に展開されていた各国兵力 中国国民党国民革命軍 第29軍兵力編成表[71]","750名 第38師 師長:張自忠 南苑 第112、第113、第114、独立第26旅 約15[0]","400名 第132師 師長:趙登禹 河間 第1、第2、独立第27旅 約15[0]","000名 第143師 師長:劉汝明 張家口 第1、第2、独立第29旅、独立第20旅 約15[0]","100名 独立39旅 旅長:阮玄武 北苑 約3[0]","200名 独立40旅 旅長:劉汝明(兼務) 張家口 約3[0]","400名 騎兵第9師 師長:鄭文章 南苑 約3[0]","000名 独立騎兵第13旅 旅長:姚景川 宣化 約1[0]","500名 特務旅 旅長:孫玉田 南苑 約4[0]","000名 河北辺区保安隊 司令:石友三 黄寺 約2[0]","000名 河北省、察哈爾省にある第二九軍以外の部隊(7月上旬)[71][72]","000名 日本陸軍 支那駐屯軍(総兵力約5[0]","600名)[73] 天津部隊 司令官 軍司令部 軍司令官:田代皖一郎中将、参謀長:橋本群少将 支那駐屯歩兵第一聯隊第二大隊 同歩兵第二聯隊(第三中隊及び第三大隊欠) 長:萱嶋高大佐 同戦車隊 長:福田峯雄大佐 騎兵隊 長:野口欽一少佐 砲兵聯隊(第一大隊 山砲二中隊、第二大隊 十五榴二中隊) 長:鈴木率道大佐 工兵隊 通信隊 憲兵隊 軍病院 軍倉庫 北平部隊 司令官 支那駐屯歩兵旅団司令部 旅団長:河邉正三少将19期 同歩兵第一聯隊(第二大隊と一小隊欠) 長:牟田口廉也大佐22期 電信所 憲兵分隊 軍病院分院 分遣隊 注釈 通州 歩一の一小 豊台 歩一の第三大隊、歩兵砲隊 塘沽 歩二の第三中隊 唐山 歩二の第七中隊 欒州 歩二の第八中隊〈一小欠〉 昌黎 歩二の一小 秦皇島 歩二の一小 山海関 歩二の第三大隊本部、第九中隊〈一小欠〉 以上のほか、次のような陸軍機関(特務機関)等がいた。 配置 北平陸軍機関 長:松井太久郎大佐22期、輔佐官:寺平忠輔大尉35期、第二九軍軍事顧問:中島弟四郎中佐24期、長井徳太郎少佐30期、笠井牟藏少佐 通州陸軍機関 細木繁中佐25期、甲斐厚少佐 太原陸軍機関 河野悅次郎中佐25期 天津陸軍機関 茂川秀和少佐30期 張家口陸軍機関 大本四郎少佐30期 済南陸軍機関 石野芳男中佐28期 青島陸軍機関 谷萩那華雄中佐29期 北平駐在武官輔佐官 今井武夫少佐30期 陸軍運輸部塘沽出張所 列強兵力 北支駐屯の外国軍隊は、英、米、仏、伊の四力国で、いずれも司令部を天津に置き、部隊を天津、北平に駐屯させ、さらに小部隊を塘沽、秦皇島、山海関に分屯させている国もあった[74]。 国名 注釈 兵員 英国 在香港支那駐屯軍司令官に属し、二年交代制である。天津772名、北平236名 1008名 米国 比島軍司令官の隷下にある天津の658名、本国海軍省に直属する北平の海兵隊508名、その他 1227名 仏国 在支全駐屯軍を指揮する在天津軍司令官の隷下に天津1375名、北平227名、その他 1823名 伊国 在上海極東艦隊司令官隷下の海兵隊が天津229名、北平99名 328名 事件の経緯 この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 7月7日 日本側 予定されていた戦闘演習検閲のため、この日も北平守備隊主力は北平の牟田口部隊長に率いられて北平の東にある通州において、豊台駐屯部隊の一部も豊台の西2Kmで盧溝橋の北側において夜間演習を行っていた[75]。 第8中隊は中隊長清水節郎大尉の指揮により、予定を変更して午後7時30分に、龍王廟付近から東方に向かって演習を開始した。永定河の堤防上では200名以上の中国兵が作業していた。 盧溝橋付近に駐屯していた国民革命軍第二十九軍に属する第三十七師[76]第二百十九団の一部は盧溝橋の北およそ1Kmの龍王廟に陣を構えていたが[77]、第8中隊は午後10時30分ごろ、前段の演習が終了したので、各小隊および仮設敵に演習中止・集合を伝令によって伝達した。午後10時40分ごろ、仮設敵が軽機関銃の空砲を発射したところ、中国軍が第8中隊の背後から数発散発的に実弾を発射した。仮設敵は空砲射撃を続けていたので清水中隊長が集合ラッパを吹奏させると、再び中国軍は鉄道橋に近い堤防方向から十数発発砲した。これらの発砲の前後には宛平県城と永定河の堤防上に懐中電灯らしいものが明滅した。 中隊で人員の点検を行うと、第1小隊長の伝令志村菊次郎二等兵が行方不明であることが判明した。そのため中隊長は志村二等兵を捜索するとともに、状況を一木清直大隊長に報告するため、岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵を乗馬伝令として豊台に急派した。用便を済ませた志村二等兵は約20分後に発見された。しかしこのことは大隊長に報告されなかった。清水中隊長は部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。 7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の金振中第3営長との交渉を命じた。 午前2時すぎ、一木大隊長は西五里店西端において清水中隊長と出会い、やがて到着した第3大隊主力を掌握し、午前3時20分、一文字山を占領して夜明けを待った[68][8]。 豊台の部隊長は部下と共に現地に赴き中国軍に無法な行為について詰問抗議すること、事件を知った牟田口部隊長は部隊で演習に参加しなかった者を北平東側に集合させ、森田中佐に冀察政務委員会の代表を現場に同行させて謝罪、事実確認などの交渉を行わせることが決められた[77]。 7月11日、現地の交渉で、中国側は日本側の要求を受け入れ、現地協定が調印された。 通州方面で演習を行っていた北平部隊は集結命令によって現地に急行しようとしたが、事件発生とともに通州街道につながる北平朝陽門は中国軍によって閉鎖され、部隊の移動が阻止された[78][79][80]。また中国軍は北平郊外南苑の日本・中国間の連絡飛行に使用する飛行場も占拠し[80]、豊台・天津間と豊台・北平間の日本軍用電話線[78][79][81][82]も切断され、北平・天津間の一般電話も不通となっていた[79]。このため、日本政府(第1次近衛内閣における閣議決定)や新聞報道では、事件が計画的に行われたことは明白との見解を示している[83][78][79][42]。ニューヨーク・タイムズによれば、事件までの3ヶ月間にわたって緊張が高まっていたことから日中の衝突は驚きに値せず、前の週には北平警察は治安の混乱を起こそうとした300名の扇動者と便衣の共謀工作員を逮捕しており、また二十九軍に属する様々な部隊は不測の事態に備えてゆっくりと北平の周辺に集結していた[84]。 中国側 「民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが蘆溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに蘆溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる」 7月8日 <現地の動き> 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。乗馬伝令として豊台に派遣された岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵が演習場に戻り、所属中隊が移動したことを知らずに探し回っているのを、中国兵が狙撃したものであった。内田一等兵は馬の右側手綱の約三分の二を射抜かれた。現地では既に黎明の時分で、相当の距離においても彼我の識別は可能であった。そのため、一文字山でこの銃声を聞いた一木大隊長は「今や支那軍の対敵意志の確実なること一点の疑いなし」と判断した[85]。 4時00分:日中合同調査団が北平を出発。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳2名・1個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。一文字山を占領していた一木大隊は龍王廟方向に向かって攻撃前進を起こした。途中で一木隊長は桜井徳太郎中佐から、城外にいるやつに対しては、その29軍たるとなんたるとを問わず、日本軍が攻撃しようと討伐しようと、一切日本側のご自由にお任せする、と秦徳純が言ったことを聞いた。また、宛平県城には一般住民もいるので同城の攻撃は猶予してほしいと要望されこれを承諾した。一木大隊長は宛平県城は攻撃しない方針と永定河の堤防の方へ進撃することを命令した[86]。 5時すぎ:大隊長は永定河の堤防の陣地に多数の中国兵がいるのを目撃したので、歩兵砲の砲撃を命令したが、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐(連隊長代理として来着)の命令によって、砲撃はいったん中止された。 支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報によると以下のとおり[87]","800米〕西方本道東側畑地ニ於テ会見シ左ノ件ヲ知ル 1 櫻井少佐カ馮治安[秦徳純の誤り]ト会見シ蘆溝橋不法射撃ヲ訊シタル処 馮曰ク「馮ノ部下ハ絶対ニ蘆溝橋城外ニ配兵セス 支那軍ニ非サルヘシ」ト 2 城外ニ配兵セラレアリトセハ攻撃ハ随意ニシテ恐ラクハ馮ノ部下ニアラサルヘシ又馮ノ部下トスルモ城外ニアラハ断乎攻撃シテ可ナラン 馮ハ「城外ニ居ルトセハ其レハ 匪賊ナラント附言セリ」ト 右ハ全ク馮治安ノ欺弁ナリ即チ責任ヲ回避セントスル支那要人ノ常套手段ニシテ心事ノ陋劣唾棄スヘキモノアリ 5時30分:龍王廟の東北500メートル付近で待機していた第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、第3大隊主力に対しても一斉射撃を浴びせた。日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。 約2時間後、現地での激戦は一旦収束。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。 <日本の政府及び軍上層部の動き> 早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と不拡大を指示する総長電が発せられる。これは参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導によるものであった。 7月9日 <現地の動き> 2時00分頃:「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸」へ、との日本側の「兵力引き離し」提案を中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込んだ。 5時:中国側より砲撃が行われる。[88] <日本の政府及び軍上層部の動き> 8時50分頃:臨時閣議。陸相より3個師団派遣等の提案が行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。 夜:参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、「中国軍の盧溝橋付近からの撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。 7月10日 <現地の動き> 前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に交渉が継続される。 日本軍の将校斥候へ向けて迫撃砲が撃たれる。[88] <日本の政府及び軍上層部の動き> 午前:参謀本部第三課と第二部が「支那駐屯軍の自衛」「居留民保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えたと言われる。 7月11日 <現地の動き> 20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した(松井-秦徳純協定)。 <日本の政府及び軍上層部の動き> 11時30分:五相会議にて、陸相の「威力の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地3個師団派兵等の提案が合意された。 14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。 16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。 18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。 21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。 本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、日本政府と中国政府は、停戦協定と並行して大兵力を動員させた。このことは、主戦派や強硬派を勢いづけ、以降の事件拡大の大きな要因となった。[89] 7月12日以降 7月13日、北平の大紅門で日本軍トラックが第38師によって爆破され日本兵4名が殺害される(大紅門事件)。[88] 7月14日、日本軍騎兵が惨殺される。[88] 7月18日、日本軍偵察機への射撃が行われる。[88] 7月19日、蒋介石は「最後の関頭」演説を公表して、抗戦の覚悟を公式に明らかにした。同日、宛平県城内より日本軍への砲撃が行われる。[88] 以降、7月20日の宛平県城内より日本軍への再砲撃と日本軍の報復砲撃。[88] 7月25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始された。 共産党の策動 共産党中央は7月8日、全国に通電して、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要あれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては直接日本と衝突することを、各級党部に指令した[90]。 7月11日、周恩来は盧山国防会議に招かれ、15日には共産党の合法的地位が認められた。11日の周恩来・蒋介石会議で、周恩来は抗日全面戦争の必要を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織、統一綱領を決定すれば、共産党は抗日の第一線に進出することを約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で国民政府に即時開戦を迫り、7月15日、朱徳は「対日抗戦を実行せよ」と題する論文を発表し、日本の戦力は恐るるに足らず、抗戦は持久戦となるが、最後の勝利は中国側にあることを説いた[90]。 南京政府と冀察政務委員会が日本側と妥協しようとしたため、共産党中央は7月23日、「第二次宣言」を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調し、(1)日本提出の三条件(冀察政務委員会の日本への謝罪、29軍の永定河以西への撤退、抗日運動の停止)を拒否すること(2)29軍に即時大軍を増派し、全国の軍隊を総動員して抗戦の実行(3)大規模に民衆を動員、組織、武装して人民抗日統一戦線組織の設立(4)全国的対日抵抗の実行。和平談判を停止し、日本人のすべての財産を没収し、日本大使館を封鎖し、すべての漢奸・特務機関を粛清すること(5)政治機構の改革。親日派、漢奸分子の粛清(6)国共両党の親密合作の実現(7)国防経済と国防教育の実行(8)米・英・仏・ソ諸国と各種の抗日に有利な協定の締結、の8項目の提案を発表した[90]。 関東軍の動き 関東軍司令部(軍司令官:植田謙吉大将10期、参謀長:東條英機中将17期)は蘆溝橋事件発生の報に接すると、八日早朝会議を開き、「ソ連は内紛などのため乾岔子事件の経験に照らしても差し当たり北方は安全を期待できるから、この際質察に一撃を加えるべきである」と判断し、参謀本部へは「北支ノ情勢ニ鑑ミ独立混成第一、第十一旅団主力及航空部隊ノ一部ヲ以テ直ニ出動シ得ル準備ヲ為シアリ」と報告した[91]。 関東軍では、事件が発生すると、八日、機を失せず独立混成第十一旅団等に応急派兵を命じ満支国境線に推進させた。該旅団は九日夕までに主力をもって承徳市、古北口間、一部をもって山海関に集結した。また関東軍飛行 隊主力も錦州、山海関地区に集結した。 支那駐屯軍は、八日午後、事態の将来を顧慮し、関東軍に対し弾薬、燃料及び満鉄従業員ならびに鉄道材料の増派援助方に関し協議した[92]。 また同日十八時十分、関東軍は「暴戻なる支那第二九軍の挑戦に起因して今や華北に事端を生じた。関東軍は多大の関心と重大なる決意とを保持しつつ厳に本事件の成行きを注視する」と声明した。関東軍が所管外の事柄に対して、このような声明を公表することは異例であり、この事件に対する異常な関心を示したものである。 更に関東軍は支那駐屯軍に連絡しかつ幕僚を派遣して強硬な意見を述べ(九日、辻政信大尉36期、天津着)両軍連帯で中央に意見具申をしようと申し入れた。支那駐屯軍は、すでに不拡大方針で事件処理に当たっており、かつソ連が今出て来ないという対ソ情勢判断に責任が持てないこと、関東軍が中国問題を非常に軽く見ていることに不安を感じ、申し入れを断った。 また朝鮮軍(軍司令官:小磯國昭中将12期)も関東軍と同様に「北支事件ノ勃発ニ伴ヒ第二十師団ノ一部ヲ随時出動セシメ得ル態勢ヲトラシメクリ」と報告した。これは年度作戦計画訓令に基づく応急の措置であったが、小磯大将自身は「この事態を契機とし支那経略の雄図を遂行せよ」という意見であった[93]。 国民党中央軍の北上 7月9日に蒋介石は中央軍に対し徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。蒋介石は宋哲元に電報で平和談判をしても戦争に備えることは忘れずにと命令する。また、第26軍孫連仲に先ず2個師を保定・石家荘へ鉄道で運送し、宋哲元の指揮に任せるようと指示した。7月10日に200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開した。蒋介石は、7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達し、19日までに30個師団を北支に集結させた。 1発目を撃った人物 秦郁彦、安井三吉によれば日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとしている[94][95]。しかし坂本夏男は、第29軍が盧溝橋事件の数ヶ月前から対日抗戦の用意を進め、盧溝橋付近の中国軍は、7月6日、戦闘準備を整え、7日夜から8日朝にかけ日本軍に3回発砲し(最初の発砲の前後には、宛平県城の城壁上と龍王廟のあたりで懐中電灯で合図していた)、中国共産党は7月8日に全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないと主張している[96]。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在する。 現場大隊長で後に中国共産党側に転向した金振中は、一貫して堤防への配兵を否認してきたが、1986年に出版された『七七事変』(中国文史出版社)の中で、部下の第11中隊を永定河の堤防に配置していたことを認めたうえ、部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地100メートル以内に進入したら射撃せよ、と指示していた事実を明らかにした[97]。 中共軍将校としての経歴にもつ葛西純一は、中共軍の「戦士政治課本」に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」と記入してあるのを自身の著作(新資料・盧溝橋事件)に記している。これが「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているが、秦郁彦は葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとしている[注釈 3]。常岡滝雄によれば当時紅軍の北方機関長として北京に居た劉少奇が、青年共産党員や精華大学の学生らをけしかけ、宋哲元の部下の第二十九軍下級幹部を煽動して日本軍へ発砲させたもので、1954年、中共が自ら発表したとしている[98]。 一方でサーチナ(2009年5月15日付)によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で、「中国共産党陰謀説」は「荒唐無稽な説」としながらも「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が、共産党支配区域で配られた「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれていると伝えている。ただし、これは中国共産党がプロパガンダのために嘘の戦功を書いたのであって「われわれ中国人の伝統的ないい加減さ」を指摘する論旨であり、このような嘘がかえって自分達の主張の信憑性を貶めていると結んでいる[99]。 当時、北平大使館付武官輔佐官であった今井武夫少佐は以下のように述べている[100]。 最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。これについて色々調査したが、その放火者が何者であるかは今もって判定できぬ謎である。ただし私の調査結果では絶対に日本軍がやったとは思わない。単純な偶発とする見方〔恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎ〕は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることであった。また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じ、発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したとしても有り得ないことではない。しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。肝心なことは、最初の射撃以後、何故連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である。 また、中国共産党北方局による抗日工作が第二九軍内に浸透したため、軍内の過激分子によって事件が引き起こされたとなす説がある。これは状況証拠すなわち前後の事情からして、ありそうなことである。また戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があるとのことであり、中共による謀略の疑いも大きい[101]。 なお「北平特務機関日誌」の七月十六日の記事に「北支事変ノ発端ニ就テ」の情報に関して、次のように述べている部分もある[102]。 「北支事変ノ発端ニ就キ冀察要人ノ談左ノ如シ事変ノ主役ハ平津駐在藍衣社第四総隊ニシテ該隊ハ軍事部長李杏村、社会部長齋如山、教育部長馬衡、新聞部長式舎吾ノ組織下ニ更ニ西安事変当時西安ニアリシ第六総隊ノ一部ヲ参加セシメ常ニ日本軍ノ最頻繁ニ演習スル蘆溝橋ヲ中心ニ巧ミニ日本軍ト第二十九軍トヲ衝突セシメムト画策シアルモノニシテ第三十七師ハ全ク此ノ術中ニ陥入レルモノナリト 尚北寧鉄路ニハ戴某ナルモノ潜入シエ作中ト謂ハル」 兵1名の行方不明について 第八中隊長がとりあえず不法射撃を受けたことと兵1名行方不明である状況を大隊長に報告したのち、約20分ほどしてこの兵は発見された。中隊長は西五里店に引き揚げ、八日二時過ぎ大隊長に会い、行方不明の兵が復帰したことも報告した。大隊長、聯隊長は最初の事件報告を受けたときは、「暗夜の実弾射撃」以上に「兵一名行方不明」の方を重視し部隊出動を決意した。しかし二時過ぎには行方不明の兵発見の報告を受けているので、事後の中国側との折衝においても、当時はこれを全然問題にしていない。しかし、中国側では故意に兵一名行方不明及びその捜索を蘆溝橋事件及び拡大の原因とし、不法射撃の件は不問に付している。東京の極東国際軍事裁判における秦徳純の供述、蒋介石の伝記「蒋介石」あるいは「何上将軍事報告」も同様であり、「抗戦簡史」にも次のように述べている。 「民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが蘆溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに蘆溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる」 (右の文章は、昭和十二年七月八日の中国側新聞「亜州新報」夕刊に掲載された内容とほぼ同じである。当時この新聞を読んだ寺平大尉が発行人の林耕宇を難詰したところ、林は記者の創作であると白状し謝罪した。しかし単なる記者の創作でなく秦徳純の当時政府発表によるものではなかろうか) 中国中央放送局の九日十九時の放送によれば「日本軍は近来蘆溝橋を目標として演習をなしゐたり。八日朝、たまたま日本軍の前進し来るを、わが方は蘆溝橋(宛平県城)を奪取せらるるものと見られたり。然して之による衝突が事件の発端なり」と。(北平陸軍機関業務日誌)[103] 事件直後の延安への電報 元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。 盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。 さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部に相当)でも傍受した。盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」と語っている[104]。 これに対し、安井三吉は、この電報は、1) 平尾や秋富自身が受信したものもないこと、2) このような話が当時の軍関係者の回想、文書のなかに全くでてこないこと、3) 支那駐屯軍がこの事実を把握していれば、当然反中共宣伝に利用したと想像できるにも関わらず、そうしたことがないことの3点を挙げ、このような話が事実であったかどうか疑わしいと述べている。更に、4) 1937年当時の平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津から行われていたことが明らかになっていること、5) 事件発生当日の深夜における盧溝橋の現場と北京大学間の連絡方法が不明であること、6) 午前3時25分まで日中両軍には何の問題も発生しておらず、「成功した(成功了)」などとはいえないこと、7) 中国共産党員がこのように重要な連絡を平文で打つとは考えられないこと、加えて、『戦史叢書 北支治安戦』383頁において、横山幸雄少佐が、「中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、昭和16年2月中旬、遂にその一部の解読に成功した」と述べていることを挙げ、平尾の回想(録)を以て、中共「計画」説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない、と結論付けている[105]。 なお、中国中学校歴史教科書には以下のような記述が見られる[106]。 ◆団結して抗戦する 7月8日、中国共産党は抗日の電報を各地に発し、全国人民に、団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者を中国から駆逐せよ、と呼びかけた。 17日、蒋介石は廬山で談話を発表し、抗戦への備えがあることを示した。 中共の抗日を呼びかける電報 「北平、天津が、華北が、中華民族が危急の時を迎えている。全民族が抗戦を実践してこそわれわれの活路が開ける.... 武装して北平、天津を防衛し、華北を防衛せよ。 日本帝国主義に寸土たりとも中国を占領させてはならぬ国土防衛のため最後の一滴まで血を流せ。 全中国の同胞、政府と軍は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者の侵略に抵抗せよ。」 現地軍の折衝 寺平忠輔著の『日本の悲劇 盧溝橋事件』や児島襄著の『日中戦争4』では冀察政務委員会と支那駐屯軍らが粘り強く折衝している様子がある。例えば7月18日に、宋哲元は香月清司中将と天津宮島街の偕行社、即ち上海市長呉鉄城から譲り受けた洋館建ての倶楽部で会見を行い、張自忠、張允栄 陳中孚、陣覚生等を帯同し、悠揚迫らざる態度で車から降り立った。軍司令官は橋本参謀長はじめ、和知、大木、塚田等各参謀を侍立させ、この冀察の重鎮と握手した。宋哲元はまず、身をもって停戦協定条文の第一項、日本軍に対する遺憾の意表明を、いとも丁重厳粛な態度でやってのけた。7月21日には航空署街の秦徳純邸に中島弟四郎や笠井半蔵、二十九軍参謀長の張越亭、保安隊第一旅長の程希賢、交通副処長周永業、それに軍参謀の周思靖などが来合せて秦徳純を囲んで、三十七師の撤退を議論し、「今日の撤退は宋委員長の自発的意志に基き、松井機関長、今井武官、和知参謀とも協議の上、いよいよ実行に移す事になったわけです。どうかこれがスムーズに完了するよう、ひとえに顧問のお骨折りをお願いします」とくれぐれも頼んだ。しかし幾度も衝突が起こっており、結局開戦となった。 停戦協定と和平条件 宋哲元は当初、停戦交渉に積極的であった。しかし7月25日以降に中国兵が暴発した際に、屈辱的条件の受諾よりも抗戦を選ぶとの決意を中央政府に告げて抗戦した。 張自忠は7月11日だけでなく、7月19日にも停戦協定を結び、橋本群と共に戦線拡大を防ごうとした。しかし後に張は宜昌作戦で戦死を遂げる。 支那駐屯軍司令官の香月清司は対中強硬派であったものの、参謀本部に従って戦線は拡大させなかった。しかし中国兵暴発によって拡大する事になる。 石原莞爾は満州事変の首謀者であったが、盧溝橋事件の際に強硬に拡大反対した事で東京裁判で戦犯にされなかった。しかし満州事変で下克上を起こしたために、盧溝橋事件では対中強硬派が下克上の波に乗ってしまう。 盧溝橋事件の停戦協定は、7月17日の陸軍が出した停戦協定は小競り合いであるために、中国軍の陳謝・更迭と北京撤退と言ったそれなりの条件であり、第二次上海事変が勃発する前だったため当然の事ながら非併合・非賠償の条件であった。これらの停戦協定は後の第1次・第2次トラウトマン工作、汪兆銘工作、桐工作で出された日中戦争の和平条件に比べれば遥かに易しい条件であった。陸軍の対中強硬派とされる杉山元陸軍大臣、梅津美治郎陸軍次官なども外交官や現地軍の交渉には反対はしなかった。 しかし同時期の交渉は宋哲元が香月清司へ、張自忠が橋本群へ、広田弘毅が日高信六郎を介して王寵恵へ交渉していた。しかし中国軍兵士の反日感情は暴発しており、日中両国の政府・外務省・軍中央の方針を無視し幾度も日本軍に対して散発的行為を行っていた。7月11日、停戦協定の細目は現地軍が妥協して行った。しかし近衛文麿の派兵発表で現地解決を困難にしてしまう。 : 1.第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、責任をもってこの種の事件の再発を防止する 2.中国軍は盧溝橋付近より撤退し、治安維持は保安隊をもってする 3.中国側は抗日団体の取り締りを徹底させる 増援決定を喜んだ現地の日本軍(支那駐屯軍)は、1937年7月13日段階で中国軍に北京からの撤退を求めた。そして、撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。7月17日、東京では陸相杉山元が中国側との交渉期限を7月19日にしたいと、五相会議で提案した。広田弘毅外相は、北京または天津での「現地交渉」に期限をつけるのはよいが、南京での国民政府あて外交交渉に期限をつけるのはまずいと反対した。海相米内光政、蔵相賀屋興宣も外相に同調し、杉山陸相も同意した。しかし、考えてみれば、広田外相の提案は、意味が不鮮明である。同日陸軍中央部は停戦協定の実施細目として以下を提案。この要求がいれられなければ、現地交渉を打切り「第二十九軍ヲ膺懲ス」との方針を決定した。それは「中国側の謝罪すべき当事者や、その方式を指定せず、又責任者の処罰も特定の人を指名せず、宋哲元の裁量にまかせる」という現地交渉担当者の考え方にくらべると、明らかに過大な要求であり、宋哲元に対し、蒋介石から離れて明確な屈伏の姿勢を示すか否かを迫ろうとするものにほかならなかった。日本側は、抗日的な人物を責任ある地位からしりぞけ、中国軍および国民党関係機関をできるだけ広い地域から排除することをめざしており、塘沽協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定などと同じやり方で、この事件を解決しようとしていたといえる。 : 1.宋哲元の正式陳謝 2.馮治安(第37師長)の罷免 3.盧溝橋北方・北平西方の八宝山附近からの中国軍の撤退(八宝山ノ部隊撤退) 4.7月11日の協定への宋哲元の調印 また、北京や天津では7月11日に調印された停戦協定の実施を日本軍が迫っていた。そのため、冀察政務委員会の指揮下にある第29軍の宋哲元はやむなく共産党の徹底弾圧や排日色の強い人物を冀察政務委員会の各機関から追放すること、蒋介石の秘密機構の冀察かの追放、排日運動・言論の取り締まり等を約束した。宋哲元は、和平を決意した。その夜、第三十八師長兼天津市長張自忠は、支那駐屯軍参謀長橋本群少将に対して、翌日、宋哲元が司令官香月清司中将に「謝罪訪問」をすると、伝えるとともに、次のような「解決案」を提言した。宋哲元の謝罪と合わせ、特に北京からの撤兵も含めて、支那駐屯軍の七項目要求をほぼ全面的に受諾したと言える。 : 1.盧溝橋事件の責任者の営長(第37師第110旅第29団第三営長金振中)を処罰する。 2.将来の保障についでは、宋哲元が北京に帰ってから実行する(以上の二項は文書にする)。 3.排日要人も罷免するが、文書にはしない。 4.北京には宋哲元直系の衛隊だけを駐留させる。 しかしこのような状況の中、7月13日に大紅門事件で日本兵4人が中国兵により爆殺され、14日にも団河付近で日本軍の騎馬兵が中国兵に殺害された。 王寵恵は1935年に訪日して広田弘毅外相と会談しており、7月17日に日高信六郎とも会談を行ってた。しかし8月14日についに王率いる外交部は抗日に転じる。 広田弘毅は7月17日に日高信六郎を介して王寵恵へ現地交渉による解決を目指した[1]。しかしこの事はあまり触れられていない。 7月17日、南京駐在の日高信六郎参事官を通して国民政府外交部長王寵恵に対し次のように要求させた。「帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後二於ケル国民政府ノ態度二鑑ミ左記ヲ要求ス1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止 2. 現地両国間二行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム 」。広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた[107]。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。 そしてこれに対して南京政府は、日本側の要求を真向から拒否したのであった。すなわち、7月17日夜、日高が現地協定の実行を阻害しないよう、中央軍の北上を速かに停止して欲しいと申入れたのに対して、後の19日午後、国民政府外交部は「中国側ノ軍事行動八日本軍ノ平津一帯増兵二対スル当然ノ自衛的準備二過キス」と反論すると共に、日本政府に対して「一、期日ヲ定メ同時二軍事行動ヲ停止シ武装部隊ヲ撤回スルコト、二、今回ノ事件二対シテハ誠意ヲ以テ外交手段二依リテ協議スルコト」という2項目の要求を述に申入れてきた。それは日本側の云う現地解決主義を原理的に否定し、正規の外交機関による対等の交渉を要求するものであり、現地協定については「尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之カ解決ヲ図ラントスルモ如何ナル現地協定モ中央政府ノ承認ヲ得ル事ヲ要ス」という点を強調していた 中国側もこれ以上日本の言いなりになるわけにはゆかないという気運が盛りあがっていた。7月17日の蒋介石の演説は日本の新聞にも次のように報ぜられた。 : 1.中国の国家主権を侵すが如き解決策は絶対にこれを拒否す。 2.冀察政権は南京政府の設置せるもので、これが不法なる改廃に応ぜず。 3.中央の任命による冀察の人事異動は外部の圧迫により行はるべきものにあらず. 4.29軍の原駐地に制限を加へることを許さず. 以上の4点は日支衝突を避け東亜の平和を維持する最小限度の要求である、要するに中国は平和を求むるも、やむを得ざれば戦ひも辞せず。(東京朝日新聞7月20日) 7月19日、橋本群と張自忠と張允栄が額を集めて、停戦協定第三項を研究し、次のような取り決めが成立し、これに円満調印をおわった。 : 1.共産党の策動を徹底的に弾圧する。 2.双方の合作に不適当な職員は、冀察において自主的に罷免する。 3.冀察の範囲内に、他の方面から設置した各機関の排日色彩を有する職員を取り締る。 4.藍衣社、CC団のような排日団体は、冀察においてこれを撤去する。 5.排日的言論、及び排日的宣伝機関、並びに学生、民衆等の排日運動を取り締る。 6.所属各部隊、各学校の排日運動を取締る。 中華民国二十六年七月十九日 第二十九軍代表 張自忠 印 第二十九軍代表 張允栄 印 19日に中国側は日中同時撤兵と、現地ではなく中央での解決交渉を求めた[108]。日本側は停戦協定が締結した際に7月28日までに中国側には対して何も攻撃をしていない。もし停戦協定が締結しているにもかかわらず故なく中国側に対して戦闘をしたら、陸軍刑法第36条の『司令官休戦又ハ講和ノ告知ヲ受ケタル後故ナク戦闘ヲ為シタルトキハ死刑二処ス』により香月清司は死刑の対象になる。 こうした中国中央の動向に対して、日本の外務省は7月20日、「事態悪化ノ原因ハ南京政府カ現地協定ヲ阻害スル一面続々中央軍ヲ北上セシメタル事実二在リ、此際南京政府二於テ飜然反省スルニ非サレ八時局ノ収拾全ク望ナキニ至ラン」との声明を発して、交渉を打切ってしまったが、この事は、現地解決主義自体が争点化した事、それによって蘆溝橋事件は、拡大の第三段階へと突入していった事を意味するものであった。同日、橋本群は「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ逐次実行に移しつつあり」と打電し、内地軍派兵に反対意見を起草した。同じく同日、蒋介石は、宋哲元軍長を説得するため、熊斌参謀次長を北京に派遣した。参謀本部は同日朝に、部長会議を開き、武力行使を正式に決定した。陸軍省では、かねてより準備を進めていた第二次動員をただちに実行に移すことを決意した。同じ頃、陸軍省、海軍省、外務省の三局長会議が開かれ、動員について話し合いが持たれた。海軍軍務局長、外務東亜局長は動員に反対したため、会は結論の出ないまま解散となった。同日10時、閣議が開催された。杉山陸相はただちに内地師団の動員をするべきであると提議したが、閣僚からは3個師団もの動員は中国側を刺激し、不拡大方針に差しさわりが出るという反対意見が出された。また、17日および19日に現地で停戦協定が成立し、さらに中国側では37師の撤退を始めているにもかかわらず、武力行使を行うことの必要性に対し疑問が出された。そのため最終的には、同日に南京で行われていた外交交渉の結果を待つ事になった。しかし南京では、停戦方法および日本側の提示した停戦条件について日中の意見の相違があり、話はまとまらなかった。14時半頃、日中双方の銃砲撃が開始された。さらに、八宝山方面の中国軍の一部が前進を開始したため、現地部隊はこれを撃退した。その後も砲撃は21時頃まで続き、双方に死傷者を生じた。午後、日本政府は閣議を開催したが、既述のように停戦交渉が進捗せず、さらに現地では戦闘が開始されていたことから、紛争は不可避であると判断した。そのため、事態が好転すれば即座に復員すると言う条件つきで、内地より3個師団の増援を行う事が決定され、奏上がなされた。 7月21日、これまで北支に派遣されていた参謀本部参謀が帰庁し、現地情勢についての報告が行われた。この中では、支那駐屯軍の軍規は厳正かつ兵力は十分であり、内地師団の派兵は必ずしも必要でないとされていた。さらに駐屯軍参謀長より参謀本部に対し報告があった。この中では、29軍は陳謝および関係者の処罰、37師の撤収等を行っており、多少の小競り合いはあるものの、事態は収束に向かいつつあるとされていた。既述のように現地の情勢が静穏であった事から、参謀本部内でも内地師団の増派に対し慎重論が強まった。そのため参謀本部首脳による協議が行われたが、依然として強硬論も多数あり、議論はまとまらなかった。翌22日、参謀本部首脳はようやく方針を決定した。この中では、日中の全面紛争に発展しない限り、内地師団の動員をしばらく見合わせる事になっていた。この方針に基づき、内地師団の動員は一時的に中断された。 7月23日に石射猪太郎外務省東亜局長は、陸海外三局長会議で事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第37師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得た。石射の当時の日記には「現地より帰来の柴山課長の意見上申もあり、天津軍よりの援兵無用の来電もあり、軍は動員をしばらく見合わせることになったという。陸軍大臣より外務大臣にもその話あり。東亜局第一課これにより大いに活気づき今後の平和工作をねる。」と出ている[109]。陸軍から現地協定の内容とその実施状況について発表があった。事件の円満解決近きにあるを語るものであった。 7月23日の夜、陸軍省は華北の状況を次のように発表した。 :「支那駐屯軍よりの報告によれば『今回の北支事変に関し冀察側に於ては責任者の謝罪、処罰の外今次事変の原因は所謂藍衣社、共産党其他の抗日系各種団体の指導に胚胎する所多きに鑑み将来之が対策取締りを徹底することを協定せり。即ち冀察側は之が 実行の為七月十九日文書に依り左記事項を自発的に申出たり。 一、日支国交を阻害する人物を排す。 二、共産党は徹底的に弾圧す。 三、排日的各種機関、諸団体及各種運動並之が原因と目さるべき排日教育の取締りをなす。 又別に冀察側は今回日本車と衝突したるは主として第三十七師に属するものなれば、将来双方の間に意外の事件発生を避くる為同師を北平より他へ移駐する旨通告し来り昨二十二日午後五時以降列車により逐次南方へ移動中なり』と、駐屯軍は目下之が実行を厳重に監視中なり」。(東京朝日新聞7月24日) 石射猪太郎は盧溝橋事件の際に何としてでも戦線拡大を防ごうとした政治家である。 高宗武は日本留学した経験もあり、盧溝橋事件の際にも南京で日高信六郎と和平交渉しており、さらに船津辰一郎とも和平交渉をしている。これは盧溝橋事件の際に日中の外交交渉が行われたという事を意味する。 宮崎龍介は蒋介石に信用のある宮崎焔天の息子ということで南京に急派することになった。神戸で乗船すると、憲兵隊に逮捕されてしまい、和平工作は破綻となる。 7月23日、宮崎龍介は近衛文麿の密書を手に、東京駅から神戸へ向けて旅立った。南京の蒋介石の元へは、あらかじめ暗号電文による知らせがとどいており、「特使派遣を歓迎する」との返信が、早々に近衛の元に届いていた。宮崎龍介は汽車に丸1日ゆられて、翌日、目的地の神戸へと下り立った。そのころ、東京では近衛がどういうわけか、盧溝橋事件では戦線拡大を唱え、自身の南京行きを強く妨害した当の杉山元に、蒋介石のもとへ密使を派遣したことを話してしまっていた。近衛の思惑としては、陸軍による妨害が行われないよう杉山にクギを刺したつもりだったのだろうが、これがとんだヤブヘビとなってしまう。杉山は首相官邸をあとにするや、そのまま憲兵隊本部へすぐに連絡を入れたようだ。 7月24日、宮崎は、神戸港に停泊していた中国行きの船へと乗り込んだ。タラップを上がり、船員に自分の船室を訊ねたとたん、周囲を屈強な男たちに囲まれ逮捕されてしまった。同日、部隊の移動は停止し、逆に第132師を北平に進入させたほか、付近にも増兵を始めた。そのため駐屯軍は29軍に参謀を派遣して折衝を行わせるとともに事態の急変に対処する準備を始めた。 7月25日に南京では日高・高宗武会見で、国民政府も現地協定の解決条件を黙認する意向である事が明らかにされた。石射は次のステップは中日国交の大乗的調整に乗り出すばかりだと爽快になった。しかしその後突如前線の中国軍兵士が暴走し日本軍へ戦闘を起こし、廊坊事件(7月25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍が国民党軍から銃撃を受けたとされる事件)と広安門事件(7月26日、北平在住の日本人を保護するために事前通告ののち日本軍の一部が城内に入ったところ城門が閉ざされ、国民党軍第29軍が北平城内外の日本軍に放火を浴びせたとされる事件)で衝突が起きた。殉教者のように見えた不拡大主義者の石原莞爾もついに匙を投げ、7月26日午前1時第1部長室(寝台を持ち込んでいた)から、軍事課長室に寝泊りしていた田中新一に、せき込みながら電話で「もう内地師団を動員するほかない。遷延は一切の破滅だ、至急処置してくれ」と言う[110]。支那駐屯軍は26日午後、29軍に対し、28日までに第37師(抗日意識が強い部隊)の撤退を行わない場合、武力行使を行うとの最後通告を発し、宋哲元は屈辱的条件の受諾より抗戦を選ぶと中央政府に告げた。7月27日、日本政府は内地3個師団の派遣を最終的に承認し、7月28日に日本軍は国民党軍第29軍に対し、総攻撃に出る。8月8日、関東軍によるチャハル作戦が参謀本部から認可された。 7月29日には蒋介石が談話を発表し、日本軍に対し徹底抗戦をする意思を示した。蒋介石の時局声明は、改めて時局解決のための四条件(①中国の主権と領土は侵害させない②河北やチャハルの行政組織への不法な変更は許さない――など)にふれ、日本が侵略をやめ四条件をのむなら、交渉に応じる用意があることをほのめかし、逆に日本が軍事行動をここで中止しなければ勝算はなくとも日本に抗戦する決意を表明したものだった。しかし南京政府内部では、事態の拡大を望まず、できる限り早い停戦を求める声が優勢であった。 この事態に対し石射東亜局長の提案になる解決試案、日中戦争の全期間を通じ最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになった。その原動力は石原作戦部長だったと推定されているが、これに天皇も同感の意を表し、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定された。 この停戦協定案は国民党側からも信頼されていた元外交官、実業家の船津振一郎を通して働きかけたため船津和平工作と呼ばれ、内容は以下である。 : 1.塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消。 2.廬溝橋付近の非武装地帯の設定。 3.冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政。 4.増派日本軍の引揚げ。 また国交調整案としては以下である。 : 1.満州国の事実上の承認。 2.日中防共協定の締結。 3.排日の停止。 4.特殊貿易・自由飛行の停止。 以上をそれぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助と治外法権の撤廃も考慮された。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、1933年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする条件であった。 8月7日、船津辰一郎元総領事が上海に到着すると、9日に高宗武と会談し、華北問題を迅速かつ局部的に解決する事が得策であると説得した。高は同日午後に川越茂大使とも会談して交渉は順調に進んでいくかに見えたが、同日夕刻に上海で大山事件が発生すると、事態はにわかに緊迫の度を高た。船津は各方面を奔走し、平和的解決に向けて中国側の説得に努めたが、13日には上海で日中両軍間に交戦が始まり(第二次上海事変)、14日には全面衝突に発展した。王寵恵は対日宥和政策を放棄して、抗日に転じる旨の声明を発表した。 日中間の戦闘が激化する中、日本はソ連の動向に強い関心を示した。中ソ両国は8月21日、不可侵条約を秘密裏に締結した。中国外交部は26日、この旨を東京の中国大使館に通報し、もし日本が国策を変更して日中間に同様の条約を締結するならば中国は歓迎するので日本政府の意向を打診するよう電報で命じた。この電報は日本軍によって傍受され、写が外務省にも回付された(電報写には広田弘毅や東郷茂徳欧亜局長の閲了サインがある)。しかし日中間に不侵略条約をめぐる話し合いが進められる事はなく、29日に中ソ両国は不侵略条約締結を公表した[111]。 事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第三国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのはイギリスであった。9月中旬、新着任のロバート・クレイギー駐日大使が仲介の可能性について広田外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、華北の非武装地帯の設定、排日取締りと防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、満州国の不問などであった。これらの条件は蒋介石に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待する蒋は受諾に否定的であった。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9月中旬から日中紛争を審議中であった[112]。 同年日本が11月2日に出したトラウトマン工作は「華北の行政権は南京政府に委ねる」が記載されている非併合・非賠償の条件であった。これは船津工作を踏襲した物であり、他の各将領から「これだけの条件でなぜ戦争するのか!?」と言われるほどの条件だった。 「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告していたにも関わらず、蒋介石は「事変前の状態に復帰するのでない限りどんな要求も受諾できない」と和平条件を一旦拒絶し、ブリュッセル会議の対日制裁に期待して和平条件を1ヶ月引き伸ばし、1937年12月13日に南京陥落して日本政府はトラウトマン工作を賠償を含む厳しい条件にし、近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本側はトラウトマン工作を打ち切った。1940年の桐工作が行われるまでの時期の和平条件が極めて過酷であったために、2年半近く日中関係は最悪の状態になった。 このように7月19日に停戦協定が締結され、日本の現地陸軍関係者(橋本群、今井武夫、池田純久)もしくは外務省関係者(広田弘毅、石射猪太郎、日高信六郎など)が中国側の関係者(宋哲元、張自忠、高宗武)と必死で停戦の努力をして日本政府もしくは参謀本部に現地情勢を打電して不拡大方針を採っていたものの、中国側が廊坊事件・広安門事件のような散発的戦闘を起こしたために(現地の中国兵の反日感情の暴発)、結局7月27日に日本政府は何度も見送っていた内地3個師団の派遣を承認して、28日に日本軍の総攻撃が行われるようになり、これまで参謀本部が却下し続けた関東軍によるチャハル作戦も8月8日に認可された。石射猪太郎曰く、「わが陸軍部内の強硬派にとって、思う壷の事態がここにでき上った。」[113]。 結論として日中戦争は第二次世界大戦の始まりのナチスドイツとソビエト連邦のポーランド侵攻のような不可侵条約を破棄した一方的な侵攻と日米の参戦の契機である日本海軍による真珠湾攻撃とは異なり、停戦協定を破り執拗に日本軍に攻撃して、その後上海の租界に総攻撃をした中国側にも責任があると言える(日中両国とも1941年までに宣戦布告はしていない)。この背景には、蒋介石が中国の世論を無視し、抗日戦争を開始しなければ、中国軍の支持を失って失脚していただろうとの指摘がある[114]。盧溝橋事件から第二次上海事変の直前までに両国の紛争が行われている中で、両国の外交官による外交交渉(日高信六郎と王寵恵・高宗武の交渉、高宗武と船津辰一郎・川越茂の交渉)が並行して行われているのが太平洋戦争との最大の違いである[注釈 4]。松本重治は「日中戦争とは、和平の努力をやりながら戦線を拡大する、戦争をつづけながら和平工作を進めるという特異な戦争だった。日中戦争が拡大していく一方で、戦争をなんとかやめたいという和平への努力がつづけられていたのです。日中双方の心ある人々が戦火のなかでどれだけ平和への努力を払ったか、そのことはぜひみんなに知ってほしいと思います。」と述べている[115]"," p2-26[0]"," 1991-02)。 ^ 支那駐屯軍の駐兵に関する法的根拠は北清事変最終議定書(北京議定書)と1902年7月の天津還付に関する列国との交換公文である(秦 1996[0]"," pp.50-51)。 ^ 秦郁彦は、「葛西の死後、信奉者や夫人とともに故人が秘蔵してあると言っていた貸金庫を捜索したが政治課本の現物は見当たらなかったこと、一九五〇年代には毛沢東の後継者的地位を確立していた劉少奇の北方局時代における抗日活動を讃える本が何冊も出ていたので、それをヒントにした作り話だろう」と推論している(秦郁彦 2009[0]"," p.193) ^ 太平洋戦争では日本はアメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告したため、ハルノートが提示されるまでに行われた日米両国の和平交渉は真珠湾攻撃を機に途絶えている。 出典 ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P143 ^ a b c 秦 1996[0]"," p.218. ^ a b 秦 1996[0]"," p.228. ^ 日本政府 1937 p.1 ^ 葛西 1975[0]"," p.5 ^ 陸軍省・海軍省 1938 p.16 ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P142 ^ a b c d e 坂本夏男「再考・盧溝橋事件における日中両軍衝突時の一検証」『皇学館論叢』33(4)[0]"," 1-17[0]"," 2000-08 ^ 雪竹 1939 p.34 ^ 外務省 1937a p.34 ^ 外務省 1937c p.27 ^ 外務省 1937c p.27 ^ 外務省 1936 p.28 ^ 外務省 1937d p.16 ^ 『東京朝日新聞』1937年1月8日付夕刊 1面 ^ 『読売新聞』1937年7月9日付朝刊 3面 ^ 『東京朝日新聞』1937年5月28日付朝刊 2面 ^ 『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 2面 ^ 『東京朝日新聞』1937年5月30日付朝刊 2面 ^ 『東京朝日新聞』1937年7月3日朝刊 3面 ^ 『支那事変実記 第1輯』 1941 p.3 ^ 『東京朝日新聞』1937年6月26日朝刊 2面 ^ 『東京朝日新聞』1937年5月24日朝刊 2面 ^ 『東京朝日新聞』1937年6月12日朝刊 2面 ^ 『国際写真新聞』同盟通信社 1937年8月5日 p.6 ^ a b 『支那事変実記 第1輯』 1941[0]"," pp.7-8 ^ ロンドン・タイムズ紙 1933年2月20日、10面 ^ a b 『東京朝日新聞』1933年3月17日付夕刊 1面 ^ 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愛と悲しみの山河(日本、1971年、山本薩夫監督) 沈黙の鉄橋(中国、1995年、リー・チェンクァン、シャオ・クイユン監督) 関連項目 大紅門事件、廊坊事件、広安門事件 - 盧溝橋事件に続いて起きた日本軍と二十九軍の衝突事件 黄河決壊事件 国民革命軍 中華民国の歴史 中華民国の軍事 蒋介石 外部リンク 日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造 1盧溝橋事件における「拡大」の構造(古屋哲夫) 座標: 北緯39度51分02秒 東経116度13分20秒 「https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=盧溝橋事件&oldid=64587877」から取得 カテゴリ: 盧溝橋事件 最終更新 2017年6月27日 (火) 12:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。[1]"," ベンジャミン・ディズレーリ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 イギリスの政治家 初代ビーコンズフィールド伯爵 ベンジャミン・ディズレーリ Benjamin Disraeli 1st Earl of Beaconsfield ディズレーリ(1878年) 生年月日 1804年12月21日 出生地 イギリス、ロンドン 没年月日 1881年4月19日(満76歳没) 死没地 イギリス、ロンドン 前職 小説家 所属政党 保守党 称号 初代ビーコンズフィールド伯爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS) 配偶者 メアリー・アンナ 親族 カニングスビー(甥) サイン 首相 在任期間 1868年2月27日 - 1868年12月3日[1] 1874年2月20日 - 1880年4月18日[1] 女王 ヴィクトリア 大蔵大臣 内閣 第一次ダービー伯爵内閣 第二次ダービー伯爵内閣 第三次ダービー伯爵内閣 在任期間 1852年2月27日 - 1852年12月17日 1858年2月25日 - 1859年6月[2] 1866年7月6日 - 1868年2月27日[2] 貴族院議員 在任期間 1876年 - 1881年[3] 庶民院議員 選挙区 メイドストン選挙区[3] シュルーズベリー選挙区[3] バッキンガムシャー選挙区[3] 在任期間 1837年7月24日 - 1841年6月29日[3] 1841年6月29日 - 1847年7月29日[3] 1847年7月29日 - 1876年8月21日[3] 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS、1804年12月21日 - 1881年4月19日)は、イギリスの政治家、小説家、貴族。 ユダヤ人でありながら保守党内で上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年、1874年 - 1880年)を務めた。庶民院の過半数を得られていなかった第一次内閣は短命の選挙管理内閣に終わったが、庶民院の過半数を制していた第二次内閣は「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」と呼ばれる一連の社会政策の内政と帝国主義の外交を行って活躍した。自由党のウィリアム・グラッドストンと並んでヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物である。また、小説家としても活躍した。野党期の1881年に死去し、以降ソールズベリー侯爵が代わって保守党を指導していく。 目次  [非表示]  1 概要 2 生涯 2.1 出生と出自 2.2 少年期 2.2.1 ユダヤ教徒としての少年期 2.2.2 イングランド国教会信徒に 2.2.3 キリスト教徒としての少年期 2.3 青年期 2.3.1 弁護士事務所で勤務 2.3.2 鉱山投機に失敗 2.3.3 新聞発刊事業の挫折 2.3.4 処女作『ヴィヴィアン・グレイ』 2.3.5 神経衰弱 2.3.6 南欧・近東旅行 2.4 4回の選挙落選 2.4.1 政界進出の決意 2.4.2 ウィカム選挙区補欠選挙 2.4.3 1832年総選挙 2.4.4 1835年総選挙とグラッドストンとの出会い 2.4.5 トーントン選挙区補欠選挙 2.5 借金と小説執筆 2.6 ヴィクトリア女王即位 2.7 一介の保守党代議士として 2.7.1 当選 2.7.2 処女演説 2.7.3 結婚 2.7.4 チャーティズム運動支援 2.7.5 ピール内閣に入閣できず 2.7.6 「ヤング・イングランド」 2.7.7 ピール内閣倒閣をめざして 2.7.8 保守党分裂 2.8 保守党庶民院院内総務、大蔵大臣として 2.8.1 党の指導的地位をめざして 2.8.2 保護貿易主義の限界 2.8.3 第一次ダービー伯爵内閣蔵相 2.8.4 野党としての戦術 2.8.5 クリミア戦争をめぐって 2.8.6 パーマストン子爵内閣倒閣をめざして 2.8.7 第二次ダービー伯爵内閣蔵相 2.8.8 イタリア統一戦争と自由党の結成 2.8.9 再び野党 2.8.10 グラッドストンの選挙法改正法案を阻止 2.8.11 第三次ダービー伯爵内閣蔵相、第二次選挙法改正 2.9 首相、保守党党首として 2.9.1 第一次ディズレーリ内閣成立 2.9.2 グラッドストン内閣倒閣を目指して 2.9.3 第二次ディズレーリ内閣 2.9.3.1 内政 2.9.3.2 外交 2.9.3.2.1 三帝同盟の切り崩し 2.9.3.2.2 バルカン半島の蜂起をめぐって 2.9.3.2.3 露土戦争 2.9.3.2.4 ベルリン会議 2.9.3.2.5 エジプト半植民地化に先鞭 2.9.3.2.6 ヴィクトリア女王をインド女帝に戴冠させる 2.9.3.2.7 第二次アフガニスタン戦争 2.9.3.2.8 トランスヴァール併合 2.9.3.2.9 ズールー族との戦い 2.9.3.3 叙爵、貴族院へ 2.9.3.4 総選挙で惨敗して退任 2.9.4 晩年 2.9.5 死去 3 人物 3.1 貴族的素養・貴族意識 3.2 君主主義・貴族主義・民衆主義 3.3 帝国主義 3.4 ユダヤ教・ユダヤ人について 3.5 プリムローズ 3.6 女性に人気 3.7 その他 4 ヴィクトリア女王との関係 5 ディズレーリとグラッドストン 6 小説 7 栄典 7.1 爵位 7.2 勲章 7.3 その他 8 ディズレーリを演じた俳優 9 関連項目 10 脚注 10.1 注釈 10.2 出典 11 参考文献 12 外部リンク 概要 作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし弁護士事務所の仕事に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。 その後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年の解散総選挙で初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「ヤング・イングランド」を結成・主導、また小説『カニングスビー』や『シビル』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。 党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務となり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年~1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。 1868年にダービー伯爵が病気で退任すると、保守党ナンバー・ツーのディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。第一次ディズレーリ内閣は少数与党政権だったので、腐敗行為防止法案や公開死刑廃止法案など超党派的法案のみ可決させた。同年の総選挙で保守党が敗れた結果、自由党党首ウィリアム・グラッドストンに首相職を譲って退任することとなった。これは総選挙の敗北を直接の理由にして首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。 以降5年ほど野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交を批判した。その間、小説『ロゼアー』を出版してベストセラーになっている。 1874年の解散総選挙で保守党が過半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第二次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。そのため、労働者住宅改善法制定による労働者の住宅状況の改善、公衆衛生法制定による都市の衛生化、強制立ち退きされた小作人への補償制度の制定、労働組合の強化など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる多くの改革を行う事が出来た。外交面では積極的な帝国主義政策を遂行し、1875年にはスエズ運河を買収してエジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また1876年には"Empress"(女帝、皇后)の称号を欲しがるヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また1877年から1878年の露土戦争ではロシア帝国の地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン=トルコ帝国世論を抑えて親トルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア衛星国大ブルガリア公国を分割させてロシアの地中海進出を防ぎ、かつトルコからキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリスの覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで1879年にはズールー族との戦争に勝利した。1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第二次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。 グラッドストンとは対照的にヴィクトリア女王と非常に親密な関係にあり、1876年には女王からビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられた。 1880年の総選挙で自由党が勝利した結果、グラッドストンが首相に返り咲き、ディズレーリは退任した。退任後に小説『エンディミオン』を出版したが、1881年3月から体調を悪化させ、4月19日にロンドンで病死した。 ディズレーリの死後、保守党は貴族院をソールズベリー侯爵が、庶民院をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導していく。 生涯 出生と出自 1804年12月21日、イギリス首都ロンドンに生まれた[4][5]。 父アイザック・デ・イズレーリ 父はイタリア系セファルディム・ユダヤ人で著名な作家アイザック・デ・イズレーリ。母は同じくセファルディム系ユダヤ人のマリア(旧姓バーセイビー)[4]。父母ともに裕福であり[4]、そのおかげで貴公子的な生活環境の中で育った[6]。姉にサラがいる。また後に弟としてナフタライ、ラルフ、ジェームズが生まれている[4][注釈 1]。 祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられた[7]。ディズレーリの祖父ベンジャミンは1730年に教皇領フェラーラ近郊のチェントに生まれたが、1748年にイギリスへ移住し[8][9]、結婚を通じて株仲買人として成功し、1816年に死去した際には3万5,000ポンドというかなりの額の遺産を残した人物である[10]。 ディズレーリ本人によるとディズレーリ家の先祖はもともとスペインのユダヤ人だったが、1492年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世による異端審問・ユダヤ人追放の勅令によって国を追われ、イタリアのヴェネツィアに移住したという。そこでディズレーリと改名し、商人として成功したという[11][12]。そして18世紀中頃にディズレーリの曾祖父アイザックが長男をヴェネツィアに残して銀行業を継がせ、次男ベンジャミン(祖父)をイギリスへ移住させたというという経緯であるという[11]。 しかしセシル・ロスやルーシアン・ウルフらの研究によるとこの話は疑わしいという。ディズレーリの家系がスペインから出ていることやディズレーリの大伯父がヴェネツィアで銀行業をしているという証拠は資料からは見つけられないという。ディズレーリの一族とヴェネツィアとの関わりについて確認できる事実は父アイザックに姉妹が二人いて、その二人が中年の時にヴェネツィア・ゲットーに移住していることだけであるという[11][12]。 そもそも祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ( D'Israeli)を名乗るまで彼の家系の姓はイズレーリ (Israeli)であった。イズレーリとは「イスラエル」のことだが[13]、これはスペイン語系ではなくアラビア語系である(スペイン語では「イスラエリタ」)[8]。そのためセシル・ロスは、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移民したユダヤ人家系であろうと推測している[14]。ちなみに「デ(D)」というのは恐らくセファルディム系ユダヤ人の洗礼名によく使われたアラム語のDiの略だと考えられる[11]。 またディズレーリは、祖父ベンジャミンの最初の妻レベッカの旧姓がラーラだったことを利用して、スペインの名門家ラーラ家と縁続きだと言い張っていたが、レベッカの実家ラーラ家はポルトガル系であって、スペイン系の名門家ラーラ家と特に関係はない。またそもそもディズレーリの父アイザックは後妻の子供であるから、ディズレーリとレベッカに血の繋がりはなかった[15]。 セファルディム系ユダヤ人社会では、スペイン系やポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と看做すことが多かった。ディズレーリが家系を捏造してまでスペイン系であることにこだわっていたのはそのためであると考えられる[10]。 一方母方の祖母の実家カードソ家はまさにそのスペイン系ユダヤ人であり、1492年以降の異端審問でスペインを追われイタリアへ逃れ、17世紀末にイギリスへ移住した家柄であった[16][17]。しかしディズレーリは母親嫌いから母の家系にほとんど関心を持たず、この事実を知らなかったようである。ディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は「ディズレーリがこの事実を知っていたなら、別の筋書きの家系を創っただろう」と推測している[16]。 いずれにしてもディズレーリは自らが「貴種」であるという自負心が強く、そのため強い貴族意識を持っていた[10]。 少年期 ユダヤ教徒としての少年期 ディズレーリはイズリントンにあった女子学校に通い、その後、非国教徒が校長を務めるブラックヒースの学校に通い、13歳まで在学した。この学校での同級生によるとディズレーリはサージェスというもう一人のユダヤ教徒の生徒とともに礼拝に参加しなかったという。またユダヤ教のラビが週に一度やってきてディズレーリにヘブライ語を教えていたという[18][19]。 子供の頃から気位が高かったディズレーリは、しばしばユダヤ人ということで教師からも学友からも滑稽な目で見られていることに傷付いていた。またディズレーリは、学校内で唯一同じユダヤ教徒であるサージェスを自分より劣っていると見下しており、そのような人間と友達付き合いをして、同レベルだと思われたくなかったという。非ユダヤ教徒の生徒たちもディズレーリほど頭の回転は速いわけではなかったが、ディズレーリは彼らと友達付き合いする方を好んだ[20]。 イングランド国教会信徒に ディズレーリが洗礼を受けたロンドン・ホールボン地区のセント・アンドリューズ教会 イギリスは19世紀初頭から「寛容の国」であり、反ユダヤ主義も大陸ヨーロッパ諸国と比べると比較的弱かった。とはいえ1829年までイングランド国教会の信徒以外にはイギリスの公職の道が開かれていなかった。1829年にカトリックや非国教徒など他のキリスト教徒にも公職への道が開かれたが、ユダヤ教徒は1858年まで公職に就けなかった(この撤廃にはディズレーリが尽力した[6])。ただしイングランド国教会の信徒になればユダヤ人であっても問題なく公務に就任でき、人種としてユダヤ人を排除する規定ではなかった[21]。 ディズレーリの父アイザックはユダヤの歴史に誇りを持ち、ユダヤ教会にお布施を収めていたが、ヴォルテール主義者であったから宗教にさほど関心がなかった。ユダヤ教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザックがユダヤ教会に籍を置いていたのは父親に倣って、また父親を喜ばせるためであった[22]。だがアイザックは1813年にユダヤ教のベービス・マークス集会の長に選出された。これを拒否するとユダヤ教の掟で40ポンドの罰金が科された。彼はこれに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮してユダヤ教会に籍を置いていたが、1816年の父の死去を機に、1817年3月にアイザックはユダヤ教会の籍を離れた[21][23]。母はユダヤ教嫌いであり、夫の離籍を機に実家バーセイビー家ごと全員で離籍している[24]。 アイザックはユダヤ教会離籍後、何の宗教にも入信しなかったが、アイザックの親友である弁護士・考古学者シャロン・ターナーが子供たちは将来のためにイングランド国教会に入籍させた方がいいと勧めたのでその通りにすることにした。こうしてディズレーリは13歳でホールボン地区のセント・アンドリューズ教会において洗礼を受けることとなった[18][23]。 キリスト教徒としての少年期 ディズレーリは改宗とともに転校することになった。アイザックはディズレーリを名門イートン校に通わせたがっていたが、改宗したばかりのユダヤ人が歓迎されるとは思えず、結局非国教徒ユニテリアン派の牧師エリーザー・コーガンが運営していたハイアム・ヒルの学校に入学した[25][26][27]。 この学校には裕福な中産階級の子供が多く、ラテン語やギリシア語でディズレーリは他の生徒らに後れを取っていたが、文章の創造力にかけてはディズレーリの右に出る者はいなかったという。スポーツにも熱心に打ち込み、やがて学友たちのリーダー的存在となっていった。しかしこのことでディズレーリが来る前から学校を仕切っていた復習監督生たちに目を付けられたという。彼らはディズレーリにユダヤ臭をかぎつけて馬鹿にした。ある時、ディズレーリとすれ違った復習監督生のグループがディズレーリを嘲って口笛を吹いたという。それに対してディズレーリは振り返って彼らに「今、口笛を吹いた者は前に出たまえ」と述べたという。復習監督生の一番年長の者が前に出てきて「外国人に引きずりまわされるのはもうウンザリなんだよ」と言い放ったという。ディズレーリはその男に顔面パンチを食らわせ、殴り合いとなった。ディズレーリは小柄で力も貧弱だったが、軽やかな足さばきで合理的に戦い、年長の復習監督生をボコボコにして血塗れ状態にしたという[28]。 校長コーガン牧師はディズレーリを煙たがるようになり、アイザックになるべく早く御子息を引き取ってほしいと依頼した[29]。こうしてディズレーリは1819年か1820年(15歳)にはハイアム・ヒルの学校を去ることになった[30]。他の学校や大学に行ってもユダヤ人に対する差別と偏見から逃れられるとは思えず、結局ディズレーリはこの後1年ほど自宅の父の書斎や書庫で古典を読み漁って過ごした[30][31][32]。 青年期 弁護士事務所で勤務 ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が古典の世界にどっぷりと浸かって神秘主義的になっていくのを懸念していた。実際的な仕事をさせようと弁護士事務所で働くようディズレーリを説得するようになった。しかし上昇志向が強いディズレーリは弁護士を「法文とダジャレで過ごし、うまくいけば晩年に痛風と准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと思っていた。しかしアイザックは「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と熱心に説得し、最終的にディズレーリはその説得に折れた[33]。 1821年、17歳の時にオールド・ジェリー街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務した[34][35]。しかしすぐにこの仕事に飽き始めた[36]。 後年ディズレーリは弁護士事務所の勤務時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している[37][32]。 1824年7月末にはベルギーとライン地方を旅行した。ディズレーリの回顧録によるとこの旅行でライン川下りをしている時に弁護士を目指すのを止める決意をしたという[38]。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、この頃にはディズレーリは法曹になる意思を無くしていた[39]。 鉱山投機に失敗 出版業者ジョン・マレー 弁護士事務所を辞めた後、ディズレーリは定職をもたなかったが、父アイザックの友人である出版業者ジョン・マレーの手伝いをしたり、書評をしたりするようになった[40]。「上流階級の人間になるには血筋か金か才能が必要」と考えていたディズレーリは、さらに南米の鉱山の投機に手を出すようになった[40][41][42]。 当時、南米諸国(メキシコ、ボリビア、ペルー、ブラジルなど)ではスペインやポルトガルからの独立運動が盛んになっており、南米の鉱山株が高騰していた。南米の鉱山採掘権をイギリス産業界が獲得するのを支援すべく、イギリス外相ジョージ・カニングが独立運動を支援していた[43][44]。 ディズレーリも弁護士事務所をやめる数ヶ月前に弁護士事務所の顧客が南米の鉱山の投機で儲けているのを見ていたため、投機に関心を持っていた[44]。弁護士事務所の書記仲間とともに南米鉱山投機を始めた[43]。 はじめディズレーリは高騰ぶりが異常と見て、下げの方向で投機していた[43][44]。しかし1824年クリスマスに南米諸国の独立が承認されたことで鉱山株がさらに高騰。これによりディズレーリも上げの方向の投機に切り替えた[43][45]。 しかし南米鉱山株は1825年1月に最高値に達して、その後は低下し始めた。これによってディズレーリも大損し、6月には7,000ポンドもの借金を抱えていた[40]。この間ジョン・ディストン・ポウルズという投機家が南米鉱山に対する信用を取り戻そうとパンフレットの出版を計画し、その執筆をディズレーリに依頼してきた[40]。ディズレーリはこれを引き受け、いくつかのパンフレットを書き、南米鉱山株投機に疑問を投げかける政治家を批判しつつ、鉱山会社の宣伝を行った[46]。 しかし結局同年10月末に南米鉱山株が暴落しはじめ、12月までにシティは大混乱に陥った。ディズレーリもこの時に破産した[47]。 新聞発刊事業の挫折 ディズレーリが鉱山投機してた頃、ジョン・マレーは『クオタリーレビュー』誌で成功を収め、ついで日刊紙を出版しようと考えていた。ディズレーリもこの企画に参加し、出資金の四分の一をディズレーリが出すことを契約した(残りは二分の一がジョン・マレー、四分の一がパウルズ)。ディズレーリはサー・ウォルター・スコットの娘婿であるジョン・ギブソン・ロックハートに主筆をしてもらおうと、スコットランド・エジンバラまで彼を誘いに行った[48][49]。そのためにロックハートを庶民院議員にしようという計画案まで立てた[50][51]。 新聞の名称はディズレーリが決め、『リプレゼンタティブ』と名付けた[52]。しかし前述した1825年10月末の南米鉱山株の暴落に伴う破産によってディズレーリは出資金を出せる見込みがなくなったので、計画から外されることとなった[47][53]。 結局マレー一人の出資で『リプレゼンタティブ』紙が発刊されたが、大して売れず、1826年7月29日号を最後に廃刊している[54]。 処女作『ヴィヴィアン・グレイ』 ディズレーリの処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ』の初版 『リプレゼンタティブ』紙の仕事を失った後、文筆で生計を立てる決意をし、1826年前半頃に『ヴィヴィアン・グレイ』を著した。この小説は1826年4月に出版業者ヘンリー・コルバーンによって匿名で出版された[55]。 ディズレーリ自身をモデルにしたと思われる野望に燃える主人公ヴィヴィアンが、ジャーナリストから庶民院議員となり政界で中枢の地位を得る物語である[56]。当時のイギリスではこうした上流階級を描いた匿名小説が流行っていた。作者は誰か、登場人物たちは誰をモデルにしているのか、などを推理して楽しませ、そしてその小説が評判になったら適当な時期に作者を公表するという手法である[55]。 『ヴィヴィアン・グレイ』は賛否両論ながら評判となり、社交界でも話題になった。だがやがて作者が社交界に入ったこともない21歳の若者だと判明した時、激しい批判と嘲笑に晒された[57][58]。「貴族でもない癖に貴族かのように滑稽に気取っている」[58]、「(ディズレーリは)急いで世の中から消え、忘れ去られた方が幸せである」[59]などという厳しい評論がなされた。 またマレーは作中登場するカラバス侯爵(高い地位にあるが、単純で頭の悪い飲んだっくれの人物で、ヴィヴィアンはこの男を操って政党を作らせ首相にすることで権力を得ようとする)が自分をモデルにしていると感じ、ディズレーリへの怒りを露わにした。この頃のマレーはディズレーリに騙されて『リプレゼンタティブ』紙の事業をやらされたと思っていたので怒りは尚更であった[60][58]。マレーは保守党の政治家たちに強い影響力を持つ人物だったから、後にディズレーリが保守党の政治家としてやっていくうえでマレーとの不和は苦労する材料となる。また保守党所属議員からもディズレーリが保守主義者ではない証拠としてこの小説の様々な部分が引用されることになる[61]。 ディズレーリ当人も後年『ヴィヴィアン・グレイ』を大いに恥じ、「若気の至り」「青臭い失敗作」と語り、1853年の全集に載せることにも強く抵抗したが、結局大幅に書き換えることを条件に掲載を許している[62]。 非難の嵐から逃げるようにディズレーリはフランス・イタリアの諸都市の旅行に出た。パリ、ディジョンを経てジュネーブを訪れた。ディズレーリはバイロンに憧れていたが、ジュネーブではバイロンのボートマンであるモーリスと親交を深めることができた。さらにボローニャ、フィレンツェ、ピサ、ラ・スペツィア、ジェノバ、トゥーロン、リヨンを訪問した。その後パリを経由してイギリスへ帰国した[63]。 2か月ほどの旅行だったが、イギリス国内ではいまだに『ヴィヴィアン・グレイ』批判の余韻が残っていた。しかし金銭に困っていたディズレーリは、1826年秋に『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆し、再びコルバーンが出版した[64]。 神経衰弱 ディズレーリの友人エドワード・ブルワー=リットン。ディズレーリと同じく小説家から政治家となる。 『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆後、神経衰弱を起こして倒れた。この後3年にわたって体調が悪いままで、その間法律の勉強に戻った。1828年には1825年春季学期以来、ほとんど通っていなかったリンカーン法曹院に通うようになった。もっとも法律の勉強には興味をもてなかったらしく、1831年に退学している[65]。 この間の1828年に『ポパニラ(Popanilla)』という小説を執筆して公刊し、功利主義者や穀物法、植民地支配を批判した。しかしこの小説はほとんど評判にならなかった[65]。 1829年末頃に健康を回復し始めたディズレーリは再び長期旅行の計画を立てた。その資金を稼ぐために『若き公爵(The Young Duke)』の執筆を開始し、1830年3月までには完成させて原稿をコルバーンに送った。この本はディズレーリが近東旅行中の1831年4月に出版された。相変わらず貴族の言葉遣いや作法が分かっていない部分や現実離れした部分もあったものの、『ヴィヴィアン・グレイ』よりは出来が良く、大衆受けする内容であったので批評家もまずまずの評価を下した。もっともディズレーリは気に入らなかったらしく、1853年の全集では『ヴィヴィアン・グレイ』に次いで手直しされているのがこの小説だった[66]。 この頃ディズレーリの父アイザックを尊敬する小説家エドワード・ブルワー=リットンと知り合い、親しく付き合うようになった(彼はディズレーリの『ヴィヴィアン・グレイ』にも影響を受けて『ペラム』という小説を書いていた)。二人は小説家としてお互いに影響しあった[67]。 南欧・近東旅行 1830年5月末、姉サラの婚約者メラディスとともにロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かった。スペインのアンダルシア州を旅行した後、8月末にマルタ島を訪問した[68]。オスマン=トルコ帝国領アルバニアからイオニア海各地を旅行しながら、12月、オスマン=トルコから独立したばかりのギリシャ・アテネに到着した[69]。そこからオスマン=トルコ首都コンスタンティノープル(イスタンブール)へ向かい、1831年1月まで滞在した後、聖地エルサレムを訪問した。さらに3月にはアレクサンドリアに到着し、トルコからの独立運動に揺れるエジプトを旅行した[70]。 ディズレーリは南欧や近東の西欧と異なった異国風の雰囲気に惹かれ、多くの影響を受けた。特にエルサレム訪問はユダヤ人としてのアイデンティティを再認識するきっかけとなった[70][71]。また、この旅行中からディズレーリは「デ・イズレーリ」という外国人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった[72]。 しかしカイロ滞在中の1831年7月、同行者メラディスが天然痘により病死したため、ディズレーリも急遽帰国の途に付いた[73]。この帰路の船中でディズレーリは2本の小説(ユダヤ人について描いた『アルロイ(Alroy)』と文学の道へ進むか政治の道を進むか悩む若い詩人を描いた『コンタリーニ・フレミング (Contarini Fleming)』)を書いている[74][75]。 12月末にイギリスに帰国した[76]。 4回の選挙落選 政界進出の決意 ディズレーリが帰国した時期の1830年代初頭、イギリス国民の関心は政治にあった[77]。産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが緊急の課題となっていたためである。1830年には保守政党トーリー党の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党の政権であるグレイ伯爵内閣が誕生し、選挙法改革をはじめとした政治改革がおこなわれることとなった[78]。 彼の友人ブルワー=リットンも1831年の総選挙で当選を果たして急進派[注釈 2]に所属する庶民院議員になっていた[80][81]。リットンの縁故でディズレーリも社交界に出席できるようになった[82]。 ディズレーリは『リプレゼンタティブ』紙の発刊に携わっていた頃から政界進出に関心があり、リットンを手本に自分も庶民院議員になりたいと思うようになった[83]。ディズレーリの父アイザックはトーリー党支持者であり、ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのため友人リットンと同じく急進派に接近した[84][85]。 グレイ伯爵政権によって1832年6月7日に「腐敗選挙区」[注釈 3]の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第一次選挙法改正[注釈 4]が行われると、ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始した[89]。ディズレーリはリットンの伝手でジョゼフ・ヒュームや合同法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合指導者ダニエル・オコンネルら進歩派の推薦状をもらった[90]。 ウィカム選挙区補欠選挙 しかしこの頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ディズレーリはまず旧選挙法のもとで出馬することになった[89]。リットンはウィカム選挙区にディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯爵の息子グレイ大佐を対立候補として擁立してきた[89][90]。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるディズレーリの出馬を歓迎していた[90]。 ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ」と急進派らしい演説をした[91]。 しかし旧選挙法のもとでのウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32名しかいなかった[89]。このうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するディズレーリは12票しかとれず落選した[92][93]。 1832年総選挙 1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法のもとでの総選挙が行われた。新選挙法のもとでのウィカム選挙区の有権者数は298名だった[94]。 ディズレーリは引き続き急進派の立場をとって、「イギリス国民は、比類なき大帝国の中に生きている。この帝国は父祖の努力によって築き上げられたものだ。しかし今、この帝国が危機を迎えようとしている事を英国民は自覚せねばならない。ホイッグだのトーリーだの党派争いをしてる時ではない。この二つの党は名前と主張こそ違えど、国民を欺いているという点では同類だ。今こそ国家を破滅から救う大国民政党を創るために結束しよう」と演説した[95][92]。 公約として秘密投票や議員任期3年制の導入、「知識税」(紙税)反対、均衡財政、低所得者の生活改善などを掲げた[94]。彼はこれらを改革としてではなく「旧来の制度に戻す」という復古の立場で主張した。そのため後年の保守党の党首としての立場と矛盾することにはならなかった[96]。 補欠選挙に続いてこの選挙でもトーリー党はウィカム選挙区には候補を立てず、ディズレーリに好意的な中立の立場をとっていた(彼らはホイッグ党の候補を落とすためには自分たちの主張と正反対の急進派を支持することさえ平気でした)[79][92]。そのためホイッグ党支持者を中心に「似非急進派」「偽装トーリー」として批判されることもあったディズレーリだが、彼は「私は我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ」「偽装トーリーとは政権についている時のホイッグ党のことである」と反論した[92][97]。 しかし結局ディズレーリはこの選挙区に出馬した三人の候補の中で最下位の得票しか得られず、落選した[94]。 1835年総選挙とグラッドストンとの出会い ディズレーリの保守党入りを支援したリンドハースト男爵 1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散されて1835年1月に総選挙となった。ディズレーリはこの選挙に保守党(トーリー党が改名)での出馬を考え、保守党幹部リンドハースト男爵と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。リンドハースト男爵の骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に三人の候補の中で最低の得票しか得られず、落選した[98]。 この選挙後の1835年1月17日にリンドハースト男爵主催の晩餐に出席し、そこで後のライバルであるウィリアム・グラッドストンと初めて出会った[99]。グラッドストンはすでに1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿の職位に就いていた。ディズレーリはその日の日記の中でグラッドストンへの嫉妬を露わにしている。一方グラッドストンのその日の日記にはディズレーリについて何も書かれておらず、後世にディズレーリとの初めての出会いを質問された時にグラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった」と語っている[100]。 トーントン選挙区補欠選挙 三度の落選を経てディズレーリは無所属には限界があると悟った[101][102]。1835年1月に保守党党首ウェリントン公爵に手紙を送り、「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください」と懇願した[103]。 公爵の計らいでディズレーリは保守党の紳士クラブカールトンクラブに名を連ねることを許された[103][102]。 さらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。これまで党派に所属しないと言いながら結局保守党の候補になったディズレーリは変節者として激しい批判を受けた[104][93]。 またこの選挙戦中、ディズレーリがオコンネルを扇動者・反逆者として批判したという報道がなされ、オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しいディズレーリ批判を行った。これに対してディズレーリは名誉を傷つけられたとして決闘を申し込んだが、オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、二度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。結局そうこうしてるうちに警察が介入してディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった[105][106][107]。ただこの件はディズレーリにとって売名にはなった。この頃のディズレーリの日記にも「オコンネルとの喧嘩のおかげで名前を売ることができた」と書かれている[108]。 しかし結局トーントン選挙区補欠選挙の結果は落選であった[109]。 借金と小説執筆 選挙活動と並行してディズレーリは小説家としても活発に活動した。近東旅行からの帰国の船の中で書いた『コンタリーニ・フレミング』を1832年5月、『アルロイ』を1833年3月に出版した。さらにその後『イスカンダーの興隆(The Rise of Iskander)』、『天国のイクシオン(Ixion in Heaven)』、『地獄の結婚(The Infernal Marriage)』などを続々と出版した[110]。また、メルバーン子爵やホイッグ党政権を批判した『ランニミード書簡』、イギリス憲政について論じた『イギリス憲政擁護論』『ホイッグ主義の精神』など政治論文も多数著した[111]。 だがいずれも大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタ[注釈 5]と交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をしている[114]。 さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。1836年から1837年はとりわけディズレーリが自堕落な生活を送っていた時期である。借金取りから追われる日々を送り、何度も金の無心に来るディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、一度は返済しないなら法的手段に訴えると脅しさえした[115]。 1836年夏から秋にかけて恋愛小説『ヘンリエッタ・テンプル(Henrietta Temple)』を書きあげ、10月に出版され、『ヴィヴィアン・グレイ』に並ぶ金銭的成功を収めた[116]。しかしこれだけでは借金返済できなかったので、1837年5月にさらに『ヴェネチア(Venetia)』を出版したが、これは『ヘンリエッタ・テンプル』ほど売れなかった[117]。 ヴィクトリア女王即位 ヴィクトリア女王が即位の日に初めて開いた枢密院会議 1837年6月に国王ウィリアム4世が崩御し、18歳の姪ヴィクトリアが女王に即位した。彼女が開催した最初の枢密院会議に出席すべくケンジントン宮殿を訪問した枢密顧問官リンドハースト男爵にディズレーリはお伴として同行した[117][118]。 枢密院会議を終えたリンドハースト男爵は、一人の少女が聖職者・将官・政治家たちの群衆の真ん中を悠然と歩いていき玉座に座る光景、イギリス中で最も権威ある男たちが一人の少女に騎士の誓いを捧げる光景をディズレーリに話してやった。ディズレーリはその光景を思い描いて憧れを抱き、今の自分では望むべくもないが、いつの日か自分も女王の前に膝まづいてその手にキスをして騎士の忠誠を捧げたいと願ったという[118]。 一介の保守党代議士として 当選 当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、1837年7月に総選挙が行われることとなった。この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された[119][120]。 この選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党が候補者を立てていなかった。急進派の候補が出馬していたが、保守党は2議席とも取れると踏んでおり、ウィンダム・ルイスとディズレーリの二人を候補として擁立したのだった[119][120]。 7月27日の選挙の結果、メイドストン選挙区はディズレーリとルイスが当選を果たした。ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬したすえに、ようやく庶民院議員の地位を得たのであった[119][121]。 処女演説 選挙後、ホイッグ党の首相メルバーン子爵はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろうと予想された[122]。 そのため、1837年12月7日、アイルランド選出議員の代表者オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったディズレーリは、オコンネル批判の処女演説を行った。これにアイルランド選出議員が激しく反発し、ディズレーリの演説は嘲笑とヤジに包まれた。ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首ロバート・ピールさえも声援を送りながらも笑いをこらえていたという。ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう」と大声で叫んで演壇を去った[32][123][124]。 しかしこれを見たアイルランド選出議員シェイルは「ディズレーリがアイルランド選出議員から妨害を受けずに演説していたら、あの演説は失敗だっただろう。ディズレーリの演説は失敗したのではなく押しつぶされたのだ。私の初演説はみんなが清聴してくれたがゆえに失敗だったと言える。つまり私は軽蔑をもって、ディズレーリは悪意をもって迎えられたという事だ。」と語ってディズレーリ演説を評価している[125][126]。 結婚 ディズレーリの妻となったメアリー・アンナ。 1838年3月14日、ディズレーリと同じ選挙区選出のウィンダム・ルイス議員が突然死した[127]。ディズレーリは悲しみの淵に沈む彼の妻メアリー・アンナのところへ通って彼女を励ました[128]。 メアリー・アンナは、デボンシャーで農業を営む中産階級のエバンズ家に生まれ、1815年にウェールズの旧家出身で製鉄所の経営者であるウィンダム・ルイス(1820年から庶民院議員)との結婚を通じて上流階級に顔を出すようになった女性である。しかし彼女は子供が出来ないまま夫と死別することとなり、夫の残した終身年金を受けるようになった[129]。 当時メアリー・アンナは45歳でディズレーリより12歳年上だった[130][131]。ディズレーリは彼女との関係を深めて7月末には結婚を申し込んでいるが、メアリーは夫の一周忌が過ぎるまで返事は待ってほしいと回答した[132]。 ディズレーリは当時借金で首が回らなかったから、彼女の終身年金を手に入れて借金を返済するのが狙いだと噂されたが、それだけが狙いだったのかどうかは定かではない[133][134]。ディズレーリが熱心に彼女に送った手紙は強い愛を感じさせるものであり、一周忌が過ぎると彼女も結婚に応じた。二人は8月28日にハノーヴァー・スクエアのセント・ジョージ教会で挙式した[135]。 ディズレーリもメアリーも配偶者に対して献身的だった。そのため二人の夫婦仲は非常によかった。後の政敵ウィリアム・グラッドストンもディズレーリ夫妻の夫婦仲を「模範的」と評している[136]。ディズレーリが後に書く小説『シビル(Sybil)』は妻に捧げるという形式をとっているが、その中の献辞で妻について「優しい声でいつも私を励まし、また執筆にあたって最も厳しい批評家として様々な教示をしてくれた、完璧な妻に」と書いている[137]。 デール・カーネギーは著書「人を動かす」において、幸福な結婚についてのエピソードとしてディズレーリ夫妻の「私がおまえと一緒になったのは、結局、財産が目当てだったのだ」「そうね。でも、もう一度結婚をやり直すとしたら、今度は愛を目当てにやはりわたしと結婚なさるでしょう」というやりとりを紹介している。 チャーティズム運動支援 1840年のチャーティズムの集会を描いた絵 ディズレーリの初期の議員活動は注目される物が少なく、不明な点も多いが、チャーティズム運動を支援していた議員の一人だったことは判明している。 イギリスでは、産業革命による工業化・都市化の進展によって1820年代から1830年代にかけて労働者階級が形成されるようになった[138]。しかし当時のイギリスには労働者のナショナル・ミニマムを保障するような制度がほとんど何も存在しなかった[139]。 そのため労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」[注釈 6]を盛り込もうとする救貧法改正に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった[141]。1838年5月にはウィリアム・ラベットによって「人民憲章」[注釈 7]が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった[142]。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった[143]。 しかし保守党とホイッグ党の二大政党はそろって12万人の署名が入ったこの請願を拒否した。「改革の父」と呼ばれたジョン・ラッセル卿さえもがチャーティストを法廷で告発した。一方ディズレーリはチャーティズム運動を支援していた。庶民院の議員の中ではほとんど彼のみがチャーティストに理解を示していたといってよい[144]。 チャーティスト達の議会への請願があるとディズレーリは自党の救貧法改正賛成の立場を批判し、またチャーティズム運動を取り締まるためのバーミンガム警察への予算増額にも反対した。この予算増額に反対したのはディズレーリを含めて3議員だけであり、下手をすると保守党からの公認を取り消されかねない危険を冒しての行動だった[145]。1839年11月にウェールズ・ニューポートで炭鉱夫の反乱が発生するとチャーティスト指導者が続々と官憲に逮捕されたが[146]、これに対してもディズレーリは4人の議員とともにチャーティスト指導者弾圧に反対する運動を行った[145]。 ディズレーリは決してチャーティストの主義主張に賛同していたわけではない。しかしジョン・ラッセル卿のような改革者までがチャーティストを攻撃している姿を奇異に感じており、それに反発したのである。ディズレーリは庶民院の演説で「イギリスのような貴族主義の国では反逆者さえも成功するには貴族的でなければならないことをチャーティスト達は思い知ることになるでしょう。(略) イギリスでは同じ改革者でもジャック・某の場合は絞首刑に処せられ、ジョン・某卿の場合は国務大臣になるのです」と皮肉っている[144]。 チャーティズムに理解を示した態度からもわかるように、ディズレーリはこの時点もこの後も保守党正統派というわけではなかった。保守党急進派、もしくは中道左派ともいうべき保守党内では特殊な政治的立場にいたのである[147]。 ピール内閣に入閣できず 保守党党首・首相サー・ロバート・ピール。 一方でディズレーリは保守党党首サー・ロバート・ピールに対する追従は欠かさず、タイムズ紙に寄稿してはピールを称え続けた。メルバーン子爵を寵愛するヴィクトリア女王がピールが提案した寝室女官の新人事に文句をつけてピールの組閣を阻止した寝室女官事件でも、ディズレーリは「マダム、それはなりません」という文を書いて女王を批判し、ピールの対応を称賛している[147]。 ホイッグ党の首相メルバーン子爵はヴィクトリア女王の寵愛のみで政権を維持していたが、すでに死に体であった。1841年5月に内閣不信任案が一票差で可決され、解散総選挙となった[148]。この選挙でディズレーリはシュルズベリー選挙区に鞍替えした。選挙戦中にディズレーリは買収容疑をかけられたため、苦しい選挙戦となったが、なんとか再選を果たした。しかし買収容疑の追及は選挙後もしばらく受けた[148]。 選挙の結果、保守党がホイッグ党から第一党の座を奪い取ったが、メルバーン子爵はなおも政権を維持するつもりだった。それを阻止すべく、保守党内では庶民院議長再選に反対すべきとの意見が出されたが、ピールら党執行部はその路線は退けた(これによって庶民院議長の不偏不党性が確立された)。だが党内にはなおもそれを主張し続ける者があり、彼らは『タイムズ』紙に「ピシータカス」という偽名でその意見を掲載し始めた。この「ピシータカス」がディズレーリだという疑惑が広まった。ディズレーリはその噂を否定しているが、この件で保守党執行部から忠誠を疑われるようになった[149]。 ヴィクトリア女王はピールを毛嫌いしていたが、彼女の夫アルバートはピールを高く評価しており、彼がヴィクトリアを説得した結果、1841年8月30日にピールに大命降下があった[150]。 ディズレーリはピール内閣に入閣できるものと思っていたが、お呼びはかからなかった。次々と閣僚ポストが埋まっていくのに焦ったディズレーリは、ピールに自分を見捨てないよう懇願する手紙を送ったが、ピールからの返事はそっけなかった[151]。そもそもピールも有力議員の顔を立てなければならないのであるから、全ての閣僚人事を自由にできるわけではなかった[152]。 結局ピール内閣は閣僚のほとんどが第1次ピール内閣(1834年~1835年)の時と同じ顔触れであり、新規閣僚は4人だけだった[152]。ディズレーリは入閣できなかった。ピールから嫌われているわけではなかったが、保守党上層部の中には彼を胡散臭がる者は多かった[151]。もっともディズレーリが入閣できなかったのはこの当時の保守党内政治力学を考えれば順当なことであり、入閣はディズレーリの高望みであった[153]。 「ヤング・イングランド」 若き日のベンジャミン・ディズレーリ 入閣できなかったディズレーリは徐々にピールに批判的になっていった。とはいってもすぐにそうなったわけではない。院内幹事長トーマス・フレマントルからも「採決において政府法案に賛成しそうな与党議員」と見られていた[154]。 この立場をとり続けていれば、いつか閣僚になれたかもしれないが、ディズレーリはそんな悠長に待つ気にはなれなかった。党内反ピール派の若手議員ジョン・マナーズ卿、ジョージ・スマイズ、アレクサンダー・バイリー=コックランの三人とともに党内反執行部グループ「ヤング・イングランド」を結成した[155]。 ディズレーリを除く三人はケンブリッジ大学出身者であり、オックスフォード運動に影響を受けていた。オックスフォード運動とは自由主義化の風潮に抵抗して宗教改革以前の「純粋で腐敗のない宗教」を復活させることを目的とする運動である。これを宗教から政治に転用しようとしたものが「ヤング・イングランド」であり、一口にいえば封建主義時代に戻ろうという復古主義運動であった[156]。 こうした思想の者には紋切り型なピールよりディズレーリの機知にとんだ演説の方が魅力的に感じられた[157]。とりわけ少年時代から顔見知りだったスマイズとディズレーリの相性が良かったが、コックランはディズレーリに野心性を見てとって警戒していたという[158][159]。 またディズレーリはカトリックに対して同情的であったものの、イングランド国教会の歴史的偉大さを確信しており、オックスフォード運動が主張するようなイングランド国教会をカトリック化するという案には慎重であった[160][161]。そのため宗教に一家言あるマナーズ卿としばしば宗教論争となり、シニカルなスマイズを面白がらせていたという[161]。スマイズは「ディズレーリの穏健なオックスフォード主義は、ナポレオンが若干イスラム教に傾斜していたのに似ている」と評している[160][161] マナーズ卿(第5代ラトランド公爵の次男)とスマイズ(第6代ストラングフォード子爵の長男)は貴族出身者であった。ディズレーリはコンプレックスがあったのか、二人に「イギリス貴族などというものは存在しない」と語りだしたことがあった。ディズレーリ曰く「今残っているイギリス貴族は5家を除いて、すべて最近になって称号を手に入れた者たち」であり、「真に長い歴史を持つ唯一の血筋はディズレーリ家」だという。スマイズはこれを笑って聞き、マナーズ卿は生来の真面目さで傾聴していたという[162]。 「ヤング・イングランド」の存在は1843年には公然の存在となり、4人は議場でも固まって座っていた[163][164]。彼らは自分たちの所属する保守党の方針に反してでも「復古主義」「民衆的保守主義」の信念を貫く投票を行った[164]。 内務大臣サー・ジェームズ・グラハム准男爵は1843年8月に「ヤング・イングランドについていえば、その人形を操っているのはディズレーリである。彼が一番有能だ。」と書いている[165][166]。 ピール内閣倒閣をめざして 自由貿易論者であるピール首相は1844年6月、外国産砂糖を植民地産砂糖と同じレベルの関税に引き下げる法案を通そうとした。これに反対を公言したのは「ヤング・イングランド」など一握りだけであったが、内心で反発する親植民地派は保守党内に少なくなく、彼らは「ヤングイングランド」の活動に好感を寄せるようになった。ディズレーリが「私は某大臣から48時間以内に態度を変えろと脅迫されたが、そのつもりはない」と演説すると議場から大きな拍手が起こっている[167]。しかし結局、スタンリー卿(後のダービー伯爵)の巧みな演説のおかげで議会の状況はピール政権側に好転し、20票差で法案は可決された[167]。 この頃にはピールに深い信頼を寄せるようになっていたヴィクトリア女王も激しい怒りを感じたらしく、叔父ベルギー王レオポルドに宛てた手紙の中で「ヤング・イングランド」を「若い狂人の群れ」と評して批判している[166]。またラトランド公爵とストラングフォード子爵に対して息子をしっかり監督するよう命じている[167]。 ピールを批判したディズレーリの小説『シビル』の初版 しかしディズレーリはお構いなしに1844年5月にピールを批判した政治風刺小説『カニングスビー』を出版し、その翌年5月には続編『シビル』を出版した[168][169][170][171]。 『カニングスビー』は公爵の孫カニングスビーの政治生活や社交界生活を描くことで政府の方針や政党の主義主張、王権や貴族の衰微の原因などについて分析・批評した小説である。この小説が出版されてからイギリスで政治小説が流行るようになった[172]。『シビル』では労働者やチャーティストの悲惨な生活を描き出し、富裕層と貧困層は階級の上下というよりも、もはや二つの国民に分断されている状態であると皮肉り、格差社会の弊害を説いた[173][174][172]。この『シビル』の執筆によってディズレーリは自分の本来の世界観に立ち返ったといい、それがきっかけで1845年代にピール批判を一層強めることになったという[175]。 さらに1847年にはこの二作の続編として『タンクレッド (Tancred)』を出版しているが(これ以降20年以上小説を出版しなかった)、これはピール失脚後に書かれた物であり、ユダヤ教について語った小説である[176]。キリスト教国の改造にはユダヤ教の教えを導入すべきであることを暗示した小説だった[172]。 1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。当時の一般的なアイルランド家庭はパンを買う余裕がなく、ジャガイモを主食にしており、アイルランドの食糧事情は危機的状態となった。ピール首相はただちに穀物法に定められている穀物関税を廃し、安い小麦を国外から買い入れられるようにしてパンの値段を下げなければならないと考えた。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。閣内も分裂状態となり、ピール首相は保護貿易主義者のスタンリー卿やバクルー公爵を説得できず、一度総辞職したが、ヴィクトリア女王が後任を見つけられなかったので、再度ピールに大命降下があり、保護貿易主義者のみを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた[177][178][注釈 8]。 ピールは再び穀物法を廃止しようとしたが、やはり保守党内の抵抗勢力の激しい反発に遭った。ディズレーリはこの保守党内の空気を利用してピール批判の急先鋒に立った[180]。彼は「穀物の自由貿易はイギリス農家を壊滅させる。また自由貿易にしたところで穀物の価格は下がりはしない」という持論を展開した。さらに議会の礼節を無視した罵倒さえ行い、これにピールの弟ジョナサン・ピールが激怒し、ディズレーリに決闘を申し込み、またピール本人もかつてディズレーリが閣僚ポストを懇願してきた手紙を公開してやろうかと考えたほどだった[181]。ディズレーリが全精力を注いで行ったピール批判演説によって、ピールは保守党内からイギリス農業を壊滅させようとしている党の裏切り者というレッテルを貼られるようになっていった[182]。 保守党庶民院院内総務ジョージ・ベンティンク卿。ディズレーリのピール内閣倒閣に協力した。 さらに保護貿易主義派の保守党庶民院院内総務ジョージ・ベンティンク卿(ポートランド公爵の次男)と連携して保守党内の造反議員を増やしていった[183][184]。結局ピールは保守党庶民院議員の三分の二以上の造反に遭いながらも野党であるホイッグ党と急進派の支持のおかげで穀物法を廃止することができた[185]。 ディズレーリとベンティンク卿はピールを追い詰めるため、アイルランド強圧法案を否決させることにした。当時、政府がこのような治安法案で敗北した場合、総辞職か解散総選挙しか道はなかったが、党執行部は議席を落とすことを恐れているので解散総選挙はできないとベンティンク卿は見ていた。ちなみにベンティンク卿はこの法案について第一読会で賛成票を投じていたが、適当な理由をでっちあげて反対に回ることにした。二人にとってはもはや政策よりピールを潰すという政局の方が大切だった。この法案には穀物法の時ほど党内造反者を作ることは期待できなかったが、それでも70名ほどの造反者を出させることに成功した。そしてこの法案に反対するホイッグ党や急進派と協力して、1846年6月25日の採決で73票差でこの法案を潰す事に成功した[186][181]。 これを受けてピール内閣は6月29日に総辞職を余儀なくされた[187]。 保守党分裂 ピール元首相以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。閣僚や政務次官経験者など党の実務経験者はすべてこちらへ流れていった(後のディズレーリの宿敵ウィリアム・グラッドストンもその一人)[188][189]。 そもそも当時の保守党は貴族や地主の倅ばかりであり、家の力で議員になった者が多く、そこから実務経験者まで抜けてしまうとなると残るのは無能ばかりであった[189]。そこにディズレーリが自由貿易批判、保護貿易万歳論を煽ったわけだから、保守党が単なる復古的農本主義団体と化していくことは避けられなかった[190]。 国民は保守党の統治能力を疑うようになり、この政党を政権につけたら革命を誘発しかねないという懸念さえ持つようになった[191]。保守党はこの後30年にわたって国民から倦厭され続け、少数党の立場から抜け出せなかった(その間もしばしば保守党が政権に付くことがあったのは野党が分裂していたからである)[190]。これについてディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は「ディズレーリとベンティンクはピールを攻撃してるつもりで保守党を破滅させた」と評した[190]。 ピール内閣総辞職後、ヴィクトリア女王は新たな保守党党首スタンリー卿に首相の大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断してホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう奏上した[192]。 こうしてホイッグ党のジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ラッセル卿内閣が成立した。発足当初のラッセル卿内閣はホイッグ党とピール派の連立を基盤としていたが、この両勢力は自由貿易以外に共通点がなく、政権はすぐに行き詰り、1847年6月には解散総選挙となった[193]。 すでに知名度の高い議員になっていたディズレーリは、この選挙でバッキンガムシャー選挙区に鞍替えしたが、圧勝して再選を果たしている[194]。しかし総選挙全体の結果は改選前とほとんど変わらないものだった。結局ラッセル内閣は議会の支持基盤が不安定なまま、しかし保守党が分裂しているために政権を維持できるという状態で政権運営を続けることになった[194]。 保守党庶民院院内総務、大蔵大臣として 党の指導的地位をめざして ディズレーリが購入したヒューエンデン邸。 保守党の分裂で党有力者が軒並みピール派へ移ったことはディズレーリにとっては党内で枢要な地位を固めるチャンスであった。ディズレーリが保守党指導者に上り詰めるためには「反抗期の青年議員」を卒業して「威厳ある保守政治家」にならねばならなかった。 まず変化したのは服装だった。これまでのディズレーリの悪趣味なカラフルな服装は、落ち着いた雰囲気の紳士的な服装に変わった[194]。また保守党内で出世するためにはどうしても大邸宅に住む地主になる必要があったので、大富豪ポートランド公爵の息子であるベンティンク卿とその弟ヘンリー・ベンティンク卿から資金援助を受けて、1846年にヒューエンデンに屋敷を購入した[195][196]。 ユダヤ教徒公民権停止が解かれた1858年に庶民院に初登院するライオネル・ド・ロスチャイルド議員を描いた絵画。彼は1847年に初当選したが、結局この時まで議会に登院できなかった。右下にディズレーリが座っているのが見える。 しかし厄介な問題も発生していた。先の総選挙でユダヤ教徒の銀行家ライオネル・ド・ロスチャイルドがホイッグ党の議員として当選していたが、彼はキリスト教徒としての宣誓を行えないため、議員になることができなかった。これについて首相ラッセル卿がユダヤ教徒の公民権停止の撤廃を審議すべきとする動議を議会に提出した。これに対してディズレーリとベンティンク卿をのぞくピールを失脚させた保守党議員らがいっせいに反発したのである。ちなみにベンティンク卿は動議賛成に回ってくれたが、彼もユダヤ人に好意を持っていたわけではなく、ディズレーリとの友情からそうしただけであった[197][198]。 ディズレーリがただひたすらに保守党指導者を目指そうと思うなら、批判と孤立を避けるためにこの動議の採決に欠席するという手段もあった(どっちにしてもホイッグ党や急進派、保守党内穏健派の賛成で動議は可決される見通しだった)。だがディズレーリにとってこれはアイデンティティに関わる問題であり、ユダヤ人同胞が不当な扱いを受けている時に隠れて見て見ぬふりをすることはできなかった。ディズレーリは演壇に立ち、『タンクレッド』の中で示した「ユダヤ教とキリスト教は兄弟である」という信念を改めて開示し、また「ユダヤ人は本来保守的な民族なのにこんな扱いばかり受けるからいつも革命政党の方に追いやられ、その高い知能でそうした政党の指導者になるのだ。これは保守党にとって大変な損失だ」と演説し、動議に賛成票を投じた[199][198]。ディズレーリに従ってピールを失脚させた議員らは誰もこの演説に拍手しようとしなかった。評価したのはむしろホイッグ党であり、首相ラッセル卿は「仲間が嫌う理論をあんなふうに擁護するのは大変勇気がいることだ」と感心している[200]。 病を患っていたベンティンク卿は上記動議に反発する者たちを抑えるため、党庶民院院内総務を辞職した。1848年2月10日、その後任にグランビー卿(ディズレーリの盟友ジョン・マナーズ卿の兄)が就任したが、彼は自分がその器ではないと自覚しており、3月4日には辞職した。その後しばらく保守党庶民院院内総務職は空席になっていたが、ベンティンク卿の健康が回復したら彼が再任されることを希望する保守党議員が多かった[201]。 一方で8月末のディズレーリの社会風刺の演説[注釈 9]で彼の保守党内での人気も高まっていた。さらに1848年9月にはベンティンク卿が死去した[203]。 ベンティンク卿亡き今、人材不足の保守党の中にはディズレーリ以外に党庶民院院内総務が務まりそうな者はいなかったが、ディズレーリの毒舌や外国人風の風貌、『クオタリーレビュー』誌のマリーとの不和、『ビビアン・グレイ』の主人公はディズレーリの若いころの実話であるとの噂などから保守党内にはなおもディズレーリを胡散臭いユダヤの山師と看做す者が多かった[204][205]。 党首スタンリー卿のディズレーリ不信も強かった。そのため1851年末までディズレーリは正式な庶民院院内総務には任命されなかった。だがそれでも実質的にはその数年前からディズレーリが庶民院院内総務の役割を果たしていた[206][207]。 つまりディズレーリは250人の保守党庶民院議員を率い、保守党党首スタンリー卿を「副官」として支える立場になったのである[208]。 保護貿易主義の限界 ピールの置き土産である穀物の自由主義化は、イギリス農業に大きな繁栄をもたらしていた。ディズレーリらが必死に吹聴したイギリス農業の衰退は起こらず、貿易の拡大によりイギリス農家の利益は増え、農業労働者の賃金も上がっていった。穀物価格の低下は国民の福祉に貢献した[209]。この素晴らしい成果に自由貿易は神聖化していった[210]。もし今保護貿易主義を復古しようなどとすれば国民の暴動が起こるのは確実だった[211]。 保守党もこれ以上保護貿易主義を掲げ続けるのは難しい情勢だった。現実主義者のディズレーリは真っ先にそれを受け入れた。彼はすでにベンティンク卿死去以前に保護貿易主義は実行可能な政策ではなくなったと考えるようになっており[212]、1849年秋には党の保護貿易の方針は破棄するか、少なくとも前面には出さず、他の政策の後ろに隠す必要があると考えるようになった[213]。だが党首スタンリー卿は保護貿易主義にこだわっていた。今の繁栄は一時的な物で終わるかもしれないので、保護貿易主義の撤回は時期尚早と考えていた[214]。それに結局ピール派と同じ路線をとるなら党分裂に至る歩みは全部無駄だったことになる。党首としてそんな簡単に党の看板を下ろすわけにはいかなかったのである[214][215]。ディズレーリの方も解散総選挙の兆しがない以上、急いで党の看板を変える必要もないと考えていたため、1850年中には貿易の問題は一切取り上げなかった[216]。 1850年7月に元首相ピールが死去した。ラッセル卿内閣が弱体でありながら長期政権になっているのはピールが保守党に戻ることも、ホイッグ党と連立することも、単独で政権を担う事も拒否しているからだった。したがって保守党にとってこれはピール派との和解のチャンスに思われた[217][218]。ディズレーリも「ピール派重鎮に党庶民院院内総務の地位を渡してもよい」と語って、彼らの取り込みを図ろうとしたが、ピール派のピールへの思慕は強く、結局戻ってこなかった[218]。 1850年秋、ローマ教皇がウェストミンスター大司教職を新設したことに対して首相ラッセル卿がイングランド国教会を害するものと激しく反発し、これによりラッセル卿政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られた。ラッセル卿は1851年2月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、女王に総辞職を申し出た[219]。女王はスタンリー卿を召集して大命降下を与えたが、この際にラッセル卿は女王から直接聞いた話をもとにその一部始終を庶民院で報告し、「スタンリー卿は組閣できそうにないと女王に返答した」と発表した(=自分が政権を担い続けるしかない)。これに対してディズレーリはスタンリー卿が断るはずがないと非難の声をあげ、保守党議員たちが拍手した。これを知った女王は自分を嘘つき扱いしているに等しいディズレーリへの反感を強めたという[220]。 しかし実際にスタンリー卿は人材不足により組閣できなかった。スタンリーとディズレーリはウィリアム・グラッドストンら実務経験のあるピール派幹部に入閣を呼びかけたが、彼らは保護貿易主義を放棄しない限りその下で働くつもりはないと断った。無名・無能議員ばかりの保守党だけで組閣するしかなかったが、混乱状態の中の組閣だったので保守党内にも個々様々な理由で入閣を拒否する者が続出し、結局スタンリー卿は組閣を断念した[221][222]。 ディズレーリは「一つ確かなことは、経験と影響力がある有力議員は、保護貿易主義放棄を明確にしないと協力を拒むということだ」と書いている[223]。いよいよ保護貿易主義を放棄しなければならない時が来ていたが、保守党内には相変わらず保護貿易強硬派は少なくないので難航した[224]。 第一次ダービー伯爵内閣蔵相 保守党党首・首相ダービー伯爵。 ラッセル卿内閣外相だったパーマストン子爵は、1851年末にナポレオン3世のクーデタを独断で支持表明した廉で辞任に追いやられ、1852年2月に議会が招集されると庶民院におけるラッセル卿内閣攻撃の急先鋒になった。以降ホイッグ党はラッセル卿派とパーマストン子爵派という二大派閥に引き裂かれる。ディズレーリはパーマストン子爵派と連携して在郷軍人法案でラッセル卿内閣を敗北に追い込んで倒閣した[225]。 再びダービー伯爵(スタンリー卿。この前年に父第13代ダービー伯爵が死去して第14代ダービー伯爵位を継承した)に大命があった。相変わらず保守党は人材不足の少数党だったが、ダービー伯爵は今回はなんとしても組閣するつもりだった[226]。 ピール派に持ちかけることなく、ただちに保守党議員たちだけで組閣が行われた。ディズレーリには大蔵大臣への就任要請が来た。ディズレーリは財政は門外漢として辞退しようとしたが、ダービー伯爵は「カニングぐらいの知識は君にもあるだろう。数字は官僚が出してくれる」と説得して引き受けさせたという[226][227]。ディズレーリは外務大臣として入閣するという噂があっただけにこれは意外な人事だった。ヴィクトリア女王がディズレーリを嫌っていたため、頻繁に引見する外務大臣は嫌がり、単独で引見することはほとんどない大蔵大臣に就任させたのではないかといわれる[228][229]。 第一次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか三人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣」と呼ばれた[230][231][232]。ディズレーリにとっても初めての入閣である。初めて大臣の礼服を袖に通した際、事務官から「重いでしょう」と聞かれるとディズレーリは「信じられないくらい軽いね」と答えたという[232][233]。 蔵相となったディズレーリは、ヴィクトリア女王に報告書を送るようになったが、その報告書はどこか小説的でヴィクトリア女王を楽しませた。これによってヴィクトリア女王の彼への心象は随分良くなった[234][235]。 ホイッグ党党首ラッセル卿としてはただちにダービー伯爵内閣を議会で敗北に追い込んで政権を奪還するつもりだった。だがピール派は夏に議会を解散することと11月に議会を招集して会計制度改革問題を取り上げることを条件として当面ダービー伯爵が政権を運営することを承認していたため、内閣はそれまでは安泰だった[236]。 政権発足後、ダービー伯爵内閣は保護貿易について曖昧な態度をとった。ダービー伯爵自身もこれ以上保護貿易にこだわると来る総選挙において安定議席は取れないであろうと認めていたが、公然と保護貿易破棄することは躊躇っていた。だがディズレーリは一歩進めて、4月の予算演説において前内閣の大蔵大臣サー・チャールズ・ウッドの作成した自由貿易主義の予算案を適切な物と評価する演説を行った。びっくりしたダービー伯爵はディズレーリに勝手な真似をしないよう警告の手紙を発している[237]。 ピール派との公約通り、7月に議会が解散され、総選挙となった。保守党はいまだ公式な保護貿易主義撤廃を宣言しておらず(ダービー伯爵がヴィクトリア女王に「穀物に関税をかけるのはもはや論外です」と確約するなど事実上保守党も自由貿易主義に移行していたが)、貿易について曖昧な態度をとったまま選挙戦に突入した。保守党執行部が明確な方針を示さないので、保守党各候補の見解もばらばらだった。概して地方の候補は保護貿易主義的に、大都市の候補は自由貿易主義的にふるまっていた。選挙の結果、保守党は若干議席を上積みしたが、過半数を制することはできなかった[238]。 選挙後、ピール派との公約により蔵相ディズレーリは予算編成にあたることとなった。しかしまだ年度半ばで財政状況が明らかでないこの時期に予算編成に当たらねばならないのは大変なことだった[239]。ディズレーリは毎日夜中の3時まで仕事して慣れない予算編成の仕事にあたった。そうしてできた予算案は12月3日に議会に提出された。自由貿易によって損失をこうむった(と思っている)「利害関係人」に税法上の優遇措置を与え、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった[240][241]。保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとって党内地主層の反発を抑えつつ、ピール派にもすり寄る意図の予算案だったが、結局ホイッグ党とピール派から激しい批判にさらされた。ピール派のグラッドストンがディズレーリ批判の先頭に立ち、彼の予算案を徹底的に論破した。12月17日の採決の結果、ディズレーリの予算案は否決された[242][243][244]。 これによってダービー伯爵内閣は総辞職することとなり、ピール派のアバディーン伯爵がホイッグ党や急進派と連立して組閣した。ディズレーリの大蔵大臣職はグラッドストンが継承した[245][246]。 野党としての戦術 第一次ダービー伯爵内閣は短命に終わったが、閣僚職を務めたことでディズレーリの知名度は上がった[247]。 ディズレーリはアバディーン伯爵政権はすぐにも倒閣できる存在であると見て、政権に徹底的な闘争を挑むことにした。野党第一党の使命は政府の法案に何でも反対することというのは、現代の議会制民主主義の国ならばどこでも見られる現象だが、これを世界で最初に確立した者はこの頃のディズレーリであるといわれている(それまでのイギリスの野党はすべて是々非々で対応していた)[248]。 しかし党首ダービー伯爵は徹底闘争路線は拒否した。彼は先の内閣で閣僚経験のない者ばかり集めたために政権運営に苦労する羽目になったと考えており、同じことは二度とお断りという心情だった。実務経験のあるピール派も内閣に参加させるべきであり、そのため現政権を徹底攻撃することには反対というわけである[249]。 ディズレーリはダービー伯爵に相談することなく独断で行動することが増えていった[249]。 クリミア戦争をめぐって 1857年のディズレーリ 1853年10月にはロシア帝国とオスマン=トルコ帝国の間でクリミア戦争が勃発。首相アバディーン伯爵は平和外交家として知られていたが、閣内には対外強硬派の内相パーマストン子爵と外相ジョン・ラッセル卿がいたので、イギリスはナポレオン3世のフランス帝国の誘いに乗って1854年3月から対ロシアで参戦することとなった[250][251]。 ディズレーリはクリミア戦争について不要な戦争に参加させられたと思っており、「連合の戦争(Coalition War)」と呼んで皮肉った[250]。公式な立場としては野党の愛国者として政府の戦争遂行を支持する一方、戦争遂行中の失敗については批判するという立場をとった[251]。クリミア戦争が泥沼化し、ジョン・ラッセル卿が責任をとって外相を辞職すると、ディズレーリはチャンス到来と見てダービー伯爵を説得して政府への大々的攻撃を開始した[252]。ディズレーリの反政府演説の結果、1855年1月29日にジョン・アーサー・ローバック議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置の動議が大差で可決され、アバディーン伯爵内閣は倒閣された[251]。 女王からダービー伯爵に再び大命降下があったが、ダービー伯爵はパーマストン子爵に外相就任を求め、これをパーマストン子爵が断ったため首相職を辞退した。女王はランズダウン侯爵を召して相談し、ランズダウン侯爵の助言に従ってラッセル卿に大命降下を与えたが、ラッセル卿が辞退したため、結局パーマストン子爵に大命降下を与えた。ディズレーリはこの一連の動きを知ると、政権を取り戻すチャンスを棒に振ったダービー伯爵を非難した[253][注釈 10]。 1855年9月にロシア軍のセヴァストポリ要塞が陥落し、戦況は英仏に傾き始めた。パーマストン子爵はロシアの無条件降伏まで戦争を継続するつもりだったが、これに対してディズレーリは今こそ和平交渉の時と訴えた。フランスのナポレオン3世も和平に入ることを提案してきたため、パーマストン子爵も折れるしかなくなり、最終的に1856年3月30日にパリ条約が締結されて終戦した。保守党内にはイギリスが得た国益が少ないと不平を述べる者が多かったが、ディズレーリは「そもそも戦況が良くなかったのだからイギリスの面子が潰れない和平なら歓迎すべき」と評価した[255]。 1856年11月には盟邦フランスのパリを訪問し、皇帝ナポレオン3世の引見を受けた。彼とは彼がイギリスに亡命していた頃から14年ぶりの再会だったが、特に政治的に得る物はなかった。ナポレオン3世のディズレーリ評は芳しくなく、この会見の後「全ての小説家にありがちな独り善がりと多弁が目立つ。でありながら行動すべき時には臆病になる」と評している[256]。 パーマストン子爵内閣倒閣をめざして ホイッグ党党首・首相パーマストン子爵。 クリミア戦争後もパーマストン子爵のナポレオン3世と連携しての強硬外交は続いた。英仏は再び同盟を組んで清に対してアロー戦争を開始した。パーマストン子爵は容赦なき戦争を遂行し、清を徹底的に叩きのめした。それに対して保守党、ピール派、急進派は人道的見地から政府批判を行った。ディズレーリはこの問題で政府を攻撃しても恐らく国民の支持を得られないだろうと正しく分析していたが、党首ダービー伯爵がこの問題で徹底的に政府を攻撃することを決定した[257]。 パーマストン子爵批判決議は僅差で可決され、パーマストン子爵は1857年4月に解散総選挙に踏み切った[258][259]。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的なパフォーマンスは、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵とアロー戦争を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった[260][261]。 続くインド大反乱ではパーマストン子爵ははじめ鎮圧に手間取り、反乱が拡大する気配を見せた。世論はインド人の残虐行為を批判し、反乱の徹底的な鎮圧を支持していたが、ディズレーリは調査もしないで残虐行為の話を信じこむべきではないとして無差別報復を支持しないよう世論に訴えかけた(ただし残虐行為の話は誇張されている物もあったが、概ね事実であった)[262][263]。そしてイギリス東インド会社を解体して、ヴィクトリア女王とイギリス政府による直接統治でインド臣民に権利を保障しなければならないという持論を展開した。しかし結局1857年暮れ以降には英軍の攻勢が強まり、反乱は鎮圧・収束へと向かっていった[264]。 パーマストン子爵はなかなか失点を見せず、ディズレーリとしても手詰まりな状況であった。そんな中の1858年1月14日、フランスにおいてイタリア愛国者フェリーチェ・オルシーニ伯爵によるナポレオン3世爆弾暗殺未遂事件が発生した。ナポレオン3世は無事だったが、市民に多数の死傷者が出た。オルシーニ伯爵はイギリス亡命中だった人物で爆弾もイギリスのバーミンガムで入手しており、フランス国内からイギリスは暗殺犯の温床になっているという批判が強まった。フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要求を受け入れてパーマストン子爵は殺人共謀取締法案を議会に提出したが、これを「フランスへの媚び売り法案」とする批判が世論から噴出した。ディズレーリはこの愛国ムードを利用すればパーマストン子爵内閣を倒閣できると確信し、慎重姿勢を示すダービー伯爵を無視して、殺人共謀取締法案反対運動を起こし、2月19日に同法案を第二読会で否決に追い込んだ。これを受けてパーマストン子爵内閣は総辞職した[261][265][171]。 第二次ダービー伯爵内閣蔵相 1858年2月、女王はダービー伯爵に再度大命を降下した。ダービー伯爵はこれを引き受け、保守党のみで組閣した。ディズレーリは再び蔵相として入閣した[266]。ただし保守党は先の総選挙で議席を落としているから、第二次ダービー伯爵内閣は第一次内閣の時よりも更に議会の基盤が弱い状態である[267]。結局第二次ダービー伯爵内閣も短命で終わったため、予算編成を行う事がなく、ディズレーリが大蔵大臣らしい仕事をすることもほとんどなかった[268]。 代わりにディズレーリが力を入れたのが庶民院院内総務としての仕事であった。まずユダヤ人が議員になれない状態の解除に取り組んだ。1848年のライオネル・ド・ロスチャイルドの登院問題の時の動議もそうだが、庶民院ではしばしばユダヤ人議員を認める動議が通過するのだが、貴族院ではねられるのが常だった。しかしこの第二次ダービー伯爵内閣の時の1858年、ディズレーリとダービー伯爵の仲介で庶民院と貴族院がそれぞれの宣誓の形を定めて妥協し、ついにユダヤ人も議員になれるようになった[269][270]。 ついで選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは以前から、ホイッグ党政権が1832年に改正した現行の選挙法を保守党を不利にするための選挙制度と疑っており、保守党の手で新たな選挙法改正を行うべきと主張していた[271][272]。ディズレーリによって作成された選挙法改正案は地主に従順な州(カウンティ)選挙区の有権者資格に都市(バラ)選挙区の有権者資格と同じ賃料価値10ポンド以上の不動産所持者を加えるという内容だった[273]。本来ディズレーリは賃料価値に関わらず一戸ごとに一票を与える戸主選挙権制度を欲していたが[274]、保守党内にも様々な意見があったので意見の統一はこの程度が限界だった[273]。法案は1859年2月に議会に提出されたが[273]、保守党有利の選挙法改正法案と看做されて野党の激しい批判を受け、否決に追い込まれた[171]。 これを受けて1859年4月、ダービー伯爵は解散総選挙に踏み切った。選挙の結果、保守党が30議席を増やし、いまだ少数党ながら野党との差を大幅に縮めた[275][276]。 あと少し議席があれば保守党が多数派になるという状況の中、ディズレーリは、ホイッグ党のパーマストン子爵(ホイッグ党内でジョン・ラッセル卿と争っていた)に打診し、20人から30人の議員を引き連れて保守党へ来てくれるならダービー伯爵退任後の保守党党首に貴方を据えたいと持ちかけたが、パーマストン子爵はこれを拒否した[277]。ついでディズレーリはアイルランド議員やホイッグ党系無所属議員と折衝を図り、またダービー伯爵もグラッドストンの引き込みを図ったが、いずれの多数派工作も成功しなかった[278]。 イタリア統一戦争と自由党の結成 この頃、フランス帝国・サルデーニャ王国の連合軍(イタリア・ナショナリズム派)とオーストリア帝国(イタリア・ナショナリズムを抑圧してイタリア内のオーストリア領保全を狙う)の間でイタリア統一戦争が勃発した。 イギリスでは、ジョン・ラッセル卿やパーマストン子爵などホイッグ党の政治家が自由主義の立場からナショナリズムに共感を寄せ、一方保守党の政治家は親オーストリア的な立場をとる者が多かった(そのためナポレオン3世はイギリスの政権について保守党政権よりホイッグ党政権を望んでいた)。ダービー伯爵や外務大臣マームズベリー伯爵も親オーストリア的な立場をとり、サルデーニャ王国を平和撹乱者として批判し、またフランスに対してもすぐにオーストリアと休戦してオーストリアと共同で教皇領改革にあたるよう求めた[279][280]。だがイギリス世論はイタリア・ナショナリズムへの共感が強かった。ディズレーリはこれを敏感に感じ取っており、女王とダービー伯爵を説得して、女王演説(クイーンズスピーチ)から親オーストリア的な表現を取り除いた[281]。 イタリア問題をめぐって自由主義が活気づく中、ホイッグ党の二大派閥(ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された[282][283]。 女王演説では外相マームズベリー伯爵のイタリア問題についての外交文書を公開するという約束がされていたが、ディズレーリがこれを公表しないミスを犯したことが影響し、自由党の提出した内閣不信任案は可決されて第二次ダービー伯爵内閣は総辞職することとなった[284][285]。 再び野党 1859年6月、パーマストン子爵が再び大命降下を受けて自由党政権が発足した。以降6年にわたって自由党政権が続く。つまりディズレーリら保守党にとっては6年間の野党生活だった。 1861年末にヴィクトリア女王の王配アルバートが薨去した。ディズレーリがアルバート顕彰の先頭に立ち、またアルバートの人格を褒め称えた演説を行い、ヴィクトリア女王から高く評価された[286]。 ディズレーリはこれまで借金に追いまわされる生活だったが、この頃ようやく家計が改善した。1862年末にヨークシャー在住の大地主アンドリュー・モンタギュが保守党への寄付のつもりでディズレーリの高利貸の借金を肩代わりしてくれた[287]。さらに1863年11月には友人ブリジス・ウィリアムズ夫人が死去し、相続人の一人に指定されていたディズレーリは彼女の巨額の財産を相続したからである。この女性はディズレーリと遠い縁戚関係のあるユダヤ人老婆で、ディズレーリと同じく自分がラーラ家の子孫だと思い込んでおり、その縁でディズレーリと親しい間柄だった(彼女はディズレーリにラーラと改名してほしがっていたが、相続の条件には加えられていなかったので結局ディズレーリは改名しなかった)[288][289]。 グラッドストンの選挙法改正法案を阻止 1860年代から選挙権拡大を求める世論が強まっていたが、パーマストン子爵が選挙法改正に反対していたため、政界での動きにはならなかった。しかしそのパーマストン子爵が1865年10月に死去し、選挙法改正に前向きなラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年にラッセル伯爵に叙される)が首相となったことで選挙法改正が動き出すことになった[290][291][292]。 ラッセル伯爵は選挙法改正法案の作成を大蔵大臣兼庶民院院内総務ウィリアム・グラッドストンに任せた。グラッドストンは年価値50ポンドの土地保有という州選挙区の有権者資格を14ポンドに、また都市選挙区も年価値10ポンドの家屋保有という条件を7ポンドに引き下げることで労働者階級の上部である熟練工に選挙権を広げようという選挙法改正法案を提出した[293][294][292]。 熟練工はすでに自助を確立している体制的存在となっていたので、彼らに選挙権を認めること自体には自由党にも保守党にもそれほど反対はなかった。ただ安易に数字を引き下げていくやり方は、何度も切り下げが繰り返されるきっかけとなり、やがて「無知蒙昧」な貧しい労働者にまで選挙権を与えることになるのではないか、という不安が議会の中では強かった[291]。「普通選挙→デマゴーグ・衆愚政治→ナポレオン3世の独裁」という議会政治崩壊の直近の事例もあるだけに尚更だった[295]。 ディズレーリもグラッドストンが「イギリスの平和と秩序維持に関心を持つ人が450万人おり、そのうち40万人に選挙権を付与しようというに過ぎない」と自らの法案を弁護したのを捉えて「グラッドストンは450万人もの非有権者に有権者資格があると考えている」と批判して、その不安を煽った[296]。 結局、自由党内からもロバート・ロウなど法案に反対する議員が出たことで1866年6月にグラッドストンの選挙法改正は挫折することとなった[291][297][298][299][300]。 これを受けてラッセル伯爵内閣は自由党分裂を避けるために解散総選挙を断念して総辞職した[301][302]。 選挙法改正挫折に対する国民の反発は大きく、トラファルガー広場やハイド・パークで大規模抗議デモが行われる事態となった[303]。 第三次ダービー伯爵内閣蔵相、第二次選挙法改正 第三次ダービー伯爵内閣。新聞を手に取っている人物が大蔵大臣ディズレーリ。 1866年6月27日に再びダービー伯爵に大命があった。第三次ダービー伯爵内閣が成立し、ディズレーリも三たび大蔵大臣兼庶民院院内総務として入閣した。もっとも自由党内紛による政権奪還でしかなく、保守党は依然少数党なので第一次、第二次ダービー伯爵内閣と同様に選挙管理内閣の性格が強かった[304]。ディズレーリも大蔵大臣としてより庶民院院内総務として主に活動することとなった。 怒れる世論を背景にジョン・ブライトは国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった[305][306]。ディズレーリも政権を維持するためには選挙法改正が不可避と考えていた[307]。ダービー伯爵も前向きだったし、ヴィクトリア女王も自由党による急速な改正よりも保守党による緩やかな改正を望んでいた[308]。 法案作成は庶民院院内総務ディズレーリが主導し、1867年2月に選挙法改正法案を議会に提出した。法案は、都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る[注釈 11]、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった[310][311]。先のグラッドストン案と違い、切り下げが繰り返されるのではという議会の不安を払しょくした点では優れたものであった[310]。 選挙法改正を急ぐように達成したディズレーリの風刺画(『パンチ』誌) しかし閣内からは造反者が出た。保守的なインド担当相クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)、陸相ジョナサン・ピール将軍、植民相カーナーヴォン伯爵らが反対して辞職したのである[312][307]。 また野党のグラッドストンもこの法案では有権者数は14万人しか増えないし、それ以前に恐らく委員会における審議の中で法案の中で付けられている条件は急進派への譲歩でほとんど撤廃されてしまい、結果的に「無知蒙昧」な下層労働者にまで選挙権が広がると懸念した。そこでグラッドストンはこの法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額が5ポンド以上という条件を付けるべきと主張した[313]。だがディズレーリは「(グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている」と彼の根本的な矛盾を指摘してやり込めることで巧みにグラッドストンと急進派の離間を図った[314]。 結果、法案は3月26日の第二読会を採決なしで通過した[315][314]。これに対抗してグラッドストンは地方税納税額5ポンド条件を盛り込んだ修正案を提出したが、自由党議員の造反に遭って否決された(このためグラッドストンはこれ以降の法案審議への参加は見合わせることとなった)[316][317]。 一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃した結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された[318][319][320][321]。 可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。地方税直接納税の条件は地方税の納税方式を直接納税のみにすることによって単に地方税納税だけの条件と化しており、2年の居住制限の条件も1年に減らされていた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められた。州選挙区については年価値12ポンド以上の土地所有者に選挙権を認めることになった[322][323]。 この選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった[310][324]。ディズレーリにとってもダービー伯爵にとっても予想外の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという[325]。このおかげで自由党を分裂状態のままにしておくことに成功し、保守党政権が今しばらく延命できることとなったのである[310]。そしてディズレーリはこの業績をもってダービー伯爵の後継者たる地位を確固たるものとしたのである[326]。 ただしディズレーリは選挙法改正によって保守党が不利にならぬよう選挙区割り是正法案も提出していた。新有権者の中の自由党支持層らしき者たちをもともと自由党が強い選挙区、あるいは保守党が圧倒的に強い選挙区に組み込もうという内容だった。野党の批判を受けて多少修正に応じることにはなったが、基本的な部分は残したまま法案を可決させることができた[327]。 首相、保守党党首として 第一次ディズレーリ内閣成立 ディズレーリ首相 首相ダービー伯爵はかねてから持病の痛風に苦しんでいた。彼は今しばらく在任したがっていたが、結局医者の勧めに従って辞任を決意した。1868年2月21日、ダービー伯爵はヴィクトリア女王に辞表を捧呈した。その際にディズレーリ以外に党内をまとめられる者はいないとして彼に大命降下するよう助言した[328][329]。保守党内では、クランボーン子爵など一部の者の反対論もあったものの、大半の者は後任はディズレーリ以外には考えられないという認識だった[330]。 2月27日にディズレーリはヴィクトリア女王の召集を受け、ワイト島にある女王の離宮オズボーン・ハウスを参内した。そこで組閣を命じられたディズレーリは承諾し、女王の前に膝まづくと彼女の手にキスをし、「忠誠と信頼の心に愛をこめて」と述べた[331][332]。この頃にはすっかりディズレーリに好感を持っていたヴィクトリアは娘ヴィッキー宛ての手紙の中で「彼には一風変わったところもあるが、非常に聡明で、思慮深く、懐柔的な面を持つ」「彼は詩心、創造性、騎士道精神を兼ね備えている」と書いている[333]。 ディズレーリはダービー伯爵内閣の時の顔ぶれをほぼそのまま留任させたが、大法官チェルムスフォード男爵は嫌っていたので彼だけは内閣から外した[334]。 第一次ディズレーリ内閣は、トップの顔が変わっただけで第三次ダービー伯爵内閣の延長でしかないから、少数与党の状況は変わっていない。総選挙に勝利して多数派を得るしか政権を安定させる道はなかった。結局その総選挙に敗れて短命政権におわる第一次ディズレーリ内閣だが、その短い間にも様々な法律を通している。選挙における買収禁止に初めて拘束力を与える罰則を設けた腐敗行為防止法(Parliamentary Elections Act 1868)、パブリックスクールに関する法律(1868年パブリック・スクール法)、鉄道に関する法律(1868年鉄道規制法)、スコットランドの法制度を定めた法律、公開処刑を廃止する法律(Capital Punishment Amendment Act 1868)、郵便局に電報会社を買収する権限を与える法律(1868年電信法)などである。これらは官僚が作成した超党派的な法律だったため、少数与党のディズレーリ政権でも議会の激しい抵抗を起こさずに通すことができたのである[335]。 外交では前政権から続くイギリス人を拉致したエチオピア帝国への攻撃を続行し、マグダラを陥落させて、皇帝テオドロス2世を自害に追いこんだ。拉致されたイギリス人を救出すると、エチオピアを占領しようという野心を見せることもなく早々に軍を撤収させた。ディズレーリは議会に「ラセラス(サミュエル・ジョンソンの著作『アビシニアの王子』のこと)の山々に聖ジョージの旗を掲げた。」と報告して、笑いをとった[335]。 一方ラッセル伯爵の引退を受けて自由党党首になったばかりのウィリアム・グラッドストンは、1868年3月23日にアイルランド国教会廃止の今会期での準備と次会期での立法化を求める決議案を提出した[336][337]。この法案は5月1日に65票差で可決された[338]。 本来ならここで解散総選挙か総辞職すべきだが、この時点で解散総選挙をしてしまうと旧選挙法の下での選挙となり、世論の反発を買う恐れが高かった。そのためディズレーリとしてはしばらくは解散なしで政権を延命させる必要があった[338]。ヴィクトリア女王から「アイルランド問題は重要であるから、国民の意思を問うために解散を裁可するのにためらいはない」という回答を得たディズレーリは、解散権を盾にして、閣内からの総辞職の要求や自由党の内閣不信任案提出を牽制した[339]。これに対してグラッドストンは「議会で可決された決議案の実行を解散で脅して阻止しようとするとは言語道断だ」と批判した[328]。またディズレーリは政権延命のためにはヴィクトリア女王の大御心を利用しようとさえし、「政治が重大な局面にある時は国民も君主に備わる威厳を感じ取るべきであり、政府もそのような時局における内閣の存立は女王陛下の大御心次第だということを了解するのが賢明です」と立憲主義に抵触しかねない発言まで行った[340]。 だがそのような努力のおかげで閣内からの総辞職要求も野党の内閣不信任案も阻止し、7月31日の議会閉会を迎えることができた[341][342]。 11月に新選挙法の下での総選挙が行われた。新有権者となった労働者階級上層の熟練労働者はグラッドストンを支持していた。選挙戦中にディズレーリが新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えたのだ」と述べると、彼らは「サンキュー、ミスター・グラッドストン」という声をあげたといわれる[343]。自由党がアイルランド、スコットランド、ウェールズで議席を伸ばし、379議席を獲得したのに対して、保守党は279議席しか取れなかった[344]。 この結果を受けてディズレーリは新議会招集の前に総辞職した[345][346]。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった[347]。 退任にあたってヴィクトリア女王はディズレーリに爵位を与えてやろうとしたが、ディズレーリは拝辞して代わりに妻メアリー・アンをビーコンズフィールド女子爵に叙してもらった。メアリー・アンはこの4年後に死去している[345][348]。 グラッドストン内閣倒閣を目指して 自由党党首・首相ウィリアム・グラッドストン 1868年12月9日にウィリアム・グラッドストンに大命降下があり、自由党政権が誕生した(第1次グラッドストン内閣)。この政権は5年以上続く長期政権となり、ディズレーリの長い野党党首時代が始まった。 ディズレーリはこの野党時代にも引き続き保守党党首を務め続けたが、保守党内における彼の立場は微妙だった。もともとディズレーリは貴族院に対する影響力が弱く、ソールズベリー侯爵(クランボーン子爵、1868年に父第2代ソールズベリー侯爵が死去し、第3代ソールズベリー侯爵位を継ぐ)をはじめとする反ディズレーリ派が貴族院議員に多かった。総選挙後にマームズベリー伯爵が保守党貴族院院内総務を辞職した際にもディズレーリの権威が微妙なために後任がなかなか決まらなかった(結局はリッチモンド公爵が就任する)[349]。 しかも党勢は1832年以来最低水準であったから庶民院議員たちにも不満が高まっていた。次の選挙に勝つために党首をダービー伯爵(元首相ダービー伯爵の息子)に代えるべきという声も少なくなかった[350]。 首相を退任して時間に余裕ができたディズレーリは小説『ロゼアー』の執筆を開始し、1869年5月にこれを出版した。カトリックに改宗したビュート侯爵をモデルにしたと思われるロゼアーを主人公にして[349]、社交界の人々の野心や陰謀、虚栄を描きだし、世の中の若い貴公子たちに教訓を与えようという小説である[351]。元首相の小説として評判になり、ベストセラーとなった。とりわけ社交界では『ロゼアー』を読まなければ入れてもらえないという状況にさえなった[352]。 グラッドストン政権はアイルランド国教会廃止、アイルランド農地改革、小学校教育の充実、秘密投票制度の確立、労働組合法制定など内政で着実に改革を推し進めたが、外交には弱かった[353][354]。プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクによる普仏戦争とドイツ帝国樹立の動きを阻止できず、ヨーロッパにおける発言力をドイツに奪われ始めた。ロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフもドイツの後ろ盾を得て「ゴルチャコフ回状」を出し、パリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に通告してきた。これによりロシアがバルカン半島に進出を強めてくるのは確実な情勢となり、イギリスの地中海の覇権がロシアに脅かされる恐れが出てきた[355]。さらにアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件で譲歩していた[356]。イギリスの威信を下げていると言わざるをえない状況だった[350]。 これに対してディズレーリは、1872年6月24日に水晶宮で開催された保守党全国大会において「40年前に自由主義が登場してきて以来のイギリスの歴史を調べたなら、大英帝国を解体しようとする自由主義者の企みほど、絶え間なく巧妙に行われた努力はないと分かる。」「自由党は"大陸的"、"コスモポリタン的"な政党であり、保守党こそが真の国民政党である。」「諸君らはイギリスを帝国としなければならない。諸君らの子孫の代まで優越的地位を維持し続け、世界から尊敬される国家にしなければならない。諸君らが選挙区に戻ったら、一人でも多くの選挙区民にそのことを伝えてほしい」と演説した[357][358][359][360]。帝国主義や強硬外交を選挙の目玉争点にしたディズレーリの戦術は功を奏した。これがイギリス国民の愛国心を大いに刺激し、次の総選挙での保守党の大勝に繋がるのである[361]。 またディズレーリは1872年4月にマンチェスターで開かれた保守党大会以降、保守党の機構改革にもあたっていた。ホワイトホールに保守党中央事務局(Central Conservative Office)を設置し、党内でも特に有能な者を参謀としてここに集め、選挙運動全体を指揮させた[359]。この組織と1867年にジョン・エルドン・ゴーストの主導で創設された保守党協会全国同盟が保守党議会外活動の中心的存在となっていく(この体制は現在の保守党まで維持されている)[362]。この選挙運動の組織化も総選挙大勝の要因になったといえる[362][359]。 1873年の議会でグラッドストンはアイルランドに信仰を侵さない大学を創ろうとしたが、アイルランド議員からも保守党議員からも批判され、法案が否決された[注釈 12]。 グラッドストンが総辞職を表明したのを受けて、ヴィクトリア女王はディズレーリに大命降下したが、ディズレーリは拝辞した。ディズレーリとしては総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかった。組閣後に解散総選挙するとしても二か月はかかるので、それまでの間は自由党に媚を打って政権を存続させなければならなくなり、それによって保守党に対する信頼は揺らぎ、選挙に大勝できなくなると考えていた[364]。これに対してグラッドストンは内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党は後継として組閣するのが義務であると述べてディズレーリの態度を批判した[365][364]。 結局グラッドストンが引き続き首相を務めることとなったが、予算をめぐる閣内分裂が原因で1874年2月に解散総選挙となった。選挙の結果、保守党が350議席(改選前279議席)、自由党が245議席(改選前379議席)、アイルランド国民党が57議席を獲得した[366][367]。これを受けてグラッドストンはディズレーリの先例に倣って新議会招集を待たず、ただちに総辞職した[368][367]。 グラッドストン夫人キャサリンは息子に宛てた手紙の中で「お父さんの勤勉と愛国心、多年にわたる仕事の結晶を、あのユダヤ人に手渡すことになるなど考えただけでも腹立たしいではありませんか」と苛立ちを露わにしている[368]。 第二次ディズレーリ内閣 1878年のディズレーリ首相 1874年2月28日にヴィクトリア女王から召集され、大命を受けた。今度はディズレーリも了承し第2次ディズレーリ内閣の組閣を開始した。 両院の過半数を制する大議席、大敗を喫した野党自由党の混乱状態、ヴィクトリア女王のディズレーリへの寵愛、不安要素が皆無の第2次ディズレーリ内閣が長期安定政権になるのは誰の目にも明らかだった[369]。党内反ディズレーリ派さえも内閣への参加を希望し、反ディズレーリ派の筆頭ソールズベリー侯爵もインド担当大臣としての入閣を了承した。同じく反ディズレーリ派だったカーナーヴォン伯爵も植民地大臣として入閣した。彼らは高教会派の右派であり、その彼らを取り込めたことは党内右派の不満を減らして内閣に安定をもたらした[370]。保守党の主要政治家をそれぞれの専門分野に応じて適材適所に配置した内閣でもあり、内閣の能力も著しく高かった[371]。保守党政権としては30年前のピール内閣以来の安定政権であるといえる[371]。 内政 ディズレーリは「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」「政治改革より社会改革の方が重要」と主張して、社会政策に力を入れた[372][373]。30年前の小説『シビル』で示した労働者階級の貧困への同情は、この時にも変わってはいなかった[372]。ディズレーリの社会政策を「トーリー・デモクラシー」と呼ぶことがある[374]。ただし「トーリー・デモクラシー」は自由放任主義から国家介入主義への転換を意味しない。イギリスでは強制は嫌われる風潮があるため、ディズレーリが行った社会立法の多くも強制することにならないよう配慮がされている。ディズレーリは「任意に委ねる法律こそが自由な人間が持ち得る特質」と語っている[375]。 政権奪還後、ただちに工場法改正に取り組んだ。これまで工場法により一週間の最大労働時間は60時間と定められていたが、繊維業労働組合などから最大労働時間を54時間に短縮すべしとの声が上がっていた。グラッドストン前政権は自由放任主義の立場からこの要請を拒否していたが、ディズレーリは労働組合に歩み寄りの姿勢を示し、57時間労働制を定め、また最低雇用年齢も10歳に引き上げる改革を行った[376]。 1875年には労働者住宅改善法を制定して「都市の住宅状況の公共の責任」を初めて明記し、地方自治体にスラムの撤去や都市再開発の権限を与えて、都市改造を促した[377][378][379][380]。しかしこの法律は補償の点について問題があったため、1879年になってその問題点を解消するために改正があり、スラムを整理した後に労働者が家を建てられるよう国庫から金を貸し付けることとした。当時は家の価格が安く、賃料はもっと安かったので、この制度は一定の労働者保護になったといえる[379]。この法律を使ってのスラム整理で有名なのが、バッキンガム市長ジョゼフ・チェンバレンの都市改造である[378]。 同じく1875年、主人及び召使法を近代的な使用者及び被使用者法に改正し、これによって雇用契約における使用者と被使用者の間の通常の債務不履行は刑事訴追の対象外とした。雇用契約は基本的に民事上だけの関係となったのである[381][382]。 さらに100くらいあった既存の公衆衛生に関する地方特別法を一つにまとめた公衆衛生法を制定した(1875年公衆衛生法)。水道、河川の汚染、掃除、道路、新築建物、死体埋葬、市場規制などについて規定し、都市の衛生化を促進した[377][378][383]。この法律は途中二回の改正をはさみながらも1937年までイギリスの公衆衛生に関する基本法として君臨した[383]。 農地法によって強制立ち退きされた小作人に対する補償制度も定めた[383]。しかしこの問題は地主の多い保守党内では慎重に扱わねばならない問題であった。ディズレーリの「ヨーロッパでは騒動を企む勢力が小作人の権利問題を利用します。わが国でも同様の勢力が君主制・貴族制の根幹をなす土地所有形態を破壊しようと企んでいます。我が国では強制されることを嫌う風潮があります。そして残念ながら地主と小作人の関係は変則的な強制関係が存在します。それが小作人の権利要求に結び付いています。陛下の内閣が行う施策の目的は、平穏な今のうちに変則的状況を解除することにあります。」というヴィクトリア女王への報告にもそれがよく現れている[384]。 労働組合にも強い関心を持ち、労働組合のピケッティング(スト破り防止)を禁じた1871年刑法修正法を廃止し、代わって共謀罪及び財産保護法を制定し、個人で行った場合に犯罪ではない行為は集団で行っても犯罪ではないと明記したことで、平和的ピケッティングを解禁した。このおかげで労働組合の圧力組織としての力は大きく向上した[378][381][385]。 労働者階級出身の初めての庶民議員アレグザンダー・マクドナルドは「保守党は5年の政権の間に50年政権にあった自由党よりも労働者階級のために多くのことをした」と評した[373]。 ディズレーリの一連の社会政策はジョゼフ・チェンバレンの「社会帝国主義」の萌芽に位置付けられることもある[378]。 外交 三帝同盟の切り崩し ディズレーリとビスマルクを描いた風刺画 第2次ディズレーリ内閣が発足した頃、大陸では普仏戦争に敗北したフランス共和国が凋落し、ドイツ帝国が大陸の覇権的地位を確立していた。更にドイツはロシア帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と結託して保守的な三帝同盟をつくっていた。これはかつての神聖同盟に類似していた。ディズレーリは尊敬するカニング外相が神聖同盟とは距離を置いた外交を行ったのに倣った。つまり三帝同盟弱体化をイギリス外交の目標に据えたのである[356]。 三帝同盟は決して盤石ではなかった。ロシアは、普仏戦争でドイツを支持したが、戦後のドイツの増強されすぎとフランスの弱体化しすぎを懸念していた。またこの頃のロシアは汎スラブ主義が高揚しきっており、バルカン半島の覇権をめぐってオーストリアとの対立が絶えなかった。それをドイツ宰相ビスマルクが強引に結び付けている状況だった。そのため三帝同盟を切り崩すチャンスはすぐにも訪れた。 1875年4月の『ポスト』紙事件[注釈 13]で独仏戦争の危機が高まるとロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフが介入してドイツのフランスに対する予防戦争を阻止しようと図ったのである。ディズレーリは孤立主義者である外相ダービー伯爵にイギリスもこの問題にもっと積極的に介入するよう指示を与え、ロシアと共同歩調をとらせて、ドイツに圧力をかけて予防戦争を阻止した[356]。 バルカン半島の蜂起をめぐって 1875年夏、オスマン=トルコ帝国領ボスニアとヘルツェゴビナでキリスト教徒スラブ人農民が蜂起した。イスラム教国であるオスマン=トルコ帝国はキリスト教徒スラブ農民に対して苛酷な税を取り立て、また何ら権利を認めようとしない圧政を敷いていたからである[388][389]。この反乱は拡大し、1876年4月にはブルガリアのスラブ人もオスマン=トルコの支配に対して蜂起、さらに7月にはトルコの宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国が、オスマン=トルコに対して宣戦布告した[390][391]。ロシア帝国でも汎スラブ主義がどんどん高揚し、バルカン半島のスラブ人蜂起を積極的に支援した[392]。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった[391]。 オスマン=トルコは、かつての繁栄の残滓でバルカン半島、小アジア、中近東、北アフリカにまたがる巨大な領土を領有していたが、この時代にはすっかり衰退し、常にロシアから圧迫され、国内では内乱が多発していた。すでにギリシャには独立され(ギリシャ独立戦争)、エジプトも事実上独立していた(エジプト・トルコ戦争)。イギリスの庇護で何とか生きながらえている状態だった。イギリスにとってもオスマン=トルコを生きながらえさせることは死活問題だった。インドへの通商路は陸路の場合はオスマン=トルコ領を通らずにはすまなかったし、海路もスエズ運河が大きな役割を果たすようになっていたから、もしオスマン=トルコ領がロシアの手に墜ちるなら、イギリスの「インドの道」は陸路も海路もロシアの脅威に晒されることになる。ディズレーリとしてはオスマン=トルコを支援するしかなかった[392]。 ロシアがドイツとオーストリア=ハンガリーの支持を取り付けて三国連名でオスマン=トルコ批判声明を出した時、ロシアは同じキリスト教国としてイギリスも名前を連ねるよう呼びかけてきたが、当然ディズレーリはこれを断った[393][394]。 しかし1876年6月23日付けの『デイリー・ニューズ』が「オスマン=トルコ軍はブルガリアで2万5,000人に及ぶ老若男女の虐殺、少女奴隷売買などの残虐行為を行っている」と報道したことでイギリスの世論は急速にオスマン=トルコに対して硬化した[263][395][396]。ディズレーリは記事の信ぴょう性に疑問を呈したが、彼のそのような態度は世論の激しい反発を招いた[397][398]。ディズレーリを寵愛するヴィクトリア女王さえもがディズレーリに対して「なぜトルコのキリスト教徒虐殺に抗議しないのか」と詰め寄っている[399]。グラッドストンに至っては「ディズレーリは全てを嘘で塗り固めた男であり、ユダヤ人としての感情だけが本物だ。彼の親トルコ政策は、ユダヤ人の本性をむき出しにしたキリスト教徒への復讐である」とユダヤ陰謀論的な主張までし始めた[400]。 ディズレーリは8月11日の議会における演説で「この重大な時局における我々の義務は大英帝国の維持である。トルコの生存はその最低条件なのである」と述べ、反トルコ感情の高まりの火消しに努めた[398]。だが全く功を奏しなかった。庶民院ではディズレーリがトルコの残虐行為を軽視したとする問責決議がなされた[401]。またイギリス各地でトルコ批判の国民集会が開かれ、十字軍を結成するための署名活動も開始された[393]。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反トルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの『オセロ』の上演で「トルコ人は溺死した」というセリフが出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれたという[402]。 一方トルコ政府はイギリスは国益上自分たちを庇護せざるを得ないので、どれだけキリスト教徒虐殺を続けても結局は目をつぶるしかないと思っていたため、ディズレーリが自重するよう説得しても聞く耳を持たなかった[403]。 露土戦争 太い線で囲まれた範囲がサン・ステファノ条約による大ブルガリア公国の領土。しかしベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は北半分に限定され、南半分はトルコ領に留まることとなった。 1877年4月、ついにロシアがオスマン=トルコに宣戦布告し、露土戦争が勃発した[404][405]。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフはイギリスに中立を要求してきた。これに対してディズレーリはスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを侵さないとの確約を求め、ゴルチャコフもこれを了承した[406]。 もっともロシアはイギリス国内の世論状況をよく調べており、イギリスがオスマン=トルコ側で参戦するなど到底できないことを知っていた。そのため約束を守る気などなく、ロシア皇帝アレクサンドル2世は軍司令官に「目標コンスタンティノープル」という命令を下している[407]。 ヴィクトリア女王はロシアの膨張を恐れるようになり、ディズレーリに退位をちらつかせて対ロシア参戦を要求するようになった。女王の寵愛を自らの内閣の重要な要素と考えているディズレーリとしては、女王の意思をないがしろには出来ず、彼も8月頃から参戦の必要性を考えるようになった[405]。しかしこの頃のディズレーリは喘息と痛風に苦しんでおり、参戦するか否かの議論は閣僚たちに任せて、ヒューエンデンに引っ込んでいた[408]。またロシア軍の侵攻はプレヴェンのオスマン=トルコ軍によって阻まれており、イギリスが援軍を送るまでもなくオスマン=トルコが自力でロシアを返り討ちにできそうにも見えた(当代一の名将と呼び声の高いドイツ参謀総長モルトケ元帥もそう予想していた)[409]。 ロシアがバルカン半島に侵攻を開始してからイギリス国内世論もだんだんオスマン=トルコに対する同情の声が強くなっていき、イギリスの対ロシア参戦も不可能ではなくなってきた[410]。 12月にプレヴェンの防衛線を守っていたオスマン=トルコ軍がロシア軍によって壊滅させられると、ディズレーリはいよいよ危険水域に達したと判断した。どうすべきか結論を出せない閣僚たちを無視して、ヴィクトリア女王に上奏してイギリス陸軍に戦闘態勢に入らせた。この際にディズレーリはヴィクトリア女王に「イングランドは何があってもロシアの傘下には入りません。そうなれば本来の高みから二流国に転落してしまいます。」と述べている[408]。これを受けて対露開戦に反対する植民地相カーナーヴォン伯爵が辞職した[411]。1878年2月にイギリス海軍にコンスタンティノープルへの出動命令を下したが、目標が定まらず、命令を取り消した[408]。 そうこうしてる間にもオスマン=トルコ軍は敗走を続けていた。オスマン=トルコ政府はもはや限界と判断してイギリスに独断でロシアとの間にサン・ステファノ条約を締結して休戦した。この条約によりエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア衛星国大ブルガリア公国(形式的にオスマン=トルコの宗主権下)が置かれることとなり、地中海におけるイギリスの覇権が危機に晒された[412][413][414]。またアルメニア地方のカルスやバトゥミもロシアが領有することになり、そこがロシアの中近東・インド侵略の足場にされる危険も出てきた[415][416]。イギリスの権益など形だけしか守られていないサン・ステファノ条約に英国世論は激高した[417][418]。 ベルリン会議 ベルリン会議(アントン・フォン・ヴェルナー画)。左側に腰掛けているゴルチャコフに手を掴まれている人物がディズレーリ。中央で握手しているのはビスマルクとシュヴァロフ。 ディズレーリは駐英ロシア大使ピョートル・シュヴァロフ伯爵に対してこのような条約は認められないとして、大ブルガリア公国の建国中止、アルメニア地域で得たロシア領土の放棄を要求した。シュヴァロフ大使は「それではロシアの戦果がなくなってしまうではありませんか」と答えたが、ディズレーリは「そうかもしれないが、それを認めないならイギリスは武力をもってそれらの地からロシアを追いだすことになる」と通告した[419]。 ディズレーリは3月27日の閣議でインド駐留軍の地中海結集と予備役召集、キプロスとアレクサンドリア占領を決定した[418][419][420]。この方針に反対した対ロシア開戦慎重派の外相ダービー伯爵が辞職した。彼の辞職はディズレーリには残念なことだったが、シュヴァロフ大使にプレッシャーを与えることができた[421]。 「公正な仲介人」としてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが仲裁に乗り出してきて、1878年6月から7月にかけてベルリン会議が開催されることとなった。会議にはイギリスからは首相ディズレーリと新外相ソールズベリー侯爵が出席することとなった。ヴィクトリア女王はディズレーリの健康を心配してベルリン行きに反対していたが、ディズレーリは鉄血宰相と対決できる者は自分しかいないと女王を説得し、出席することになった[422][423]。 ディズレーリには会議で強硬姿勢をとれるだけの条件が整っていた。指を鳴らして対ロシア開戦を待ちわびている好戦的な女王と国民世論を背負い(その国民世論は対ロシア開戦に反対するグラッドストンの家に投石があったことにもよく現れていた)、さらにコンスタンティノープル沖ではイギリス海軍が臨戦態勢に入っていたからである[422]。会議前の外相ソールズベリー侯爵とシュヴァロフ大使の交渉・秘密協定の段階ですでに大ブルガリア公国南部のトルコへの返還などロシアから譲歩を引き出すことに成功していた[424][416][425]。 ディズレーリは会議において、会議前の英露協定で懸案事項のまま残されていた諸問題、たとえばトルコ皇帝の南部ブルガリア軍事権の確保、トルコ通行路の確保、東ルーマニアの統一運動の鎮圧権の確保などの問題に取り組んだ。会議でディズレーリは徹底的な強硬路線を貫き、ロシアが反対するなら会議が決裂するだけであると脅迫して、イギリスの主張をほとんど認めさせた[426]。会議の途中にビスマルクとシュヴァロフが譲歩を拒否した時、ディズレーリは帰国の準備を命じ、それを聞いたビスマルクはただの脅しだと思っていたが、本当に英国代表団が荷造りをしているので、やむなく譲歩したという逸話まであるが、この逸話は疑う説もある[427][422]。 ただディズレーリが一歩も引かなかったことは事実で、その姿を見たビスマルクは「あのユダヤの老人はまさに人物だ(Der alte Jude, das ist der Mann)」と舌を巻いたといわれる[423][422][428][429][430]。 ベルリン会議の結果、大ブルガリア公国は分割された。その南部は東ルメリア自治州としてオスマン=トルコに戻され、ロシアのエーゲ海への道は閉ざされた[431][432]。さらにイギリスはオスマン=トルコからキプロスを割譲され、東地中海の覇権を確固たるものとした[433][434]。一方でカルスとバトゥミについてはイギリスが譲歩することになり、ロシアが領有することとなった[432]。しかし全体的に見ればイギリス外交の大勝利であった。 またこの会議でロシアがビスマルクに不満を抱くようになったこともディズレーリにとってはおいしかった。ディズレーリは会議から2年後に「我々の目標は三帝同盟を打破し、その復活を長期にわたって阻止することだったが、この目標がこんなに完璧に達成されたことはかつてなかった」と満足げに語っている[435]。 イギリスに帰国したディズレーリは国民から歓声で迎えられた。ヴィクトリア女王は恩賞としてディズレーリにガーター勲章と公爵(Duke)位を与えようとしたが、公爵位についてはディズレーリの方から辞退している。またガーター勲章についても外相ソールズベリー侯爵にも同じ名誉が与えられるのでしたら、という条件付きで授与を受けた[436][437]。 エジプト半植民地化に先鞭 1880年のスエズ運河。 ちょうどバルカン半島蜂起が発生した頃の1875年夏、ロシアのバルカン半島への野心を確信したディズレーリは喜望峰ルートに代わって増えていくエジプトからインドへ向かうイギリス船籍の航路の安全を早急に確保しなければならないと考え、フランス資本で作られ、株をフランスが多く握るスエズ運河に注目するようになった[438][439][440]。 フランス資本家が破産しかけだったエジプト副王イスマーイール・パシャが所持するスエズ運河の株(全株式40万株中17万7,000株)を買収するという情報をつかんだディズレーリは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドに協力を依頼して400万ポンドの資金を借り受けて、先手を打ってその17万7,000株を買収した。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった[441][442][443][444][445]。ディズレーリはヴィクトリア女王に「陛下、これでスエズ運河は貴女の物です。フランスに作戦勝ちしました」と報告した[446][447][443][448][444][449]。 1876年、運河を買収されたエジプト政府は財政破綻し、債権者のイギリスとフランスを中心としたヨーロッパ諸国によりエジプト財政が管理されることとなった[450][451]。1878年にはイギリス人とフランス人が財政関係の閣僚としてエジプトの内閣に入閣することになった[452]。英仏はエジプト人から過酷な税取り立てを行い、エジプトで反英・反仏感情が高まっていった[453]。 この反発はやがてエジプト人の反乱「ウラービー革命」へと繋がっていくが、ディズレーリの後任の第2次グラッドストン内閣が鎮圧軍をエジプトに送りこんで占領し、フランスの影響力は排除されて、エジプトはイギリス一国の半植民地となっていくのである[389]。 ヴィクトリア女王をインド女帝に戴冠させる インド人の格好をしたディズレーリと王冠を交換するヴィクトリア女王 ヨーロッパ大陸諸国が次々と保護貿易へ移行する中、イギリス綿業にとってインド市場の価値は高まっていった。ディズレーリ政権もインドとの連携の強化を重視した [454]。 1876年、ヴィクトリア女王がインド女帝位を望むようになり、ディズレーリもインドとの連携強化の一環になると考え、議会との折衝にあたったが、イギリス国民は皇帝という称号を好んでいなかったので、野党自由党から批判された[455]。フランス皇帝ナポレオン3世やメキシコ皇帝マクシミリアンなど皇帝を名乗り始めた者がろくな末路を辿っていないジンクスもあった[456]。 この称号はインドに対してのみ用いるという条件付きで野党の反発を押し切り、4月には王室称号法によって「インド女帝」の称号をヴィクトリアに献上することができた[455][457][454][456]。 インド総督が主催する大謁見式が開催され、ヴィクトリア女王とインド社会有力者との一体化が図られた[454]。 第二次アフガニスタン戦争 1860年代から1870年代にかけてロシア帝国は中央アジア諸国に次々と侵攻を行い、支配下に組み込んでいた。インドに隣接するアフガニスタン王国に触手を伸ばしてくるのも時間の問題だった。ロシアの対英強硬論者がインド侵攻を主張しはじめるようになる中、首相就任直後のディズレーリも先手を打って中央アジアとペルシア湾を抑えることを考えた時期があったといい、インド総督ノースブルック伯に対してヘラートにイギリス出先機関を置くよう命じた。しかしノースブルック伯はロシアはアフガンへの野望を見せておらず、アフガンとの関係を損なうだけであるとしてこれに反対し、ディズレーリもアフガンの件はしばらく捨て置いた[458]。 しかし新たにインド総督に就任したリットン伯爵(ディズレーリの友人エドワード・ブルワー=リットンの息子。リットン調査団で知られる第2代リットン伯爵の父)はロシアのアフガンへの野望を確信しており、アフガンの外交をコントロールしようとイギリス外交使節団を首都カーブルに置くようしばしばアフガン王シール・アリー・ハーンに要求を続けたが、王は丁重に断り続けた[459]。 ところが1878年7月にはロシア軍がシール王の抗議を無視してカーブルに入城し、シール王がしぶしぶロシア軍来訪の歓迎を表明して、あげくロシア軍のアフガニスタン国内への駐屯を認める条約を締結するという事件が発生した。これに対してリットン総督はシール王にイギリス軍の駐屯も認めさせる条約を締結させて、ロシア軍をアフガニスタンから追い払おうと決意した[460][461]。 ディズレーリはロシアから正式な回答が得られるまで行動を起こさないようリットンに命じたが、リットンは9月21日に独断でアフガン侵入を開始するも失敗して撤収した。これによりディズレーリはリットンの計画を強行するか、アフガンに頭を下げるしかなくなった。さらにシール王がリットンに対して強硬な返答をしたため、ディズレーリとしてはリットンを支持するしかなくなり、アフガンに対してイギリス使節団のカーブル駐在を求める最後通牒を出した。アフガンはこの最後通牒を無視したため、1878年11月に第二次アフガン戦争が開戦することとなった。イギリス軍は勇戦し、シール王をトルキスタンに追い、イギリスにとって御しやすそうな新王が擁立されて休戦協定が締結され、イギリス軍がアフガンに駐在することとなった[462]。ロシア軍が反撃に出てくる様子はなく、ディズレーリもリットン総督の命令無視を不問に付した[462]。 しかしディズレーリの後任グラッドストンはリットンを罷免し、アフガン王アブドゥッラフマーン・ハーンにイギリス以外のどの国とも関係を持たないこと、どこか別の国がアフガンへ侵攻してきた際にはイギリス軍がアフガンを支援することを条件としてアフガンの内政に干渉しないという条約を締結し、アブドゥッラフマーンとイギリスは良好な関係を保っていくことになる[463]。 トランスヴァール併合 1885年の南アフリカ地図 当時南アフリカには英国植民地が2つ(ケープ植民地、ナタール植民地)、オランダ人植民者の子孫でイギリス支配に反発してグレート・トレックで内陸部へ移住したボーア人による国家が2つ(オレンジ自由国、トランスヴァール共和国)、計4つの白人植民者共同体があった[464][465]。オレンジ自由国は比較的親英的で英国と協力関係にあったが、トランスヴァール共和国は反英的だった[465]。そしてその周囲に白人植民者の20倍にも及ぶ数の先住民の黒人が暮らしていた。彼らには様々な部族があったが、とりわけ好戦的なズールー族(ズールー王国)が大きな勢力であった[466]。 こうした状況の中、4つの白人共同体を南アフリカ連邦としてまとめることで、ズールー族をはじめとする黒人部族に対して優位に立とうと考えたのがディズレーリ内閣植民地相カーナーヴォン伯爵だった[467]。彼はダービー伯爵内閣でも植民地相を務め、カナダ連邦の創設に主導的な役割を果たした人物であり、植民地に連邦制を導入することに熱心だった[468][469]。しかし反英的なトランスヴァールと本国主導の連邦形成に不満があるケープ植民地が反発したため調整は難航した[470]。 ここに来てディズレーリもカーナーヴォン伯爵もトランスヴァールを併合することを決意した。トランスヴァールは財政難であり、政治も対英穏健派の大統領トマス・フランソワ・バーガーズと対英強硬派が鋭く対立して混乱していた。そのためズールー族にいつ征服されるか分からない国情であり、またドイツやフランス、ポルトガルと手を組む恐れも考えられたからである[471]。 1876年7月にトランスヴァールと黒人部族ペディ族の間に戦争が勃発すると、カーナーヴォン伯爵がナタール総督として現地に送り込んだサー・ガーネット・ヴォルズリー将軍と英領ナタール行政府先住民担当相サー・シオフィラス・シェプストンは、それへの介入を口実にトランスヴァールを併合することを企図した[472]。この後トランスヴァールとペティ族の戦争が一時収束したため、介入の口実を失い、計画は一時延期されたものの、結局1877年1月にイギリス軍はトランスヴァール領へ侵入し、バーガーズ大統領やトランスヴァール議会と交渉の末に4月2日にトランスヴァール併合宣言にこぎつけた[473]。 当時バーガーズ大統領は病気だったので弱腰だったのだが、トランスヴァール国民の多くは40年前にイギリス支配から逃れたグレート・トレック精神を忘れておらず、内心ではイギリスの併合に不満を持っていた[473][474]。結局トランスヴァールは第二次グラッドストン政権下の1880年12月から1881年3月にかけて第一次ボーア戦争を起こして再独立することとなる[475]。 またズールー族もトランスヴァールがなくなった今、イギリスに直接敵意を向けてくるようになった[476]。 ズールー族との戦い イサンドルワナの戦いで敗北するイギリス軍を描いた絵 英領ナタール行政府高等弁務官サー・ヘンリー・バートル・フレアとズールー族は対立を深めていった。1878年12月11日にフレアはズールー族の王セテワヨ・カムパンデに最後通牒を送った[477][478]。完全にフレアの独断行動であり、フレアはディズレーリへの報告をわざとゆっくり行い、ディズレーリに選択の余地を与えずに彼を戦争に引きづり込んだ[479]。 最後通牒に対するズールーからの返事はなく、1879年1月、フレアの命令を受けたチェルムズフォード男爵率いる1万6,000人のイギリス軍がズールー王国へ侵攻を開始したが、イサンドルワナの戦いで敗北した[480][481]。 この報告を受けたディズレーリは卒倒しかけたという[482]。チェルムズフォード男爵が援軍を要求してきたため、やむなく許可し、2月には最新鋭兵器を持たせて応援軍を送ることとした[480]。一方でサー・ガーネット・ヴォルズリー将軍を新司令官に任命し、チェルムズフォード男爵はその隷下とした[483]。 援軍が到着するとチェルムズフォード男爵はヴォルズリーの命令を無視してすぐに反撃に打ってでて、7月4日にズールー王国首都ウルンディは陥落した[483]。ズールー族を事実上イギリスの支配下に組み込むことに成功した(ズールー王国が正式に大英帝国ナタールに組み込まれたのは1897年)[484]。 なお派遣された援軍の中に王立陸軍士官学校卒業生のナポレオン4世(ナポレオン3世の息子、普仏戦争の敗北で父母とともにイギリスに亡命)が従軍していた。ディズレーリはフランス第三共和政の反発を恐れて彼を従軍させることに慎重だったのだが、ナポレオン4世の母である元フランス皇后ウジェニーと英女王ヴィクトリアが強硬にナポレオン4世の意思を支持したため、結局ディズレーリが折れた。ディズレーリは「執拗な女性二人も相手にして私に何ができるでしょう」と嘆いている[476][485]。しかし6月初め、前線の小競り合いでナポレオン4世は戦死した。ヴィクトリア女王はこれに大いに悲しみ、ヴィクトリア女王の計らいで彼の葬儀は盛大に行われ、女王自身も葬儀に出席した[486]。女王が葬儀に出席するのは相手も君主の場合だけであり、臣民の葬儀には出席しないのが慣例である[注釈 14]。そのような栄誉がボナパルト家の者に認められると、フランス第二帝政を廃した第三共和国の反発が予想されることからディズレーリが再び反対したが、やはり女王は聞き入れなかった[488]。さらに葬儀を終えた女王は「土壇場になるまで植民地の軍備増強を怠った政府の責任である」としてディズレーリに叱責の電報を送った[484]。女王の格別な寵愛によりディズレーリにだけ許されていた女王引見の際の様々な特別扱いも一時中止されたほど、この時の女王の怒りは激しかったという[489]。 叙爵、貴族院へ 1870年から1885年頃の貴族院議場の写真 1876年8月12日、ヴィクトリア女王よりビーコンズフィールド伯爵、ヒューエンデン子爵に叙された[490]。これにより貴族院に移ることとなったが、30年にわたって庶民院保守党議員を支配してきたディズレーリにとっては辛いことだったという。ヴィクトリアは「貴族院に移れば疲労はずっと少ないですし、そこから全てを指導することもできます」と説得したという[491][492]。 毀誉褒貶はあっても、強力な個性の持ち主であるディズレーリが庶民院を去ることを庶民院議員たち(特に若手)は惜しんだ[492]。ディズレーリにとって最後の庶民院本会議が終わると、彼は議場を見渡せる位置まで歩いて行って、自分が初めて演説した演壇、自分が長いこと座っていた野党席、ピールの肖像画が掛かっている国庫の席などを眺めて、物思いにふけっていたという。また議場から退出する時には涙を見せた[493]。 貴族院に移ったディズレーリは直ちに貴族院院内総務となった。貴族院は保守党が半永久的に優勢ながら、保守党執行部に従わないことが多いという特殊な議会だった。ディズレーリはすぐに貴族院から受け入れられ、第14代ダービー伯爵(元首相)並みの権威を確立できた[494]。 しかし貴族院議員ソールズベリー侯爵がイギリス貴族院を指して「この世で最も活気のない議会」と称したように、ディズレーリには物足りない物であったようだ。「貴族院の気分はどうですか」と聞かれたディズレーリは「私は死にました。極楽浄土の中で死んでいます。」と答えている[495]。 総選挙で惨敗して退任 1880年4月10日、リーズ市庁前で総選挙の結果発表を見守るリーズ市民。 1876年頃からイギリスにも不況の波が押し寄せてきた。1878年にはグラスゴー市銀行が経営破たんし、衝撃を与えた。失業率が急速に上昇していた(1872年には1%、1877年には4.7%、1879年には11.4%)[496][497]。 一方農業も悪天候続きで収穫不足になっており、ピールの穀物法廃止以来、30年以上続いていたイギリス農業の生産率増大がこの頃に止まりはじめた。反面アメリカ農家の農業技術と運送技術の向上でアメリカからの輸入穀物はますます安くなっていた。ヨーロッパ大陸各国は次々と保護貿易へ移行し、イギリスの地主の間でも保護貿易復活を求める声が強まった。だが、農業人口よりそれ以外の人口が多いイギリスにおいてはそう簡単にはいかなかった。保護貿易を復活させれば食品価格の大幅な上昇を引き起こし都市部の労働者の反発を買うのは必至だったからである[498][499]。ディズレーリが決めかねている間に保守党内の一部の地主層が保守党を離党して農民同盟を結成する事態となった[500]。 一方自由党はもともと自由貿易主義者しかいないので、分裂することなく総選挙に邁進できた。ウィリアム・グラッドストンがスコットランドで行ったミッドロージアン・キャンペーンと呼ばれる一連のディズレーリ批判演説は大きな成功を収めた[501][500][502][503]。 さらにアイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルが、政府との徹底対決路線をとり、何十時間にも及ぶ演説を行って、政府法案の議事を妨害するようになった(当時この手の議事妨害を阻止する議事規則がなかった)。これが原因でディズレーリ政権は末期の頃にはほとんど立法ができなくなった。これに対しては議事規則を改正して対策を立てようとしたが、野党との協議が整う前に総選挙となったのである[504]。 1879年夏か秋に解散総選挙に打って出ていれば、保守党は敗れるにしても大敗することはなかったと言われている[500]。だがディズレーリは解散総選挙を出来る限り先延ばしにしようとして解散時期を見誤った。1880年2月5日に議会が招集されたが、ディズレーリは女王に対して「何か予期しない問題が発生しない限りは解散はない」と述べている。ところが2月14日のリバプール補欠選挙で自由党候補が勝利するという前評判を覆して保守党候補が勝利した[505]。この選挙結果を聞いたディズレーリは保守党に風が吹いていると判断して、3月6日に急遽庶民院解散を決定した。この突然の解散総選挙は与野党問わず、誰もが驚いた[506]。 しかし3月から4月にかけて行われた総選挙の結果は、保守党が238議席(改選前351議席)、自由党が353議席(改選前250議席)、アイルランド国民党が61議席(改選前51議席)という保守党の惨敗に終わった[507]。不況と農業不振でもともと現政権に不利な選挙ではあったが、ここまで負けたのは保守党の機能不全がある。党が自由貿易か保護貿易かで分裂していたし、選挙の準備もまるでしていなかった。対して自由党は準備を整えて待ち構えていた[508]。 この選挙の報を聞いた時、ヴィクトリア女王はバーデン大公国にいたが、絶望して「私の人生はもはや倦怠と苦しみしかありません。今度の選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう」「私は、全てを破壊し、独裁者となるであろう半狂人の扇動者と交渉を持つぐらいなら退位を選びます」と語った[509][510]。 ディズレーリが退任の挨拶にヴィクトリア女王を訪れたとき、女王は悲しげだった。女王は彼のブロンズ像を送るとともに、これからも手紙を送ってくれること、会いに来てくれることを頼んだ。そして改めて公爵位を与えたいと申し出たが、ディズレーリは選挙に惨敗した首相がそのような高位の爵位を賜るのはまずいとして固辞し、代わりに自分の秘書モンタギュー・コーリーをロートン男爵に叙してもらった。政治家の秘書に爵位が与えられるのは極めて異例のことであった[511]。 ヴィクトリア女王のグラッドストン不信をよく知っているディズレーリは、女王に次の首相として自由党下院指導者ハーティントン侯爵を推挙した。最後っ屁の嫌がらせであった。女王はディズレーリの助言通り、ハーティントン侯爵を招いて後継首班指名を告げたが、侯爵はグラッドストン首班以外では組閣できないと拒絶し、女王は「半狂人の扇動者」を首班に指名せざるを得なかった[512]。 晩年 老年のディズレーリ ダウニング街10番地を去ったディズレーリは、1880年5月1日にヒューエンデンへ帰っていった。以降、党の会合や貴族院出席以外の時はここで過ごした[513]。またヴィクトリア女王との文通も続け、しばしばウィンザー城を訪れては女王の引見を受けた[513]。 1880年5月19日のブリッジウォーター・ハウスで開催された保守党両院総会において、ディズレーリが引き続き党首を務めることが確認された。ディズレーリ以外に党首が務まる者はいなかったためである。ディズレーリはグレイ伯爵内閣(ホイッグ党政権)の急速な凋落の先例をあげ、敗北に悲観的に成り過ぎないよう議員たちを励ました。そして「保守党は帝国と憲政を保守する」と宣言し、議員たちから万雷の拍手を受けた[514]。 庶民院では大敗を喫した保守党だが、貴族院は半永久的に保守党が牛耳っているので野党党首としてのディズレーリの権力は弱いものではなかった。グラッドストン政権が提出した小作料を支払うことができない小作人をアイルランド地主が追い出すのを暫定的に禁止する法案についてディズレーリは保守党の総力をあげて攻撃し、廃案に追い込んだ[515]。 晩年にはランドルフ・チャーチル卿(ウィンストン・チャーチルの父)やアーサー・バルフォアら「第四党」と呼ばれる向う見ずな保守党若手議員たちを支援した[516][517]。彼らはその行儀の悪さから保守党庶民院院内総務サー・スタッフォード・ノースコート准男爵に睨まれていたのだが、ディズレーリはチャーチルらに「私自身リスペクタブルであったことは一度もないよ」と語って励ましたという[516]。一方で彼らが公然と党執行部に造反しないよう忠告を与えるなど、「第四党」をうまく扱った[518]。 1881年初めにはマルクス主義団体「社会民主連盟」の指導者ヘンリー・ハインドマンの訪問を受けた。ハインドマンは格差問題を説いたディズレーリの『シビル』に深い感銘を受けており、社会政策についてディズレーリの意見を聴きに来たのだった[519]。しかしディズレーリは、ハインドマンの民主帝国連邦構想や財産の社会化の話に冷めた様子で「ハインドマン君、この国を動かすのは全く難しい国なんだよ。全く難しい国だ、そして成功するより失敗することの方が多い国だ。しかし、君は続けようというのだね?」と答えた[520][521]。この接触はハインドマンがビスマルクとラッサールの関係に倣ったものとされてる[522] 10年前から執筆を開始していた政治小説『エンディミオン』を1880年11月に出版した[523]。エンディミオンという青年が政治を志し、幾多の女性遍歴を経て、ついにイギリス首相となる物語である。もちろんディズレーリ自身がモデルであり、世間からはベンジャミンとエンディミオンをかけて「ベンディミオン」と呼ばれたという[524]。他の登場人物も大体ディズレーリの接した者たちであり、一種の自叙伝であった[351][525]。 さらにグラッドストンをモデルにした人物を主人公にした小説『ファルコーネ』の執筆を開始したが、これを完成させることはできなかった[526]。 死去 ディズレーリのデスマスク 1880年12月にディズレーリはヒューエンデンを離れてロンドンへ行き、以降死去するまでヒューエンデンに戻る事はなかった。ディズレーリは以前から喘息と痛風に苦しんでいたが、死を予期させるような病状は死の直前までなかった。1881年2月から3月にも外出して政治家たちと会合したり、皇太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の晩餐に招かれたりしていた[527]。3月1日にはウィンザー城でヴィクトリア女王から最後の引見を受けた[528]。3月15日の貴族院では、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺を悼み、女王が弔辞を送ることに賛成する最後の演説を行った[529]。 3月22日の帰宅途中に雨にぬれたことで風邪を引き、これが死につながることとなった[529]。なかなか病状は回復せず、そんな中ディズレーリが無理をして書いたヴィクトリア女王への手紙は、短信だった。ヴィクトリア女王は心配になり、有名医をディズレーリの下へ派遣するよう命じた[530]。 3月29日、女王の命を受けた胸部疾患の権威クエイン博士がやってきた。博士はディズレーリの病状を気管支炎と診断した[530]。クエイン博士は応援を要請し、数日後に別の胸部疾患の専門医と看護婦二人がかけつけてきて24時間体制の看護が行われた[531]。医師たちは望みがある口ぶりだったが、ディズレーリ本人は死を予感しており、「今度の病気はダメだろう。とても生きられないと自分で感じる」と述べた。また医師たちに「自分は死ぬのか」と執拗に尋ねつつ、「生きられる方がいいが、死を恐れてはいない」とどこか超然としていたという[530]。 4月19日に入った深夜に危篤状態に陥った。同日午前4時15分過ぎ、昏睡状態だったディズレーリが突然上半身を起こそうとしたので、その場にいた者たちはみなびっくりした。彼はいつも議会で行っていた両肩を後ろに揺する身振りをした。その後再びベッドの中に倒れ、眠りに就き、午前4時30頃、安らかに息を引き取った[532][533]。 ディズレーリの訃報に接したヴィクトリア女王は悲しみのあまり、しばらく口をきけなかったという。保守党本部、自由党本部、公共の建物は半旗を掲げた[534]。グラッドストン首相は議会における演説でディズレーリの政策こそ褒めなかったが、そのユニークな人柄、属する民族への愛、妻への愛、恨み事を残さなかったことなど人格面を称える演説を行った[535]。 ディズレーリの死は突然であったので、保守党は後任の党首をただちに決めることはできず、貴族院保守党はソールズベリー侯爵が、庶民院保守党はサー・スタッフォード・ノースコートが指導するという両院別個の二党首体制が取られることになった(貴族院が保守党の野党活動の中心となっていたのでソールズベリー侯爵の方が指導的であった)[536]。 4月26日、ディズレーリの遺言に基づき、国葬ではなく、ヒューエンデンの聖マイケル及びオール・エンジェルズ教会で葬儀が営まれた。ヴィクトリア女王は葬儀に出席したがっていたが、当時のイギリスでは君主が臣民の葬儀に出席することは禁じられていたので断念せざるを得なかった。代わりに皇太子、コノート公爵アーサー、レオポルド王子(後のオールバニ公)ら女王の王子3人が葬儀に出席している。保守党政治家はほとんど参加し、自由党政治家も一部参加したが、首相グラッドストンは仕事を理由に欠席している[487]。 ヴィクトリア女王は葬儀に出席できなかったが、ディズレーリの墓参りを希望し、ヒューエンデンへ赴いた。女王は、ディズレーリがヒューエンデンにいた時、最後に歩いた道を歩いてから教会へ向かった。女王は掘り返されたディズレーリの棺の上に陶器の花輪を供えた後、教会内に自分の想いを刻んだ大理石の記念碑を置かせた[537]。 そこには「ビーコンズフィールド伯爵、ベンジャミンの敬愛すべき思い出に捧ぐ。この記念碑を捧げるは、君主にして友人、感謝に満ちる、女王にして女帝ヴィクトリア。『王は正義を語る者を愛する』箴言16-13」と刻まれている[538][539][540]。 ディズレーリには子がなく、ビーコンズフィールド伯爵位は彼の死とともに消滅した。ヒューエンデンの家屋敷や遺産はディズレーリの遺言により、甥であるカニングスビーがディズレーリ姓を名乗ることを条件に相続した。女王はディズレーリの生前からビーコンズフィールド伯爵位の継承者がないことを心配しており、特例でカニングスビーに男爵位を与えると内諭していたが、ディズレーリはそれを拝辞していた[541]。ちなみにカニングスビーも子供ができないまま1936年に死去しており、ヒューエンデンの家屋敷は現在ナショナル・トラストに管理されている[542]。 ディズレーリの墓  ヴィクトリア女王から贈られた記念碑  リヴァプールの聖ジョージ・ホールにあるディズレーリ像  ロンドン・パーラメント・スクエアにあるディズレーリ像  人物 シリーズからの派生 保守主義 (コンサバティズム) 学派[表示] 概念[表示] 人物[表示] 組織[表示] 宗教[表示] 国別項目[表示] 関連項目[表示] 政治ポータル 貴族的素養・貴族意識 生誕時に貴族ではなかったこと、ユダヤ人であること、また学歴がないことの影響か[注釈 15]、ディズレーリには成りあがり者のイメージがある[543]。しかしディズレーリは著名な作家を父に持ち、経済的にも裕福な家庭で、文学的教養を身につけながら貴公子的に育った人物である[6]。若いころに借金を背負っているが、借金を背負うのは貴族にも珍しくはない。ディズレーリにはもともと上流階級の素養が十分にあったのである[544]。 加えてディズレーリは自らの血筋に誇りを持っていた。ユダヤ人は英国貴族などよりはるかに古い歴史を持つ真の貴族であり、さらに自分はそのユダヤ人の中でも「スペイン系」の「貴種」なので貴族の中の貴族だと思っていた。とりわけヒューエンデンの地主になって以降のディズレーリはその貴族意識を増大させていった[545]。 君主主義・貴族主義・民衆主義 ディズレーリの伝記作家ウィリアム・フラベル・モニーペニーは伝記の中で「ディズレーリにとって政治組織は2つの実在からなっており、その一つである君主は円の中心であり、もう一つの民衆は円周である。この両者の相互関係を維持することで全ての調和が保たれると考えていた」と書いている[546]。 ディズレーリの考えるところ、その両者の橋渡しをするのが貴族だった。貴族は特権を持って当然であり、同時に特権をもつがゆえに義務を果たさなければならず、その義務とは民衆の生活向上に尽くして、民衆が君主を尊敬するよう導くことであると考えていた。ディズレーリは「偉大な義務と特権を持った貴族がいない国は決して繁栄することはできない」と述べている[547]。 ディズレーリは、ホイッグ党が1832年に行った第一次選挙法改正で政治権力が土地貴族から産業資本家に移されたことによって、民衆が「労働者階級」という名の「奴隷」にされたと考えていた[548]。ディズレーリには自由主義最盛期のイギリスは「抵当に入る貴族、賭博的海外貿易、国内の激しい競争、墜落する民衆」と腐敗しきった社会にしか見えなかった[549]。1835年から1836年にかけて書いた政治論文の中でディズレーリは、「ホイッグ主義は進歩的に見えるが、実際には王権や国教会を引きずりおろして資本家の寡頭政治を狙う反民衆思想であり、一方トーリー主義は王権や国教会の専制を擁護しているように見えるが、実際は資本家の寡頭政治から民衆の自由を守る立場」と主張している[550]。 ホイッグ党によって引き裂かれた貧困層と富裕層という「二つの国民」を再び一つに統合できる者は、その両方の民の頂点に立つ女王のみと考えており[549]、『シビル』の中でも「政党間の激しい争いによって君主の大権が狭められ、それによって民衆の権利も消滅する。王位は虚飾となり、民衆は再び奴隷となる。私が願うのは、イギリスが再び自主性をもった君主と、権利を与えられ繁栄した民衆を持つことである」と書いている[551]。 こうした理想化された封建主義社会を思い描くディズレーリは、中央集権主義、官僚主義、功利主義に強く反発する地方分権的貴族主義者でもあった。地主貴族とイングランド国教会牧師が統治する地方の世界観こそが彼が最も保守したいと願うものだった[552]。 ディズレーリはイギリス一般民衆の保守性を確信しており、1849年には「イギリスの本当の財産は物質的な豊かさではなく、民衆の国民性である」と語っている。ディズレーリが1867年の第二次選挙法改正を主導した際に選挙権拡大を恐れなかったのも民衆の保守性を信じていたからだし、社会政策を行ったのも民衆の保守性を強化するためであった[553]。 帝国主義 ディズレーリはイギリスの帝国主義時代の幕を開いた政治家である[554]。帝国主義は元々はディズレーリの外交政策を批判した反対派の用語であり[555]、ディズレーリによって体系化され、新たな意味が付与され、保守党の理念に組み込まれた[556]。 1872年の水晶宮演説以前のディズレーリは植民地獲得にほとんど関心を持っていなかった。というのもディズレーリはそれまで小英国主義者だったからである。小英国主義とはイギリスの自由貿易が世界中に拡大した今、植民地領有の必要性がほとんどなくなっており、むしろ行政費や防衛費など膨大な費用がかかるお荷物であるという論であり、自由主義者の中でもマンチェスター学派によって盛んに支持された考えである[557]。ヴィクトリア朝前期にはこの小英国主義論が論壇や政治家の中で根強かった[558][559]。 しかしこの時期の英国政府の外交を主導したのは「自由貿易帝国主義者」のパーマストン子爵であったため、イギリス政府の実際の動きとしては植民地放棄どころか、インド周辺地域への領土拡大を図り、それ以外の地域に対しては砲艦外交を仕掛けて非公式帝国化を推し進めていった[560]。 保守党政治家はこのパーマストン外交との対決軸を作る意図から小英国主義的立場をとることが多かった[561]。水晶宮演説以前のディズレーリも小英国主義的立場をとっていた。特にカナダやアフリカ西海岸は自由貿易体制の中ではほとんど価値がないのに防衛費ばかりどんどん増えていく「しょうもない植民地」の典型であるから、自分で勝手に防衛させるべきと主張していた[562][563]。 ところが第二次ディズレーリ内閣時のディズレーリはこれまで主張を180度変えて植民地領有の必要性を声高に訴えるようになった[564]。この変化の原因はまず第一に国内の政治情勢の変化である。1868年の総選挙の頃から大都市の中産階級が「安定」を求めて自由党支持から保守党支持へ移り始めたことで、保守党は「地主の利益を守る党」から「あらゆる有産者の利益を守る党」に変貌していた[565]。ディズレーリはこの中産階級の支持を維持しつつ、労働者層にも支持を拡大していくべく、保守党が特定の階級の担い手ではなく、あらゆる階級、つまりナショナルな利益の擁護者であることを宣伝しようと帝国主義を保守党の新たな理念に打ち立てたのである[566]。 当時労働者の世論は完全に帝国主義化していた。1860年代後期からの金融危機でイギリス国内が失業者であふれかえったため、植民地の雇用が注目されていたのである。第一次グラッドストン内閣が行ったニュージーランド駐在軍撤収など植民地放棄的な政策に対しても強い不満の声が労働者層からあがっていた[567]。ディズレーリにとって帝国主義は労働者層の集票手段であった[568]。 第二に国際的な事情もあった。ドイツ帝国の勃興によるイギリスの相対的な地位の低下、また実現すればイギリスに更なる地位の低下をもたらすであろうロシア帝国の地中海(バルカン半島)およびペルシャ湾(中央アジア)獲得の野心である。これに対抗するためイギリスは帝国を固めなければならない時期だった[569]。 しかし第二次ディズレーリ内閣においてさえ、ディズレーリ当人が植民地に関心を持っていたかは疑問視する声もある。というのも彼は植民地政策のほとんどを植民地相カーナーヴォン伯爵に任せきりの状態にしていたからである[570]。 ユダヤ教・ユダヤ人について ディズレーリは幼少期にキリスト教に改宗し、キリスト教会の墓で眠っている。だが生涯を通して隠れユダヤ教徒という疑惑が付きまとった(特にグラッドストンはそう思っていた)[571][572]。 しかしディズレーリはユダヤ教の儀式にまったく無知であり、ディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は「そんな説は一考にも値しない」と退けている[573]。一方ディズレーリはユダヤ人をユダヤ教徒ではなく人種(race)ととらえ、自分はユダヤ人種であること、そしてユダヤ人種の優秀性を公言していたので「一笑に付すことはできない」とする説もある[572]。セシル・ロスは「ディズレーリは"ユダヤ民族"に情熱を持つあまり、ユダヤ教とキリスト教を対等視するのに忙しく、その差異を軽視する」としている[574]。 ディズレーリ当人は「私は旧約聖書と新約聖書の間の白ページみたいなものだ」と冗談を飛ばしたことがあった[575]。 「ユダヤ教徒イギリス国民」の意識を持ち、宗教的平等を求めていたライオネル・ド・ロスチャイルドら同時代のユダヤ人らと比較するとディズレーリはかなり特異な「ユダヤ人」であったといえる[572]。宗教に関する彼の特異さは、彼の皮肉屋の性格が影響しており、それがヴィクトリア朝英国紳士らしからぬ無教養と看做されて、彼のアウトサイダー的印象を創ったとブレイク男爵はみている[576]。 ディズレーリ アイザイア・バーリンはディズレーリとカール・マルクスの心理状態には似通ったところがあると見て二人を比較する研究を行っている。バーリンは、「二人とも父親がユダヤ教会から離れたことによってユダヤ教社会から隔絶されたユダヤ人だった。二人の父親(アイザック・デ・イズレーリとハインリヒ・マルクス)は、中産階級社会に平和的に同化した。しかし父より情熱的だった二人にはもっと強固なアイデンティティの足場が必要だった。二人はそのような足場を生来もっていなかったので、創り出すしかなかった。二人は父の願いに反して中産階級に反逆した。ディズレーリは貴族エリート階級の指導者、マルクスは世界プロレタリアート階級の指導者になるために。二人は社交界と工場でいつでも合えるはずのその構成員たちと直接触れ合う事は大して重視せず、一般的にイメージされるその集団に自らを一体化させ、その集団を指導することにだけ関心を示した。二人はそれぞれの方法で自らの出自から逃げようとした。マルクスは自らの出自を隠し、ユダヤ人をブルジョワと同視して下から攻撃することによって、ディズレーリは場違いにユダヤ人を押し出し、ユダヤ人を裕福で奇妙な存在にすることによって。」と分析している[577]。 一方ディズレーリの人物像を研究する上で彼がユダヤ人であることが注目され過ぎているという主張もある。ディズレーリは13歳の時にイングランド国教会に改宗しており、政治家になるうえでの法的制約はなかった。反ユダヤ主義的な中傷を受けることもあったが、イギリス上流階級の反ユダヤ主義は大陸のそれよりずっと弱かったのでユダヤ人のアイデンティティを感じる機会がどれほどあったか疑問だからである[578]。 プリムローズ プリムローズ・デイを描いたフランク・ブラムリーの絵画 ディズレーリはプリムローズ(サクラソウ)の花を愛したといわれる[注釈 16]。ヴィクトリア女王もディズレーリの葬儀の際にプリムローズを葬儀に送っている[580]。 ディズレーリの二度目の命日である1883年4月19日に行われたディズレーリ像の除幕式がきっかけで、毎年4月19日にプリムローズを飾ったり、着用したりする「プリムローズ・デイ」の習慣がイギリス各地で広まった[581]。この習慣は第一次世界大戦中にディズレーリ像へのプリムローズの飾り付けが一時中止されたことで衰退するまで国民的イベントであり続けた[582]。 この文化を通じてディズレーリは死後、党派を超えた国民的英雄に昇華した。これについて『タイムズ』紙は「支持者だけでなく政治的敵対者からも彼が追慕されるのはわが国の政治闘争が憎悪とは無縁であることを証明している」と論評している[583]。 1883年11月には「ディズレーリの後継者」を自任するランドルフ・チャーチル卿らによって「プリムローズ・リーグ」が結成された。これはディズレーリが目指した「宗教、国制、大英帝国の護持」を目的とする団体だった[584]。この団体は、党派や宗派、性別を超えてメンバーを広く募集した結果、ヴィクトリア朝最大の大衆組織となり、保守党が労働者票を確保する上で大きな礎となり、世紀転換期の保守党長期政権を支えた[585]。 女性に人気 ディズレーリの絵 アンドレ・モロワの『ディズレーリ伝』によるとディズレーリは全ての階級の女性に人気であったという。同書の中で紹介される逸話によると、売春婦たちの晩餐の席上の会話で「グラッドストンとディズレーリ、どちらと結婚したい?」という話題になった時、彼女たちのほとんどがディズレーリと答えたが、一人だけグラッドストンと答えた者がいたという。他のみんながびっくりして理由を問うと、彼女は「まずグラッドストンと結婚して、その後ディズレーリと一緒になるの。グラッドストンがどんな顔をするか見たいから」と答えたという[586]。 ブレイク男爵も「もし婦人参政権が認められたらディズレーリほど婦人票を集められる政治家はいなかっただろう」と評している。そのためディズレーリ自身も保守党の政治家ながら婦人参政権に反対ではなかったという。ただ彼は現実主義者だったので婦人参政権を議会で通すのは現状では無理と理解しており、ジョン・スチュアート・ミルが婦人参政権を求める動議を提出した時にも助力することはなかった[587]。 その他 その弁論術は、劇的魅力があったという。標準英語をしゃべるが、どこか異国風のしゃべり方だったという[575]。 ヒューエンデン邸の近くの池で釣りをすることを好んだ[588]。 ヴィクトリア女王との関係 ヴィクトリア女王とディズレーリ ディズレーリはヴィクトリア朝の長い歴史の中で数多く輩出された首相たちの中でも最もヴィクトリア女王に寵愛された首相である。 ディズレーリが初めてヴィクトリア女王の姿を見たのは、ヴィクトリアの戴冠式や結婚式においてであった。だがその時のディズレーリは一介の庶民院議員に過ぎず、ディズレーリの方は大きな印象を受けても、ヴィクトリアの方から特段注目されることはなかった。そのディズレーリがヴィクトリアから最初に注目されたのは嫌悪感によってであった。それはピール内閣の時のことである。ヴィクトリアの夫アルバートは自由貿易主義者であり、そのため女王夫妻はピール首相の自由貿易改革を支援していたが、そこに「ヤング・イングランド」のディズレーリが保護貿易主義を掲げてピールを徹底的に攻撃したからである。ディズレーリの盟友ジョージ・ベンティンク卿に至っては「ドイツ人の王室がピール派と結託してイギリスの農業利益をドイツに売り飛ばそうとしている」などと王室を侮辱する演説まで行った。そうした保護貿易運動の先頭に立っていたディズレーリに女王が嫌悪感を持つのは当然のことだった[589]。 ヴィクトリアのディズレーリへの心証が若干良くなったのは第一次ダービー伯爵内閣の時のことである。大蔵大臣として入閣したディズレーリの報告書が小説的だったことが、ヴィクトリアの注目を惹いたのである[234][235]。この内閣の時にディズレーリを晩餐にまねいたヴィクトリアは、その時の印象を「風貌は典型的なユダヤ人風、青白い顔に黒い目とまつ毛、黒い巻き毛の髪、その表情は不快感を覚えるが、話してみるとそうでもなかった」と日記に書いている[234]。この頃には保守党の保護貿易主義も身をひそめていた。だが夫アルバートはなおも保守党やディズレーリに嫌悪感をもっていたため、ヴィクトリアの不信も完全には消えなかった[590]。 ヴィクトリア女王よりガーター勲章を授与されるディズレーリ 大きな変化が生じたのは1861年のアルバートの薨去だった。ディズレーリがアルバート顕彰の先頭に立ち、またアルバートの人格を褒め称えた演説を行ったことがヴィクトリアの心を捉えた[286][591]。1866年の第三次ダービー伯爵内閣の頃にはヴィクトリアは完全にディズレーリに好感を寄せるようになっていた。ダービー伯爵の辞任でディズレーリが後任の首相になると親密さは増し、1868年春頃からヴィクトリアは自らが摘んだ花束をディズレーリへ送り、ディズレーリはお礼に自分の小説をヴィクトリアへ送るという関係になった[592][593][594]。第二次ディズレーリ内閣で二人の親密さは頂点に達した。ディズレーリはしばしばヴィクトリア女王を「妖精」と呼ぶようになった[592][595]。 二人の親密さの背景について、生後間もなく父ケント公を失ったヴィクトリアの父性コンプレックスと「母との疎外感が強く、生涯を通じて母の愛を補う女性を求めていた」(ブレイク男爵)[596]ディズレーリの母性コンプレックスが結び付いたのではないかとする説がある[597]。 グラッドストンの伝記を書いた神川信彦は、ディズレーリの「女はみな虚栄心をもつ。男の中には虚栄心を全く持たない者もいるが、虚栄心をもった男の虚栄心は、女の虚栄心では及びもつかないほど激しい。」という言葉を引用し、その「巨大な男の虚栄心」を持つディズレーリにとって、ヴィクトリアの「小さな女の虚栄心」など簡単に支配できたと主張している[598]。 ヴィクトリアがナポレオン3世にも好感を寄せていたことから、リットン・ストレイチーは、ヴィクトリアはディズレーリの中にもナポレオン3世と似たもの、山師的・魔術的魅力を見たのだろうと主張している[599]。 二人は、小さな島国を司令塔に南アフリカから極東までまたがる世界最大の大帝国に素朴な誇りを持っている点も共通していた。ヴィクトリアは、ロマンチックに仕立てるのがうまいディズレーリから帝国の状況について報告される時、自分が全能の神であることを認識できたという[600]。 ディズレーリとグラッドストン グラッドストンの戯画 ディズレーリの戯画 グラッドストンとディズレーリはあらゆる面で対称の存在であり、終生のライバルであった[601]。ディズレーリの現実主義者の立場は、グラッドストンの杓子定規なキリスト教主義的倫理感とは決定的に相いれないものだった[441]。 二人の違いについて、アンドレ・モロワは「グラッドストンにとってディズレーリは、宗教と政治信念を持たない不信者だった。ディズレーリにとってグラッドストンは上辺だけ飾って辣腕を隠す偽信者だった」、「ディズレーリはグラッドストンが聖人ではないと信じていたが、グラッドストンはディズレーリが悪魔だと疑っていた」、「二人ともダンテの『神曲』を好んだが、ディズレーリは地獄篇を愛し、グラッドストンは天国篇を愛した。」、「ディズレーリはモリエールやヴォルテールから学んだが、グラッドストンはタルチュフを三流の喜劇だと思っていた」、「グラッドストンは大金持ちなのに毎日几帳面に出納帳を付けていた。ディズレーリは借金まみれなのに勘定もせずに金を使った」、「ディズレーリの敵は彼を正直な人間ではないと言った。グラッドストンの敵は彼を最も悪い意味における紳士ぶった奴だと言った。」、「グラッドストンはディズレーリがわざと表明するシニックな信仰告白を全て真に受けていた。ディズレーリはグラッドストンが発する自らも本気で欺かれている言葉を偽善だと思っていた。」、「軽薄で通っているディズレーリが社交界では無口で、真面目で通っているグラッドストンが社交界では魅力的なおしゃべりをした」等の例えを使って表現した[602]。 ディズレーリと同じ4回目の落選をした時からアンドレ・モロワのディズレーリの伝記の愛読者という日本の政治家田中秀征は、「ディズレーリに対するグラッドストン、彼は全てを持っていた。大金持ちで23歳で国会議員になっていた。ディズレーリは60すぎてやっとグラッドストンに追いつく。僕には分かる。ディズレーリが屈折した人生の果てに得た物を」と語っている[603]。 小説 小説『ロゼアー』 ディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は、「ディズレーリの小説は強引さと好き嫌いの激しさ、誇張、滑稽な筋立てが多くみられる。人々は彼を19世紀の小説家の最上位には置かないだろうが、しかし二流に置く事もないだろう。オックスフォード大学のある試験官は非常に優れたところがあるが、それに不釣り合いな馬鹿げた答えが書いてある答案に対してアルファ/ガンマと記入するというが、ディズレーリはヴィクトリア朝の小説家の中では、そのアルファ/ガンマであった」と評価している[604]。 首相になる以前のディズレーリはベストセラー作家になったことはなく、どれも売り上げはわずかであるか、ほどほどという程度である。ベストセラーになって金銭的に成功したのは首相退任後に著した『ロゼアー』と『エンディミオン』だけである[605]。 ブレイク男爵が評価する小説は、『ロゼアー』と『カニングスビー』である[606]。彼は『ロゼアー』に描かれる華やかな貴族社会の描写は「貴族は政治力をなくしつつあるが、社会的地位と財産は保持しており、義務感を喪失しそうな状況だが、自らが無用な階級だと思って墜落しないことがそれを防ぐ手段である」という思想が貫かれていると評価する[607]。『カニングスビー』については「英国政治小説の先駆」と評価し、「政治小説という分野自体がディズレーリによって開拓された」としている[608]。 日本では明治時代前期に『カニングスビー』が『政党余談 春鴬囀』(明治18年)、『ヘンリエッタ・テンプル』が『双鸞春話』(明治20年)、『コンタリーニ・フレミング』が『昆太利物語』(明治23年)として邦訳されている。日本で最初に翻訳された西洋小説は、ディズレーリの友人であるエドワード・ブルワー=リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を翻訳した『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)である[609]。これが日本で大ヒットした結果、同時代英国の小説家ディズレーリの小説も翻訳されるようになったという経緯である[610]。『政党余談 春鴬囀』は日本でも政治小説が流行するきっかけとなった[611]。 『ヴィヴィアン・グレイ』(Vivian Grey)(1826年; Vivian Grey - プロジェクト・グーテンベルク) 『ポパニラ』(Popanilla) (1828年; Popanilla - プロジェクト・グーテンベルク) 『若き公爵』(The Young Duke)(1831年) 『コンタリーニ・フレミング』(Contarini Fleming)(1832年) 『アルロイ』(The Wondrous Tales of Alroy)(1833年) 『地獄の結婚』(The Infernal Marriage)(1834年) 『天国のイクシオン』(Ixion in Heaven)(1834年) 『イスカンダーの興隆』(The Rise of Iskander)(1834年; The Rise of Iskander - プロジェクト・グーテンベルク) 『ヘンリエッタ・テンプル』(Henrietta Temple)(1837年) 『ヴェネツィア』(Venetia)(1837年; Venetia - プロジェクト・グーテンベルク) 『アラコス伯爵の悲劇』(The Tragedy of Count Alarcos)(1840年; The Tragedy of Count Alarcos - プロジェクト・グーテンベルク) 『カニングスビー』(Coningsby)(1844年; Coningsby - プロジェクト・グーテンベルク) 『シビル』(Sybil)(1845年; Sybil or, The Two Nations - プロジェクト・グーテンベルク) 『タンクレッド』(Tancred)(1847年; Tancred - プロジェクト・グーテンベルク) 『ロゼアー』(Lothair)(1870年; Lothair - プロジェクト・グーテンベルク) 『エンディミオン』(Endymion)(1880年; Endymion - プロジェクト・グーテンベルク) 『ファルコーネ』(Falconet) (未完成 1881年) 栄典 爵位 初代ビーコンズフィールド伯爵(連合王国貴族爵位)(1876年)[612] 初代ヒューエンデン子爵(連合王国貴族爵位)(1876年)[612] 勲章 ガーター勲章士(KG)(1878年)[612] その他 枢密顧問官(PC)(1852年)[612] 王立協会フェロー(FRS)(1876年)[612] 法学博士号(エジンバラ大学名誉学位)(1867年)[612] 法学博士号(グラスゴー大学名誉学位)(1873年)[612] 法学博士号(オックスフォード大学名誉学位)(1873年)[612] ディズレーリを演じた俳優 ディズレーリに扮するジョージ・アーリス。 アントニー・シャー(1997年映画『Queen Victoria 至上の恋』)[613] アレック・ギネス(1950年映画『The Mudlark』)[613] エイブラハム・ソフィア(1947年映画『The Ghosts of Berkeley Square』)[613] ジョン・ギールグッド(1941年映画『The Prime Minister』)[613] デリック・デ・マーニー(1938年映画『Sixty Glorious Years』)[613] マイルズ・マンダー(1938年映画『スエズ』)[613] ヒュー・ミラー(老年期)、デリック・デ・マーニー(青年期)(1937年映画『ヴィクトリア女王』)[613] ジョージ・アーリス(1911年舞台『ディズレーリ』、1921年映画『平民宰相』、1929年映画『ディズレーリ』)[613] 関連項目 第1次ディズレーリ内閣 第2次ディズレーリ内閣 ヴィクトリア (イギリス女王) ウィリアム・グラッドストン 保守党 (イギリス) ディズレーリ (カナダ):ディズレーリの名を冠するカナダ・ケベック州の都市 『嘘、大嘘、そして統計』 脚注 注釈 ^ 姉サラは1802年生まれで婚約者が1831年に急死したため、生涯独身のまま、父や弟の世話をして1859年に死去した。ナフタライは1807年生まれだが、生後すぐに死去。ラルフは1809年生まれで議会事務局次長を務めた後に1898年に死去。ジェームズは1813年に生まれ、税務局管理官を務めた後に1868年に死去している[4]。 ^ 1830年代の急進派はヴィクトリア朝の頃の急進派と異なり、一致した政治見解を持つ勢力ではなく、それぞれが好き勝手な主張をする無所属議員の集まりである[79]。 ^ 当時のイギリスの選挙区には州(カウンティ)選挙区と都市(バラ)選挙区があり、州選挙区では年収40シリング以上の土地保有者が選挙権を有した。一方都市選挙区は選挙権資格が一律ではないが、どの選挙区でも富裕層が有権者となるよう条件付けられていた。都市選挙区は産業革命以前の前時代の遺物であるため、近代の人口分布を無視して設定されており、極端に有権者数が少ない選挙区が多かった。ここから出馬する貴族は簡単に有権者を支配して全投票を独占することができた[86][87]。そのため、これを「腐敗選挙区」と呼んだ[88]。 ^ ホイッグ党のグレイ伯爵内閣が誕生した後、選挙法改正が目指され、トーリー党の激しい反発に遭いつつも1832年6月に選挙法が改正された。これにより「腐敗選挙区」の議席が削除されて、その分の議席は人口増加が著しい都市や州に配分された。都市選挙区の選挙権資格については年価値(一年の賃料)10ポンド以上の家屋の所有者ないし借家人に認められるようになった。一方州選挙区の選挙権資格については従来の40シリング以上の土地所有者という従来の条件に加えて年価値10ポンド以上の土地所有者にも認られることになった。これにより中産階級の男性にも選挙権が広がり有権者数が増加した。一方でイングランド南部の議席を北部の議席の3倍にすることによって農業利益を工業利益に優先させ、貴族の支配体制を温存させた。これを第一次選挙法改正と呼ぶ[78]。 ^ 大手醸造会社の社長の令嬢で、東インド会社の高給取り社員であるサー・フランシス・サイクス准男爵の妻[112]。サイクスはディズレーリとヘンリエッタの関係を許可していたという[113]。 ^ 救貧院に収容される貧困労働者の生活水準は、収容されていない労働者の生活水準を下回らねばならないとする原則[140]。 ^ 男子普通選挙、秘密投票、毎年の解散総選挙、議員の財産資格廃止、議員歳費支給、選挙区の平等の6つを掲げている[142]。 ^ この時のピールの組閣の際に「ヤング・イングランド」のジョージ・スミスに外務政務次官就任要請が来た。スミスはディズレーリを尊敬していたが、スミスの父ストラングフォード子爵が息子に圧力をかけた結果、スミスはこの要請を受けることとなった。これによってディズレーリとスミスが会う機会は減ったが、二人の友情自体は変わらなかったという[179]。 ^ 大陸で発生した1848年革命の影響でチャーティズム運動が再び盛んになり、社会情勢が混乱する中、大蔵大臣サー・チャールズ・ウッドが半年の間に4回も予算案を提出した。ディズレーリはこれをヤーヌスの神の血の溶解に例えて演説した。ディズレーリによるとこの演説で彼の人気が高まって保守党庶民院院内総務になることが決まったという[202]。 ^ ただパーマストン子爵はこの戦争中、第二次世界大戦時のチャーチルのように戦争遂行の象徴的人物になっており、彼を政権から外してなお国民に戦争を強いることは難しかったから、ダービー伯爵の行動が的外れというわけでもなかった[254]。 ^ 地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、多くの人がこちらの納税方式を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった[309]。 ^ この頃アイルランドには大学はダブリンのトリニティ・カレッジしかなかったが、この大学はイングランド国教会の支配下に置かれており、国教会流の教育がおこなわれていた。そのため行きたがるアイルランド人は少なかった。そこでグラッドストンは宗教的に中立なユニバーシティーの下に各宗派のカレッジを作ることを計画した。しかしアイルランドのカトリック聖職者はユニバーシティーから独立したカトリック大学であることを要求したため、アイルランド議員たちはこの法律に反対した[363]。 ^ 1875年4月8日にドイツの政府系新聞『ポスト』紙がフランスがドイツへの復讐を企んで軍備増強していると説く論説を載せたことでドイツ国内でフランスへの予防戦争を求める世論が強まった。ドイツ宰相ビスマルクに予防戦争の意思はなかったが、彼はこれを機にフランスに孤立を思い知らせようと考え、あえて独仏戦争の危機を収束させようとはしなかった。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交もあってイギリスとロシアはフランスを支持し、ビスマルクは強硬姿勢を取り下げる羽目になった[386][387]。 ^ この慣例が初めて破られたのは第二次世界大戦後、ウィンストン・チャーチルの葬儀にエリザベス2世女王が出席した時である[487]。 ^ 歴代イギリス首相の中でパブリックスクールや伝統的大学を出ていないのは、ディズレーリの他はデビッド・ロイド・ジョージとラムゼイ・マクドナルドの二人に留まる[521]。 ^ 1961年になって「プリムローズ・リーグ」は、ディズレーリがプリムローズを愛したという話は根拠がないことを認めた。もともとこの話は、ヴィクトリアがディズレーリの葬儀にプリムローズを送った際、一緒に添えられていたメッセージに「彼の好きな花」と書かれていることのみが根拠だったのだが、このメッセージの「彼」というのは夫アルバート公子を指すとの説が有力になってきたのである[579]。 出典 ^ a b 秦(2001) p.509 ^ a b 秦(2001) p.510 ^ a b c d e f g HANSARD 1803–2005 ^ a b c d e ブレイク(1993) p.3 ^ 尾鍋(1984) p.29 ^ a b c 川本(2006) p.215 ^ モロワ(1960) p.13 ^ a b ブレイク(1993) p.5 ^ モロワ(1960) p.9 ^ a b c ブレイク(1993) p.6 ^ a b c d ブレイク(1993) p.4 ^ a b バーリン(1983) p.283 ^ モロワ(1960) p.10 ^ バーリン(1983) p.275 ^ ブレイク(1993) p.5-6 ^ a b ブレイク(1993) p.7 ^ 世界伝記大事典(1980,6) p.248 ^ a b ブレイク(1993) p.12 ^ モロワ(1960) p.15-16 ^ 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1859年 次代: ウィリアム・グラッドストン 先代: 第3代パーマストン子爵 庶民院院内総務 1858年 - 1859年 次代: 第3代パーマストン子爵 先代: ウィリアム・グラッドストン 大蔵大臣 1866年 - 1868年 次代: ジョージ・ワード・ハント 先代: ウィリアム・グラッドストン 庶民院院内総務 1866年 - 1868年 次代: ウィリアム・グラッドストン 先代: 第14代ダービー伯爵 首相 1868年 次代: ウィリアム・グラッドストン 先代: ウィリアム・グラッドストン 首相 1874年 - 1880年 次代: ウィリアム・グラッドストン 先代: ウィリアム・グラッドストン 庶民院院内総務 1874年 - 1876年 次代: サー・スタッフォード・ノースコート准男爵 先代: 第3代マームズベリー伯爵 王璽尚書 1876年 – 1878年 次代: 第6代ノーサンバーランド公爵 先代: 第6代リッチモンド公爵 貴族院院内総務 1876年 - 1880年 次代: 第2代グランヴィル伯爵 党職 先代: グランビー侯爵 保守党庶民院院内総務 1851年 - 1876年 次代: サー・スタッフォード・ノースコート准男爵 先代: 第14代ダービー伯爵 保守党党首 1868年 - 1881年 次代: 庶民院サー・スタッフォード・ノースコート准男爵 貴族院第3代ソールズベリー侯爵 先代: 第6代リッチモンド公爵 保守党貴族院院内総務 1876年 - 1881年 次代: 第3代ソールズベリー侯爵 グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 先代: アブラハム・ウィルデイ・ロバーツ ウィンダム・ルイス メイドストン選挙区選出庶民院議員 1837年 - 1841年 同一選挙区同時当選者 ウィンダム・ルイス(1837-1838) ジョン・ミネット・フェクター(1838-1841) 次代: アレグザンダー・ベレスフォード・ホープ ジョン・ドッド 先代: リチャード・ジェンキンス ロバート・アグリオンビー・スレニー シュルーズベリー選挙区選出庶民院議員 1841年 - 1847年 同一選挙区同時当選者 ジョージ・トムリン 次代: エドワード・ホームズ・バルドック ロバート・アグリオンビー・スレニー 先代: カレドン・ドゥ・プレ ウィリアム・フィッツモーリス クリストファー・タワー バッキンガムシャー選挙区選出庶民院議員 1847年 - 1876年 同一選挙区同時当選者 カレドン・ドゥ・プレ(1847-1874) チャールズ・キャヴェンディッシュ閣下(1847-1857) ウィリアム・キャヴェンディッシュ閣下(1857-1863) サー・ロバート・ハーヴィー(1863-1868,1874-1876) ナサニエル・ランバート(1868-1876) 次代: サー・ロバート・ハーヴィー ナサニエル・ランバート トマス・フレマントル 学職 先代: 第15代ダービー伯爵 グラスゴー大学学長 1871年 - 1877年 次代: ウィリアム・グラッドストン イギリスの爵位 先代: 新設 初代ビーコンズフィールド伯爵 1876年 - 1881年 次代: 廃絶 「https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ベンジャミン・ディズレーリ&oldid=64269832」から取得 カテゴリ: ベンジャミン・ディズレーリイギリスの首相イギリス保守党の政治家イギリスの保守政治家イングランド選出のイギリス庶民院議員イギリスの小説家イギリスの伯爵ガーター勲章イギリスの枢密顧問官王立協会フェローグラスゴー大学の教員イギリス帝国ヴィクトリア朝の人物セファルディ系ユダヤ人ユダヤ系イギリス人ユダヤ人の後裔イタリア系イギリス人カムデン区出身の人物1804年生1881年没 最終更新 2017年5月29日 (月) 02:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。[1]")

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