プロローグ
―内戦前夜―
大陸西方に
ソフィア王国という小国がある。中世の初めのころまでは、大陸西部の半分を征服していた大国の王を祖先に持つ国家であったが、いまや国際的影響力もほとんど持たない小国となっていた。そればかりでなく、この国は大陸西方の病人と呼ばれるまでに疲弊し、衰退していた。
世界暦1926年11月、メロヴィクス・ソフィア=フェンタジネット国王の治世の時、国家は混乱の真只中にあった。ソフィアでは凡庸な国王を寵臣たちが自由に操っており、国家経済は疲弊し、人民は日に日に貧しくなっていた。政治制度は近代化に遅れ、寵臣たちが私腹を肥やしていた。国家経済と人民の疲弊は日増しに酷くなっていたが、力の弱い国王は寵臣たちを重んじ続けた。
そしてこの26年の11月に、新型のインフルエンザがソフィアで猛威を振るった。貧しい人民は次々と病に斃れた。人民は病院に行く経済的余裕がなく、また病院自身も貧しかった。王都ソフィアの王立病院を除けば、ほとんどの病院は医療器具も、薬も十分に存在しなかった。国は死者で溢れかえった。国王はこの窮状に対して深く憂慮し対策を寵臣に一任した。が、寵臣たちは対策に与えられた費用を自分達で分け与えてしまった。
この事態に対して、憤怒したのは王弟クロヴィス・ソフィア=フェンタジネットであった。かれは以前から寵臣と無能な兄に怒りを抱いていたが、もはや我慢の限界に達した。彼は政変を決意した。無能な兄に退位を迫り、寵臣を排除せねばならぬ。そして国家近代化のために、民主主義をこの国に導入せねばならぬ。と決意した。だが彼は政変のために必要な武力―軍―とのパイプを持っていなかった。王弟クロヴィスは豪気で格闘技の好きな武闘派だったが、軍とのかかわりが無かった。若いころから奔放で、中年になってからはスポーツマンであった。王国の貴族とのつながりが深く、寵臣グループの貴族と敵対する貴族の支持が強かった。その一方で聡明で進歩的、個人的利益よりも国民の利益を考える公人であった。だが寵臣の計らいで、軍からは遠ざけられていた。だが彼は軍との接触を持つ事が出来た。その橋渡しをしたのが娘のクラーラ・ソフィア=フェンタジネットである。
クラーラ・ソフィア=フェンタジネット
彼女は父親とは正反対の娘であった。甘やかされて育ったためにわがままで、世間知らずだった。そして小さいころから軍事に興味をもっもていた。幼いころ教育係の青年将校に恋焦がれていたために、彼に乗馬を教わり、乗馬は非常に得意で、趣味の一つになっていたが、運動神経は悪いほうだった。彼女は中学校卒業の時期に長い間一緒だった馬との死別を経験し、人間的に少し成長した。そして彼女のたっての希望で高校には進学せず、軍学校に進学し、将校の道を歩み始めた。寵臣たちは彼女はノーマークだった。クラーラはどちらかというとクロヴィスよりもメロヴィクスに近いタイプで、侮っていたのかもしれない。だがそれが寵臣たちを破滅へと導く事に繋がった。
クラーラは軍学校のつながりを通じてクロヴィスに軍との関係を構築した。クロヴィスはクラーラを全面的に信頼し、己の決意を打ち明けたのだ。彼女はその信頼に応え、そして信頼できる優れた軍人達とクロヴィスに橋渡しをする事に成功したのだ。クロヴィスは寵臣の専制に不満を抱いていた軍部を懐柔する事に成功した。そして、軍部とのつながりのあった富豪を抱きこむことにも成功した。
貴族ではなく、貧しい平民の出身で、一代でソフィア一の大富豪にのし上がった豪商である。勤勉で平等と、自由を好む彼は貴族を嫌っていたが、己の地位と財産を増すべく寵臣たちに取り入って、疲弊する王国の中でもその財を維持しそしてふやしてきた。だが、軍と、王弟を敵に回した寵臣たちをすぐに見限った。彼は寵臣側の多くの情報を王弟クロヴィスに提供した。クロヴィスは王弟派貴族の支持をとりつけ、もはや準備は万端であった。時は満ちた。
世界暦1927年、クロヴィス・ソフィア=フェンタジネットは蜂起した。軍のほとんどは彼に味方した。国中の警察はすぐに制圧された。国王の近衛部隊が決死の抵抗を見せたが、やがて制圧されて、国王メロヴィクスをはじめ、多くの寵臣たちが捕らえられ、彼らの恩恵を受けた貴族達も捕らえられた。わずかなものだけが、国を脱出して隣国
ランシア共和国に逃げおおせる事が出来た。蜂起からわずか3日の出来事であった。
クロヴィス・ソフィア=フェンタジネットはこのとき国家の頂点に君臨した。凡庸な兄、国王メロヴィクスは助けられたが直ちに退位して隠居し、クロヴィスが国王の座に着いた。寵臣たちはことごとく処刑された。多くの寵臣側の貴族がその財産を没収され、悪いものは処刑され、罪を減ぜられた者も貴族の地位を追われた。
王弟の娘クラーラ・ソフィア=フェンタジネットはクロヴィスの蜂起の際には騎兵連隊を率いて戦い、そして王都ソフィアを沢山の騎兵と、王国に2輌しかないD2中戦車を率いて凱旋し、その勇名を馳せた。彼女は第1王女の位を得て、次期国王の座を約束された。
政権を得たクロヴィス王は、人民の救済とともに、議会制民主主義の確立に力を注いだ。王は祖先が治めた大国、ランシア共和国の政治制度を参考に、同国から識者を募って議会の成立を推し進めた。そして世界暦1928年1月、議会のための総選挙が行われた。選挙は2院ともに、平民出身者がほとんどを占め、経済的に豊かな貴族出身者の殆どが落選した。王国の貴族は人民の信頼を失っていた。彼らはただ単に税や身分を優遇された浪費癖の金持ちに過ぎなかった。又、議会成立の為に莫大な支援を行っていたピエール・デュカスの巧妙な罠によって、国王クロヴィスは2院のうち1院を貴族からなる貴族院にする事が出来ないで居たのだった。ピエール・デュカスは又もう一つの罠を仕掛けていた。彼の経済的な後ろ盾により、平民出身議員を中心とした中道左派政党「市民議会党」が成立した。市民議会党は議会の過半数を得て、議会を支配した。他にも共産主義政党の共産党や急進右派の自由主義政党「自由党」、貴族出身議員の政党などが誕生したが、いずれも力が弱かった。
1928年3月、国王クロヴィスの承認を受け、市民議会党のピエール・モネが首相に就任した。人柄が良いだけのモネが組閣した内閣はピエール・デュカスの傀儡だった。市民議会党が元々デュカス財閥の絶対的影響下にありデュカスに反発する事は不可能だった。
ピエール・デュカスは議会をほぼ掌握していた。だが彼は背後で権力を行使する事をせずに、彼は議会に働きかけ混乱した王国の安定に勤め、疲弊した人々の救済に勤め、支援団体を組織して疫病と内乱で疲弊した国家の再建に努めた。クロヴィスも、王女クラーラも、このときデュカスを高く評価し、クロヴィスはデュカスに爵位をもって報いようとした。だがデュカスは鄭重に断った。デュカスは、クロヴィス王は排除せねばならないと考えていた。将来クロヴィス王と対立する事がわかりきっていた。なぜなら、彼はソフィアの国から王と貴族を排除する策謀を進めていたからだった。
彼の富のためには、人民を富まさねばならぬ。貴族と王の財産が人民に移れば、人民は富を消費する。大富豪となったデュカスの企業の商品が消費されれば、デュカスは儲かり、今までの投資を回収できる。彼はそう考えていたし、実際に試算を出していたのである。人民を富ませ、己自身も富ませるのは、デュカスの最大の野望であった。
能力も無いのに高い位につき、沢山の税金を人民から搾り取って私腹を肥やし、飼い殺しにしてきた貴族と王家が嫌いだった彼は、人民を富まし、自分も富む「良い金持ち」を無意識に目指したのかもしれない。いまやその野望が達成されるのは目前に迫っていた。
王家と貴族を排除するために、彼は今の王の退位を模索した。ソフィアに議会が設置されたとはいえ、この国の最高権力者は王であった。クロヴィス王はこの国に議会制民主主義を齎したが、その一方で時代に取り残された過去の遺物である貴族の守護者でもあった。
「クロヴィス王は決してばか者ではない」
これはデュカスのクロヴィス王に対する印象であった。クロヴィス王は己が望んで議会を設置したが、だからといって議会や議会政府の決定を鵜呑みにする事は無い。この王があるかぎり、デュカスの野望が達成される事は無い。だからこそこの王を排除しなければならぬ。だが、王を排除すれば王家を慕う貴族や、議員、王党の人民の反発を受けるだろう。だから議会の言いなりになる者を王として迎えねばならぬ。
そして彼が「言いなりになる王」に選んだのは、クロヴィス王の甥に当たる、エドワード・ソフィア=リア=フェンタジネットであった。フェンタジネット家の分家筋に当たるソフィア・リア=フェンタジネット家は、病弱なシャルル公が当主であったが、王国議会発足と同時期に不信な死を遂げ、現在は幼いエドワード・ソフィア=リア=フェンタジネットが当主であった。彼の近辺には姉のレオナがおり、後見的役割を果たしていたが、まだ未成年で、しかも「空気を読む性格」であったので、デュカスはソフィア=リア=フェンタジネット家を影で恭順させることが出来た。デュカスは準備を始めた。
1928年、―王室典範に関する法律―が成立した。これはデュカスの用意した巧妙な罠であった。王室典範に関する法律は、文章の巧妙な細工によって、議会が王を退位させ、また即位させることが出来る法律となった。
同年国王クロヴィスは、でっち上げられた女性問題を理由に退位させられた。クロヴィスを知る人からすれば、「まったくありえない話」で、王家とその周辺から大変な反発と抗議が行われた。だが、一般の国民にそんな事は知る由もなく、彼の退位は国民の間に受け入れられた。そして次の王座につく筈だったクラーラ王女は「王女は軍人であり、軍隊を文民が統制する民主主義国家にとって、即位はそぐわない」などと難癖をつけられて王座を追われた。そして議会はエドワード・ソフィア=リア=フェンタジネットを、ソフィア=フェンタジネット家、そして一部識者の猛烈な反対にあいながら即位させた。ピエール・デュカスによる権力の掌握は成功した。
クロヴィスは状況に危機感を抱いた。支援者だと思っていたピエール・デュカスは、実は最大の敵対者だという事が、徐々にわかってきた。デュカスは狡猾であり、この国にとどまるのは危険だと考えた。クロヴィスは、妻の実家がある隣国
レオネッサ王国に身を寄せる事にした。クロヴィスの妻、クラーラの母は、レオネッサ王国王家とかかわりのある名家の出身であった。彼は残された財産と、大切な妻と、凡庸な兄を連れてレオネッサ王国に逃れた。だが、クラーラ王女は軍にとどまり、決して祖国を離れようとはしなかった。彼女は武力による王座奪回と、デュカスの排除を目論んでいたのである。
「この国は私のものだ。王都ソフィアから道端の雑草まで、貴族から乞食まで、全ては私のものになるはずなのだ。いやそうでなければならない。この国とこの国の人間は私が幸福にしなければならない。胡散臭いあの富豪と、金と権力の亡者の議会にこの国を支配されてみろ、叔父様の代に逆戻りだ。私は絶対にあいつらをやっつけるつもりだ」
クラーラは友人にそう語った。クラーラは、マキャヴェリの君主論を読んでいたのでその影響を受けていた。彼女は国を治めるに足る能力を持っていなかったが、国を治める義務感は抱いていた。彼女はクーデターを企画した。特別美しい容貌でもなく、わがままで、癇癪ぎみの王女だったが、臆病な人でも親しみやすく、どこか憎めないところがあり、人に好かれるところがあった。彼女は、父親を担ぎ出す事に決め、軍のパイプを使って王家に近い軍人達と接触し、クーデタの計画を進めた。そして1928年の12月25日に、クーデターを実施する事を決めた。
―内戦の勃発―
クラーラ王女(王国軍上級大将)のクーデタ計画は実行一月前の段階で露呈した。ちょうど、ヴェラリア市郊外の軍事基地での軍事演習が行われようとしている直前の事だった。クラーラの逮捕命令と、クーデター参加部隊の武装解除が発令された。彼女を支持していたクーデター軍、ヴェラリア市に展開していた2個軍(6個師団・ソフィアの軍は軍団に相当)とビアンカ市、バルディア市、アルピナ市で各1個軍がソフィア王国王党派を称してあわてて蜂起した。王女クラーラはヴェラリアの警察を速やかに制圧して己の安全を確保し、父クロヴィスにクーデターに呼応するように要求した。そしてクロヴィスは娘の要求に応じ、「議会の腐敗を正すために」クーデターを支持した。それとともに、クロヴィスは直ちにレオネッサ王に援助を要求した。クロヴィスは、このクーデターは絶対にうまく行かないと考えていた。そして実際にうまく行かなかった。
王党軍はヴェラリア市、アルピナ市を完全に掌握した。ヴェラリア市は王国経済の重要な拠点であり、アルピナ市は軍事産業都市の名を頂く、兵器生産の拠点であった。この二つを征する事が出来たのは緒戦の王党派にとってかろうじて得られた勝利であり、そして今後の困難の原因となった。
問題は他の地域であった。軍の議会への支持は予想以上に高く、王党派陣営で参戦する予定であった部隊の中には、議会に忠実であったり、あるいは部隊指揮官を逮捕或いは殺害して議会に忠実であるとする部隊が続出した。王党派は貴族の支持を受けたが、貴族は人民に嫌われていた。王都ソフィアで蜂起するはずの1個軍は、貴族のル・ファンタスク軍司令官他、師団長、将校が次々と逮捕された。バルディア市ではクーデターに参加するはずだった軍の2個師団がクーデタを拒否し、王党軍1個師団と交戦に突入した。ビアンカ市では2個軍のうち1個軍が議会への忠誠を示して、王党派1個軍との交戦状態に突入したのであった。クラーラはクーデタの失敗を受けて新たな作戦を検討、作成せねばならなかった。クラーラはモノリ将軍隷下の1個軍にバルディア支援を命じた。
一方クラーラのクーデタに呼応したクロヴィスは、逃亡先のレオネッサ王国で、王党派総司令部を設置し、レオネッサ王国をはじめとして、ソフィア南の隣国クラリッサ王国や、ソフィア北の大国ランシア共和国に軍事支援を要求するなど、軍事援助を要求していた。だが、ランシア共和国は介入を拒否し、又内戦の即時停戦を求めた。ランシア共和国は現体制を歓迎しており、更なる内戦で自国に悪影響が及ぶ事を拒否した。だが、議会側に立って介入する事も否定し、(自国の軍事産業の利益のために)武器は販売するとした。南の隣国クラリッサ王国は態度を曖昧にした。レオネッサ王国は、国王が介入に乗り気でなかった。だが、レオネッサのファシズム政権は、ソフィア王国を影響下に置き、状況しだいでは征服できるチャンスであると判断した。レオネッサ王国の統領は、国王と、クロヴィス王で3者会談を行い、存分にリーダーシップを発揮して軍事介入を決めた。
―ビアンカ会戦―
ソフィア王国中央北部に位置するビアンカ市は、確かに重要な都市ではあったが、それでも、王党派にとってはバルディア市のほうが重要であった。にもかかわらず、王党軍がビアンカ市を激烈に攻撃し、大会戦に発展したのは、王女クラーラの個人的な怨恨が原因であった。
王女クラーラが市を激烈に攻撃したのは、ビアンカ市でオデーヌ事件という凄惨な虐殺事件が発生したためだった。この事件はクラーラが武装蜂起してすぐに起きた。クラーラの武装蜂起直後、ソフィアの各地で貧民層が王党派に対する反対行動を起したが、この事件はその中でもとりわけ残虐で決定的なものだった。1928年12月18日、ビアンカ市の貴族、フランチェスコ・オデーヌ邸が平民男子5名に襲撃され、フランチェスコ・オデーヌが棍棒で撲殺された。フランチェスコ・オデーヌの美しい娘アンリエッタ・オデーヌは5人の男にかわるがわる強姦され、そして絞殺された。フランチェスコの妻ジャンヌは襲撃当時外出していたが、娘が強姦されているさなかに帰宅し、男達によって撲殺された。男達はその後逮捕され、戦争中に死刑が確定し、執行される事となるが、当時この事件は議会派地域の中で重大な影響を及ぼした。男達は自由主義と反貴族と平等のための聖戦を称した。実際、議会派勢力内で王党派を支持した貴族がしばしば平民のリンチに会うケースはあったが、オデーヌ家の場合は貴族だが王党派の支持を明確にせず、しかも地元住人との関係が大変良かった。こうしたわけで、議会派地域の世論も同情を示し、犯人に対する憤怒と、私的な攻撃に対して厳しく処罰され、制限される事にはなった。
だが、この事件を伝え聞いたクラーラは激昂した。アンリエッタ・オデーヌは嘗て仲のよい学友の一人であった。彼女はすぐさま報復を決意した。空軍に大規模な爆撃作戦を企画させた。年明けの1月4日早朝、F.222、AM.143の30機と、CR.32戦闘機14機からなる爆撃隊が突如ビアンカ市の市街地に爆撃を開始した。およそ65000トンの爆弾と焼夷弾が投下され、87人の市民が死んだ。この成果に王女は満足したが、議会派の市民はかえって反発し、市内の富裕層や貴族に対する襲撃事件が起こった。これらは警察によって効果的に阻止されたが、民衆の怒りは収まらず、平民階級であっても王党派兵士の家族や親類に対する陰湿な虐め、リンチが繰り返された。ビアンカ市に展開していたド・グラース将軍はこのエネルギーを活用するため民兵隊を組織し、武器を配給して王党軍をゲリラ攻撃させた。王党軍のラフォンテーヌ将軍はゲリラ攻撃が開始されると、ビアンカ市を制圧してゲリラの策源地を奪取する必要性を感じた。ゲリラは議会軍の指導を受けているような印象を受けた。そして実際そのとおりだった。
ラフォンテーヌはクラーラに直接ビアンカ攻撃の必要性を訴えた。彼女は攻撃を支持したが、クラーラの参謀コラップ将軍は、
「ラフォンテーヌの3個師団だけでは攻略不可能であり、あらゆる増援兵力はラフォンテーヌではなく、バルディアに送らなければならない。援護を受ける事が出来ないラフォンテーヌにビアンカ攻略は不可能である」
として反対した。クラーラはコラップの意見を退け、ラフォンテーヌに攻撃を命じた。
ラフォンテーヌは隷下の第11歩兵師団に市の正面攻撃を任せ、第12歩兵師団にレクィレを経由する形でビアンカ市を反包囲し、王都ソフィアとの分断を企画した。第13歩兵師団は予備として、第11と第12の双方を支援できる位置にあるケアルアに置いた。
攻撃初日早朝に第11師団は師団砲兵を用いて準備砲撃したのち、ビアンカ市郊外から攻撃を開始した。第11師団は戦車を正面に攻撃したために、議会軍の民兵達はパニックを起して最前列を離れた。だが、ド・グラース将軍は逃げる民兵を押しとどめ、ヴィンター将軍に命じて、将軍の率いる第61師団の戦車隊を前進させた。激しい戦闘の末、議会軍は王党軍の攻撃を撃退し、王党軍の第11師団は攻撃を中止し、塹壕の建設を進めた。
所でド・グラース将軍は敵味方の判別をしやすくするために、軍服を茶色に染めさせ、戦車を赤と茶色で塗装させていたが、これらはすぐに議会軍全体に広がり、1月いっぱいには、暫定的に統一された。兵隊達にとって恐るべきは同士討ちだったので、王党派との軍服に差異を持たせるのは、両軍に歓迎された。
レクィレに向って前進していた王党軍第12師団は、当初議会軍部隊の士気が低かったために、行軍は順調に進行した。指揮官のマルセル将軍は勝利を確信したが、翌日には議会軍の組織的な反撃が始まり、彼の確信と勝利の栄光は打ち砕かれた。レクィレの東のパンデナイルにおいて大規模な戦闘が生起し、戦闘は数日間続いた。その結果パンデナイルは王党軍に確保され、沢山の遺棄された戦車と武器を王党軍は手に入れたが、かなりの死傷者を出した。マルセル将軍は各連隊指揮官や戦車大隊の報告を受け、増援なしでの攻撃の継続は危険であるとラフォンテーヌに報告した。ラフォンテーヌは危険を冒してでも速やかに追撃するようにマルセル将軍に命令した。マルセル将軍はしぶしぶ追撃を開始したが、王党軍将兵と馬匹は疲労しており、士気の低下も著しかったために進撃速度は低下した。
議会軍はパンデナイルでリュぺ将軍の1個師団が敗北すると、ド・グラースが予備の63師団を投入してレクィレに展開させた。彼は又ソフィアの議会軍総司令部に電話をかけると、増援は不要だと報告した。議会軍の
カウスト元帥はこの報告を受けて、バルディアを制圧するための援軍を派遣し、アルピナとヴェラリアを分断する事を決めた。
ド・グラースは各部隊から状況を聞いて反撃を決意した。彼は攻撃を好む指揮官であり多少の危険を犯してでも積極的に攻撃する事を好んだ。特に最前線で指揮し戦う事を好み、実際に最前線で敵兵士と白兵戦を繰り広げる事もあった。勇敢な指揮官で兵士達の人気もあったが、そういう司令官であったために、司令部の参謀や将校たちは彼の危険な冒険的行為に反感を抱いてもいた。
かくしてド・グラースは反撃を開始した。かれの計画は明快、正面から威圧的に攻撃し、敵をとにかく逃走させる事だった。彼はこの内戦で初めて空軍と陸軍の共同作戦を実施した。攻撃の最初に爆撃機に敵陣地を爆撃させるだけの共同作戦だったが、議会軍ではこれ以降空軍との連携が発展していく事になる。
反撃初日、F.222、AM143機による爆撃が、ラフォンテーヌの主力が展開するビアンカ郊外に対して実施された。このくたびれた旧式の爆撃機による航空爆撃は決して正確ではなかったが、王党派将兵には重大な心理的影響を与えた。爆撃のすぐ後にラフォンテーヌ軍の各陣地には猛烈な砲撃が襲い掛かり、続いて第61師団の戦車と、歩兵(民兵含む)が大声を上げながら大挙して押し寄せた。この攻撃で、第11師団は敗走の危機にさられたが、ラフォンテーヌは予備の第13師団を投入し、攻撃を撃退した。
レクィレに向けて進撃していた王党軍第12師団は議会軍の増援軍と接触すると、戦闘を中止して後退した。議会軍の第63師団が追撃してパンデナイルを奪回、その後騎兵部隊が第12師団の後衛に追いついて攻撃し、大きな戦果を挙げたが、戦車隊の反撃を受けて大きな損害を受け、追撃は断念された。第12師団はかろうじて攻撃開始地点へと撤退できた。
戦闘は終了した。両軍の損害は大きく、ラフォンテーヌは攻撃は失敗に終わったと認めざるを得なかった。増援を受ける事が出来れば勝利できただろうと彼は考えたが、王党軍には増援となる戦力が無かった。そのうえ、彼らの後方支援体制はほとんど「未整備」だった。そして、後方支援体制の構築と敵の増援の方が先に到着すると考えられたので、このまま援護を受けられないビアンカ近郊に展開するのは危険極まりないと判断して王女クラーラに撤退を要請した。クラーラはラフォンテーヌを役立たずのばか者呼ばわりして非難したが、参謀のコラップ将軍は攻撃を許可した責任はクラーラにあると指摘し、又撤退を進言した。クラーラはラフォンテーヌに謝罪して撤退を許可した。
ラフォンテーヌの3個師団は撤退を開始した。整然たる撤退が開始された。クラーラの厳命で装備を遺棄する事が禁じられ、それを監視するために彼女の竜騎兵連隊が派遣されたために、彼らとくたびれた馬達は重い荷物を背負ってとぼとぼと後退していった。ビアンカ市からはド・グラース将軍の直接指揮で追撃が実施されたが、戦力の不足と側面、広報支援体制と補給に対する強い不安から、彼らとの間隔を取って、南に展開する議会軍のル・アルディ軍と戦線を構築しながらゆっくりと追撃した。彼らはのちに第一次ヴェラリア会戦と呼ばれる戦闘の中核をなす事になる。
―バルディアの戦い―
ビアンカ会戦と同じころ、バルディアの戦いと呼ばれる激しい戦闘がバルディアで起こった。バルディアはソフィア王国南東部にあり、クラーラの司令部があるソフィア北東部のヴェラリアのほぼ南にある。そしてヴェラリア、王都ソフィア、
軍事産業都市アルピナ、そしてレオネッサ王国ヴァーレンディアを結ぶ交通と経済の要衝であり、この拠点を王党派が制圧する事はヴェラリアとアルピナを連絡させる事になり、議会派が制圧する事は、ヴェラリアとアルピナを分断し、そして王党派を援助する恐れがあるレオネッサに対する要害となる事が期待された。少なくとも両陣営にとって重要な戦略拠点であった。
内戦勃発当初、「移動中」の王国第3軍が王党派としてここバルディアを制圧する手はずであったが、ユステール将軍は土壇場でクーデターへの参加を拒否した。王党派として議会に反旗を翻したのは、貴族出身のラテコエール将軍の1個師団で、彼はユステールの指揮下にある2個師団との戦闘を余儀なくされた。ユステールも、ラテコエールも互いに王党軍の軍事計画を把握していたので、それぞれバルディアを目指し、ラテコエールが先にバルディアに到達した。だがすぐにラテコエールの1個師団はバルディアで包囲された。戦力的にも、兵士達の士気も、将軍の能力も王党派が劣っていた。王党軍を指揮するクラーラは、ラテコエールの状況を知ると速やかにモノリの3個師団を差し向けた。だがラテコエールの師団ではラテコエール将軍が議会を支持する兵士に射殺され、議会軍に降伏したために、ラテコエールの師団と接触する事が出来なかった。そのうえ彼の師団はそのまま議会軍に編入された。状況はバルディアを占領する議会軍と攻略を目指す王党軍の争いになった。
ところで議会軍総司令部では、カウスト元帥内戦全体の状況を把握しつつあった。彼は議会の「鎮圧」命令をうけてすぐさま行動を開始した。元帥は戦争が長引く事をすぐに理解したので、すぐに後方支援体制の構築と再編制に取り掛かった。そして彼はビアンカの戦況報告を受けてバルディアの占領を決意し、アルピナ市とヴェラリア市の包囲を決めた。カウスト元帥はラ・メルポメール将軍の議会派第5軍をバルディア市の援軍として派遣した。
バルディア市では、モノリ将軍の3個師団が攻撃を繰り返し、一進一退の攻防を繰り広げていたが、ラ・メルポメールの3個師団がバルディアに接近している事を知ると、モノリ将軍は速やかなる撤退をクラーラに要求した。ビアンカ市での戦いが失敗したすぐ後だったので、彼女は逆上して断固バルディアの攻略を命じようとしたが、参謀のコラップ将軍に叱責されて酷く打ちひしがれ、ヴェラリアへの撤退を許可した。モノリの3個師団は速やかなる撤退を必要としたので、幾つかの装備は破壊されたりして遺棄されたが、戦車だけは必ず確保して戻るようにクラーラに厳命されたため、稼動戦車だけでなく、損壊した戦車も優先的に撤退した。歩兵部隊が輸送用の馬車とともにとぼとぼと撤退したが、幾つかの部隊は追撃してきたユステールの師団の一つである、ドバケ将軍の師団の部隊に捕捉され大損害をうけた。ドバケ将軍の部隊は、モノリ軍がジウアル将軍の3個師団の援護を受ける事が出来る地域まで続き、ユステールの2個師団が前線まで到着すると、東のソフィア=レオネッサ国境に転進して、同国の軍事介入を牽制する役割をになった。バルディアの防衛はラ・メルポメールが担当し、彼の1師団は東進して国境の警備とレオネッサ王国軍の牽制に当たった。いまやアルピナ市とヴェラリア市は完全に包囲された。1月の末の事であった。
―第1次ヴェラリア会戦―
王党軍のクラーラは、自分達が致命的状況に置かれているのに気がついていた。だが彼女はそんな事では屈しなかった。むしろ積極的に防御体制の構築に勤めた。レオネッサのヴァーレンディアに総司令部を置いたクロヴィスはクラーラの脱出を希望したが、彼女は決して国外脱出するつもりは無かったので、彼の望みはかなえられなかった。だがクロヴィスはすぐに気持ちを切り替えて娘を全面支援するための努力をはじめ、ともにレオネッサに逃れた将軍達とともに後方支援体制や王党軍の制度上の再編制に勤めた。アルピナに展開するドラン将軍の部隊を王党派第4軍として王党派総司令部の直接指揮下に置き、ヴェラリアに展開する9個師団を王党派第1~第3軍として編制し、それをクラーラが指揮官を務める王党派軍集団とした。クロヴィスは優秀な事務能力をもつウォルムス元帥をたくみに使いこなし、そしてクラーラを指揮下に置く事に成功した。そして、レオネッサの軍事介入を3月には実施させる約束を取り付けた。状況は徐々に王党派に好転しつつあったかにみえた。
一方最前線の状況は悪化の一途を辿っていた。包囲された都市で王党派の将兵は士気が見る見る低下し、自暴自棄になって軍紀の低下を招いた。ビアンカも、ヴェラリアも備蓄食料が不足しており、軍隊が食料の多くを徴収したため、人民は食糧の高騰と飢えに悩まされた。警察はクーデター初動の作戦でほとんど解散状態であり、王党派に協力的な警察官は職務に復帰できたが、間に合わず欠員がでた。そしてその欠員を埋めたのが王党軍からの派遣将兵だったが、彼らはいわば部隊を追い出された鼻つまみ者で、警察の質はかえって低下した。そのような傾向は役所でも見られた。これらはその後、王党派の腐敗の深刻化につながる事になる。
クラーラはジウアル将軍にヴェラリアの陣地化を急がせ、又部隊の再編成を推し進めていた。又ヴェラリアで兵隊を男女問わず徴募し、部隊の再編を推し進めたが、それらの軍への配置は軍紀の低下や質の低下を招いた。
議会軍は王党軍の追い詰められた状況を受けて、最終決戦のときが到来したと考えた。カウスト元帥は、議会派第1軍と第2軍を使ってヴェラリアへの攻撃を企画した。ヴェラリアの征服は即ちビアンカ市の完全な孤立と王党軍の敗北を意味し、強力な要塞であるビアンカ市を無理に攻撃するリスクを抑えられると考えたのであった。
議会軍は第1軍と第2軍がヴェラリア西から攻撃を実施し、ヴェラリア南の第1軍は王党軍を拘束するものとし、2月2日、作戦は開始された。作戦秘匿名称は「寡婦の悦び」。ランシア共和国で人気のアダルトノベルスの題名が選ばれた。この軍事攻勢に対し、ラフォンテーヌの王党派第1軍はこらえきれずヴェラリア市内に後退を開始し、議会派第2軍は民兵を前面に押し出して激しく追撃した。だがヴェラリア市郊外に突入した段階で民兵は略奪を開始し、挙句の果てには王党ゲリラや王女の直属下にある竜騎兵の逆襲を受けて無残に敗退した。第2軍のド・グラース将軍は民兵のあまりのふがいなさに怒り狂い、略奪の罪で民兵部隊総指揮官3人と10人の隊長を銃殺した。
議会派第1軍と第2軍の主力は王党派第2軍を攻撃していたが、王党派第2軍はこれまでの戦闘では消耗しておらず、士気が比較的高かった。ジウアル将軍と3個師団の指揮官達は塹壕に頼った比較的優良な指揮を発揮した。消耗していた議会派第2軍は1個師団に撃退され、議会派第1軍も2個師団に食い止められ、戦線に復帰した王党派第1軍に側面を脅かされて攻撃の中断を決意した。議会派第1軍、第2軍の攻撃が失敗すると、ユステールの議会派第3軍は王党派第3軍を圧迫する事を中止した。6日間の戦いであった。両軍は大きな損害をこうむった。
これらの状況を受けて、カウスト元帥はヴェラリアの攻撃を中断した。かれは、包囲と飢えによって王党派を破滅させることを考えた。議会の最高司令官である首相にその方針が伝えられ、そして承認された。
こうして2月いっぱい、両軍はほとんと休戦状態となった。両軍は再編制と戦力の拡充に努めた。王党派は依然絶望的状態だったが、レオネッサ王国軍の軍事介入の日が近づいていた。王党軍の将兵は大国の軍事支援を喜んでいたが、ファシストに強い不信感をもつクラーラはレオネッサ王国の軍事介入を不信の目で見ていた。だが、状況は彼らの力を借りずに改善できるものではなかった。
―国境会戦―
ソフィア王国の東に、列強のひとつと数えられるレオネッサ王国が存在した。嘗て大陸西方を二分したレオネッサ帝国の末裔である。現在この国はファシスト政権により支配されており、植民地大陸などで積極的な植民地拡大政策を採り続けていた。
レオネッサ王国の国王は当初隣国ソフィアのクロヴィス前王から軍事支援を要請されたとき、本心では断りたいと思っていた。国民思いの彼は本心では国民を戦果に晒したくないと考えていた。だが、レオネッサ帝国復活の野望を抱く統領は違った。彼は戦争を帝国復活のための試練と考えていた。そして彼がソフィアに対する軍事介入の話を相談されたとき、瀕死の病人であるソフィア王国に対する絶大な影響力を獲得し、最終的には征服する野望を抱いたのである。彼は彼の優れた指導力と調整能力を発揮して、レオネッサの国王に介入を承認させた。こうしてレオネッサ王国軍の軍事介入が計画された。だが、計画開始早々問題に直面した。レオネッサ王国軍は繰り返しの植民地獲得戦争で大きく疲弊していたのである。経済的にも疲弊していた。周辺国との国境を護る部隊や、精鋭の山岳兵にさえ、十分な武器も、それを準備する予算さえなかった。だが統領は軍事介入への意思を変えなかった。
レオネッサ王国軍の軍事介入は、レオネッサとソフィア王国の国境を管区とする王国第1軍、中立国との国境を管区とする第4軍が軍事介入に投入される事になった。18個師団、市段数で言えば圧倒的であったが、レオネッサの将軍達に言わせれば、非常に危険な賭けであった。酷い師団は充足率が40パーセントに達していなかったのだ。この貧弱な2個軍を補強するため、「ソフィア王国遠征集団(CSIS)」が組織された。メッセ将軍の指揮下に置かれた1個機甲旅団(M13戦車200輌)を含む機械化された2個師団からなる軍団規模の部隊で、同盟国の帝国から齎された新戦術を携えたレオネッサ最強の軍団である。このほかに旧式なソフィア王国の空軍を圧倒するには十分なレオネッサ王国空軍が空を援護する。統領は戦力的に圧倒的勝利を確信していた。
レオネッサ王国軍と、王党派総司令部で第1段階の軍事作戦が計画された。王国第4軍は国境からそのまま東進して王党派との連携を確保し、王党軍とともに議会派第3軍を撃破し、王国第1軍はCSISとともに国境を越えてバルディアを目指すとした。王国第4軍の展開する山岳地帯は軍事物資と王党派援助物資の輸送双方を行うには不向きなため、バルディアを完全掌握してヴェラリアへの補給線を確保するものとした。CSISはその強力な戦車部隊でバルディアへ電撃進行し、続いて包囲された軍事産業都市アルピナ市を解放するとした。
3月初めに作戦計画は王党派軍集団と王党派第4軍に伝えられ、軍事介入が開始される日は3月10日とされた…。
3月10日運命の日、レオネッサ王国から出撃した飛行機の大編隊が国境を越え、国境の議会軍と、バルディアと、王都ソフィアに爆撃を開始した。夜明けとともにレオネッサ王国軍CSISの戦車部隊がヴァーレンディアとバルディアを結ぶ街道から大挙して押し寄せた。それにエリートのベルサリエリ部隊と、第1軍の将兵が大挙して続いた。街道沿いに展開していた議会軍はわずか2個師団だったが、彼らの士気は高く、死に物狂いで抵抗した。200輌のレオネッサ王国軍戦車と、30輌の議会軍戦車の間で戦車戦が繰り広げられた。
戦力不十分の王国第4軍はのたのたと進撃を開始したが、9個師団はドバケ将軍の議会派1個師団に食い止められた。彼らの一部は国境を越えて、王党軍との連絡を確保したが、それまでだった。王党派軍集団のクラーラはレオネッサ王国軍の状況把握に努め、観察し、王国第4軍が1個師団に苦戦しているのを見て取ると、王党軍を戦闘に投入する事を躊躇した。疲弊しきっていた王党軍を、冒険的な戦闘に駆り立てる自身を彼女は失っていた。もう一方で、王党軍の戦力を温存して、レオネッサ王国軍を戦わせたいという思わくもあった。ともかく王国第4軍は攻撃に失敗した。1個師団で9個師団を食い止めたドバケ将軍は、
「今回の攻撃阻止は奇跡」
として国境からの後退を準備した。
3月12日、国境南部のCSISと第1軍は敵軍2個師団の激烈きわまる抵抗を排除した。この戦いでCSISの戦車隊の少尉が戦車5輌を撃破・遺棄させる戦果を上げて、新聞を飾った。そしてCSISは街道を前進を開始し始めた。王国第1軍がその後に続いた。CSISと、逃げる敵師団とのバルディアへのレースが開始された。
最終更新:2012年07月15日 18:31