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*「脱出行」
●
匠はクズハを背負って行政区内を走っていた。
人の目につかないことを何よりも優先した、乗り心地を完全無視した全力疾走に、しかしクズハは一考に目を覚ます気配が無い。よっぽど深く眠らされているのだろう。
……この眠りはやはり人為的なものか。変な副作用の出る方法を使われてなければいいんだが……。
そう懸念していると、明日名から符を通して声が飛んできた。
『坂上君、聞こえるかい?』
先程匠から連絡した時とは違いノイズが混じらない声だ。明日名も留置施設から脱出することが出来たのだろう。しかし、
……声が少しおかしい。何かあったのか?
そう思いながら匠は明日名へと言葉を返す。
「はい聞こえます。そちらは大丈夫ですか?」
『大丈夫だ。居住区の方から脱出できるアテがある。そこで落ち会おう』
そう言って明日名が指定したのは行政区の南にある居住区の更に南の端、平賀の名義で借りられているマンションの高層階だった。
匠が庁舎へと侵入した時に用いたIDカードを使用して指定されたマンションの部屋に辿りついたのと時を同じくして、明日名が匠と合流した。
夜の闇に紛れて現れた明日名の様子がおかしい事に気付き、匠は明日名の身体を注意深く見た。そして彼の身体の多くの傷を見ると、
「その傷……っ」
匠はクズハをソファに寝かせ、部屋の中にあった救急セットを掴み取る。明日名は匠を手で制し、
「それは今はいい。追っ手がかかっていたらここはすぐにつきとめられる。まずは行政区から急いで出よう」
そう言ってベランダに出ると、明日名は符を展開した。
ベランダから下を見て、
「飛び下りるよ」
「……え?」
「検問や行政区を囲う壁をクズハを抱えたまま通過するのは目に付き過ぎるからね。ここから飛び下りるんだよ」
居住区内でも随一の高層建築は有事の際、行政区の外に向けた戦闘拠点とする為に行政区を囲う壁よりも高く出来ている。ここから外へ向かって飛び越えようと思えばできるだろうが、地面は遥か下方にある。
「これは……流石に厳しいんじゃ……」
「大丈夫だよ。そのために防御用の符を手元に残しているんだ」
そう言って明日名は符の束を取り出して宙に浮かべた。
≪魔素≫を解放する符を自分達を包み込むように展開させて、明日名は告げる。
「さあ、飛ぼうか」
●
≪魔素≫で落下速度を制御しつつ、行政区を囲う壁の外へと無事に飛び下りることに成功した匠たちは、行政区の壁が遠くに確認できる木陰に隠れるように待機していた。明日名が膝を突き、そこからの逃亡を行うのが難しくなったためだ。
匠は背負っていたクズハを木の幹にもたれかけさせて明日名を診る。
「明日名さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……いけないね。朝川にいいものをもらってしまった」
明日名は荒く息を吐き出しながら苦笑する。明日名の全身には外傷は多いものの、致命傷という程の傷はなさそうだった。それでも骨か内臓をやられたのか、明日名の呼吸は一向に整わない。速やかに本格的な治療が必要なように思われた。しかし、今この場で足を止めるのは追っ手がかかる可能性を考えれば危険である事を示す。
……さて、どうするか……。
クズハと明日名、二人を抱えて平賀の研究区まで走るのは流石に辛いだろう。追っ手がかかっている可能性があることを考えれば、できるだけ戦えるように両手は空けておきたいという事情もある。
……明日名さんが動けるようになるまで下手に動かない方がいいか。
クズハの昏睡状態の確認も急いでもらいたいところだが、焦っても得るものはない。そう思いながら明日名の負傷の様子を検分していると、明日名が咳交じりに言う。
「さっきの……飛び下りの時、キッコに貸してもらった力を込めていた符を全て使い切ったから……多分、キッコの方でこちらが手持ちの符を全て使い切らなければならないような事態に巻き込まれたことには気付いてくれるはずだ。……坂上君、連絡用の符はまだ持っているね?」
「はい、でもこれは……」
匠は明日名に渡されていた符を取り出す。
内部に満たされていた≪魔素≫をほとんど消費した符は、これ以上何らかの術を発動出来る余力を残しているようには思えなかった。
「大丈夫だ、キッコは俺の式。符に込められた≪魔素≫はキッコのもので、彼女と縁が深いから、彼女への呼びかけならばたとえ≪魔素≫が残りわずかでもいけるはずだ」
そう言って明日名は匠が差し出した符に触れた。小さい声で何やら呟くと、≪魔素≫を拡散させる設備内で使われて失われかけていた符に≪魔素≫が再び満たされたように淡い光を発現させた。
『符を使いきったな? 明日名、お前今一体何をしておる』
符から聞こえてきたキッコの声に安心したように明日名は一息ついた。
「ああよかった……通じたみたいだね」
そう言って言葉を続ける。
「キッコ、俺と坂上君、クズハは今行政区の近くにいる。悪いけど、回収に来てくれないか? 俺がヘマをしてね、ちょっと動くことができないんだ」
『ん? 行政区の近くか?』
そう符から返って来た声はキッコのものではなく若い男のものだった。匠が問いかける。
「彰彦か?」
『匠だな? お前らまだ行政区にいたのか? もうとっくに平賀のじいさんのとこに行ったもんだと思ってたんだが』
「そうしてたんだが……少し問題が起きたんだ」
匠の苦いものを含んだ言葉に符の向こうが沈黙する。
ややあって、キッコの声がこう言った。
『相分かった。すぐに行こう。我等の今居る所からならば行政区は近い』
キッコの言葉に明日名は僅かに当惑した。
「近くにいるのかい? 和泉ではなく?」
『本当は平賀のじいさんの手伝いのために研究区を目指してたんだけどさ、検問が多くてよ』
彰彦の声は、苦笑の響きを持って続く。
『俺の腕もキッコさんも一応そう簡単には見破られない程度には上手く化けてるんだけどさ。どこにでもカンの鋭い奴ってのがいるもんでな。疑われてちょっと足止め食らってたんだよ。それからは検問の無い道を行政区から脱出する異形に聞いたりして多少遠回りしつつ進んでる感じでな。そっちの場所は行政区のどこなんだ?』
「南、居住区にある有事の際の拠点用高層マンションから飛び降りたから、だいたいその付近だ」
位置を報せると了解の言葉が返って来た。
『近くまで行けば後は匂いで分かる。我の足ならば一時間もかかるまい。待っておれ』
そう声を残して通話は途絶え、符は今度こそ≪魔素≫を完全に失って燃え尽きた。
塵になって風に流されていく符の残骸を見送って、明日名が大儀そうに息を吐いた。
「……とりあえず、なんとかなりそうだね」
「はい、和泉から来るのとは違って数日どこかに隠れて待つ事をしなくてよさそうでありがたいです」
これからの見通しが経ったことに安堵しつつ、匠は木に背を預けて呼吸を整えている明日名に訊ねた。
「大丈夫ですか? 相当辛そうですけど」
「キッコの力のおかげでなんとか、と言ったところかな……やっぱり付け焼き刃の力では本当に強い者には敵わないね……」
諦めたように嘆息する明日名の呼吸は、ようやく一定の安定を取り戻しつつある。匠は周囲に追っ手の気配が無いことを注意深く確認しながら明日名との会話を続けた。
「明日名さん、朝川というあの男が言っていた……肉親というのは?」
初耳だが、明日名の肉親が何者かによって今回のクズハのような目に遭っているのならば、明日名がここまで匠の無茶に付き合ってくれた理由も情報収集の為だと分かる。
そして、
……もし俺が手助け出来そうならば明日名さんへ助力もできる。
明日名は少し考える間を置いて口を開いた。
「そうだね、少し昔の話をした方がいいね。特に坂上君は知っても良い頃だ」
うん、と自分自身に頷いて明日名は続ける。
「坂上君、俺はね、今回戦った朝川とは、キッコ共々随分と前に因縁があったんだ」
「キッコもですか?」
キッコが行政区の人間と因縁があったと言うのは意外な繋がりだ。
そう思っていると、明日名は更に意外な言葉を突きつけてきた。
「全ては第二次掃討作戦にまで遡ることになる」
「……朝川も元は武装隊だったんですか?」
第二次掃討作戦でキッコとも関わりがあったということは、あの男とキッコは戦ったことがあるのかもしれない。そう思っての匠の質問に明日名は首を振って、
「彼は連絡係だったんだ……恐らくは登藤通光の」
「連絡係……?」
いぶかる匠に明日名は頷く。
「そう、第二次掃討作戦で行われていた実験の……クズハが――俺の妹が供された実験の」
「……え?」
「クズハは俺の妹、唯一の肉親なんだよ」
唖然としている匠に苦笑して、明日名がどう説明したものかと言葉を探していると、背後から声がかけられた。
「おや、話してしまうのかの?」
「キッコか?」
応、と返事が来て、人の気配が匠たちが隠れている木の付近に近付いてきた。匠たちの姿を認めた彰彦が声をかけて来る。
「明日名兄さん大丈夫か? ……クズハちゃんも、何があったんだ?」
木の根元に寝かされているクズハを見た彰彦の発言に、同じくクズハの姿を認めたキッコが口を開いた。
「何があったのやら……是非とも聞かせてもらいたいところだの」
●
キッコと彰彦の事情の説明を要求する旨の発言に応じて、匠はひとまず明日名の話の続きは置いて、この数日で起こったことを全て話した。
「ほう、クズハを連れて行き、なにやら実験に供そうとしておったのか」
感想と共にキッコがそっとクズハに触れる。
「それで、こんなに深く眠っておるのかの?」
「たぶんそうだ。それで何か怪しい薬か術でも使われていないかを早く平賀のじいさんの所で確認したい」
「それで俺たちを呼んだんだな?」
「ああ、明日名さんも怪我をしてしまっている。二人を急いで連れて行きたい」
「明日名はまったく、情けないのう」
「……いやあ、面目ない」
ひどく疲れが滲んだ声でそう言って、明日名は力の抜けた声で付け足す。
「面目ないついでに眠らせてもらうよ。……坂上君、さっきの話の続きは俺が目を覚ましたらしよう」
そう言って気絶するように眠りこんだ明日名を見下ろして、キッコはさて、と呟くと変化を解いた。周囲に発散された≪魔素≫の淡い光に照らされた大狐は、匠と彰彦に言う。
「いつまでもここにいても事態はよくはならん。平賀の所に行くとしようかの。我の身体にクズハと明日名を乗せよ、一気に駆けてやろう」
「キッコさん……一気に駆けてって見つからねえだろうな? ここに来る時、たぶん何人か俺たちの気配に気付いた奴がいるぜ?」
彰彦の言葉にキッコはおお、と思い出したように零した。
「……検問の無い、道では無い道や獣道を通ればそうそう見つかることもないだろうの。獣道を駆けるのならば大抵の異形も人も振りきれる自信はある。しかしこの周囲の地理に我は疎い、どちらか知っておらんかの?」
「ああそれなら俺が知ってる。こっちに来る時にクズハを連れ帰ることを考えて検問の無い道を通る算段をつけていた」
匠の返答に満足そうに頷き、キッコは足を曲げて姿勢を低くした。
「では急いで行こうかの。平賀めも、流石に今回の件には気を揉んでおるだろう」
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