表と裏。光と闇。陽だまりと暗がり。この世界は、様々な二面性で満ちている。
尤も、主に悪として弾劾されるのは後者の方だ。人が光から遠ざけられ、闇に潜むのには相応の理由が有る。著しい反社会性を持つ者、過去に犯した罪業から逃げ続ける者、社会と折り合いを付けられない何かしらの要因を持つ者……それ故に表舞台に立つ事が出来ず、ひっそりと社会の賑わいの陰で生きる現代の化外達。其処に老若男女は関係ない。年端も行かない童女でも、環境次第では闇の住人として成立し得る。
親の影響。周囲の影響。本人の意思……或いはそれとは無関係な理不尽極まりない理由で、間はほんの一瞬にして魔道に堕ちてしまう。これまでの人生や性格、そういった諸々の要素全てを無視して。深い深い奈落の大穴は、憐れな子供を地の底まで引き摺り込むのだ。
彼女も、つい最近までは何処にでも居るような普通の少女だった。
性格は温厚で一度懐いた相手にはべったりな、少し夢見がちなだけの女の子。
――
アンヌ・ポートマンと言う少女が"裏側"に堕ちるまでは、あっという間の事であった。
友達を追い掛けて暗闇の世界に近付いたのが運の尽き。決して人間が出会ってはならないモノと出会い、人外の洗礼を受け、社会から弾かれた化外と成り果てた。
縛血者(ブラインド)。出来損ないの超越者。永遠を生きる、血に縛られたまやかしのノスフェラトゥ。
現に今、アンヌの身体は死人めいた冷たさを湛えていた。耳を澄ましてみれば、呼吸の音も聞こえてこない。その心臓は微細な鼓動すら打っておらず、まるで死人が服を着て歩いているかのような有様だけが其処にある。彼女は最早、人間ではない。未だ完全にそう成った訳ではないにしろ、今の彼女が人の領分を逸脱した生命体で有る事には違いなかった。
それでも彼女は、環境には恵まれていた筈だった。面倒を見てくれる先人に恵まれた事で、出過ぎた真似さえしなければ一定の安全は保障されている筈だった。にも関わらずアンヌは今、安全と言う二文字から限りなく遠い……あのフォギィボトムをも数段上回る危険地帯の只中に、一人きりで放り出されている。アンヌが密かに慕う探偵も、その相棒も此処には居ない。どうしてこんな事になってしまったのだと、少女は膝を抱えながら、右手に握り締めた小さな冷たい『鉄片』に意識を向ける。この『鉄片』がどういう意味を持つのかも知らない程、彼女は無知ではなかった。
これこそが自分をこの世界に招き入れた原因であると、アンヌ・ポートマンは理解している。きっかけはひょんな事だ。ふと視界に見慣れない物体が有ったから、興味本位で手に取ってみた、それだけ。たったそれだけの事で、アンヌは最後の心の拠り所さえも失う羽目になってしまった。
その結果が、この状況だ。見慣れない街並み、聞き慣れない言語。なのに頭の中にはそれらに対する正しい知識が有り、異国の地だと言うのに言葉にすら全く不自由しない。この世界を統括する大いなる叡智によって無理矢理得させられた常識と知識、それがこの街に彼女を適合させていた。
此処は極東・日本の地方都市――冬木市。言わずもがな、フォギィボトムとの物理的距離はかなりの物が有る。
この街には、縛血者等と言う荒唐無稽な存在は跋扈していない。だがその代わりに、現在この辺鄙な都市は危険と言う言葉が生温く思えてしまう程の恐るべき火薬庫と化している。銃弾でも砲弾でもなく、そしてそのどちらよりも恐ろしい暴虐の神秘が蠢く剣ヶ峰。それが、表向き平和に見える冬木の街の真実だ。
「ケイティ……」
嘗て自ら望んで人間の身体を捨て、縛血者となった親友の愛称を呟くが、当然声は返ってこない。
目先のスリルと刹那の快楽を何より愛する彼女ならば、この状況を喜んで受け入れてみせるかもしれない。そんな彼女がこうして震えているアンヌの姿を見たなら、きっとケラケラと嘲笑を叩き付けてくるのだろう。それでも、構わなかった。今はとにかく、見知った誰かの声が聞きたかった。人間でも縛血者でも、何でもいい。"ちゃんと自我を持って生きている"誰かと、言葉を交わしたかった。
「シェリルさん……」
『鉄片』を手にして、冬木市に迷い込んで。それから今日までの間、アンヌは自分の身に起こった全ての出来事を忘却して、この街の住民として日常生活を送っていた。海外からの転入生として市内の学園に通う、国籍が違う以外は別に目立った所のない人物。そんな彼女が全てを思い出したのは、ふとした瞬間の事だった。
彼女は、気付いたのだ。自分の心臓が、鼓動していない事に。戦慄と共に口元に手を当てると、自分の顔は氷か何かのように冷たかった。現状に理解が追い付かず呆然とする中、自分の耳に、呼吸の音は聞こえてこない。其処まで認識した所でアンヌは自分がこの世界の人間ではない事、そもそも今は人間と言う枠の生物ですら無い事を漸く思い出した。
その時の恐怖は、筆舌に尽くし難い物があった。昨日まで当たり前のように笑い合っていたクラスメイトや教師は勿論、愛すべき家族まで、誰も彼もが"生きていない"。縛血者のように、形を変えた生命と言う訳でもない。彼らは皆、精巧にプログラムされた仮想なのだ。ゲームの登場キャラクターと何ら変わらない、まやかしなのだ。
アンヌは家を飛び出して、走った。あてもなく、何も考えずに、足だけを動かした。
縛血者の身体は、人間だった頃とは比べ物にならない程の高い身体能力を持つ。
まともに鍛えた試しのないアンヌでも、長い距離を一度も止まらずに走り切れる程に。
「…………」
走って、走って、走って、走って走って走って走って――気付けば、人気のない暗がりで膝を抱えていた。
頭の中には今も、つい先刻思い出したばかりの単語が踊っている。聖杯戦争。儀式。サーヴァント。マスター。令呪。ルーラー。月。黄金の塔。その頂点に君臨する、万能の願望器。願いを叶えてくれるとだけ聞けば素敵で夢の有る話だが、内情は度を逸した血腥さに溢れていた。サーヴァントと呼ばれる存在同士を潰し合わせ、勝ち残れなければ最終的にはこの世から消滅する。勝者となる以外に、生き残る道はないと来た。
アンヌは基本、臆病な少女だ。人並みの良識も備えている。生きる為なら仕方がないと早々に割り切って、他主従を殺戮出来るような神経は持ち合わせていない。かと言って殺すくらいなら黙って消滅を受け入れるとか、そんな大口を叩く度胸もない。謂わばアンヌは、生きて帰れさえすればそれで構わないのだ。願いなんて叶えられなくてもいい、只あのフォギィボトムに帰れればそれでいい。然し聖杯戦争と言う儀式は、途中下車を許してはくれない。
どうすればいいのだろうか、自分は。そんな思いに涙を浮かべながら、アンヌは最後の名前を呟いた。
「……トシロー、さん……」
トシロー・カシマ――アンヌにとって最も身近な縛血者であり、何かと自分を援助してくれる頼れる彼。その面影を思い出すと、胸が熱くなる。その名前を口にしただけで、言いようのない浮遊感に囚われる。アンヌが今最も会いたい人物は親友のケイトリンでもなく、自分を可愛がってくれるシェリルでもなく、縛血者社会の刑吏たる彼に他ならなかった。
無論、それは叶わぬ願いだ。如何にかの絶戒闇手が強くとも、この場に都合よく駆け付けてくれる筈がない。何故ならこの冬木市は現実からかけ離れた、一と零の満たす電脳の街。アンヌが失踪したとあっては彼やその周囲の人物も調査に乗り出しては居るだろうが、彼らがアンヌを追って此処まで辿り着くと言うのは余りに現実味のない希望的観測だ。
アンヌ自身そう解っているからこそ、余計に彼の存在を渇望してしまう。どうか、どうかと。頭の中に焼き付いて離れないあの黒影が、いつものように自分の前に現れてくれる事を祈ってしまう。その浅ましさに自己嫌悪の念すら抱きながら、アンヌはゆっくりと顔を上げた。
「……帰らなきゃ」
家を飛び出して、他に行く宛が有る訳でもない。
こうやって外を無防備に彷徨いていては、それこそ他のマスター達の思う壺だ。
気は進まないが、今は一旦帰らなくては。あてもなく走っては来たが、道は朧気ながら覚えている。後はそれを辿って進んでいけば、自宅まではそう掛からない筈だ。……尤も、アンヌの脳内に有る最大の懸念は、帰った後――偽物と解ってしまった母や弟へ、果たして今まで通りに接する事が出来るのかどうか、だったのだが。
やけに重く感じる身体を持ち上げて、二本の足で歩き出す。前へ。少女の膝に風穴が空いたのは、どんよりとした不安を抱えながら家路に就こうとしたその矢先の事だった。
「あうッ……!?」
足が、熱い。向こう側が覗ける程綺麗な孔を穿たれたのだから当然だが、傷口に残留する熱は凄まじい物が有った。
耐え切れず、バランスを崩して前のめりに転倒したアンヌの脇腹に、またしても先程のと全く同じ孔が空く。
激痛を訴える傷口を押さえながら、痛みに顔を歪めて周囲を見渡せば――下手人らしき、銃を構えた男の姿が視認出来た。その少し後ろでのた打つアンヌを無感動に見つめている、女の姿も。"マスター""サーヴァント"の二単語が、立て続けにアンヌの脳裏を過る。軽弾みな行動のツケは、こんなにも早くやって来た。
「マスターか」
「ああ。サーヴァントは未だ召喚出来ていないようだが、見た所記憶は既に取り戻しているらしい。
このまま放置しておけば遠くない未来、サーヴァントを召喚して我らの敵となるだろう」
「面倒だな。始末しろ、アーチャー」
サーヴァント――アーチャーの銃口が、再びアンヌに向けられる。底冷えするような、冷たい動作だった。世界がスローモーションに見え始めたのは、自分が今殺されかけていると言う事の証か。縛血者の肉体は常人とはかけ離れた域の生命力を持つが、それでも不死ではない。血液を失い過ぎれば活動を停止するし、有る条件を満たした負傷を受ければ瞬間的に傷を癒やす事が出来ず、最悪呆気なく殺される。
その例としては主に、火炎に灼かれた傷、自身の忌呪による傷、そして縛血者の爪牙に依る物が挙げられるが、此処に一つ新たな例が追加される事をアンヌは身を以て知らされた。それは、サーヴァントの宝具による傷だ。神秘を帯びた武装で与えられた負傷は、少なくとも瞬間的には治癒出来ない。現にアーチャーの銃で撃ち抜かれたアンヌの足と腹は、未だに治癒しないまま血を垂れ流している。
このままでは、殺される。アンヌは瞬時にそう悟り、痛む身体を強引に起き上がらせてその場を飛び退いた。アーチャーの銃弾が的を外れ、その顔に僅かな驚きが浮かぶのが見て取れた。彼女に、サーヴァントと切った張ったが出来るスペックは無い。だが、無抵抗に殺されるだけかと言えばそれは違う。
「夜魔の森を駆け抜ける霊獣よ。我が血に宿りて、猛り狂える爪牙となれ――」
紡がれた詠唱をコマンドワードに、アンヌの身体が瞬く間に変貌していく。
少女の小さな爪は狼の蹄のように大型化し、肌は熊のそれを思わせる獣毛に覆われた。
――縛血者は洗礼を受けて新生する際に、その忌呪一つに付き一つ、超常の異能を発現する。
それこそ、夜の使徒の最大の武器。狩りと闘争を円滑化する優れたる力の名を、賜力(ギフト)と呼ぶ。
「幻獣顕身(フィーヴァー・ドリーム)!!」
そしてこれが、アンヌ・ポートマンがその血に宿す賜力。
獣化能力――非力な彼女を恐るべき魔徒に変貌させる肉体強化。
強化された脚力を以って、アンヌは弾丸めいた勢いでその場からの離脱を図る。それを追うようにして飛来する弾丸が肌を数箇所程掠めたが、賜力を解放したアンヌにその程度の攻撃は意味を成さない。なるだけ縦横無尽に移動しながら、それでいて可能な限り距離を離して逃げ切る。それが、彼女の狙いだった。
「驚いたな。魔術師……いや、死徒の類か? 見た所理屈は多少異なるようだが、近い物は有りそうだ」
然し、その程度の芸当で撒ける程サーヴァントと言う存在は甘くない。僅かに賞賛の色が混ざった声は、アンヌの真横から聞こえた。驚きに目を見開きかけた矢先に、彼女の顔面を銃身が勢いよく殴り付け、その矮躯を竹蜻蛉のように吹き飛ばす。それと同時に殺到する銃撃が、一瞬で少女の四肢を撃ち抜いた。
(そ――そん、な……!)
泥に塗れながら倒れ伏すアンヌは既に虫の息だが、対するアーチャーの方は息一つ上がっていない。強化系の賜力である幻獣顕身を使用して尚、歯牙にも掛けずに追い付かれた。そして一瞬、反応すら追い付かない程の速度で打ちのめされ、無力化された。自分の強さに自信が有った訳では決してないが、それでもこの結果はアンヌに並々ならぬ絶望を突き付けた。これまで知識としてしか知らなかったサーヴァントの凄まじさ。それは、あらゆる希望を奪い去る域に達していた。
足音が聞こえてくる。アーチャーのそれだ。動かなくてはと負傷した足に力を込めた所で、今度は脛の部分に孔を穿たれた。血がどんどん失われていくのが解る。自分の命運が尽きていくのを感じる。底知れない恐怖が痛む身体の奥底から湧き上がってきて、それが余計に身体を動かそうと言う命令を脳に下させる。
「悪いな。サーヴァントが居れば君も少しは違ったんだろうが、生憎こっちもお人好しではないんでね」
身を捩らせてどうにか体勢を立て直そうとするアンヌの顔面を、再び銃身が殴打した。と言うより、刺突された形に近い。鼻の潰れる異音と共に上顎がひび割れ、前歯が一気にへし折れる。常人ならばこの時点で意識を失って然るべき傷だが、縛血者である彼女はそうはならない。かと言って一発逆転を狙おうにも、余りにも彼我のスペック差が絶望的過ぎる。アンヌ・ポートマンは、誰がどう見ても詰んでいた。
銃口が、その額に向けられる。人型生物の身体をあれだけ綺麗に穿てる武器なのだ、頭蓋骨くらいは何の障害にもなるまい。このまま失血が限界に達するまで撃ち抜かれて終わりだ。相手が加虐に喜びを感じるような変態ならばまだしも、堅実に敵を討つ狩人(イェーガー)めいたこの弓兵に手心の類は一切期待出来まい。
血と失血で霞む視界に涙が浮かんでくる。最早、どうにもならない。どんなに手を凝らした所で眼前の処刑人にはきっと傷一つ付けられないし、それ以前に次の一射を防ぐ手段すら自分は碌に持っていない。ありとあらゆる要素が、アンヌの未来を否定する。此処までだと、残酷に告げてくる。
(いや……死に、たく、ない――)
死にたくない。まだ、消えたくない。
帰りたい。まだ、やり残した事が無数に有るのに。
走馬灯のように脳裏を過る誰かの顔、縛血者となってからの記憶。
アンヌを囲む血腥い、けれど失いたくないと何処かで思う日常の思い出が、彼女に生きる事を諦めさせない。
(そうよ、まだ、死ねない、んだから……っ)
撃たれても構わない。
まだ命は保てているのだから、血はもう少しなら流せる。
詰んでいる、打開策はない、そんな事で諦めが付く程、アンヌは物分かりの良い少女ではなかった。死にたくない、生きたい、まだ死ねない。その想いだけで身体を動かせば、アーチャーの足が動かそうとした部位を踏み付けて拘束してくる。一つ一つ丁寧に潰されていく可能性。痛みは既に耐え難い域に達していて、頭の中は色々な感情でパンクしそうだ。
激痛と失血の中で、アンヌは心から願う。ああ神様、どうか今一度だけ、自分に生きるチャンスを下さいと。
少女は忘れてはいなかった、『鉄片』の存在を。記憶を取り戻してから数十分、未だに自分の手元で形を保っている全ての元凶を。皮肉な事に、アンヌ・ポートマンを冬木の悪夢に引き摺り込んだこの『鉄片』こそが、あらゆる可能性を摘み取られた彼女に残された
最後の希望であった。
(……お願い)
この状況を切り抜けるには、最早一つしかない。
それは、アンヌの意思ではどうにも出来ない事柄。
この街に居るからには遠からぬ内に手に入るのだろうが、少なくとも今のアンヌは持っていない存在。
(助けて――助けてください、わたしの――)
即ち――サーヴァントの召喚。この土壇場でそれを行う以外に、縛血者の少女が生き延びる可能性は皆無だ。
右手に握り込んだままの『鉄片』を砕けんばかりに強く握り締め、また新たに身体が破壊された感触に震えながら、遂には瞼さえ閉じて願う。その様を彼女の返り血に塗れながら見つめていたアーチャーは、フッと失笑に近い笑い声を零した。
「無様だな」
そうして屈み込み、ぐり、とアンヌの眉間に銃口を押し当てて。
「これなら外しはしない。君が死ぬまで、銃弾を撃ち込み続ける。それで終わりだ、全てな」
死刑宣告の声が、冷たく響き渡り――
「子女を嬲ってご機嫌な所悪いが、終わるのはあんたの方だぜ狩人(イェーガー)殿」
引き金に掛けられた指がそれを引く前に、アーチャーの身体が真横から飛び込んだ鉄塊めいた巨体に跳ね飛ばされた。
「がッ――!?」
アンヌがどれ程猛攻しても聞く事の叶わなかった、苦悶の声。大型トラックに撥ねられた人間のように呆気なく吹き飛んだ彼の身体は、然し只衝突されただけでは有り得ない程の負傷で染められていた。端的に言えば、身体が崩壊している。現界は確かに維持されているにも関わらず、身体の所々がその形を失ってしまっている。
一見殺意と激情に満ちているアーチャーの瞳には、確かな動揺の色が見て取れた。冷静で優れたガンマンである彼をしても予測不能の事態が起きているらしい。つい数秒前まで完全に勝利を確信していただろう狩人の無様な姿に、アンヌを救った鉄の巨体はケタケタと嘲りの笑い声をあげてみせた。
「あ……」
「聞こえたぜ、マスター。オレを呼ぶ声が――生きたいと願う声が。
だがまぁ、細かい話は後だ。その有様じゃあ身体を動かすだけでも苦痛だろう、此処はオレに任せて休んでおけ」
「あな、たは?」
それは、人間の形をしていなかった。
鋼鉄の身体、禍々しくも雄々しい赫色。その爪は賜力を使ったアンヌのそれですらとても敵わない程強固であり、これに掛かれば自動車でさえ紙切れのように切り裂かれてしまうだろうとアンヌは思った。そして彼の顔は、鋼鉄で出来た面で覆われている。人間らしさと言う物が何処にも存在しない彼の外見から、アンヌが連想したのはとある伝説上の存在だった。
冬木に来て与えられた留学生のロール。それに付随していた日本に纏わる知識の一つ。
様々な昔話の中に登場し、悪逆の限りを尽くす存在――鬼。この怪物は、それに酷似していた。
只一つ物語の中の鬼と違うのは、彼は今、自分を助けてくれたと言う事。自分の生きたいと願う声に呼応してやって来てくれた、正しい存在であると言う事。
「バーサーカー。あんたの声を聞き、あんたを助ける為に現界した――あんただけのサーヴァントだ」
その言葉を聞いた途端、気が抜けたようにアンヌは脱力した。
ああ、自分の願いは通じたんだと、心からの安堵が込み上げてくる。
既に失血は危険域に突入している。安堵は意識の糸が切れるのを招き、アンヌはあっさりと意識を手放した。
そして、少女が消えれば残されるのはアーチャーと、今現界したバーサーカーの両者のみ。
一撃にして重篤な傷を負わされたアーチャーは、マスターの指示を仰ぐべくそちらの方角を見る。
「マスター! 悪いが傷が酷い、指示を――……え?」
「マスター? 其奴は"これ"の事かい、狩人殿」
然し視線の先に、彼のマスターたる魔術師は居なかった。狐につままれたように周囲を見回すアーチャーに、バーサーカーはその手に"握り締めていた"赤い水の滴る物体を投げ渡す。地面にべちゃりと音を立てて落ちたそれは殆ど真っ赤だったが、所々に白やら灰やらの色が滲んでおり、よく見れば黒い糸のような物も混じっていた。
バーサーカーが嗤っている。ケタケタと、悪戯を仕掛けた子供のように嗤っている。その笑い声から、アーチャーは全てを理解した。これが何なのか。この、ありとあらゆる方向から力を加えて破壊し尽くされたような肉の塊は、元々何で有ったのか。その全てを理解してしまったから――
「――バーサーカァァァァァァッ!!!!」
アーチャーの感情が爆裂した。宝具を展開し、銃口を無数に増やし、憎き眼前の鬼を滅ぼすべく咆哮する。
聖杯戦争を今後どうするかなど、後で考えればいい。今は兎に角此奴だ、この悍ましき狂戦士を殺す!
荒れ狂う大海原を思わせる激情を真正面から浴びせ掛けられながらも、バーサーカーに動揺した様子はまるでない。
只呆れたように、軽蔑したように、或いは失望したように――彼は一言、口にするのみであった。
「あんたに黄金の杯は似合わんよ、サーヴァント・アーチャー。
もしもあんたが最果ての奇跡に見合うだけの漢だったなら、オレがあんたと道を共にする事も有ったかもしれんが――」
銃弾が、バーサーカーに何十発という勢いで着弾する。
されどたったの一発とて、彼の身体に傷を付ける事は叶わない。
全ての銃弾が、ある一定の間合いまで進んだ所で塵のように崩壊して消滅した。
驚愕するアーチャーに、その巨体からは想像も出来ない、亜音速に達する速度でバーサーカーが迫り――
「全ては夢だ。大和(カミ)の御許に還るがいい」
◇ ◇
「――よう。目が覚めたかい、マスター」
アンヌが目を覚ました時、其処にはアーチャーの姿も、そのマスターの姿もなかった。
月の見えない夜空の下で、鬼面のバーサーカーが佇んでいる。……自分がこうして無事で、敵の姿が消えていると言う事は、どうやら彼がアンヌの代わりに勝利を掴み取ってくれたらしい。息を吸い込めば、周囲の大気は血の匂いを含んでいた。流石にあれだけ血を流せば、こんな有様にもなるだろう。
「アーチャー達は葬ったぜ。あんたのように若いお嬢ちゃんは、奪った命に呵責を覚える事も有るだろうが、不必要な殺戮と生きる為の殺戮ってのは似て非なるもんだ。オレが言えた義理じゃあねえが、死んだ人間の事はさっさと忘れた方が良い。先人からの助言だよ」
アンヌは、自分の心中を言い当てられた事に目を見張って驚く。
バーサーカーが戦い、自分を生き残らせてくれた事には本当に心から感謝している。だが、あの二人はどうなった? 自分を殺そうとした相手とはいえ、死んだのなら自分が間接的に殺した事になる。その事に何も思う所がないと言う程、アンヌの心は人外の方へ傾いてはいなかった。
それをこの鬼面は、一目で見抜いてみせたのだ。その上で自分が抱え込み、奪った命の重さに押し潰されてしまわないようにアフターケアの言葉も掛けてくれた。見た目こそ恐ろしいが、彼のそんな心意気が今のアンヌ・ポートマンにはとても有り難かった。
ありがとうございますと礼を言って、頭を下げる。するとバーサーカーは、マスターはあんただ、サーヴァントはマスターに従い、それを尊重する物さと笑いながらそう言った。狂化を帯びたサーヴァントは普通、スペックが強化される代わりに大きくその理性を損なう物だと聞いている。にも関わらず、目の前で饒舌に喋る彼にそういう様子は真実欠片も見受けられなかった。其処が少し気になったものの、そういう例外も有るのかもしれないと、それ以上深く考える事はしない。
「それより、マスター。サーヴァントとして召喚されたからには、オレはあんたに聞かなくちゃならねえ」
その真剣な声色に、思わず身体が強張る。凄く偉大な者と会話しているような緊張感が、アンヌの全身を覆っていた。
「あんたは――どうしたい? オレと言う英霊を使って、どういう風にこの聖杯戦争を勝ち抜きたいと考えてる?」
先程までのバーサーカーの声には確かな友好の情が有ったが、今は違う。敵意こそないものの、其処には嘘や誤魔化しを許さない確固たる圧力が存在した。もしも下手にはぐらかそうとしたり、嘘を言ったりしたなら、このサーヴァントはきっと躊躇なく自分を見限ってしまうだろう。そんな確信が、アンヌの中には有った。だが、それに対して返すべき答えはもうとっくに決まっている。
「……たい、です」
「何?」
「帰りたい、です。わたしは――帰りたい。ただ、それだけなんです」
聖杯に願う気は、ない。
人を殺して喜ぶ趣味も、勿論ない。
願いは一つ、帰りたい。
あのフォギィボトムに帰り、自分の物語を取り戻したい。だから――
「……お願いします。どうか――どうか力を貸してください、バーサーカーさん」
アンヌ・ポートマンには、バーサーカーの力が必要だ。
帰る為に、死なない為に、……生きる為に。
立ち塞ぐ外敵を薙ぎ払って先に進む為の、大きな大きな力が必要だ。
唇を噛み締めながら己のマスターにそう請われたバーサーカーは、フッ、と小さく一度だけ笑って――頷く。
「良いだろう、あんたのその想いには確かに嘘も虚飾も有りはしない。
只生きたいと願うのは浅ましいと吼える奴は居るだろうが、生への渇望も極めれば一つの揺るぎなき信念だろう。
受け売りだが、そもそも生きると言う事に嘘も真もありゃしねえ。生きたいと想うなら、それが全てさ。
オレはあんたの願いを尊重しよう、マスター。――そしてオレは、必ずあんたを元の日常へ帰してみせると誓う。
あんたを害する全てを薙ぎ払おう、蹴散らそう。生憎オレは狂戦士でね、そういう分かり易いのは実に有り難い」
その頼もしい言葉に、アンヌは良かった、と声を漏らしてしまう。
きっとこれから先、大変な事は山のようにあるだろう。
激しい戦いもあるだろうし、さっきみたいに死に掛ける事だってあるかもしれない。
それでも――どんな目に遭っても、自分は帰りたい。いや、生きて帰らなければならない。
家族の為に、そして自分の為に。アンヌ・ポートマンの本来の物語を失わない為に。
「わたしは――アンヌ・ポートマンと言います。その……これから、よろしくお願いします!」
斯くして、若き縛血者の聖杯戦争は、"生きる為"にその幕を開けた。
◇ ◇
時に。
アンヌ・ポートマンは、ある事を見落としている。
縛血者ですら瞬間的には治癒出来ない大傷の殆どが既に治癒している事。
まだ痛みは有るし傷口も残っているが、それでも縛血者基準で見ても異常の一言に尽きる回復速度だった。
それと同時に、アンヌの中から抜け落ちていた筈の血が、大部分補填されている事。
言わずもがな、彼女は吸血行為に及んでいない。だと言うのに、今のアンヌの身体には戦闘を行う前よりやや少ないとはいえ、行動を充分に続行出来る程の血液が流れていた。彼女はあの後意識を手放して、只じっとしていただけにも関わらず、だ。
アンヌがその事に気付かなかった理由は一つ。
それは、サーヴァントの召喚と言う状況の特異性だ。
英霊の召喚に成功した事で、何らかの本人への良影響が働いたのかもしれないと、彼女は勝手にそう納得してしまった。
彼女らしからぬ早合点。それは偏に、彼女のバーサーカーに対する印象による所が大きかった。
不可解な回復。血液の補填。一度疑い始めれば、"その可能性"に行き着く事は容易く思える。
されど――アンヌにとってバーサーカーは救世主であり、自分を目指す結末に導いてくれる最後の希望であったから。
そんな事は有り得ないと、彼女は一瞬思い浮かんだ"その可能性"を切り捨ててしまった。
一度は掴みかけた真実を投げ捨てて、朧気で的外れな仮説を信じ込むに至ってしまった。
バーサーカーはアーチャーを撃滅した後、肉塊となって残った彼のマスターを徐に掴み上げた。
そして、倒れ伏した自分のマスターを仰向けにし、打撃で歪んだ口を無理矢理開かせて。
腕力の加減を強めて肉塊に大きな負荷を掛け、まるで雑巾のようにその血を――――
◇ ◇
その昔、とある国に恐るべき殺人鬼が存在した。
殺人鬼は知謀を尽くした追跡劇の末に捕縛され、当然のように死刑台へ送られたが、鬼はそれでは死ななかった。
蘇った鬼は、麗しの姫君と共に、都を舞台に殺戮の限りを尽くした。
虐殺、虐殺、虐殺、虐殺――七万を超える犠牲者を出した未曾有の大惨事。
その渦中に居た悪鬼は常に、言葉を口にしていた。
それらしく、尤もらしく。
ある時は、無機質な破滅の使徒。
ある時は、闘争の美学を有する硬骨漢。
ある時は、運命に対する忠実な使徒。
ある時は、大いなる聖戦の試金石。
彼は、余りにも多くの信念を口にしてきた。
然しそのどれ一つとして、彼の真実ではない。
全ては虚飾。人は、どうしようもなく暴力に虚飾を乗せる事が大好きな生き物であるから。
強くて、格好良くて、信念があれば、人を殺しても許される。
彼が欲したのは、そういう概念。殺人行為の許可証。
人は大義有る殺戮が大好きだから、彼は虚飾で大義を騙る事にした。
そして人はそれを信じる。彼の狂言を真実だと思って向き合い、勝手に描いて妄想する。
強さ、格好良さ、不幸な過去、切実な理由、揺るがぬ不動の信念――そんな物、この殺塵鬼の何処にも有りはしないというのに。
【クラス】
バーサーカー
【ステータス】
筋力B 耐久B 敏捷A+ 魔力D 幸運A 宝具B+
【属性】
混沌・悪
【クラススキル】
狂化:E
狂化の影響が薄い。
バーサーカークラスでありながら理性的に他者と会話し、意志疎通を行う事が出来る。
単独行動:C
マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。
ランクCならば、マスターを失ってから一日間現界可能。
【保有スキル】
魔星:B
正式名称、人造惑星。星の異能者・星辰奏者(エスペラント)の完全上位種。
星辰奏者とは隔絶した性能差、実力差を誇り、このスキルを持つサーヴァントは総じて高い水準のステータスを持つ。
出力の自在な操作が可能という特性から反則的な燃費の良さを誇るが、欠点としてバーサーカーは、その本領を発揮していくごとに本来の精神状態に近付いていく。本気を出せば出すほど、超人の鍍金は剥がれ落ちる。
また魔星は人間の死体を素体に創造されたいわばリビングデッドとでも呼ぶべき存在であり、死者殺しの能力や宝具の影響をモロに受ける。
貧者の見識(偽):C
相手の性格・属性を見抜く眼力。言葉による弁明、欺瞞に騙され難い。
しかしバーサーカーのそれは、後述のスキルに由来する所の大きい偽の見識である。
精神汚染:A+
精神が錯乱している為、他の精神干渉系魔術を高確率でシャットアウトする。
彼は本来狂った価値観に裏打ちされた殺人鬼であり、当然意思疎通などまともに出来る筈もないが、後述のスキルによってさも正気の人間のようにやり取りを行う事が可能。
殺人許可証:EX
彼の象徴たるスキル。
結局最後は殺すにも関わらず、意味や理由付けを行うことで殺人行為の許可証が得られると言う思想。
彼は、嘘と偽りで獲物を嬉々と揺さぶり尽くす言葉のトリックスターである。
バーサーカーと対話を行った存在は皆彼の口調や物腰によって、その本質を理解出来ないように騙される。
純正な英雄であればあるほどこのスキルは通じにくくなり、逆に遠ざかれば遠ざかるほど通じ易くなる。
彼はこのスキルによって狂化、精神汚染のデメリットを無効化しており、バーサーカーというクラスであるにも関わらず他者と自由に意思の疎通が可能。
また、軍事帝国アドラーに消えない傷痕を刻んだ"大虐殺"の実行者の片割れということも手伝って、彼は人間と人属性の英霊に対して特攻効果を発揮できる。
【宝具】
『義なく仁なく偽りなく、死虐に殉じる戦神(Disaster Carnage)』
ランク:B+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:50
分子間結合分解能力。物質を跡形もなく消滅させる、漆黒の波動を生み出す星辰光。
その正体は物体の結合力そのものを崩壊させる物質分解能力で、無機物有機物の違いなく、接触した物体を消滅したと錯覚するほどの速度で分解する。
彼の纏う漆黒の瘴気全てがその特性を帯びているため、バーサーカーは常にこの宝具を纏わせて戦う攻防一体の戦闘スタイルを得意としている。
亜音速に迫る高速移動から繰り出される攻撃に、瘴気による絶対防御。完成された攻防速をバーサーカーは揃えているため、生半可なサーヴァントでは太刀打ち出来ない。常に全身へ展開しているため、破るには一定以上の出力と優れた収束性を持った攻撃を用いるか、もしくは宝具の効果を余り受けない気体や非物質による攻撃で攻め立てるのが効果的。
【weapon】
鋼鉄の爪を始めとした魔星としての肉体
【人物背景】
軍事帝国アドラーを襲撃し、後に蛇遣い座の大虐殺と呼ばれ語り継がれる大虐殺を生んだ張本人。
アドラー独自の技術と思われた強化兵、星辰奏者を遥かに上回る出力と技量を持った鋼鉄の運用兵器で、その姿は千年前に滅んだ日本の昔話にある"鬼"を連想させる。
口調は姿に似合わず、基本的に冷静、かつ理知的。
時に相手の事情を慮るなど高い教養が伺える──かと思えば一転して享楽的な振る舞いを演じるなど、真意を読み取るのが非常に困難。
その正体は人造惑星の一体、殺塵鬼(カーネイジ)。
カンタベリー聖教皇国出身の男で、凶行の末死刑台へと送られた真性の殺人鬼。
彼は様々な表層を持ち、それは時に無機質な破壊者であり、時に美学を解す戦闘狂であり、時に筋の通った硬骨漢であるが、そのどれもが彼の真実からかけ離れている。
――バーサーカーは単に虚飾に塗れ、嘘っぱちの表層を演じ、殺人許可証を渇望する狂人に過ぎない。
【サーヴァントとしての願い】
殺して、殺して、殺す。
【マスター】
アンヌ・ポートマン@Vermilion-Bind of blood-
【マスターとしての願い】
生きて、元の世界に帰る
【Weapon】
【能力・技能】
縛血者(ブラインド)
所謂、吸血鬼。
永遠の寿命と高い身体能力、そして不死性を持ち、忌呪と言う弱点と超常能力を所有する。
心臓は脈動せず、体温はなく、呼吸もしない。睡眠を取る必要は有り、睡眠中は完全な無防備状態となってしまう。
生命活動の全てを体内に蓄えた血の消費で賄えるが、縛血者自身は血を生成出来ない為、吸血行為によって血液量を維持する必要がある。
また人間を魅了する効果を持つ、特殊な視線を放つ事も可能。
忌呪(カース)
縛血者の弱点。彼女の場合は、満月を視る事による精神の狂乱。
暴走を引き起こした彼女のパワーは平常時より格段に上昇するが、その反面消耗も非常に激しくなる。
幻獣顕身(フィーヴァー・ドリーム)
夜の住人としての洗礼を受けた際に、忌呪一つにつき一つ備わる"賜力(ギフト)"と呼ばれる超常能力。
発動すると爪が大型化、熊じみた獣毛が全身を覆い、身体能力が大幅に引き上がる。
変身部位のパーセンテージが上がる毎に身体能力や戦闘力は上昇するが、理性での制御が困難になっていく。
効果は単純明快ながら増強されたパワーは相当な物があり、当たりさえすれば通常の攻撃を殆ど受け付けない強固な生命体でさえボロ布のように引き裂いてしまう。
回復能力の増強もかなりのものが有り、暴走時には軍用ヘリに搭載された機関砲の直撃でさえ意に介さない凄まじい生命力を発揮可能。
【人物背景】
"洗礼"により、人間を逸脱した少女。
気まぐれで明るい、信用した相手にはとことんなつく子犬属性。年頃の少女らしく、どこか夢見がちな部分を持つ。
平和主義者であり温厚だが、その反動か窮地に立つと芯の強さを覗かせる。
【方針】
バーサーカーに助けて貰いつつ、生きて帰る
最終更新:2017年05月24日 21:59