アットウィキロゴ

ホロン



 *

 世界の果てにある、サイハテ街のサイハテ高校。校舎の窓からは、サイハテ塔が見える。岬の最果てにそそり立つでかでかとした塔は、陸と断崖のわずかな隙間にまろやかに突き刺さり、明らかにこの世のものではなく、まさに漫画みたいに存在していた。

 ****

 駒田が部屋に戻ると、酒井はすでに戻っていた。CDプレーヤーの前で胡坐を組んでいる。ヘッドホンからはスメルズ・ライク・ティーン・スピリットのリフが漏れていた。ネヴァーマインド、一曲目。学生服がベッドに脱ぎ散らかされているところを見ると、彼も今戻ってきたところらしい。酒井は毎日軽音の部室で時間をつぶしてくるので、放課後すぐの時間で宿舎にいるというのは変なのだった。
「おー駒田。美術部は?」
「水曜日は休み。酒井こそなんでいんだよ。なんでCD聞いてんだよ」酒井は耳がイかれるぐらいの大音量で聞くのだ。音が漏れてしまう。それ、耳障りだな、と駒田は思う。「軽音でギター弾いてこいって」
 酒井は顔をしかめた。部屋の隅をじっと見ている。駄々を捏ねたのを反省しているような、ばつの悪い微妙な表情だ。
「今日は、あのな、出たくないの」
「なにそれ」
 ヘッドホンを外す。アロー、アロー、カート・コバーンの叫びが漏れている。酒井は言う。
「……くだらねー話だって。工藤先輩が来てな、カメオのライブチケットを二枚くれたん。前座やるからって」
 カメオというのはサイハテ街でちょっと有名なローカルバンド。シューゲイザー。パフォーマンスが素晴らしくカッコいい、らしい。駒田はライブを見たことないが、二人ともカメオのCDを持っているし、酒井は何度かライブへ行ったことがある。音楽的にも文化的にも最果てに位置するこんな街で、彼らはヒーローだ。中学生や高校生はみんな知っている。
「今回のチケットは高かったからな……レアリティだよ、もはや。」
カメオはまだインディーズなので、この街にいてくれる。けれど最近クリエイションあたりのレーベルでメジャーデビューしてしまうのではないかという噂が流れている。今度のライブは、もしかしたら、サイハテ街最後のライブになってしまうかもしれない。ただでさえ手に入らないチケットは、今ではなんだか中高生には手が届かない高嶺の花になった。それでも何とか見たいのだ。
「……あ、ああ、とりあえず、工藤さんは、おめでとう、だけど……それは……揉めるなぁ」
「だろ。で、みんなで取り合いってわけ。修羅場も修羅場。岡田と嘉山がな、彼女がどーのこうので取っ組み合いのけんか始めるし。ぴりぴりしてる。ギター弾いてるだけでも噛み付かれそう。俺もほしいけどな、カメオ。でも「欲しい」って言ったらまた大変になるからな、逃げてきた。人間関係、大変よ?」
 酒井はマルボロをくわえてポケットを叩いた。胸ポケットから百円ライターを取り出して火をつけ、ライターを持ったまま小さな窓を開ける。寄宿舎の二階からは最果てに沈む太陽や、コントラストで真っ黒な塔が見えた。

 ****

 サイハテ高校は全寮制だ。サイハテ塔はいつから建っているのかわからないのにも関わらず全く威厳を失わないのに、サイハテ高校は百年かそこそこの歴史で、ボロボロにさび付いてる。後者と同じ歳の寄宿舎も同様にボロボロで、サイハテ高校に入学するしかないサイハテ街の中学生たちにはやはり評判が悪い。
 入学式のあと、生徒はそのまま寄宿舎にいれられる。駒田は二階の中ほどの部屋に入ることになった。二段ベットと私物のダンボールだけしかない部屋で、どうしたらいいのか途方にくれていると、人が入ってきた。それが酒井だった。どうやら同じ部屋で住まされるらしい、ということを確認して、駒田は酒井の顔を見た。酒井は「まいったな」といったふうにニヤニヤ笑った。
 サイハテ街のサイハテ中の生徒はみんなサイハテ高校に進む。それほど多くの人間がいるわけでもない。三年もあれば同学年の生徒ぐらい見知ってしまう。サイハテ中学、サイハテ高校を卒業してしまうと、そのまま就職だ。サイハテだけで閉じている。サイハテ街はこの世の最果てなのだ。クローズドな場所、知り合いだらけの町。だから駒田は酒井のことを知っていたし、酒井も駒田のことを知っていた。中学一年生のころ、同じクラスだった。話したことはなかった。

 酒井に対して危険で悪趣味なイメージを駒田は持っていたように思う。長身で、足が長い。天然パーマの長髪を太いカチューシャで持ち上げている。全盛期のアクセル・ローズみたいに。エネルギーにあふれ危険さと脆さを併せ持つ鋭い風貌が、酒井をイメージ付ける。危険な男だった。中学生のころから高校生のグループを返り討ちにしたとか、カメオ信者の間で流行っている(とまことしやかに言われる)ドラッグ「ウルトラノーツ」のサプライ末端を仕切ってるとかのよくない噂が流れていたし、実際に酒井は学校をふらふらと抜け出してどこかにいってしまうようなやつだ。駒田も見たことがあった。

 そのような人間と同じ部屋で暮らすのは、駒田は少し気後れしていた。黙々とダンボールを開封し私物を整理していると、酒井は駒井の私物からピンクのCDを取り出した。
「アストロブライトか。お前カメオ聞くだろ?あとこの調子じゃあMBVもライドも一通りはおさえてそうだ」
 駒田は何も言わなかった。酒井はそのまま駒田の私物を漁って、カメオのファーストを見つけた。貴重な音源だった。駒田はそれを持っていることをひそかに優越感を持っていた。自慢するようなことはなかったが。
「プレーヤーどこにあるんだ?聞こうぜ」
 駒田が別の梱包からプレーヤーを出してやった。リバーブの決まったギターが流れ出した。酒井は音量を最大に上げた。安物のレスポールを担いで、軽く弦を弾いて、酒井はなんとなくうれしそうだった。

 ***

 けだるい古典の授業が終わって、駒田はそれから美術室へ向かった。作品を進めておきたいと思ったからだった。カンバスに向かってひたすら円を描く。水色、オレンジ、赤や緑の色彩。一心不乱に水玉を描くのは楽しかった。自分の意図をどんどん外れて、ひとりでに絵が成長していくような感覚があった。まるで自分がまだ名前も決まっていない絵の付属物みたいに思われて小気味よかった。この絵がこの先どうなっていくのか、それどころか、このさき作品が完成するのかどうかも駒田にはわからない。かわいらしくまとまってくれればいいなと駒田は思っている。

 一時間ぐらい気分よく書き続けていたように思う。絵筆をもつ指がしびれてきて、駒田は手をとめた。背伸びからあくび。涙がにじんだ。目が痛い。まぶたに指を押し当てて顔面マッサージをする。最後に眉間を揉み解して目を開けると有川がいた。
「いつからいた?」
「お手本みたいなあくびだったよね。つられてあくびしちゃった」
 駒田は苦笑いした。あくびと言うのは、人間の動作のうちでも情けないもののリスト上位に食い込むだろう動作なのだ。気の抜けて膨らんだ小鼻が、ぴくぴくと動くのを有川に見られたのかと考えると、駒田はなにかつらい気分になる。
「酒井くんこないね」
 有川が言った。
「軽音が大変らしい。トラブルだって」
「あ、岡田くんと嘉山くんが喧嘩したんでしょ。聞いた聞いた!」

 四月ごろ、駒田と酒井はマイブラがどうのとかレディへがどうのとか、そういうまったく音楽的なことを話していた。話題はカメオなどの卑近な話から大衆音楽の歴史区分などというインテリな話題まで尽きることはなかったし、酒井はそのボヘミアぶりにもかかわらずクレバーな思考をしていた。駒井は彼を尊敬した。
部活動を決める五月に駒田が美術部に入部したという話を聞くと、酒井は非公式に美術部にも入って、軽音部と掛け持ちをしてしまった。絵を描かせるとものの数分でカート・コバーンのクロッキーを描いて、「自画像だ」などと言ったことを覚えている。
 今では週三で美術室にきて、三人でギターセッションしたりしている。あまり美術はやっていない。三人は美術室をなんとなくたまり場にしている。放課後から、日が暮れてしまうまで、世界の果ての夕日色のなかでだらだらと話を続けることには、スクリーンのフランス映画やポップバンドのメジャーコードみたいにステキな優越感をもたらした。
 趣味が似ていると、うれしいかもしれない。ツーといえばカーと帰ってくるような関係は、今まで駒田にはなかった。同級生はカメオは知っていてもMBVを知らないというような単純で無知な消費者だったし、MBVは知っていてもスロウダイブまでいくとわからなかった。しかし有川は、駒田と酒井の気の向くままのセッションから(オアシスやレディへ程度はわかるにしても)カレイドスコープやジザメリのフレーズまでも読み取って見せたのは驚きだった。
「アイ・オンリー・セドだ。マイブラの。『逃げるっていったでしょ 行ってしまうって そう言ったでしょ』だっけ」
 酒井が調子に乗って続けた。
『あの赤い空の下に……』
 ひそかな事件の共犯者みたいに、二人は目を合わせてしのび笑った。駒田だけが窓向こうのサイハテ塔を見つめていた。

 ***

「チケットを預かる羽目になった」
 酒井は疲れている様子だった。二段ベッドの二階から頭だけ覗かせている。
「岡田と嘉山がどうなってるかよくわからんけど、空気すげー険悪で。どっちかに渡したら戦争だぜ。バンドがマジになってケンカとか醜いな。ダサい」
 サイハテ高校の軽音部にはいくつかバンドがある。文化祭で入れ替わり立ち代り演奏しているのは駒田も覚えている。岡田と嘉山はそれぞれバンドのリーダーらしいポジションにいるらしい。
 もし酒井が岡田か嘉山のどちらかにチケットを渡せば、酒井は渡した方の「党派」に属しているとみなされる。そうなれば酒井も軽音部内のケンカに巻き込まれてしまう。それは酒井の本意ではない。
「あれだ、くだらねーんだよ。たかがローカルヒーローの演奏会ってだけで、サイハテ高校の吹き溜まりバンド、というか落ちこぼれお友達集団に過ぎねーけど、そんなやつらが今や取っ組み合いのけんかだぜ、馬鹿じゃねーか!」
 酒井がベットから飛び降りた。ドシンとわざと大きな音を立てた。

「どうせお前らには何もないんだ!好きだの嫌いだの、いちいち評価して、何様のつもりだ!所詮糞便垂れ流す消費機械だ!役に立たないサイハテだ!」
「落ち着けよ酒井」
「マイマイ・ヘイヘイ!ロックンロールここにあり!俺は死ぬぜ。二十七までに。食いつぶすだけの人生だ!内から出たもんなんてありゃしないんだ!だから俺は最高に浪費して死ぬ。ウルトラノーツをよこせ!ジミヘンみたいに死ぬんだ!」
 駒田は、酒井の絶叫に気おされて何もいえなくなった。酒井がレスポールを取り出したとき、寮長が竹刀を振り回し怒鳴り込んできた。酒井がギターのネックをつかんで横薙ぎに振り回した。寮長がそれにひるんだ隙に、酒井は二階の窓から飛び降りる。彼が飛び降りた時に、駒田はみしりという異様な音を聞いた。窓から見下ろすと、ギターの破片が飛び散っていた。寮長もあっけに取られていた。

 ぶっ壊れたレスポールのネックを握り締めたまま、彼は清々した気分だった。軽音を抜けることを決めた。格好をつけることだけ競っていて、何も考えようとしない人間と一緒にいても、自分を食いつぶすだけだと酒井は理解する。それなら美術部の、駒田や有川と話をするほうが有意義だ。有川や駒田は自分をわきまえているからだ。
 ただ、今夜中は宿舎に帰ることが出来ない。寮長にこっぴどく説教されるのは目に見えていたし、バツが悪かった。
 演説を思い返す。恥ずかしかった。子供は誰だと自嘲した。
 校庭を抜けて林に入ったところで、サイハテ塔までいこうと思いついた。酒井は実行してみることにした。果ての岬にはサイハテ塔がある。一晩ぐらいならその下でいられるだろうと考えた。

 サイハテとは実際のところ何なのか?そういう疑問があった。世界がそこで途切れている、という以上のことを酒井は聞いたことがなかった。サイハテの岬にサイハテ塔が突き刺さっているというのも、どこか滑稽に思われる。それこそ漫画かテレビの中でしか存在し得ない、馬鹿げたもののはずだった。が、実際に塔のすぐ下まで来てみると、どうしようもなくサイハテ塔は漆みたいな光沢をもつマチエールある塔としてそそり立っており、やはり漫画みたいに不用意に巨大な存在だった。
 塔の周囲に巻きつくように階段がついていた。黒光りしている。触っても鉄か木か石か、まるで材質のディティールがなく、上ってみたが足音もしなかった。いくらか階段を上ると、その階段はそのまま平坦な回廊になっていた。酒井はその回廊を一周回った。世界の果てだという方向には暗闇しかなかった。
 岬の先は黄と黒のフェンスで閉鎖されていて、一般人が入ることは出来ない。けれど酒井が回廊から眺めると、崖らしきところからおそらく地続きに暗闇らしいものが見えた。境界がおぼろげで、何とはなく不気味に感じられる。
 回廊を半周すると、サイハテ街の市街が見渡せた。サイハテ駅やライブハウスは街の向こう側にある。酒井は指差し確認した。

 数時間サイハテ塔の回廊で横になっていた。ビールかタバコが吸いたかったが、財布もライターも酒井は持っていなかった。あるのはギターのネックだけだった。その事実に気づいて、熱が冷めた。今回の事態は派手すぎて失敗だったと酒井は感じた。しかし、どうにかなるだろうとも思う。軽音をどうするかは、考える必要がある。岡田と嘉山のケンカは、自分が何とかしよう。あるいは慎重に言葉を選べば、カメオのチケットは、自分がもらえるだろうと酒井は考えた。彼らの乱痴気騒ぎには付け込む隙がある。工藤先輩や円口たちを誘導すれば両成敗へ持ち込めるだろう。チケットは自分と駒田で分ければいい。先輩になんといえばよいかを考えながら、酒井はギターネックを最果てへ投げ込んだ。最果てで消失したギターを見届けて、公衆電話を探しに、サイハテ塔を降りていった。

 **

 有川は酒井が居なくなったことを心配していた。酒井のことを話しながらステアウェイ・トゥ・ヘブンのソロパートを弾いたりするので、駒田は縁起が悪いなと考えていた。
「午前中にね、軽音のOBの人が来てたよ。部室棟の渡り廊下で見たんだけど。細いスーツでね、すごく目立ってた」
 工藤先輩だと駒田はあたりをつける。工藤先輩はいわゆる社会人バンドをしている。去年か一昨年にサイハテ高校を卒業してそのままサイハテ街で就職したサイハテ軽音の先輩だ。大手不動産の末端会社だったように思う。
 こんな辺境も辺境の街でミュージシャンなどという職業が成立するのかどうかはわからないけれども、この街で音楽を演奏する人はそのルートを通ることになっている。カメオのメンバーもこの延長線にいる。サイハテの「卒業生」。けれど、カメオは稀な例だ。たいていの人は諦めて、弦をかき鳴らすこともやめてしまう。
「それなら酒井も帰ってくると思うよ。ケンカも収まる」
 と駒田は言った。酒井のことだから、あのまま繁華街へでも出たはずだ。酒井の噂を真に受けるわけではないが、夜の街には彼の知り合いが何人かはいるだろう。その辺に泊めてもらっていたに違いない。それでチケットのことを話したのだ。工藤先輩が来たのなら、誰かが先輩に伝えたはずである。全寮制だから、校内の出来事は外に伝わらない。外出し、そして連絡をしようと考えるのは酒井ぐらいしかいない。
「夜中に二階から飛び降りてギター叩き折るなんてなぁ。いや、びっくりした」
「びっくりもするでしょ。でもそういうのできるのって酒井君ぐらいしかいないんじゃないかな」
「そのとおり。ギターを叩き折る、ってなかなか出来ることじゃない」
「シド・ヴィシャスみたいだよね、反骨精神っていうの?」
「酒井のあれは本当にピート・タウンゼントのパフォーマンスみたいに健全じゃないんだ。もっと深いところから爆発してるよな、あいつは」
 アハハ、と有川が笑った。

 駒田は筆をおいた。
 制作が手につかないなと思ったから。
「ゴーッドセイヴァクィーン!」
 叫んでみた。単純で力強いベースを思いだしながら。
「ファシズムしてくれてありがとう!」
 有川が叫んだ。駒田はうれしかった。
「未来はないよ!未来はないよ!」
 馬鹿みたい。酒井を借り受けて。
「俺たちはゴミためにいる!俺たちが未来だ!」
 有川の柔らかい指が4弦の上に乗っているから、という理由だけで、駒田はひりひりとする。泣きたくなるぐらい!

 ゴッド・セイブ・ザ・クイーン、アナーキー・イン・ザ・UKと歌って、それから次に何を歌おうか考えていると、酒井が現れた。スリッパを履いていた。酒井はひどく気落ちしていた。有川や駒田が先日の顛末を尋ねた。酒井は薄く笑っただけだった。答えようとはしなかったから、有川も駒田も聞くのをやめた。夕日が落ちていった。有川がギターを片付けだしたので駒田もカンバスを片付ける。酒井は椅子にだらしなく座って、天井を眺めていた。

 酒井を寄宿舎へ連れて戻ると、寮長が酒井を引きずっていった。

 ***

 美術部は、三人しかいない。
 駒田や酒井が入学したとき、在籍していた生徒は卒業してしまっていた。美術部は廃部寸前だと顧問らしい初老の数学教師が二次方程式を解説しながら宣伝しているのを聞いた。誰もいない部活動。素晴らしい響きではないだろうか。寮よりも広々としたスペースが持てるというだけで魅力的な話だ。
 駒田はその授業の終わり、すぐに話をとりつけた。書類を放課後までに書き上げて、顧問に渡した。これで放課後の教室が自分のものになった。美術室は校舎の西の果て、世界の果てに近い場所にある。
 契約関係が重要だった。最初から駒田には絵を描こうとは思ってなかった。単なる所有欲かもしれないなと思いながら、美術室のドアに触れると少し空いていた。中なら音が聞こえる。先客がいるのだ。予想と異なった。駒田は驚いた。中をのぞく。女子がハーモニカを演奏していた。曲目は分からなかった。駒井に分かったのは、スティーヴィー・ワンダーあたりのブラックミュージックらしいことだけだった。演奏が終わるまで聞いていたかった。けれど先客は途中で演奏をやめて、入り口を見た。気づかれている。駒田は美術室へ入った。

 先に美術室にいた女子は駒田と同級生らしく、見覚えがあったが、名前が出てこなかった。当たり障りのない会話の布石。目を合わせないように注意しながら、駒田は話しかける。
「美術部ってここでいいんすか?」
「ここ、美術室でしょ?そうじゃないの?」
彼女は言った。当然だという風だった。
「ええと、じゃあ、何でハーモニカ?」
「寄宿舎ではできないよ。美術部、誰もいないって聞いてたから、いいかなって。もしかして、ええと、ごめんね、名前が出てこないけれど」
「駒田。ごめん俺も名前が出てこない」
君、と文学チックに呼ぶのは気が引けた。
「有川です」
 よろしくと言って有川が笑った。
かわいかった。たぶん世界一。駒田は思った。

 美術部にせっかく入ったのだからと、とりあえず駒田は絵を書いてみる。ギリシャ男性の胸像をデッサンしたりしていたがすぐに飽きて、現代芸術の真似事をし始めた。歴史が好きだったし、キュビスムや具象絵画の理念は駒田の思想に似つかわしく思われた。夏休みのころから駒田は色とりどりの円や球を描き出した。酒井はそれを見て「めまいがする」と言ったが、駒田には何かを表現している気がしていた。夏休みの間に、駒田はひたすら丸を描き続けた。
「円は一つの領域を示してる、もっとも調和のある形だ。意味を脱臼したフォルムは、何を表現できるだろう?」
 駒田が文化祭が終わるまでに描いた水玉の習作群は、百は超えていただろう。

 有川は、花のスケッチを好んで描いていた。けれど、どちらかといえば絵も描かずに、何かしらの楽器を演奏していた。ヴァイオリンやトランペット、ギターやベース、果てはコンガ、テルミンまで、楽器の種類は問わなかった。軽音やオケ部から気ままに借りてきて、気ままに演奏をしていた。彼女は演奏に関しては天性の勘があった。初めて弾く楽器でもすぐにコツをつかんだ。演奏する曲は節操がなかった。バッハやモーツァルトのクラシックを仰々しく奏でるかと思えば、ブラック・サバスみたいなハードロックを演奏したりもした。一度、ヴァイオリンでゼッペリンのザ・バトル・フォ・エヴァーモアを演奏し切ったことがあって、それにはさすがに駒田だけでなく酒井も顔色を変えざるを得なかった。
 けれど有川も駒田も、それから酒井も熱心に何かをしているというわけではなかったように思う。ただ、オレンジの美術室の居心地はよかった。つまるところ、校舎の片隅でたまってみるのは、なかなかに居心地がよかった。

 *

 寮長室から帰ってきた酒井は、心底疲れているふうだった。
「昨日はすまんかった」
 酒井が謝った。駒田は怒っていなかったから、謝られても筋違いな気がした。
「軽音の揉め事はどうなった?工藤さん来てたって有川が言ってた」
「ああ、工藤さんを呼んで、岡田と嘉山の言い分を聞いたんだわ。部室で。そしたら、やっぱり彼女がどうだのとかいう下らん話でさ、両成敗になった」
 酒井はほっとしたような表情を作って笑った。駒田はその笑みになんとなく不穏なものを感じた。
「で、工藤さんにチケット返すことになったんだけどさ、工藤先輩もあれだ、チケットのノルマあるから、こっそり言ったらチケットくれたよ。二人分」
 今更カメオのライブに行くつもりだった。両成敗といえども、そのチケットは危険だと感じた。そして危険から得るものは極端なのだ。
「どうよ?それ。あれだけ派手にやって行く気かよ」
「いくっつーの。もったいないだろ。行かずんばサイハテにあらずだぜ」

 駒田は酒井の表情に卑屈なものを感じた。それは普段の酒井にはないものだった。気分が悪かった。目をそらした。
駒田は、例えば、有川にチケットを渡してみることを考えた。思いつきは突飛だったし、思いもよらなかった。しかし脳内で検討をすれば、なかなか魅力的なものに思われた。
 酒井は明らかにカメオのライブに行くつもりだ。残り一枚をどうするか、それをそのまま有川にあげるのは、まずいと思う。二枚のチケットは軽音ですでに混乱の元になってる。それを有川が受け取るか?仮に受け取ったとしても、まさか酒井と一緒に行かせるのか?ありえない。……酒井がいれば間違いなくチケットの由来は露見するだろう。それは避けなければならない。このチケットは、自然な出自が必要なのだ。
 笑って、駒田は言った。
「考えるよ。ライブは明日の夜だろ、もうちょっと待って」
「さっさと決めんと誰かにやっちまうからな」
 ベッドをよじ登りながら酒井が答えた。

 このチケットを手に入れるために酒井は何かをした、という確信が駒田にはあった。先輩からこっそりチケットを貰うなどという行為はそうそうできないからだ。くだらないケンカに乗じて、酒井は表面上はケンカを収めるように便宜を図りながら、裏で先輩と契約をしたのだ。その結果、軽音部内のイニチアシブを得た。その結果だ、ろくなものじゃない。
 ろくでもないものを馬鹿正直に「正しく」扱うことはない。駒田は判断した。覚悟を決める。
「ひどいメルヘンぶりだよなァ……」
そのようなことを思いながら。

 ***

 授業後の職員室前で、岡田を目撃した。派手にケンカをしていた一人だった。肩を落としていた。あまりにも覇気がなくなっており、同情するよりも、滑稽のほうが勝っていた。放課後駒田はそのことを有川に話した。
「あ、岡田くんね、フラれちゃったって。噂になってた」
「え?なにそれ、昨日今日の話だろ。噂ってそんなスピード速いのかよ?」
「そうそう。昨日の夜にね、食堂で話してたんだって。昨日の女子棟はすごかったよ。ホントにあっという間に。怖いねー」
「こえー、女子こえーよ」
 有川は軽音からアンプとエフェクタを借りてきていた。美術室に置きっぱなしにしてある彼女のギターに配線をして、弦を引っかいた。チューニング。
「今日は……スロウ・ダイブでもやろうかな。音大きいけど、気にしないで」
 エフェクタを踏みつけて、弦を弾く。アンプとギターを近づけると、振動が互いに干渉しあい、ノイズが混ざる。フィードバック。白い轟音を保って、有川はプリアンプ側の音量を調整すると、ギターの音色に濁りが混ざる。そのまま「オール・トゥギャザー」。リフ。じっと足元を見つめながら、せわしくエフェクタを操作する。彼女はシューゲイザー。
 駒田は丸を描き続けた。有川の演奏が心地よかった。何時間かカンバスに向かって描き続けた。その間有川はずっとギターを弾いていた。足元を凝視しながら歌っている。澄み切った声の質。瞑想みたい。
 彼女はなぜ美術部などにいるのだろう?という疑問。軽音でもオーケストラでも音楽をできるところは他にあるのに、彼女は美術室で気ままに演奏し続ける。実際に有川の演奏を聞けばその理由はわかる気がする。まるで真円のように彼女が完成されているような印象。一個の存在者として存在できる。それを許されているのではないだろうか。
 思考がまとまらない。

 日が暮れそうだった。西の空が真紅に染まって、だんだんと青みが増している。有川はもう演奏をやめて、カンディンスキーの画集を眺めていた。
 今なら言えそうだと駒田は思った。カンバスの中心にオレンジの丸を描きつけて、筆をおいた。
「なあ、有川」
振り向いて言ってみる。有川は駒田を見た。
「カメオのライブチケット貰ったんだ。今日の夜の」
「へえ、誰に貰ったの?」
有川は笑っていた。正視できなかった。期待しているようにも見えたし、全て分かっているという風にも見えた。
「酒井にだよ、内緒でね」
言いながら、財布から二枚のチケットを取り出す。
「もし暇なら……一緒に行かない?」
 バカじゃないのか。駒田は自嘲する。漫画みたいだった。このようなセリフを自分が言っているのが信じられなかった。
「そんなお誘い、初めて聞いた。テレビの見すぎだよ?」
 有川はニヤニヤと笑って、
「行ってもいいよ。カメオのライブ、行きたかったんだ」
チケットを受け取った。駅前のライブハウスで待ち合わせする約束をして、彼女は美術室を出て行った。全身から力が抜けた。そのときになってようやく駒田は自分の緊張に気がつく。投げやりにパイプ椅子に腰掛ける。自分のバカさ加減に笑わざるをえなかった。

 *****

 有川は校舎を出て宿舎へ戻っていた。夕日が岬に隠れはじめている。天頂はすでに濃い藤色だった。サイハテ塔から伸びる影の先をぼんやりと溶暗させている。
 そもそもサイハテなどあるのだろうか?
 いつか酒井や駒田は夕日の美術室で、盛んに議論を交わしていた。有川は思い出す。
「あのサイハテを見ろ、世界の最果てに夕日が落ちて、境界には正体不明の塔が立ってる、これだけで十分非現実じゃないか!」
「しかしあるものはあるとしか言い得ないだろう?もしこれが小説の中だったとしても、俺らはそれを認識できない。存在論に縛られざるを得ない」。
 文化祭も終わると秋も終わる。有川は足先から伸びる影を見ていた。
「全部無駄だよね、現実も非現実も、ホントにくだらないことばっかり」
 有川には、それはナンセンスなことだった。酒井も駒田もそういう意味では等しく馬鹿だった。何も知らない。例えば彼らは知らないのだ。女子の情報網や、どうやればチケットごときで殴り合いのケンカを起こせるかとか。どうすれば自分に足りないものを錯覚してくれるか、どうすれば自分を犠牲にしてくれるかとか。
「とどのつまり、舌足らずで、笑顔のかわいい、それでいて多趣味な女の子が、男はみんな好きなわけです」
 面白いコスプレみたい。魔女みたいな。有川は歌いだす。アイ・オンリー・セド。
「逃げるっていったでしょ。」
「あの赤い空の下に」
最終更新:2011年10月24日 19:50
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。