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628 :海の向こう側 ◆jTyIJlqBpA :2008/09/23(火) 13:59:22 ID:skoPa4PL

 序章 『うたごえ』

 がたがたと音を立て、列車がトンネルの中を走っている。深夜に近い時間帯のため、乗客は少ない。
 ボックス席が並ぶその車両にある人影は、たった二つだけだった。 
「素敵な月夜ですね。素敵過ぎて、血が疼きそうです」
 窓際に座るスーツ姿の男が眼鏡を掛け直し、乗降口に背を預ける和服の女に話しかける。
 闇色の髪を結い上げたその女はしかし、目を閉ざしたままで答えない。
「狸寝入りは止めてくださいよ? これでも寂しがりでしてね。
 お相手をしてを頂けないと寂しくて死んでしまいます」

 端正な顔を歪めておどける男を、女は鋭い目を薄く開けて一瞥する。
「ならば、もっと興味深い話をしてもらいたいな」
 月明かりを照り返す妖刀のような視線を向けられても、男は態度を崩さない。
 飄々とした様子で肩を竦めると、含み笑いを一層深くした。

「そうですねぇ。では、不老不死の霊薬についてお話しましょうか。
 僕らが盛り上がれる、数少ないお話だと思いますし」

 女の眉が、ぴくりと持ち上がる。一瞬の挙動だったが、男は見逃さない。満足げに頷きながら、続ける。

「一口で無病息災、二口で永遠の若さを得て、三口で死すら超越する、奇跡の薬。
 医学の範疇では語れない、魔法の塊」

「我々が向かう先にそれがあるという噂は聞いている。
 だからこそ、私は貴方などと行動を共にしているのだ。
 もっと具体的に話して貰いたい。回りくどい男は嫌いだ」

 女は、不愉快そうに男を睨みつける。それでも、男は面白そうにくつくつと嗤う。
「不思議なお薬とは、一体どんなものだと思われますか? 薬草でしょうか? 液状でしょうか?
 もしかしたらカプセルに詰め込まれた、高度な科学技術の結晶かもしれませんね?」
「回りくどい男は嫌いと言ったはずだがな」
 腕を組む女から、苛立ちが立ち昇る。それでも男の話に耳を傾けているのは、彼女が求めて止まないもの――不老不死の霊薬の情報を、男が握っているせいだ。
「美しい女性から嫌われるのは本意ではありませんし、早速答えの発表としますか。
 実は、先ほど挙げた例はすべて外れです。正答は――」 

 列車が、トンネルを抜ける。開けた窓の外に、夜空を映した真っ暗な海が広がった。
 気味の悪い黒の海を一瞥し、男は大仰に言い放つ。

「――人魚の肉、ですよ」


 ◆


 穏やかな潮騒が暗い浜辺を震わせる。浜辺を吹き抜ける風は湿っぽく、潮の香りを孕んでいた。
 両手を広げてその風を浴びる、一人の少女がいた。
 ポニーテールにまとめた黒髪がなびき、スカートがはためく。
 九月に入っても、まだ残暑は厳しく昼間は暑い。だが、日が落ちた浜辺は気温が低く、夏服では肌寒さを感じる。
 だというのに、高杜高校の制服を着た彼女――白山瑞希は、冷たい海風を全身で受け止めていた。

 瑞希は、夜の海が好きだった。 
 真っ黒で先が見えない海は、何処までも広がっていそうな気がするからだ。
 打ち寄せる波に身を委ねれば、何処か知らない場所へ、何があるか分からない場所へ連れ去ってくれそうに思える。
 昼間の海とは違って、黒々として先が見えない不気味さがむしろ、かえって興味の対象となる。
 決して、現状の生活に不満があるわけではない。高校生になってアルバイトも許されるようになったし、去年とは出来ることが増えたのは事実だ。
 だが、高杜学園中等部から、同学園の高等部に上がっただけということもあり、生活にそれほど大きな変化はなかった。
 代わり映えのしない日常は、ずっと続いている。その現実に瑞希は、退屈を覚えていた。
 波音に耳を傾けながら、思う。

 ――真っ黒な海の向こうに、あたしたちの知らない何かがあったら素敵なのに。

 子供じみた夢想を抱く。しかし、そんなことはあり得ないと断じられるくらいには、彼女は大人だった。
 寄せては返す、海の鳴き声。まるで唄のようにも聞こえる、優しい潮騒。それに浸りたくなって、耳を澄ます。
 そして、気付く。

 ――違う。唄のような、じゃない。

 波音と合わせて、透き通った唄声そのものが響いていた。
 瑞希は、目を閉ざす。
 余分な感覚を遮断し、聴覚だけに意識を集中させる。風鳴りを掻き分け、波音と一体化した声を掬いあげるために。 
 海の唄声だと言われても疑えないほどに静かな声音は、美しく透明感がある。
 童謡に似た民族的な旋律は、初めて聴く音楽だった。外国語で綴られた歌詞なのか、何を言っているのか分からない。

 だというのに。
 その旋律に込められた想いが、胸に沁みこんでくる。乾いた砂に水が浸透するように、唄が胸を満たしていく。
 切なさや、哀愁や、郷愁で作られた唄だと、すぐに分かった。
 瑞希の足が、自然に動く。覚束ない足取りで、彼女は唄声の聞こえる方へ歩いていく。
 酷く綺麗で、儚さを感じさせる唄声へと、近づいていく。
 砂を踏む足が頼りなく思える。何故か強く胸が締め付けられて、涙が溢れそうだった。
 濡れそうになる視界の先、ごつごつした岩に囲まれた磯が見える。
 瑞希の歩みが、止まった。
 大きな岩に腰掛けて素足を磯に浸す少女に、瑞希の視線は釘付けになっていた。

 少し青みがかったストレートロングの黒髪、病的なほどに真っ白い肌、強風が吹けば簡単に手折れそうなくらいに細い身体。
 青白い月光に照らされた彼女は神秘的で、別世界の住人だと言われても違和感のない雰囲気を醸し出していた。
 純白のワンピースに身を包んだ少女は、真っ直ぐに海を見て唄っている。
 潮騒と同調し、共に唄っている。
 その神秘的な光景に、瑞希は息を呑んだ。波に攫われたわけでもないのに、自分の知らない世界へ迷い込んだような錯覚に捉われる。
 呆然と立ち尽くし、それでも聴覚だけは鋭敏さを保とうと努める。優しく寂しい唄を、一フレーズたりとも聞き逃したくはなかった。

 だけどその願いは、いともあっさりと妨害されてしまう。
 遠くから列車の音が響いたとき、透明な唄声が止まったからだ。
 瞬間、一気に現実感が戻ってくる。足裏で、砂の感触がしっかりと感じられる。
 迷い込んだ世界は、欠片一つ残さずに消失していた。
 それでも、あの感覚が夢でも幻でもないと瑞希は確信している。
 なぜなら今も、あの神秘的な少女は、岩に腰を下ろしているのだ。

 その横顔が、動く。
 澄み切った瞳が、ゆっくりと、瑞希へと向けられた。

 ――続く。



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最終更新:2008年09月30日 00:42