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48 :海の向こう側 ◆jTyIJlqBpA :2008/09/29(月) 22:16:08 ID:uGyxHZz2

 第一話 『白日の再会』

 教室に入り、朝の日差しが差し込む窓際の席に座るや否や、白山瑞希は窓の外に視線を向けた。
 澄み渡る青空を眺めるためでも、朝練を終えて校舎に入ってくる部活生を見守るためでもない。
 大きな欠伸を、我慢できなかったからだ。大口を開けるその瞬間を、クラスメイトに見られては恥ずかしい。
 だから口元を手で覆い、アンニュイなフリをしながら欠伸をする。それでも、脳を満たす睡魔は出て行ってはくれなかった。
 瞼が勝手に閉じていく。深夜の散歩が両親にばれて叱られたせいで、まともに寝ていなかった。
 いつもなら、気付かれるようなヘマはしない。
 なのにばれてしまったのは、きっと、昨夜はいつもとは違ったからだ。
 眠気に耐え切れず、目を閉じる。瞼の裏には、昨夜の光景が焼きついている。

 意識がまどろみ、過去に飛んだ。
 教室の喧騒は静かな潮騒に変わり、それに寄り添う唄声が耳の奥で響く。
 唄い手は、とんでもなく神秘的な女の子。彼女のガラス玉よりも澄み切った瞳と、目が合う。
 そう、確かに目が合った。
 その瞬間、女の子は唐突に立ち上がると、一言の声も出さずに走り去った。それも、海水に濡れた素足のままで。
 瑞希はただ呆然と、小さくなっていく背中を眺めているしかできなかった。
 唄が止まった瞬間に現実感は戻ってきていたのに、突然の逃走に脳は反応してくれなかった。それは、寝起きの脳がすぐには働かないのと似た感覚だった。
 我に返った瑞希の前に残されたのは、小さな白いサンダルだけだった。
 そのサンダルは今、白山家の玄関に設えられた下駄箱に入っている。
 持ち帰ってしまったのだ。
 そうした理由は、ただ一つ。
 それを持っていれば、あの少女にまた会える気がしたから。
 もう一度会って、今度は話をしたかった。そして、彼女が見る世界を共有したかった。
 そこは、瑞希が退屈を覚える日常とは違うはずだ。

「おはよーっ!」
 不意に聞こえた元気な挨拶が、瑞希を引っ張った。
 意識がまどろみから、ゆっくりと浮上していき、昨夜の出来事は記憶の底へと沈む。
 いつもの教室といつもの喧騒が、戻ってきた。
 溌剌な声に緩慢な動きで振り返り、瑞希は手を挙げた。
「おはよ。今日も朝から元気ねぇ……」
 欠伸交じりの挨拶を、クラスメイトの雨宮つばきに返す。
「当然よ! 曇った目では、真実の探求なんてできないわ!」
 胸を張るつばきはとても健康的だ。有り余る元気さを抑えられないのか、すごい勢いで瑞希の前の席に座る。
「それにしても、やっぱり窓際はいいわね。早く席替えやんないかなー」
 言いながら、つばきはスクープを探そうとするように窓から身を乗り出す。
 つられて、瑞希も外を見た。見慣れた制服の群れが、ぞろぞろと学校に向かってくる。
 つまらないわけではないが、ちょっぴり刺激の足りない日常の気配に、瑞希は内心で嘆息した。

 ◆

 朝食には遅く、昼食には早い時間になると、少しずつ気温が増し始める。まだ残暑が厳しいため、夏の装いをした人々が多い。
 だからこそ、喫茶店『マクガフィン』の一席を陣取るその二人組みは目立っていた。
 一人は、喪服を思わせる漆黒のスーツを着た眼鏡の男だ。二十代後半に見えるその男は目を閉じ、湯気を立てるコーヒーカップに口を付けた。
 舌に広がる熱と濃厚な苦味を堪能すると、息を一つ吐く。
「泥水と称されるコーヒーは、なかなかどうして味わい深いですよ。一杯、いかがです?」
「結構だ。コーヒーは飲めん」
 テーブルを挟んで男の向かいに座る女が、不機嫌そうに応じる。結い上げた髪にかんざしを挿した彼女の身を包むのは、濃紺の和服だった。
「そんなことよりも、手がかりはあるのか?」
 詰め寄る女を受け流し、男はもう一口コーヒーを啜る。
「せっかちですねぇ。せっかく高杜までやって来たんですから、もう少しゆっくりしませんか?」
「……ふざけるな。遊びに来たのではないのだぞ」
 女は眉が吊上げ、苛立ちを露にする。それでも、彼女の顔立ちはやはり美しいと男は思う。
 更に機嫌を損ねるだけだと分かっているから、その感想をコーヒーと一緒に飲み込んだ。

「正直なところ、手がかりなどほとんどないと言わざるを得ませんね。それどころか、実在しているかどうかも怪しいものです」
「ほとんど、ということは、少しはあるということだろう? まさか、考えなしに来たわけではあるまい?」
「ええ、まぁ。手がかりというには随分と頼りないですが、ね」
 女が、視線だけで促してくる。だから男は、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「人魚の肉がこの町にあるというのは、僕の推測に過ぎません。その推測に至った根拠は、実のところたった二つしかないのですよ」
 人差し指を、立てる。
「一つ目は、この町に人魚伝承が伝わっている点です。紫阿童子の伝承ほどメジャーではありませんが、船乗りは人魚伝承を知っています」
 男は腕時計に目を落とす。アナログの文字盤に記された日付を確認し、続ける。
「丁度、今日は九月七日ですね。港には船が並んでいるでしょう。見に行くのも一興かもしれません」
「どういうことだ?」
「毎月七のつく日に、高杜の船は全て港に停泊するんですよ。
 船を出してほしいと頼んだとしても、皆揃って首を横に振るでしょう。海に生きる屈強な男たちが、顔色を青くして震えながらね」
 唇の端を吊り上げて男は笑う。その嗜虐心に満ちた笑みに、女は冷たい視線を送るだけだ。
「人魚が出るから、か?」
「ご明察。かつては、人魚の肉を求めて七の日に船を出す船乗りも多かったそうです。
 ですが、海の藻屑となった者や死体となって町に戻ってきた者がほとんどで、奇跡的に命が助かった者も廃人となってしまっていたと言われています。
 廃人となってでも生きられるのは、幸せですよねぇ?」

 にやつきながらの下らない問いを無視し、女は不愉快さを紅茶で流し込む。 
「そんな伝承、珍しくはないだろう。伝承があるところに人魚の肉があるのなら、苦労はしない」
「そこで、もう一つの根拠が絡んでくるわけです」
 人差し指に続いて、中指を立てた。
 口角を吊り上げ、手品の種明かしをするように、告げる。

「この町にはいるんですよ。老いを超越した人物がね」

 女が、目を見開いた。彼女の、不機嫌以外の表情を見るのは初めてだった。
 紅茶を口に含んでいるときに言ってやればよかったと、男は思う。
「確か、なのか?」
 予想通りの答えに、男は笑みを深める。
「僕も実際にお目にかかったわけではないので、真実は分かりません。ですから――」
 残ったコーヒーを、一気に飲み干す。強烈なカフェインの香りが、男の味覚と嗅覚を刺激した。

「会ってみようと思います。高杜学園の学園長に、ね」

 ◆

 時間が飛んでいったと感じるのは、瑞希が放課後までほとんど寝て過ごしたせいだろう。
 何度か先生に怒られて目は覚ましたのだが、覚醒を保てたのは数分だ。最終的には呆れられ放置されていたが、それをいいことに、眠気に身を預けていた。
 だが学校の机で熟睡などできはしないし、突っ伏して寝ていたせいで肩が痛い。そのくせまだ頭には靄がかかっているし、欠伸は断続的に続いている。

 つばきを始めとして、友人は皆部活に行っている。
 だから瑞希は、一人でさっさと昇降口を潜った。シャワーでも浴びて寝直そうと思いながら、青空の下を歩く。熱い日差しも、セミの鳴き声も、眠気を払ってはくれない。
 今日何十回目になるか分からない欠伸を噛み殺しながら、校門に差し掛かる。すると、門扉に背中を預けている少女が目に入った。
 彼女は、去年まで瑞希が着ていた制服――高杜学園中等部の制服で身を包んでいる。青みがかった髪が、彼女を目立たせていた。

「あ……」
 瑞希の口から、声が落ちた。突風が霧を吹き飛ばすように、睡魔が霧消する。
 心臓が、跳ね上がった。じんわりと汗が滲んできたのは、暑さのせいだけではない。
 足が止まり、視線が少女に固定される。鞄を、取り落としかけた。
 昨夜浜辺で出会った少女が、そこに佇んでいたのだ。
 予想外の事態に、白昼夢を見ているのではないかと思ってしまう。

 まるで別世界の住人と言っても差障りのない、透き通った唄声の少女。
 そんな子が、こんな日常まみれの場所にいることが信じられなかった。
 彼女が、こちらを向く。水晶球を連想させる瞳が、瑞希を映そうとする。
 昨夜と同じ仕草だった。
 瑞希は、思わず手を伸ばしていた。
 目が合った瞬間に、彼女がまた駆け出しそうに思えたからだ。
 届けと願いながら伸ばした手。
 それは、拍子抜けするほどにあっさりと、細い肩へと届いていた。

「……あれ?」
 夏服越しの体温が、掌に伝わってくる。汗を吸った制服は、僅かに湿っぽい。
 少女は眉尻を下げた困り顔で、瑞希を眺めている。それだけで、背を向ける様子など微塵もない。
「えっと……」
 気まずさが溶け広がっていく。それを嗅ぎ取ったのか、下校途中の学生が疑問の視線を投げかけてくる。
 瑞希は、少女の目と、彼女の肩に乗せた自分の手を見比べる。意味ある行動を取れるほど、瑞希は冷静ではなかった。
 そんな瑞希を見かねてか、少女が口を開く。暑さのせいか、その頬はうっすらと紅潮していた。
「あの、昨日、会った人ですよね……? 少し、時間、いいですか……?」
「……へ? 時間? あたしの?」
 肩から手を離し、瑞希は自分を指差す。
 おずおずと頷く少女を見て、瑞希はようやく、彼女が自分を待っていたのだと悟った。

 ◆

「ごめんね、勝手に持ってきちゃって」
 南部住宅街の一画にある、白山家の玄関で、ポニーテールが跳ねるくらいの勢いで瑞希は頭を下げた。
 謝罪の先にいるのは、白いサンダルを手にした少女だ。彼女が瑞希を待っていたのは、サンダルの在り処を尋ねるためだった。
 申し訳ないと思いながらも、持ってきてよかったと瑞希は思う。
 おかげでこうして、思ったよりも早く再会できたのだから。 
「いえ。だいじょうぶ、です。見つかって、よかった」
 目を細める少女の顔は、透明なガラス細工を連想させるくらいに綺麗で、何処か繊細な印象を受けた。
 瑞希の胸が、とくりと高鳴ってしまう。
 同性の、しかも年下の子相手にときめきを覚えた事実に、瑞希は焦りを覚える。
「あ、あのさ!」
 鼓動を誤魔化すために出した声は、必要以上に大きくなってしまった。そのせいで、少女がびくりと肩を震わせる。
「あ……ごめんね。びっくりさせるつもりじゃなかったんだけど」
 調子が狂っているのを自覚する。だが、不愉快さは感じない。
「よかったら、上がっていかない?」
 誘っていたのは、この機を逃してしまったら、二度と彼女と話をできない気がしたからだ。
 もしも、夜の海で会えたとしても、もう捕まえられないように思えたからだ。
「あなたと話、したいんだ」
 こんなに素直に誰かを誘うのは、初めてだった。 
 何故か、鼓動が速度を増す。強い緊張感が、筋肉を強張らせていた。
 好きな男の子に愛の告白をした後というのは、こういう気分なのだろうかと思いながら、少女の反応を待つ。
 小さな口が開くまで、時間はかからない。

「わたしも、お話、したいです」
 微笑みを浮かべて告げられる声を、瑞希は確かに聞いた。
 瞬間、瑞希の緊張が解きほぐれ、代わって喜びが顔を出してくる。意識せず、顔が綻んでいた。
 返答は勿論、彼女も瑞希と話をしたいと思ってくれたことが、嬉しかった。
「……じゃあ、上がって上がって!」
 どちらが年下か分からない無邪気さを向けると、少女がくすりと笑う。
「お邪魔、します」
 瑞希に続き、少女もローファを脱ぐ。スカートから伸びる脚は、羨ましくなるくらいに細く白かった。 
 彼女を案内し、瑞希は居間へ入る。靴下越しに感じるフローリングの冷たさが心地よい。
 エアコンのスイッチを入れたとき、少女が遠慮がちにドアを潜ってきた。
「あたし、白山瑞希。高校一年だよ。あなたは?」 
「えと、わたし、深魚です。渡来深魚。中学、二年です」
「よろしくね、渡来さん。飲み物持ってくるから、少し待ってて」
 グラス二つと二リットルのペットボトルを持って戻ると、深魚は肩の力を抜き、髪を揺らして冷風を浴びていた。
「お待たせ。麦茶でいいよね?」
 麦茶を入れて手渡すと、深魚の表情が輝く。サンダルを手渡したときよりも嬉しげに見えたのは、熱を帯びたように顔が紅いせいだろうか。
「はい、いただきます。ありがとうございますっ」
 言うや否や深魚は一気に飲み干し、幸せそうに一息吐いた。よほど喉が渇いていたみたいだ。 
「もっと飲む?」
「あ、その、よろしければ……」
 遠慮がちにグラスを差し出してくる。上目遣いが可愛らしい。
 受け取って、注ぐ。
 しつこかった眠気は、とっくに消し飛んでいる。瑞希の胸にあるのは、ただ深魚への興味だけだった。

 ◆

 高杜学園学園長室に設えられた椅子は、大きい。正確には、大きく見える。
 その立派な椅子に座るべき人物が、子供と変わらない体躯の持ち主だからだ。
 幼子と相違ない容貌をした学園長は、手に持ったドロップの缶を振る。掌に落ちてきた飴玉は、白い。
「む……」
 不満そうにそれを一瞥し、缶に戻す。蓋をしてもう一度振ろうとしたとき、ノックの音が響いてきた。
「失礼します」
 ドア越しの声に返事をしつつ、缶を机の端に置く。
 現れたのは学園の事務及び、接客を担当する女性だった。
「お客様がいらっしゃっております。如何、致しましょうか?」
 女性の問いに、学園長は眉をひそめる。
 わざわざこう尋ねてくるということは、少なくとも、知人の類ではないと考えていい。
 色々とキナ臭い話は多い。だからこそ警戒し、慎重な応対が必要だ。
 しかし、学園長は即答する。
「通してくれ」
「よろしいのですか……?」
 不安げな女性に、笑みを返す。
 その幼い顔つきからは想像もつかない、威風堂々とした不敵な笑みを、だ。
「案じてくれるのは嬉しい。じゃが、大丈夫じゃ。私を信じてくれればよい」
 短いが頼もしい発言は、女性の不安を拭うには充分だった。だから彼女は一礼し、学園長室を後にする。
 ぱたん、と音を立てて閉じられたドアから、学園長は目を離す。
 もう一度、ドロップの缶を手にとって振ってみる。
 出てきたのは、先ほどと同じハッカ味のドロップだ。
 それはまるで、望まぬ来客を暗示しているようだった。

 ――続く。










52 : ◆jTyIJlqBpA :2008/09/29(月) 22:24:08 ID:uGyxHZz2
以上、投下終了です。
IXTcNublQI氏の『 高杜学園たぶろいど! 』より、雨宮つばきをお借りしました。

また、七のつく日には高杜港に船が停泊する理由に人魚伝承を持ってきました。
具体的には今後、話の中で出していく予定です。

以下、簡単ですがキャラ紹介です。

白山瑞希(しらやま みずき)
  • 高杜学園高等部一年。ポニーテールがトレードマークの女子高生。
  • やや夢見がちで、退屈気味の日常に刺激を求めている。
  • 夜の散歩が好きなこともあり、朝が弱い。

渡来深魚(わたらい みお)
  • 高杜学園中等部二年。青みがかった長い髪が特徴で、とても華奢な体つきをしている。



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最終更新:2008年09月30日 00:42