226 :夏の残り香 ◆HdhN8f97gI :2008/10/18(土) 21:59:39 ID:a1hKIFkM
今日も放課後がやって来る。
誰もが喜ぶはずのその訪れに、僕は鬱屈した溜息を吐くしかなかった。
二学期に入ってからは、楽しいはずの放課後が憂鬱だ。
いや、放課後だけじゃない。休み時間も昼休みも、学校での自由な時間すべてに鬱を覚える。
だから僕は、鞄を手にとって席を立つ。敦彦に一声かけてから、教室からそそくさと出て行こうとしたとき。
「よーねーくーらーっ」
僕の陰鬱な心境とは対照的な、明るい声の女子が立ちはだかった。
「今日は逃がさないわよ。ほらほら、皆で遊びに行くよー」
ショートカットがよく似合う、快活な笑顔をした深谷真奈子が、肩を叩いてくる。運動をやってるわけでもないのに妙に力が強く、少し痛い。
それに気圧されたように、深谷から目を逸らす。木目の床を見ながら落とすのは、謝罪と否定の連なりだ。
「ごめん、今日もちょっとパスさせて」
言ってから、叱られる子供のように深谷を伺う。彼女は、不満そうに頬を膨らませていた。
「えー、なんでよー? お昼もいなかったし、付き合い悪いじゃん」
「えっと、それは……」
上手い言い訳が見つからず口ごもってしまう。まごつく僕に、深谷は小声で追撃をかけてくる。
「名希と、遊びたくないの?」
息が詰まるくらいに、致命的な一撃だった。その一撃は、僕から言葉や思考を奪っていく。
気付かれていて当然だ。あんなに不自然で気まずい様子を察知できないなら、相当の馬鹿だ。
そして深谷は馬鹿なんかじゃない。
だからその指摘は、されるべくしてされたと考えるべきだと思う。なのに僕は、対策も応対も取れず打ちのめされるだけだった。
歯切れの悪い僕に、深谷は溜息を投げかけてくる。そして僕の腕を掴んで踵を返し、大股で歩き始めた。力の抜けた僕の身は抵抗できず、つまずきそうになりながら、ぐんぐん引っ張られていく。
「な、何するんだよ……!」
答えずに、深谷はあっという間に僕を連れて教室から出る。
開け放たれた窓から眩い陽光が差し込んでいて、廊下に熱を与えている。湿度の篭った風が吹き込み、外の音を伝えてくる。
人通りの多い、放課後の廊下。
その壁際に佇む二人――岸原敦彦と沢口名希の前で、深谷は立ち止まる。
「米倉とうちゃーく。連れてきたよー」
「連れてきたって、お前なぁ」
困った用に応じたのは、敦彦だ。心配そうに眉尻を下げ、僕を一瞥してから深谷に向き直る。
「無理矢理連れてくるのはどうなんだよ。啓祐にだって都合とかあんだろ」
「……都合? そんなのあんの?」
深谷が、ゆっくりと振り返った。
感情の波や気配を取り払った、驚くほどの無表情を、僕に向けてくる。
「バイトとか、あるよな?」
深谷越しの敦彦が助け舟を出してくれる。でもそれに足を掛けるより早く、深谷が口を開く。
「今日はないでしょ。牧田君からシフト聞いたよ」
切って捨てるような口調は有無を言わさない。押し黙ってしまう僕を、深谷の両目が捕まえる。真っ黒な瞳は、心を見透かしてきそうだった。
その真っ直ぐさに得体の知れない恐怖を覚える。後ずさりそうになる意思を、なんとか踏みとどまらせるのが精一杯だ。
「啓祐だって忙しいんだって。俺みたいに暇じゃ――」
「あたしは米倉に聞いてんの。岸原は黙ってて」
深谷は完全に敦彦をシャットアウトし、僕から目を離さない。圧力のある視線に不機嫌さが篭り始めていた。
「予定あるんなら付き合わなくていいけどさ。何があんのか教えてくれてもいいでしょ?」
声のトーンが低くなる。静かに責めたてるような深谷に、僕は応じられない。
さっき教室で聞いた、深谷の囁きがトゲになって心に刺さっている。
予定も都合も用事もない。なのに一人で帰ろうとしたのは、やっぱり遊ぶのが嫌なんだろうか。
浮かぶのは疑問だけで、声が出ない。答えが見つけられない。だから無言を返すしかない。深谷の視線に晒されながら、口を閉ざすしかない。
ないない尽くしに、嫌になる。
廊下の喧騒は少なくなり始めている。そのせいで強調された静寂を破ったのは、深谷でも敦彦でも、僕でもない。
ずっと俯いて黙っていた沢口だった。
「あ、あのさ。わたし、用事あったの思い出しちゃった」
上げられた沢口の顔は無理矢理な作り笑顔だった。眼鏡越しの瞳は宙に向けられていて僕らを見ていない。沢口の声は、いつものそれよりも、必要以上に大きかった。
嘘だと、丸分かりだ。
「その、だから、ごめん」
沢口の視線が動く。揺れる瞳が、僕を捕捉した。
そして、もう一言。
「――ごめんね」
魔法の言葉を投げかけられたようだった。
思考と行動が、眼鏡越しの瞳と震える謝罪によって、瞬時に停止させられたからだ。
応じられず考えられず、ただ、思う。
どういう意味の『ごめんね』なんだろう。
どうして瞳が揺れていたんだろう。
疑問に思うだけの僕をおいていくように、沢口は、肩まで伸ばした髪を揺らして駆け出した。
離れていく小さな背中。それをただぼんやりと眺めて、僕は立ち尽くしてしまう。
「ちょっと、名希!?」
深谷が慌てて手を伸ばすが、遠ざかっていく背には届かない。階段を下りる沢口に目を向けて、深谷は苛立たしげに髪を梳いた。
「あー、もうっ! 今日は解散解散!」
言い捨てると、深谷も沢口を追って駆け出した。先生に見つかったら叱られそうな勢いで、彼女は下校する生徒の間を縫って走っていく。その後姿が見えなくなったとき、敦彦が舌打ちを落とした。
「ったく、勝手な奴め」
勝手、か。
それはきっと、僕のことだ。
僕の身勝手で軽率な行動のせいで、四人の関係がおかしくなってしまったんだから。
それだけじゃない。敦彦に心配をかけているのも、深谷を苛立たせているのも、沢口を傷つけたのも、全部僕だ。
ぶち壊しておいて、何とかしたいと思いながら、何もできない僕が、勝手じゃないなら何なんだろう。
悪いのは、全部僕だ。
だったら。
僕なんていない方がいいんだろうか。僕がいなくなった方が、皆が楽しく過ごせるんじゃないだろうか。
「あいつら行っちまったし、今日も男二人で帰るか」
笑いかけてくれる敦彦。
まただ。
またこうやって、僕は気を遣わせている。
誘ってくれるのはとても嬉しい。気に掛けてくれるのはとてもありがたい。
だけどそれ以上に申し訳なくて、一緒にいる資格はないように思えた。
だから、僕は首を横に振る。すると敦彦は、寂しそうに小さく肩を落とした。
「……そっか。ま、一人がいいときもあるよな。昨日も言ったけど、何か言いたくなったらいつでも言えよな?」
哀しげな微笑みを湛えたまま、そっと肩を叩いてくれる敦彦。歩いて立ち去る背中から、窓の外へと視線を移す。
窓枠から身を乗り出してみた。
セミが鳴いている。部活に励む学生の声が空気に溶けている。空は青く日差しは強く太陽は眩しい。
力強さを感じさせるその世界は、情けない僕の居場所じゃないようだった。
だから、窓枠から身を離す。
振り返った廊下は既に閑散としている。日の光に照らされたリノリウムに、僕の影が投げ出されている。
取り残されたような感覚に、思わず笑ってしまった。
僕なんて、こうやって一人でいるのがお似合いだ。そしたら誰も傷つけない。迷惑をかけない。一番の解決策だ。
やけに広く感じる廊下を歩く。日の当たらない影をなぞるようにして。
こつり、こつりと、無意味に足音を立てる。それに耳を傾けていれば、階段まで時間はかからない。
無人の階段を降りながら、その段数を数えていく。
一、二、三、四……。
踊り場が見えてくる。日の光が届かない踊り場は、廊下に比べて薄暗かった。
無人の踊り場を通り過ぎれば、もう一度階段に差し掛かる。なんとなく手すりを掴んでみると、やたら冷たかった。
最初から数え直しながら、降りる。
一、二、三、四……。
数字が増えるたび、こつりこつりと音が響く。生まれては消え、消えては生まれていく音。それは薄暗い階段の中、一定のリズムを刻んでいく。その音を聞いているのは、きっと僕だけだ。
一人だけになったような感覚。
もしも本当に一人なら、きっと傷つかない。誰も傷つけない。迷惑をかけない。
それでいい。それがいい。
いいに決まってる。
こつり、こつり。
……八、九、十。
階段を、降り切る。
足音も、止まった。
二階から一階へ降りただけだ。いつも繰り返している、余りにも日常的な行為。それだけなのに、異常に時間を費やしたように思えてならない。
陽光に照らされた廊下が真っ直ぐ伸びている。昇降口はすぐそこだ。
なのに。
僕は、階段に座り込んでいた。
薄暗くて、誰の気配もなくて、物音は遠くから聞こえる運動部の声くらいしかない場所。
世界の端っこがあるなら、きっとこんな場所なんだろう。
そこに一人ぼっちで、膝を抱えて蹲る。立てた両膝に顔を埋めれば、視界は闇に包まれる。
真っ暗な闇の中には何もない。だから、そこに記憶を描いていく。
楽しい、記憶だ。
敦彦が、深谷が、沢口が笑っている。
晴れやかで心から楽しそうな満面な笑顔を、湛えている。
皆、いい奴だ。
敦彦はさりげない気配りが上手い。敦彦が羽目を外しすぎたときはフォローするけど、僕だって何度もフォローしてもらっている。
深谷はリーダーシップに長けていて、行動力がある。僕と敦彦が沢口と仲良くなれて、楽しい時間が過ごせたのは、深谷がいたからだ。
沢口は何事にも一所懸命で、とても優しくて献身的な子だ。どんなに下らない話も真剣に聴いてくれるし、僕が困っているときは嫌がらずに手伝ってくれた。
本当に皆、いい奴だ。
だから。
だから、僕は。
――皆と一緒にいたい。たとえ迷惑をかけても、傷つけることになったとしても、傷つくことになったとしても。
今なら確かに言える。遊びたくないはずがない、と。
また皆で楽しい時間を共有したいんだ。
皆で笑いたい。皆で馬鹿をやりたい。皆で遊びに行きたい。皆で何かをやりたい。
バーベキューだって、本当はやりたいんだ。
そうだよ。それは間違いないんだ。
心が重く苦しいのは沢口にフラれたせいだけじゃない。
皆で過ごす楽しい日常を、この手で壊してしまったことが辛かった。
元通りにしたい。皆で遊べる日常を取り戻したいと思ってるにもかかわらず。
僕はその本心からも、目を逸らしかけていた。一人でいようとしたのは、その証明だ。
一人ぼっちでいる方が、もっと苦しいのに。
でも、過ぎた時間は戻らない。告白した事実は消えない。
どうしたらいい? どうすれば元に戻れる? どうすれば?
暗闇の中で自問する。手探りで答えを求め欲する。
何度も繰り返してきた。その度に分からなくて、悩むのが辛くて、有耶無耶にして、目を背けてきた。
そんなことばかりやっているから、何も解決しないし前には進めないでいるんだ。痛くても辛くても苦しくても考えろ。
何もできないと言い訳をして、逃げて、悩み苦しむヘタレな自分に終止符を打つんだ。
また、皆と笑うために。
胸を締め付ける夏の残り香を、振り切るために。
決意をすれば、日当たりのいい廊下だって眺められる。
痛みと向き合おうと上げた顔。正面を向いた視線が、一人の女子生徒の視線と、交わった。
僕はその人を知っている。
整った顔に優しい笑みを浮かべる、長身長髪の大人びた女子生徒。今日の昼、一緒にご飯を食べた人。
宮野明菜先輩の存在を知覚した、その瞬間。
頬が、急激に温度を増した。
最終更新:2008年10月20日 23:20