134 :夏の残り香 ◆HdhN8f97gI :2008/10/07(火) 20:57:04 ID:o6LQNBl/

 重いドアを押し開けると、眩い陽光が飛び込んできた。青空から降る強い日差しが、露出した腕に突き刺さってくる。
 チャイムが鳴ったばかりだというのに、屋上は既に人でいっぱいだった。喧騒が広がる屋上は、宮野先輩と出会ったときと雰囲気が全然違っている。活気がある今の屋上と、静かな昨日の屋上は、別の場所みたいだった。 
 多くの制服の間をぐるりと見回し、先輩を探す。髪が長く背も高い姿はよく目立っていて、すぐに見つかった。

「ごめんなさい、お待たせしました」
 フェンスに背を預けてぼんやりしている先輩に駆け寄ると、手を振ってくれる。
「私も今来たところだよ。と言うと、デートの待ち合わせをしてたみたいだな」
 悪戯っぽく笑う先輩に、上手い返答ができず、僕は俯いてしまう。顔が熱いのは日光のせいだ、うん。
 鞄を置いて座ると、先輩も向かいに腰を下ろす。微笑ましそうな表情が、ちょっと悔しい。
「ふふ、米倉くんは可愛いなぁ」
「……からかうんだったら、持って帰りますよ」
 ふてくされて言ってやる。
 ささやかな抵抗だったが、それは、先輩の表情を硬直させた。
「う、申し訳ない。からかうつもりはなかったのだが、調子に乗ってしまったか……」
 ばつが悪そうに、先輩は頭を下げる。からかうつもりがないなら、余計に恥ずかしい。
 でも、肩を縮こまらせて僕を伺う先輩を見ていると、そんなことを言う気は失せてしまう。僕は黙ったまま鞄を開けると、用意してきた弁当箱を差し出した。
 すると瞬時に、先輩の瞳が輝きに満ちて、唇が笑みを形作る。
 整った顔が喜色に溢れるまで、時間はかからない。つぼみが開花する瞬間みたいな、表情の変化だった。
 満面の笑顔を湛えたまま、弁当を両手で受け取ってくれる。

「――嬉しいよ、ありがとう」

 まるで、大好きな人から結婚指輪を渡されたときのような言い方だった。
 だから僕の心臓が大きく跳ねてしまったのは、仕方ないと思う。
「あ、いえ。そんな立派なものじゃないんで、その……」
 どぎまぎして、言葉が上手く出ない。
 宮野先輩の魅力的な笑顔が、胸を心地よく刺激する。
 そして、その刺激が、沢口への罪悪感を呼び起こした。
「と、とにかく、食べましょう!」
 その両方を誤魔化して、はぐらかして、自分の弁当箱を慌てて取り出す。
「うん、いただきます」
 僕が弁当を取り出すのを待ってから、丁寧に手を合わせる先輩。その綺麗な手で蓋を開け、露になった中身に目を落とし、そして。
「美味しそう……」
 ぽつりと、呟いた。
 弁当箱の半分にハンバーグと卵焼き、ポテトサラダにほうれん草のおひたしが入っていて、もう半分にはご飯が詰まっている。やや少なめなのは、先輩の食事量が分からなかったからだ。
「これ、全部米倉くんの手作り?」
「一応、そうですね」
「すごいすごい! 大したもんだよ」
 先輩は、ハンバーグを箸で切り取って口に入れる。僕はご飯をつまみつつ、その様子を窺った。
 視線の先、先輩は目を細め、幸せそうに咀嚼している。小さく喉を動かし嚥下すると、続いて、サラダ、卵焼き、おひたし、ご飯の順で箸をつけていく。
 弁当箱を一周して、先輩は息を吐いた。
 陰鬱な溜息ではなく、詰まった幸福に押し出された吐息だった。

「美味しい……」 
 その一言に、心がじんわりと温かくなった。
 本当に美味しいと思ってくれていると分かる、呟きだったからだ。
「口に合ったみたいで、よかったです」
 僕の口元が自然と緩む。先輩の喜びが、嬉しく思えた。
「うん。すごく美味しい。いいお嫁さんになれるよ、キミは」
「あはは、嫁ですか……。貰い手、いますかね?」
 自嘲気味に返すと、先輩は面白そうに笑う。
「引っ張りだこだと思うよ? 可愛いしね?」
 今度こそからかわれた。弁当を渡してしまった以上、僕に抵抗の術はなく、そっぽを向くしかできない。
 でも決して、嫌なわけじゃない。
 不思議と、嫌なわけじゃ、なかった。

 ◆

「ふぅ、美味しかったよ。ありがとう、米倉くん」
「どういたしまして。喜んでもらえて光栄ですよ」
 弁当を平らげた僕らは、木陰でペットボトルのお茶を飲みつつ、屋上の喧騒作りに一役買っていた。 
「正直な話、本当に作ってきてくれるとは思わなかったよ」
「そうなんですか?」
「うん。だって、初対面の相手が図々しい頼みをしてきたんだぞ?」
 言われて、先輩とは昨日会ったばかりだったと思い直す。忘れていたわけじゃないけど、なんだか随分前からの知り合いだったような気がしていた。

 だから、からかわれても嫌な気分にならなかったんだ。
 こんなに親近感を覚えられるのは、みっともないところを見られた上で、先輩が僕を受け止めてくれたからだろうか。
 あるいは昨日、同じことを望んで、同じ場所へ来たせいなのかもしれない。
 似ているが故の、好感。
 だとすると、先輩が泣いていた理由は何なのだろう。
 気になるけど、聞けるはずはない。僕だって昨日、屋上に来た理由を話したわけじゃないのだ。
 ちょっと嫌なことがあったと、そう話しただけ。
 話せれば楽になると思いながらも誰にも言えないのは、やっぱり僕がヘタレだからなんだろう。
 最近、思考がネガティヴな方にしか転がらない。下り坂を転がっていく石が、自分自身でブレーキをかけられないのと同じだった。

「もし持ってこなかったら、どうするつもりだったんですか?」
 止められないマイナス思考から目を逸らして、尋ねる。 
 話をしていれば、気は紛れるはずだ。昨日の屋上や、放課後と同じように。
「そのときは学食に行くつもりだったよ。普段から学食だしな、私は」
「あ、そうなんですか。僕、実は学食使ったことないんですよねー」
「料理できれば使わないだろうね。でも、それは勿体無いぞ。生姜焼き定食は、是非食べておくべきだよ」
 先輩は人差し指を立て、得意げに語る。
「地味ながら、うどんも美味しいぞ。濃くも薄くもない絶妙なダシの味は堪らない」
 楽しそうな語り口に、相槌を打つ。確かに、行ってみるのは悪くないだろう。色々な味の料理を食べてみるのは研究になる。
 ……それに、昼休みに教室から出て行けるし。
「しかし、米倉くんは毎日自分でお弁当を作っているのか?」
「毎日じゃないですよ。たまにです、たまに」
「それでも偉いよ。私もたまには作ろうとは思うのだが、どうにも面倒くさがってしまってなぁ。寮生活も三年になるのに、お昼ご飯を自分で作ってきたのは片手で数えられるほどだよ」

 ちびりとお茶を飲んで、先輩は苦笑いを浮かべる。僕は、さりげなく開示された情報に目を丸くした。
「先輩って、寮生だったんですか?」 
「うん。中学までは他県にいてね。高杜に来たのは高校生になってからだよ」

 そこで言葉を切ると、先輩は視線をフェンスの向こうに飛ばす。その先に見えるのは広大な敷地の学園と、高杜の町並みだ。

「――来てよかったと、心から思ってるよ。いいところだよね、高杜は」

 一望して、呟く。
 その声はまるで、かろうじて音を立てた風鈴の鳴き声を思わせるくらいにか細くて、夏の終わりに抱く切なさで作られているようだった。
 思わず僕は息を呑み、宮野先輩の横顔を見た。
 その横顔はとても綺麗で、でも、触れたら壊れそうな繊細さを持ち合わせている。
 切れ長の目を眼下に広がる高杜へ向けながらも、先輩は別の何処かを見ていそうだった。
 憂いを孕んだ目と、綺麗な横顔。
 その姿には、見覚えがある。
 昨日の宮野先輩と、よく似た表情だった。
 ただ今は、瞼が腫れてもいないし目も潤んでいない。
 それでも、何かきっかけがあればすぐに涙が生まれそうな顔で、彼女は遠く見ていた。

 先輩は、胸に留まる靄を吐き出したいんだろうか。
 それとも、心に刺さった棘の痛みを見せたくないんだろうか。
 考えかけて、やめる。
 分かるはずがないからだ。
 もし、宮野先輩が僕と同じ想いでいるとしても、分かりっこない。
 だって僕は、自分がどうしたいのかすら分からないのだから。
 話したいのか、黙っていたいのか。捨てたいのか、抱えたいのか。
 全然分からないから、結局心の底に仕舞いこんで、目を背けている。
 考えるだけでも辛いから。目に入っただけで痛いから。時間の流れだけを頼りにして、僕は隠れている。
 沢口から、隠れようとしている。
 だから、

「宮野先輩」

 綺麗で優しくて、悲哀を湛える先輩に、告げる。
 考えなくてもいいと、逃げてもいいというように。
「また、弁当作ってきますよ。流石に明日は無理ですけど、必ず、作ってきます」
 約束すれば、宮野先輩は笑ってくれると思ったから。
 僕にはそれくらいしかできなかった。たとえ、傷を舐めるだけだとしても。
「……ありがとう」
 先輩の表情が、緩む。
 陰は消えも隠れもしないけど、確かに笑ってくれる。
 それだけで、充分だった。僕のやったことは、やっていることは、間違っていないんだと思えてくるから。

 ――本当に、僕って最低だ。









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最終更新:2008年10月20日 23:19