まん延するニセ科学 - (2006/12/23 (土) 00:10:14) の編集履歴(バックアップ)
※全く就活とは関係ないですが、ちょこっとためになるかなと思って文字興ししてみました。今後も似たようなことをやるかもしれません。
元ネタ
はじめに
みなさんは「ニセ科学」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。これは「見かけは科学のようだけれども実は科学的とはとても言えないもの」のことで、疑似科学やエセ科学とも呼ばれます。そんなものがどこにあるんだ、とお思いの方も、例として、血液型性格判断やマイナスイオンやゲルマニウムブレスレットなどの名前を挙げれば、ああそういうもものことか、と納得されるかもしれません。それとも、かえって「えっ」と驚かれるでしょうか。
例えばみなさんもよくご存じのように、「マイナスイオンは健康に良い」と盛んに言われ、ひと頃は大手家電メーカーもこぞって製品を売り出すほどのブームになりました。マイナスイオン製品がよく売れたのは、もちろんマイナスイオンの健康効果に科学的な裏付けがあると信じた人が多かったからでしょう。テレビや雑誌などでも頻繁に取り上げられましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。しかし、実はマイナスイオンが体に良いという科学的根拠はほぼないと言ってよいのです。あのブームは全くの空騒ぎでした。大手メーカーまでがなぜその空騒ぎに乗ってしまったのか、きちんと検証しておく必要があります。
今はゲルマニウムを使った製品に人気が出てきているようです。しかし、実のところゲルマニウムを身につけたところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。今、こうした科学のようで科学でない、ニセ科学がまん延しています。こういったニセ科学の中に、しつけや道徳に関わる物があります。その話をしたいと思います。
ゲーム脳
よく知られている例の一つは、「テレビゲームをしすぎると脳の機能が壊れる」という、いわゆる「ゲーム脳」説です。しかし、この説に科学的に信頼しうる根拠はないのです。その意味でこれもまた、ニセ科学です。もちろん、どんなゲームにもそれなりの物語性がありますから、人格形成に影響することはあるでしょう。しかし、それだけなら小説やテレビドラマなどでも同じです。脳の機能が壊れるかどうかとは、全く別の話なのです。
ところが、この説は教育関係者に広く受け入れられています。全国各地で教育委員会やPTA主催の講演会が開かれているようです。もちろん、子供がゲームばかりするので困っているという親は多いでしょうし、学校の先生もそういう風潮を何とかしたいと思っているのでしょう。そういう皆さんにとって、ゲーム脳説が一見、福音に思えたことは分かりますが、科学的な根拠のないものに飛びついても仕方がありません。そもそもゲームのし過ぎを何とかしたいというのは科学の問題ではなく、しつけの問題だったはずです。子供が四六時中ゲームをして困ると考えるなら、やめるようにきちんと指導すべきでしょう。しつけの根拠を科学に求めようとしてはいけません。
水に「ありがとう」と言葉を掛けると
もう一つ、今度は水にまつわる奇妙な説を紹介しましょう。水に「ありがとう」と言葉を掛けると綺麗な結晶ができ、「バカヤロウ」と言葉を掛けると綺麗な結晶ができない、というのです。水の結晶というのは氷のことですから、これは言葉の善し悪しが氷の形に影響を与えるという主張です。しかし、もちろんそんな馬鹿なことはありません。水はただの物質です。言葉を聞く耳も、文字を読む目もなければ、言葉の意味を感じる心もありません。水が言葉に影響されるなど、いい大人が信じるような話ではなかったはずです。
ところが、これが広く信じられています。「ありがとう」は水にも分かるほど良い言葉だ、と言われるとそれだけで良い話だと思いこんでしまう人は意外に多いらしいです。この説がいくつもの小学校で道徳の授業に使われていることが問題になっています。言葉遣いを教えるのに格好の教材と思われたようです。しかし、本当にそうでしょうか。この授業はたくさんの問題をはらんでいます。
まず第一に、明らかに科学的に誤っています。理科離れや、学力低下が言われる今、道徳だからといってここまで非科学的な話を事実であるかのように教えていいはずがありません。しかしそれ以上に問題なのは、言葉遣いを、物質のふるまいに求めようとしていることです。言葉は人間同士のコミュニケーションの手段ですから、その使い方はあくまでも人間が自分の頭で考えなくてはならないはずです。「ありがとう」はどんな状況下でも良い言葉なのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。ゲーム脳がしつけの根拠を科学に求めるものだったのと同様、ここでは道徳の根拠を自然科学に求めようとしています。それは科学に対して多く求め過ぎです。しつけも道徳も人間が自分の頭で考えなくてはならないことであって、自然科学に教わるものではないはずです。
なぜ人はニセ科学を信じるのか
さて、ニセ科学が受け入れられるのは、科学に見えるからです。つまり、ニセ科学を信じる人たちは科学が嫌いなのでも科学に不信を抱いてるのでもない。むしろ、科学を信頼しているからこそ信じるわけです。例えばマイナスイオンがブームになったのは、「プラスは体に悪く、マイナスは体に良い」という説明を多くの人が科学的知識として受け入れたからです。
しかし仮に、科学者に「マイナスのイオンは体に良いのですか」と尋ねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。「マイナスのイオンといっても色々あるので、中には体に良いものも悪いものもあるでしょうし、体に良いといっても摂り過ぎれば何か悪いことも起きるでしょうしブツブツブツブツ・・・」とまあ歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。それが科学的な誠実さだからしようがないのです。
ところがニセ科学は断言してくれます。「マイナスは良い」と言ったら良いし、「プラスは悪い」と言ったら悪いのです。また、ゲームをし過ぎるとなぜよくないのかと言えば、脳が壊れるからです。「ありがとう」は水が綺麗な結晶をつくるから良い言葉なのです。このように、ニセ科学は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りのよさは、本当の科学に決して期待できないものです。しかし、パブリックイメージとしての科学はむしろこれらなのかもしれません。科学とは、様々な問題に対して曖昧さなく白黒はっきり付けるもの。科学にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。そうだとするとニセ科学は科学よりも科学らしく見えているのかもしれません。
おわりに
確かに、何でもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら世界はそれほど単純にはできていません。単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが重要だったはずです。そして、それを考えるのが本来の合理的思考であり、科学的思考なのです。二分法は思考停止に他なりません。ニセ科学に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で結論だけを求める風潮が社会にまん延しつつあるように思えます。そうではなく、私たちは合理的な思考のプロセス、それを大事にすべきなのです。