徳倉城跡とは三島市徳倉地区にかつて存在した徳倉城の城跡である。
徳倉城は、その名称から隣の清水町の徳倉(戸倉)城と混同されるが、別の城跡である。この城跡は、北側を宅地開発、南側と西側は畑の開墾で改変されており、写真の林の中に辛うじて遺構がちょこっと残っている状態なため、現地住民でも知っている人は少ないとされる。
それでも、本曲輪と思われる場所には宝篋印塔と五輪塔を適当に組み合わせた石塔群があり、その北側には幅約5m・深さ約2〜3mの堀切が残っています。比較的残りがいいのは以上の部分で、南側にも堀切があるものの一部埋められていると思われ、他の部分は城郭遺構かどうか見極めが難しいです。
北条早雲の孫氏康が出城として築城したもの。後に北条氏に仕える津田氏や笠原氏が城主を努めたともいわれる。城山、城下と地名が残るものの、開発が進み全体像が見えない。
面積や構造的に見て、箱根の山中城跡のような後北条氏の重要拠点ではなく、砦としての役割だったようです。
豊臣秀吉が小田原攻めをした時、北条氏は山中城に集結し応戦、その後徳倉城は廃城になった。堀切や主郭、曲輪が残るが、遺構地は開発されている為全体像を把握するのは難しい。また、私有地なので注意してください。