- 646. 名無しモドキ 2011/11/27(日) 01:41:38
- 「アステカの星7」 −涙の旅路(Trail of Tears)− part3
ミネアポリス市はミシシッピ川を挟んでセントポール市と向き合っている。この二つの都市はツインシティーとよばれる。
史実では1960年からメジャリーグのツインズが本拠地にしているが、憂鬱世界では前身のワシントンセネーターズのまま津波
にチームごとのみ込まれた。
前段はこのくらいにして、ジョー達がミネアポリスを目指した理由の一つはミネアポリス・セントポール間は州内でミシシ
ッピ川を渡河できるからである。普通であれば何の制約もなく橋を通過できる筈である。ただ、時期が遅くなると難しくなる
ことは織り込み済みだった。
そして、運が悪いことにジョー達がミネアポリスに到着する二日前にミシシッピ川の渡河点として発達したミネアポリスと
セントポールは交通は途絶した。ミネソタ州の最東部地域はセントポールなどのようにミシシッピ東岸にある。当初は州境の
みを封鎖しようとしたミネソタ州政府は第二線としてミシシッピ川でも封鎖ラインを引いたのである。
唯一、ミシシッピにかかる橋の中で、まだ完全封鎖されていないストーンアーチ橋が見える川岸でジョーは自動車で留守番
をしながら橋を見ていた。橋の東、セントポール側には無数の自動車が溜まっている。時折、一台の自動車が橋を駆け抜けて
くる。ミシシッピ川の封鎖線の向こうに取り残されたミネソタ州民が厳重な審査と健康診断を受けてミネアポリス側に渡って
くるのだ。一台の車が通過する時間間隔から、全部の車が通過するのには、夏になるかもなとジョーは訝しんだ。その時、背後
に人の気配がした。
「どうだった。」留守番をしていたジョーは帰ってきたステイシー先生とロジャーに声をかけた。
「どうもこうもないわよ。」普段冷静なステイシー先生が珍しく興奮している。
「どうしても、セントポールに渡りたければ車を置いていけって言うんだ。徒歩でしか橋の通過は認めないんだと。で、一度東
へ渡ったら、引き返すことは出来ないんだとさ。」ロジャーも相当、頭にきた口調である。
「事実上、車は没収てことか。」ジョーはできるだけ穏やかに言った。
「そうよ。この先自動車の供給は当面望めないから、よそ者の車なんぞどうしても取り上げてやろうかって感じだわ。あのゲス
野郎ども世が世ならただじゃおかないから。せめて言い方ってもんがあるでしょう。」ステイシー先生の怒りはおさまりそうも
ない。
「ロジャー、しかたない。第二案でいくか。まだまだ車を手放す訳にはいかないからな。」ジョーは場を和ますことを諦めて
結論を言った。
「先生、よろしくお願いします。」ロジャーは気を取り直したのかおどけたように言った。
「まあ、どちらにしても挨拶くらいはしていくつもりだったけど。お願いが重すぎて気も重いわね。」ステイシー先生は溜息
をついた。
ジョー達の車はミシシッピ川に面したダウンタウンの一角に停まった。ラティマー自動車修理と書かれた看板がかかって
いるガレージを見つけると三人はそのガレージのシャッターをくぐった。この修理工場の経営者はステイシー先生の教え子
で、これがミネアポリスを目指した第二の理由である。
ガレージは喧噪でつつまれていた。数台の自動車が修理の真っ最中である。その間を十人ばかりの工員が忙しそうに行き
交っている。その間を抜けてて奥の事務室のドアをステイシー先生は叩いた。中から太いハスキーな音女の声で入室を促す
声がする。
「びっくりした。本当に来たのね。」部屋に入るとそう言いながら大柄な中年の女がステイシー先生に抱きついた。
「モイラ 、お久しぶり。ジェフも元気?」ステイシー先生も嬉しそうに言う。
「元気よ。今、ガレージで作業してるわ。」モイラはようやくステイシー先生を離した。
「ええ、あんな小かったのに。」ステイシー先生がびっくりしたように言う。
「同窓会にジェフを連れて行ってからもう十八年よ。ちょうど、亭主が傾きかけた会社をほっぽり出して逃げた頃。
あの子、現場の仕事はおれが引き受けるから母さんは営業に専念してくれって修理作業をさしてくれないのよ。」
「そう、じゃ、後で挨拶にいかないとね。でも、繁盛しているようでなりよりだわ。」ステイシー先生が言う。
- 647. 名無しモドキ 2011/11/27(日) 01:46:56
- 「郊外に住む人間には自動車は命の糧だから、少々無理しても修理には出費をおしまないの。ただ、部品が不足しているから
いつまで商売ができるか。当面は自動車同士の共食いで凌ぐつもりだけどね。それより、昨日、先生からの手紙が着いたわ。
西海岸からは一月ぶりの手紙だったからびっくり。」モイラは机の上にあった手紙を見せた。
「手紙と俺たちがほぼ同時に到着か。俺たちも郵便で送ってもらえば苦労なかったな。」ロジャーが口を挟む。
「さあ、話を聞きましょうか。先生、昔の教え子の顔を見るために来たんじゃないでしょう。」モイラは椅子に座った。
モイラ・ラティマーとの話は小一時間ほども続いた。モイラは話を聞き終わると難しい顔をした。
「やっぱり難しい?」ステイシー先生は心配げに聞いた。
「先生を危険な目に会わせたくないだけ。でも、先生のことだから一度言い出したら聞かないわよね。」
「手がありそうだな。」ジョーが間髪を入れずに言う。
「着いてきて。」モイラはガレージの更に奥にある小さな作業場に三人を案内した。そこには15フィートばかりの長さの平底
した真新しいアルミ製の川船があった。
「ミシシッピを船で下るの。州政府に船は軒並み没収か徴発されたんだけど。いざというときのために作らしておいたの。こ
れに中古オートバイのエンジンも付けるからうまくいけば十日ほどでメンフィスに着ける。平底だから着岸も容易いわよ。
でも乗ってきた自動車はさすがに積めないからここに置いていってね。」モイラは船体を叩きながら言った。
「メンフィス?」ステイシー先生とロジャーが同時に聞いた。
「ミシシッピからテネシー川に入れば目的地まで船でいけるんだけど、ほら、ルーズヴェルトがやたらとテネシー川にダムを
作ってしまったから、余程特別な船じゃないと遡行できないの。」モイラは両手を広げて言った。
「船のお値段は?」ステイシー先生が尋ねた。
「只でいいわよ。って言っても先生納得しないからステイシー先生の自動車と船は交換ということでいいわね。」
「メンフィスからいよいよ徒歩旅行か。同じテネシー州だけど、州の西端から東端じゃエラク歩くぜ。」ロジャーが愚痴る。
「メンフィスにはわたしの同業の知り合いがいるから、難問が解決すれば、そこで新しい自動車を手にいれられる。」
「新しい車を手に入れるための難問は対価のことだろう。幾らいる?」ジョーが聞いた。
「幾ら?今、ドル紙幣は紙くずよ。州政府が先週発行した紙幣だって、州政府の統治がおよんでるのがこの周辺だけの状態で
誰が後生大事にするっていうの。自動車修理の代金だって郊外の農家なら袋入りの穀物、都市部の人間なら貴金属や衣服で
払ってもらってる。基準がないから儲かっているのか損をしているのかてんでわかりはしない。お金のありがたさがわかる
わね。唯一通用する連邦政府の金は金貨と銀貨だけよ。ありがたいことに、10ドル金貨が1枚あれば、半年前の100ドル以上の
使い道があるけどね。」モイラの説明にステイシー先生とロジャーは顔を見合わせた。
「これで食糧、衣料、医薬品、燃料を調達したい。」ジョーはモイラの手に硬貨を握らせた。モイラが手を開くと5枚の20ドル
金貨があった。
「その分じゃまだ持ってそうね。船の準備もあるから三日待って。その間に川のことについても情報も集めてみるわ。」
約束通り三日後、ジョー達三人組はモイラと息子のジェフが見送るなか、物資を積み込んだ川船で夜陰に乗じてミネアポリス
を離れた。天候がやや回復して上弦の月が川面を照らしている。岸にはどのような危険があるかもしれないため川の中央を燃料
節約の意味もあって、できうるかぎりオールを使用して夜間航行する。昼間はミシシッピに無数にある無人の中州の枯れた芦原
に船を隠して休息することにした。モイラが入手してくれたミシシッピの地図はやや古く中州の地形が変化している場所もあっ
たが、地図のおかげで無人地帯と判断した地点では距離を稼ぐためにエンジンを使用した。
アメリカの物資輸送の大動脈としてのミシシッピ川はかろうじて活用されているようで道中、行き違う船や人影はそれなりに
見た。しかし、川辺に見えるほとんどの生産施設は活動を停止しており静寂に包まれていた。また、いつものミシシッピの川下
りには出くわさないであろう流れていく死体を毎日のように見た。都市部を通過するときは用心して身を隠しながら川の流れに
任せて船を下らせるために同じ死体と何時間もつきあうこともあった。
夜間航行を主に行ったためモイラの予想のように十日とはいかなかったが、雪解けがはじまって水かさの増した流れにものっ
て二週間でテネシー州南西端のメンフィス近郊に到着した。
- 648. 名無しモドキ 2011/11/27(日) 01:52:37
- 「さあ、魔女の釜の地だ。いっさい人目につかないように行動する。夜までここで一休みだ。」ジョーは船を飛び降りて川辺
の木に舫い綱を結びつけた。
ミネアポリスは停電があっても電気が通じていたがメンフィスは暗闇に包まれていた。このために一行は下弦の月がでる夜
半まで出発を延ばした。モイラがくれたメンフィスの地図はかなり縮尺の小さな地図だったたことと月明かりがあるとはいえ
初めての土地で夜間という悪条件のため目的地が見つかった時は明るくなりかけていた。
「ここのようだな。」ロジャーが顔を上げて看板を見ながら言った。100ヤード四方ほどの土地を金網で囲み、道に面した所
のゲートの上には「自動車、農業機械関連、なんでも引き取ります。なんでも売ります。M&M商会」と書いた粗末な横長の
看板が掲げてあった。
「ここで何をしている。」ゲートの横に積まれていたタイヤの陰から散弾銃をもった中年の男が現れた。ようやく光が増しだ
した薄暗い中でも油染みがついていないところを探すのが難しいほどのつなぎの作業着を着た小太りで、頭の前半分がはげ上
がった男だった。
「怪しい者じゃないわ。」ステイシー先生が相手を刺激しないように穏やかに言う。
「朝の五時にウロウロしてるやつが怪しくなきゃ、誰が怪しんだよ。」男は銃で狙いをつける。
「これを見て。」ステイシー先生はモイラに貰った手紙を男に差し出した。
「おい、アルマ出てきて手紙を受け取れ。」男がそう言うと、タイヤの陰から黒髪のインディアン風の容姿をした三十半ば
くらいの痩せた小柄な女が出てきた。女は男に手紙を渡して散弾銃を受け取り男のかわりに銃を構えた。男はライターを取
り出して火をつけるとその明かりで手紙を読む。
「モイラの紹介か。じゃ、無碍にはできないな。オレはメルヴィン・ラティマーだ。モイラのもと夫だ。いや、形式的には
現在も夫だがな。」メルヴィンと名乗る男はようやく右手をステイシー先生に差し出した。
「さっそくだが、長居したくないんだ。取引を初めていいかい。」ジョーが事務的に言った。
「ああ、事務所に来てくれ。アルマ、コーヒーを用意しろ。」メルヴィンは三人を事務所へ案内した。
「奥さんですか。」ロジャーがアルマの後ろ姿を見て聞いた。
「雑役婦だよ。」メルヴィンは不機嫌そうに答えた。
「いつもこんな早起きかい。」ジョーが事務所の椅子に座りながら聞いた。
「まさか。あんたらギリギリのとこだったよ。もう何時間かしたらここはもぬけのカラだったからな。」そう言うと
メルヴィンは笑いながら座る。
「お出かけかい。」ロジャーが指を組んで聞いた。
「ああ、ちょっと上流までな。下流じゃトミーやキャベツ野郎、カエル野郎、パスタ男までが我が者顔に歩いてる。オレは
そんな奴らに出会うのは我慢できなからな。」メルヴィンの口調は感情的だった。
アルマとよばれた女がコーヒーを持ってきた。明るいところでみるとアフリカ系の血も混じっているようだった。
「あなた、彼女を愛しているのね。」ステイシー先生が言う。
「愛してるかどうかはわからないが、行くところがないって言うので置いてやってるだけだ。まあ、そんでも長くいるから
情はうつるわな。」メルヴィンはコーヒーを飲みながらゆっくりした口調で答えた。
「まあ、フリッツ達がアルマを淑女扱いするとは思えないしな。」ジョーが言う。
「その話はここまでだ。取引を始めよう。ただし、ここの工場と役立つ自動車は、旅の資金、これからの商売の元手と引き
替えに、ちょっと強面のお兄さん達に譲渡してしまったから碌な物は残ってないぜ。」メルヴィンは伏し目がちに言う。
「ノックスビルに行きたいの。」ステイシー先生が単刀直入に言う。
「メンフィスを一回りしたら寿命になる物しか残ってないな。なんとかしてやりたいが。」メルヴィンの声が小さくなる。
「俺たちはボートでミネアポリスから来た。3000ポンドくらいは積めてエンジンも付いてる。ラティマー自動車修理工場の
特製だ。」ジョーが呟くように言った。
「そいつをオレのボートで引っ張っていけば商売のための資材を余計に運べるな。」独り言のようにメルヴィンが言った。
「船を見てから決めろ。」ジョーは上着のポケットの中で握っていた金貨を手放して話が終わったとばかりに言う。
「モイラの船なら見なくてもいいよ。フーム、待てよ。自動車、一台あるぞ。アルマ、出発は延期だ。二日待ってくれなん
とかしよう。寝泊まりはここでしな。間違っても町に行くなよ。メキシコ風邪(アメリカ風邪の異名、西部では東部風邪と
も言う)の予防の基本は他人に接触しないことだ。具合が悪いからと病院に行くのは死にに行くようなもんだ。」
- 649. 名無しモドキ 2011/11/27(日) 01:56:37
- ジョー達は仮眠した後で、メルヴィンのトラックに乗ってボートの荷物の回収に出かけた。その場所が近づくと運転するメル
ヴィンの顔が次第に緊張してきた。
「えらいとこにボートを係留したな。」メルヴィンはトラックを川岸の林の中に停めた。
「作業は様子を見てからだ。ついてきな。しゃべるなよ。身はかがめて歩け。」メルヴィンは手招きで三人に合図する。
数十ヤードほど行くと古い煉瓦の壁があった。メルヴィンはそこから少し顔を出すと、河原の方を指さした。そこには何台か
のトラックが停まっており、防毒マスクに厳重なゴム引きの防護服を着た武装兵が三十人ばかり、その指示で囚人服の男達
がトラックから何かの袋を運び出している。
「死体だ。大方はメキシコ風邪の患者だ。」メルヴィンが小声で言う。
浅く掘られた穴に並べられた穀物袋とも見える粗末な数十の袋に、囚人達がジェリ缶で何か液体をかけている。ほのかに
灯油の匂いが漂ってくる。武装兵が袋に火をつけた。たちまち炎が上がり、黒煙が立ちこめる。そのうち燃え尽きた袋から
黒こげになった手足が熱で変形して何かを掴みたいように伸びてくる。人の焼ける匂いでむせる。地獄である。
突然、地獄の底から響いてくるような女の悲鳴が上がった。燃えている死体が突然立ち上がったのだ。その死体、否、
仮死状態であったろう女性は真っ黒になって燻りながら炎の中から出てきた。あっけに取られている武装兵と囚人。暫くし
て指揮官らしき人物が拳銃を数発発砲した。倒れた女は数人の囚人により足で蹴飛ばされ再び炎の中に戻された。
ステイシー先生は黙ってその光景にカメラを向けていた。大方死体の焼却が終わると、囚人が多分精肉処理用の大きな
フックがついた鉄の棒で黒こげの死体を引っかけてミシシッピ川に運んでいき流した。
二日目の夕方にメルヴィンは自動車を仕上げた。
「三菱製水冷直列6気筒エンジン搭載の四輪駆動だ。山間部の配送用に試験的に導入したようだが、戦争が始まったら組合
の連中がモンキーの車なんぞ使えないって叩きのめしたんだ。それが回り回ってオレのとこにきたんだな。だが、丈夫な
もんだろう。ちょっと凹んで塗装が剥げいるだけだ。それは細工で古びた感じにして誤魔化した。本当は隠しておいてここ
に戻った時に使おうかと思っていたんだが、それは別の車にする。」メルヴィンが自慢したのは、後部の荷物室の側面に
US-MAILと白で塗装された文字が書き入れられた郵便配送用の小型トラックだった。
「で、こいつもつけてやる。アルマが作ったんだ。」メルヴィンが差し出したのはこれも背中に刺繍でUS-MAILと書かれた
三着のジャンパーだった。
「今でも郵便屋は比較的フリーパスで動けるからな。出血大サービスで点火プラグ三本と予備タイヤもおまけだ。」金貨を
得損ねたことも知らずメルヴィンは大きな取引を成功させた大立て者のように葉巻を取り出すとそれに火をつけた。
「M&M商会ってメルヴィンとモイラの略かい。」ロジャーが聞く。ステイシー先生と話をしていたアルマが顔を向ける。
「こいつは、まだ子供なんだ許してくれ。」ジョーの言葉にロジャーは子供のようにふくれ顔をした。
その夜遅く、ロジャー達はノックスビルに向かい出発した。目的地まであと400マイルである。
>>632
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大変多くのレスを使い失礼しました。これもアメリカの広さが悪いんやー。おまけに竜頭蛇尾なEND。辺境人さんのご指摘のように中長編板だったかも。
- 650. 名無しモドキ 2011/11/27(日) 02:03:36
- 行程図
カリフォルニア→(北へ)→オレゴン→(東へ)→ロッキー山脈→(ここからカナダ国境沿いの州を東へ)→アイダホ→モンタナ
→ノースダコダ→ミネソタ(ミネソタ州東部ミネアポリス)→(南へ 船でミシシッピ川を下る)→テネシー州メンフィス・・・・目的地:東海岸、アパラチア山脈西山麓の結構山深いテネシー州東端ノックスビル近郊
この行程を43日(うち船旅14日間、滞在5日)で走破しています。平和な状態なら余裕をみて早めに宿で休んでも10日?
−おまけ−
1943年4月12日、旧カリフォルニア州オークランド、精神分析医ハスケルの診療室
「ミスター・ハッシュ、タンポポがテネシーに到着しました。座標BC-578です。回収物があるようです。重要度A。よろ
しく手配をお願いします。」診察時間の最後の30秒でハスケス医師はソファーベッドに寝ているハッシュに用件を告げた。
「届け先は?」ハッシュが尋ねる。
「ビッキーちゃんまで。」ハスケスが答えると、ハッシュは来週の予約時間を確認して帰っていった。
ハスケスが時間を確かめると次の患者がくるまでまだ30分ほどあった。そこでハスケスは受付の女性にコーヒーを頼んだ。
コーヒーがくると壁に掛かったアメリカの地図の一点を見る。ハスケスは対米諜報機関「ビーグル」の指揮系統で上位に
位置している。といっても下部組織のことも上部のことも具体的なことは知らない。上部からの指令を具体的に実現させる
方策を考えて下部組織の連絡員に伝えるだけである。
テンシー河谷地域は重要地域である。20近い(史実では30カ所)ダムが建設されるか建設途中であり、閑散としたテネシ
ー川流域にできるはずの大工業地域のエネルギー供給源に、そしてアメリカ南部の電化推進の中心になるはずだった。
しかし、TVA(テネシー河谷開発)を推進したルーズヴェルトの退場と、津波、戦争、連邦崩壊で全ての工事はストップして
いる。水系全体のコントロール機関は存在せず、管理が極めて不十分かなされていない幾つのも巨大ダム、建設途中で放り出
されて川の流れを妨害する危険きわまりないダムのような物が、これからの降水量が増大する時期にこれらがどのように作用
するのかまったく予測不能である。
一つの巨大ダムの決壊が連鎖反応を起こし水系全体を大洪水が襲うかもしれない。またそれが本流のミシシッピに流れ込め
ばどうなるのか。出来ることは何が起こるのか、または起こらないのかを監視するだけである。政府機関も報道機関も皆無な
地域だけに、どうしても「ビーグル」の定点監視員が欲しかったのである。
タンポポの到着でハスケスが要求された二カ所の監視が完成した。他の指揮者による監視員も複層的に配置されているはず
であるがこれはハスケスの預かり知らないことである。何はともあれ水域の最深部に位置するタンポポはアパラチア中央部地域
で遊撃的に活動する諜報員にも支援を与えてくれるはずである。
ハスケスは溜息をついた。現在、アメリカの防諜機関は完全に麻痺しているが、南部に侵攻した欧州勢力はそれなりの諜報機関
を展開させている。これらとの暗闘、否この組織自体を油断することなく隠匿しなければならない。アメリカ合衆国を対象に組織
された対米諜報機関「ビーグル」のアメリカ合衆国なきあとの存在意義はなにか。根源的なところで「ビーグル」はコンパスなき
航海に乗り出したのである。
-
最終更新:2012年02月07日 19:35