42 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:40:45
モスクワ通信5 -モスクワ方面軍見聞記- その4 カチューシャ Катюша
1943年2月24日水曜日午後 モスクワ西方ヴャジマ市郊外
長谷川はこの後、ダヴィドフ伍長の案内で市街地にあるいくつかの戦跡を巡った。最後までこの拠点を死守して全員戦
死したということと「ロシアは戦争を望んでいるか-Хотят ли русские войны-ロシア人は戦争を望まない。し
かし、侵略者とは最後の血の一滴まで戦う。」というプロパガンダのポスターが貼ってあるのがお決まりだった。
「赤軍兵士は勇敢なのですね。」長谷川は言葉を選びながらダヴィドフ伍長に聞いた。
「ええ、勇敢に戦ったと認められれば戦死公報を家族に届けてもらえますから。それで年金の申請もできます。あくまで
申請ですがね。」ダヴィドフ伍長は少し笑って答えた。
師団司令部に帰る途中、郊外の空き地で真田少将一行を見かけた。数台の戦車の残骸の間を赤軍の外套とは見間違うこ
とのない白の野戦用ダウンジャケットを着た少将たちが歩いている。
真田少将が以前、近代戦は戦域が広大で観戦武官が全ての戦闘を見聞できる時代ではなくなった。これからの観戦武官
の仕事は技術的なことに移行していくと言っていたことを思い出した。
「帰る前に兵士達を取材していいですか?」長谷川はダメ元でドルゴフ少佐に聞いてみた。
「同志ドルゴフ少佐、この先に第二大隊がおります。今日は共産党の慰問隊が来ているはずです。近所の砲兵連中も招待
されたそうですからきっと盛り上がっていると思います。」ダヴィドフ伍長が助け船を出す。
「よかろう。だだし30分だけだぞ。」ドルゴフ少佐はまんざらでもない口調で言った。誰もが娯楽に飢えているのだと長
谷川は感じた。やがて小さな野外ステージが見えてきた。その周囲を大勢の兵士が取り巻いている。
「やっぱり慰問隊が来ています。」ダヴィドフ伍長は乗用車を停めると後部座席のドアを開けて嬉しそうに言った。
「宣伝隊だ。」ドルゴフ少佐は言い直す。
長谷川はドルゴフ少佐から兵士に直接質問をしないという条件で取材許可を貰った。兵士達の間を進んでステージに近
づく。ステージ上では十人ばかりの演奏者がおり、女性歌手が歌を歌っていた。スターリンや共産党を讃えた勇ましい軍
歌だ。
曲が終わって後ろを振り返ると、あちらこちらの兵士が長谷川を指さして何事か囁いている。ダヴィドフ伍長も傍らの兵士
に長谷川を指さして何事か説明しているらしい。
再び、曲が始まった。長谷川の知っている曲だ。日本でも流行った「カチューシャ」である。憂鬱世界のカチューシャ
は対ソ謀略組織「オリガ」が作曲家に手を回して白系ロシア社会で流行らせた。このため本家ソ連では御法度の曲なのだが
このロシア人好みの曲は密かにソ連でも歌われていた。
ただ、今ステージで女性歌手が歌っているのは赤軍兵士を讃えるような内容の替え歌である。曲が終わるとまばらな拍
手が起こった。
誰かが「ヤポンスキー!カチューシャ!」と叫ぶ。
それを切っ掛けに兵士達が一斉に大声を上げた。
43 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:41:19
「ヤポンスキー!カチューシャ!ヤポンスキー!カチューシャ!」下級士官まで叫んでいた。
「長谷川さん、日本人であるあなたが勝手にちゃんとしたカチューシャを歌うのは問題ないと思います。でないとこの騒
ぎの責任を取らされますよ。」いつの間にか横に来ていたダヴィドフ伍長が悪魔のように囁いた。
長谷川はドルゴフ少佐を見た。ドルゴフ少佐は石像のように立っている。突然、町で会ったカーチャという少女の顔が
長谷川の脳裏に蘇ってきた。きっと歌のカチューシャもあんな可愛い女の子に違いない。そう思った長谷川はやけくそに
なった。
長谷川はステージに上がる。万雷の拍手が起こった。とまどった宣伝隊は後難を避けるようにあわててステージから去
っていく。長谷川はそのうちの一人から無理矢理にバラライカを借り受けると、兵士達の前に立った。最初に一小節奏でて
みる。なんとか弾けそうだと感じた。
実は長谷川は学生時代に、興味半分で一月ほどバラライカの練習をしたことがあった。そして、唯一弾ける曲が「カチ
ューシャ」であった。意を決した長谷川は前奏なしでいきなり歌い出した。
Ρасцветали яблони и груши ラスツヴェターリ ヤーブロニ イ グルウシイ
Поплыу туманы над рекой. ポプルイリ トゥーマヌイ レコーイ
Выходила на берег Катюша ヴィハヂーラ ナ ベレク カチュシャ
На высокий берег на крутой ナ ヴィソーキイ ベレク ナ クルゥトーイ
Выходила на берег Катюша ヴィハヂーラ ナ ベレク カチュシャ
На высокий берег на крутой ナ ヴィソーキイ ベレク ナ クルゥトーイ
二小節目からは大合唱になった。長谷川は曲を二度繰り返して兵士達に向かってお辞儀をした。再び、万雷の拍手が起こる。
長谷川は逃げるようにステージから降りると、急いでドルゴフ少佐の方へ向かった。ドルゴフ少佐の横には大隊長らしき
士官も立っていた。
「同志政治将校、我が大隊は明日、前線の増強部隊として出動します。」大隊長は言い訳のようにドルゴフ少佐に言った。
「それが何か?」ドルゴフ少佐は片目だけを大きく開けて言った。
「こまごました処罰などしておりますと・・。」大隊長の声は次第に小さくなる。
「処罰とは何のことだ。独唱していたこの日本人の声がとてつもなく大きかったことか?」ドルゴフ少佐は長谷川の肩を
掴みながら言った。
「え、はっ、そうであります。ありがとうございます。」大隊長は狼狽えて言った。
「何故礼を言う?」ドルゴフ少佐は悪戯っ子のように意地悪く言う。
「あ、あの実は後先になるんですが、この大隊の政治将校が先週急病で入院しました。後任がまだ赴任しません。ご存じ
のように司令部への報告書には同志政治将校の副著が必要です。できれば、代理で署名を頂きたいのですが。」大隊長の
言葉をドルゴフ少佐は口をしかめて聞いていた。
「最近、攻撃任務で最前線への出動が決まった部隊の政治将校が急病になる。でも後任は交通障害などを理由に中々赴任
しない。といった噂があります。」ダヴィドフ伍長が長谷川の後ろで囁いた。
「ドイツ軍は政治将校を捕虜にしないということは聞いているが・・。」長谷川は前を向いたまま呟いた。
44 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:41:50
「ちょっと、失礼する。しばらくここで待っていてくれ。・・・そこの少尉、この日本人が兵隊に話しかけないように見
張ってろ。兵隊が話しかけるのも禁止だ。」ドルゴフ少佐はそう言うと大隊長と大隊本部の建物に向かった。
「ははっはい。同志政治将校殿、わかりました。」まだ少年の面影を残している少尉は緊張して答えた。
やげて、宣伝部隊の演奏が終了して、兵隊達が長谷川に手を振りながら兵舎に帰って行く。
「おい、ヤーコフ。いつまでツッパテルんだよ。そんなんだから兵隊になめられるんだぞ。」ダヴィドフ伍長は気安い口
調で若い少尉に声をかけた。
「ヴラジーミルおじさん、ズヴェルホフスキー少尉と呼んでください。伍長にヤーコフなんていわれたらそれこそ兵隊に
なめられます。」少尉は通り過ぎる兵隊を気にしながら小声で返事をする。
「知り合いですか?」長谷川が割って入った。
「ああ、近所のガキだ。ヤーコフが生まれた時から知っている。少しばかり頭がよくてな。大学なんぞ行って、測量みた
いなもんやるからこんな不釣り合いな役を当てられるんだよ。」ダヴィドフ伍長は人差し指で少尉の腹を突きながら言う。
「測量というと砲兵将校ですか?」また長谷川が口を出す。
「はい。測量部署を希望したのですが前線の砲兵将校が不足しているおり砲兵隊へ配属されました。自分の能力をソビエ
ト人民の為に使うと誓いましたので不足はありません。」少尉は丁寧に答えた。
「おい、ヤーコフ、お前もそのソビエト人民だってこと忘れるな。妙にはりきって名誉の戦死なんてことになって、お袋
さんを泣かすなよ。それから兵隊になめらたくなっかたら、おれのことはダヴィドフ伍長と呼べ。さらにだ、ズヴェルホ
フスキー少尉殿、伍長に敬語は使うな。」ダヴィドフ伍長は真剣な声で少尉の目を見て言った。
「ところで、ハセガワ。」ダヴィドフ伍長は長谷川の方へ向き直った。
「兵隊はこの日本人と口を聞いてはいけません。・・いけない。」ズヴェルホフスキー少尉があわてて言う。
「オレは兵隊じゃない。下士官だ。」ダヴィドフ伍長はズヴェルホフスキー少尉の方を見もしないで言った。
「それは・・屁理屈。」ズヴェルホフスキー少尉は消え入りそうな声で言った。
「少し耳を塞いでな。」ダヴィドフ伍長のドスの利いた言葉にズヴェルホフスキー少尉は黙った。
「なあ、ハセガワ、もしドルゴフ少佐が困っている時は彼を助けてくれ。あんないい人はいない。」
「ドルゴフ少佐が?確かに融通は利くけど。それは周囲の雰囲気を察して・・。」長谷川は困惑したように言う。
「外国人のあんたにはわからないかも知れないがな。・・レオノバ先生憶えてるか。」ダヴィドフ伍長が長谷川の言葉を遮
って言う。
「ああ、ドルゴフ少佐が殴った女性だ。なんで女を殴るような男がいい人なんだ。」長谷川は反論する。
「普通の政治将校や内務委員の前であんなことを言ったら命が幾つあっても足りない。だからあの人は手荒なことで、気
をつけるように諭したんだよ。妙に優しくしたらオレが密告者になるってこともあるから用心しないといけないしな。だ
から、あの人が困ってたら手を貸してやってくれ。ソビエト人民からのお願いだ。」ダヴィドフ伍長は長谷川の手を握り
ながら言った。
「おい、ハセガワ帰るぞ。」大隊本部から出てきたドルゴフ少佐が大声で呼んだ。
最終更新:2012年02月07日 03:57