51 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:46:07
モスクワ通信7  -モスクワ方面軍見聞記- その6 ЭЙ, УХНЕМ エイコーラ ヴォルガの船曳歌
1943年2月26日金曜日午後遅く 中央ロシア高原中央部の森林地帯

 長谷川は、短い休息を取りながらも二時間近く重いソリを曳いていた。新雪が所々に深く積もっており、そんな時は後
ろから押さねばならなかった。
やけくそで、ロシア語の歌を呪文のように何十回も繰り返して歌う。

Эй ухнем, эй ухнем     エーィ ウーフニィム エーィ ウーフニィム
Ещё разик ещё да раз  ィイショー ラーズィク ィイショー ダー ラース
Эй ухнем, эй ухнем     エーィ ウーフニィム エーィ ウーフニィム
Эй ухнем, эй ухнем     エーィ ウーフニィム エーィ ウーフニィム

「その歌を聴いて運ばれていると資本家になったような気分だな。」出発前に鎮痛剤を飲んだドルゴフ少佐はかなり元気
がもどってきていた。
「じゃ、いい気持ちでしょう。でもね、資本家ってのはリスクも背負ってる。私は勤め人の方が気が楽だ。」長谷川はあ
えぎながら答えた。

「資本主義社会で長く暮らして奴隷根性が身についたか。」ドルゴフ少佐が笑いながら言った。
「本気で言ってるんですか?」長谷川は少しムッとして言い返した。
「公式見解だ。・・ところで、今日一日で良い取材ができただろう。」ドルゴフ少佐は屈せず更にからかうように言う。

「あちらこちらの戦場を駆け回ったと自分では思っていたけど。戦場の実相を読者に伝えたいと思っていたけど。実は戦
場なんてとこに行ってはいなかった。所詮はファインダー越しにちょっと離れた所から見ていた傍観者だった。それがわ
かりました。」長谷川は親しくなりかけていたダヴィドフ伍長や、目の前で死んでいった少年兵のことが頭に横切り少し沈
んだ声で言う。

「なあ、頼みがある。」ドルゴフ少佐が少し頭を上げて言う。
「なんですか?」長谷川はできるだけにこやかに聞いた。

「小便がしたい。」
「ひどい話の折りようですね。」長谷川はそう言ったとたんに新雪の深みに足を取られて横に転けた。

「早くしてくれ。」
「どうすればいいか、ちょっと考えさせてください。」雪の中で倒れたまま長谷川は言った。

 長谷川はソリの荷物を一旦降ろして、ドルゴフ中佐だけにするとソリを立ててドルゴフ少佐が立ち上がった状態で小用
をして貰おうとした。しかし、ドルゴフ中佐はソリが45度位の角度になると激しい苦痛を訴えた。
 しかたないので、ドルゴフ中佐を上向きに寝かしたまま、その一物を手で引き出して万が一のために拾ってきたソ連兵
のヘルメットを受け皿にして小用を足してもらった。

「この年になるまで、ロシア人のおっさんの小便を正面から受け取るとは思いもよりませんでしたよ。」
「おあいこだ。オレだって東洋人に正面から見られて小便する日がくるとは思わなかったよ。」

52 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:47:28
長谷川は背中に銃口が突きつけられるのを感じた。頭を上げると数名のソ連兵が自分に銃を向けている。

「ドルゴフ中佐、お願いです。この人たちに何とか言ってください。」小便が一杯入ったヘルメットを持っているため手
をあげられない長谷川は、泣きそうな声で言った。

 長谷川達を見つけたのは後続の輸送隊の兵士だった。彼らの乗ってきた十両ばかりの輓馬ソリは荷物が満載してある。
ドルゴフ中佐が事情を説明して自分を運ぶように命令した。一人の兵士がドルゴフ中佐を乗せたソリを曳いて立ち往生し
ている本隊まで送っることになった。長谷川とその兵士がドルゴフ中佐のソリを曳いて二キロほど道を進むと本隊のトラ
ックが見えてきた。

 長谷川達が襲撃された後で、後続部隊は同じスツーカに機銃掃射されて多大な損害を被っていた。三台のトラックはす
べて走行不能にされ、そのうち一台は燃え上がっていた。

 さらに、七両の輸送用の輓馬ソリが道の左右に逃れよとしたのか雪の中に突っ込んでおり、二両のソリが完全に転倒し
ていた。三頭の馬が集められて兵士が世話をしていた。見るからに過重な仕事に耐えてやせ細った馬たちはまだ怯えてい
て時々いなないた。他の馬は全て撃ち殺されていた。

「同志政治将校、負傷お見舞い申し上げます。」曹長の記章を付けた兵士がトラックの幌で覆われた荷台にソリごと寝か
されたドルゴフ中佐のもとにやってきた。
「君が指揮官か?」ドルゴフ中佐は少し頭をあげて聞いた。

「はい、 カガロフスキー曹長であります。同志イヴァキン士官候補生殿が指揮を取っておりましたが戦死されましたので
わたしが指揮を取っておりました。」曹長は三十代半ばくらいの小柄だががっしりした男だった。コルホーズで農作業を
している方が似合うような穏和な表情をしている。

「先発隊が襲撃されたのは知ってるな。」また、背中が痛み出したのかドルゴフ中佐は上を向いて言う。

「はい、ここからドイツ機が攻撃しているのが見えました。急いで林の中に車列を隠しましたが同じドイツ機に機銃掃射
されました。」 カガロフスキー曹長は直立不動のまま答えた。

「人的損害と現状を報告しろ。」以前、ドルゴフ中佐は上を向いてカガロフスキー曹長を見ずに言う。

「戦死5名、負傷6名うち3名は重傷です。この場で任務遂行可能な者は、私を含め下士官2名、兵8名であります。」
カガロフスキー曹長はそう言うと思い出したかのようにあわてて敬礼した。
「荷物は?」
「前線用の粉末トウモロコシです。」カガロフスキー曹長はちょっと長谷川の方を向いて答えた。

「後方への連絡はしたか?」ドルゴフ少佐は続けさまに聞いた。

「襲撃された直後に二名を荷を空した馬ソリで伝令に出しました。」カガロフスキー曹長は大きな声で言った。
「よろしい。で、今になって輸送隊を分けて出発させたのは何故だ。もうすぐ日が暮れるぞ。」ドルゴフ少佐はゆっくり
と探るように聞いた。

53 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:48:01
「日が暮れてからの移動は危険なことは承知しておりますが、野戦輸送隊への物資の到着が滞っており前線部隊はもう一週
間も食糧補給を受け取っておりません。」カガロフスキー曹長は叱責されたのかと思い、急に声がうわずった。

「同志、その義務感には感心するが、出発に時間がかかり過ぎていないか。」カガロフスキー曹長の声が変化したことを
感じたドルゴフ中佐は穏やかな口調で尋ねた。

「申し訳ありません。火災を起こしたトラックから荷を降ろすのと散乱したソリの荷物の回収、比較的良好な状態の馬を
無事だった輸送ソリに繋ぎ直すなど作業に手間取りました。また負傷者が多く応急処置に長くかかったため輸送可能なソ
リを出すのが遅れました。」カガロフスキー曹長は言い訳口調になった。

「後続部隊は。」ドルゴフ中佐は話題を変えた。

「いいえ、おりません。ですがトラックが一台途中でラジエターに穴があき、オーバーヒートしたのでパテで塞ぎました。
同志イロフスキー士官候補生が動けるようになるまで待機しろと後方に2名の兵とともに残置しました。」カガロフスキ
ー曹長は悪戯っ子が悪事を吐露するような口調になった。
「実は先ほど伝令に出しました兵のうち1名が20分ほど前に徒歩で戻ってきまして事情を聞いていたところです。もう
1名は馬ソリで先に進んだそうです。」

「カガロフスキー曹長、わかっているだろうがそれを先に言え。その兵士にはオレが直接聞く。呼んでくれ。」ドルゴフ
中佐は相手を探るような口調から無骨な命令口調になった。

「同志政治将校殿。シチェルビーナ二等兵出頭ただいまいたしました。」二三分すると、十代も半ばに見える若い兵士が
やってきた。兵士は怯えるほど緊張していた。

「シチェルビーナ一等兵緊張するな。質問にだけ答えろ。責任を問うことはしなから嘘や誇張はなしだ。見たままを答えろ。
いいな。」わざとドルゴフ中佐は緊張している兵士を見ないようにして言った。

「はい、同志政治将校殿。」輸送隊に配属された新兵が佐官級の政治将校の前に出ることないど普段では考えられないか
らか、兵士の声はかすれている。まだ声変わりもしていないのか緊張してのためか高い声だ。

「何処まで行った。」ドルゴフ中佐は事務的に聞いた。
「待機しておりましたトラックまでであります。」若い兵士は直立不動で答える。
「どんな様子だった。」
「はい、二名の兵はそれぞれ頭部と胸部を撃たれて死亡しておりました。」若い兵士は身じろぎもしない。

「トラックの中か、外か。銃を持っていたか。トラックに弾痕はあったか。」ドルゴフ少佐はゆっくりと聞いた。
「運転席と助手席で死亡していました。トラックにはかなりの弾痕がありました。」若い兵士は思い出す言う。

「トラックの兵は武装していたのか。」ドルゴフ少佐の質問に若い兵士は首を少しかしげる。
「小銃を一丁装備しておりました。」カガロフスキー曹長がその問に答えた。
「小銃はあったか。」ドルゴフ少佐はカガロフスキー曹長の答えにかぶりを振ると続けて尋ねる。
「いいえ、見た範囲ではありませんでした。」

54 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:48:36
「トラックの周囲に赤軍兵士以外の足跡はあったか。それから積荷の様子は?」ドルゴフ少佐考え込むような仕草をして
から尋ねた。
「馬の足跡はかなりありましたが、我が隊もそこで小休止しましたのでどうとも判断できませんでした。積荷は空になっ
ていました。」若い兵士はかなり落ちついた口調になってきた。

「カガロフスキー曹長、今ある武器と弾数を報告しろ。」ドルゴフ中佐は少し首を傾けてカガロフスキー曹長に言った。

「はい短機関銃2丁、弾薬は各50発、小銃8丁に拳銃2丁、弾薬は小銃1丁につき20発、拳銃弾は装填しただけです。
他に信号銃1丁です。」見かけによらず有能なのかドルゴフ中佐にすらすらと答える。

「もうすぐ暗くなる。その前に相互に支援できるように、トウモロコシの袋を土嚢代わりにして三カ所の拠点をつくれ。
できたら袋を雪で覆え。」ドルゴフ中佐もそう感じたのか的確な命令をカガロフスキー曹長に与えた。

「偽装になるし、爆発はしないだろうが弾が命中したら万が一に発火するかもしれないからその予防にもなる。そこに、
一人づつ一時間交代で兵を配置しろ。負傷者でも可能な者は配置につかせろ。カガロフスキー曹長、君は配置につくな。
ここにいろ。」ドルゴフ中佐は何か言いたそうだったカガロフスキー曹長を制して言った。

「トウモロコシ袋を土嚢代わりする件はオレが責任を持つ。今、トラックの周囲で燃やしている火は消せ。かわりに50
メートルほど離した所で盛大に燃やす。暖はそこから熾き火を持ってきて使え。」ドルゴフ中佐はそう命令に付け足した。
カガロフスキー曹長は敬礼をすると若い兵士とトラックの荷台から降りようとした。

「戦死者は埋葬したか?」ドルゴフ中佐はカガロフスキー曹長を呼び止めた。

「いいえ、雪の上に。」カガロフスキー曹長は意外な質問に怪訝に答える。
「よろしい。赤軍兵士は死んでも戦う。新しい焚き火を燃やしたら死者をその回りに座らせておく。木の枝で銃を持って
いるように偽装しろ。」ドルゴフ中佐は命令を付け足した。

「同志政治将校、いったい何が起こっているのでありますか?」赤軍兵士にしては珍しくカガロフスキー曹長は上官に質
問をした。
「わからん。ただ用心にこしたことはない。今言ったことを30分以内に実行して報告しろ。」ドルゴフ中佐は右手でカガ
ロフスキー曹長で早く行くように促した。

 すっかり暗くなる頃に、カガロフスキー曹長が指示通りに作業が終わったと報告にきた。その後から、飯盒に入った夕
飯と澳がたっぷり入った四角い形をした七輪のような物を兵士が持ってきた。

「とうとう君も赤軍の兵食が体験できるな。先に食べていいぞ。オレは今日は動かなかったから腹がへらん。」ドルゴフ
少佐は皮肉たっぷりに言った。

「頂きます。」長谷川は急いで半分ほど食べる。トウモロコシの粉の粥に岩塩で味付けがしてある。暖かいのだけが取り
柄の素朴な味だが、いつもは絶対に入ってないであろう馬肉がたっぷり入っている。出所は聞かなくともわかる。

長谷川は食べ終わるとスプーンで少しずつドルゴフ中佐の口に粥を運んだ。
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最終更新:2012年02月07日 03:57