55 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:49:43
モスクワ通信8 -モスクワ方面軍見聞記- その7 黒い瞳  ОЧИ ЧЁРНЫЕ        
1943年2月26日金曜日夕刻 中央ロシア高原中央部の森林地帯

「一つ助言していいですか。わたしも、ここの兵隊も不安です。」ドルゴフ少佐の口にスプーンを運びながら長谷川は思
いきって言った。
「言ってみろ。」ドルゴフ少佐は上官口調で言う。

「日本軍の将校なら、現在の状況と自分の判断をできるだけ兵に話して任務の意味や目的を理解させます。それによって
自分と部下に一体感を持たせるのです。」長谷川はそう言うとまた一口スプーンをドルゴフ中佐の口に入れた。

ドルゴフ少佐の食事が終わったころ、カガロフスキー曹長が小銃を持ってやってきた。
「小銃が一丁あまりますがどこに置いておきましょう。」

「それアリサカですよね。」長谷川がカガロフスキー曹長の持って来た銃を見て言った。

 アリサカ小銃、史実の三十年式小銃である。憂鬱世界では、三十八式小銃のような遊底覆がすでに装備されるなどその
脆弱性が改良されている。第一次世界大戦では、数十万丁におよぶ三十年式小銃が、武器の慢性的な不足に悩むロシア帝國
に輸出されていた。
 日本では訓練用として少数が残されるだけで一線からとっくに引退した三十年式小銃は、革命、内戦を経てもソ連では
アリサカの名称で現役であった。特に反動の少なさから兵役不的確な小柄な兵にも扱いやすいため後方部隊を中心に多数
配備されていた。

「そうだアリサカだ。」ドルゴフ少佐は長谷川の方へ首を動かしてから言った。
「ええ、中佐、わたしは入隊時に訓練銃としてアリサカで射撃したことがあります。」長谷川はドルゴフ少佐の目を見て
言った。

「オレの拳銃を返せ。」ドルゴフ少佐の言葉で長谷川は拳銃をドルゴフ少佐が差し出した右手に持たせた。
「こいつに小銃を渡せ。ただし弾丸は五発だ。こいつは本部の守備要員になってもらう。」ドルゴフ少佐の命令でカガロ
フスキー曹長はクリップで弾丸を装填すると長谷川にアリサカ小銃を渡した。

「カガロフスキー曹長、全員を集めろ。」ドルゴフ少佐はカガロフスキー曹長に命令した。

「この場所からでは同志兵士の顔が見えない。長谷川、オレの頭の方のソリを少しあげろ。ゆっくりとだぞ。」兵士達が
集まるとドルゴフ少佐は長谷川にも命令した。長谷川はドルゴフ少佐の苦痛の具合を確かめながらゆっくりソリを傾ける。

「よし、それでいい。」頭一つ分ほどソリを持ち上ったころでドルゴフ少佐は長谷川に言った。

「わたしは政治委員のコンスタンチン・アレクサンドロヴィチ・ドルゴフ少佐である。後先になったが、この隊の将校が
戦死したため、規定によりわたしが指揮官となった。」ドルゴフ少佐の言葉で兵士達が直立不動になる。

 辺りが静まりかえり、風が木々を吹き抜ける音と焚き火のはじける音だけが聞こえた。

56 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:50:41
「同志兵士諸君、残置したトラックが襲撃されたことは知っているな。また、救援要請のため後方へ出発した伝令がすで
に味方の拠点に到着したであろう時間を大幅に過ぎていながら、まだ救援はこない。
 夜間であることから救援は明日に延期された可能性もあるが、最悪の事態も考えておかねばならない。ここまでで、質問
はないか?」ドルゴフ少佐の言葉に兵士達は顔を見合わせる。政治将校によるプロパガンダ演説を聞かせられるのだと思
っていたからだ。

「同志政治将校殿、最悪の事態とは。」カガロフスキー曹長が聞いた。
「同志曹長、君の想像のように伝令も襲撃された可能性がある。ただし、可能性なのでそこを忘れるな。」

「次に襲撃を行った集団がいかなるものかで我々への危険度も異なってくる。考えられる襲撃集団は三つだ。」質問が出
ないことを確かめるとドルゴフ少佐は話を続ける。

「一つ目はドイツ軍の偵察部隊によるものだ。あるいは戦線後方の破壊活動などの特殊任務をする部隊であるかもしれない。
ただし、これらの部隊は存在を秘匿する必要があるから積極的に攻撃に出るとは考えにくい。しかし、トラックの兵士が
何か異変に気付いたため抹殺する必要があった可能性があるので完全には排除しない。
 この襲撃集団の場合は、一カ所にいつまでもとどまる可能性が低く、先に言ったように危険を冒して我々を襲撃するこ
とはしない。我々が全員寝入っているような状況さえつくらなければ大丈夫だ。」

「二つ目は、・・ハセガワ、手で耳を塞げ。」ドルゴフ少佐の言葉に長谷川は絶句する。
「無理ですよ。両手でソリを持ち上げているんですよ。」

「少しのあいだロシア語を忘れろ。長谷川わかったか?」ドルゴフ少佐のこの言葉に長谷川は無反応で通した。

「よし、それでいい。・・二つ目は脱走兵集団ないし、武装した難民の襲撃だ。現在の前線への食糧補給状況、治安の悪
化などからありえる。荷物の食糧を奪っていることからこの可能性はあるが、食糧をすべて運んだとなるとかなりの大人数
だ。冬季の物資が欠乏した時期であり、大人数の集団が長期にこの周辺で知られることなく隠れていることは難しいため可
能性としてはこれも低い。
 また、この種の集団である場合は、現在、食糧をある程度得ていることから、奇襲をかけられると確信しなければ積極
的に再度の襲撃を行うことはないだろう。そして、こちらの人数が多ければ多いほど襲撃を躊躇うだろう。そのため戦死し
た同志士官候補生以下の兵士諸君も守備に協力してもらった。」ドルゴフ少佐は戦死者を案山子のように焚き火の回りに
並べた理由も説明した。

「三つ目はコサックだ。」ドルゴフ少佐は兵士達見渡して言った。

「もちろん大多数のコサックは我が赤軍の指揮下にある。しかし、一部の反動的なコサック集団はファシストの傀儡にな
って我が祖国への恥ずべき裏切り行為を行っている。
 赤軍に偽装した反動コサックが偵察や破壊工作のため戦線の後方へ回り込んだ。という可能性と、偶然、戦線の後方へ
迷い込んだ可能性がある。
 反動コサック部隊はファシストの補助部隊であり、また祖国を裏切る怯懦で能力の低い彼らに赤軍勢力圏で積極的かつ
柔軟性の要求されるような作戦行動をドイツ軍が命じたとは思えない。」

少し雪が戻ってきて兵士達に降りかかる。

57 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:51:20
「ただ、どちらにしても傀儡コサックの場合はファシスト支配圏への帰還を図っている。この地域は森林と雪原の錯綜し
た地形で迷いやすい。できれば道路移動をしたいだろう。
 また、昨日の降雪で道路を外れた森林地帯は新雪に覆われて、騎馬で移動する場合は移動が非常に困難だ。そのため、
時間にあせる彼らがこの地点を強行突破して、その存在発覚を少しでも遅らせるために我々を抹殺する可能性は高い。」
ここまでをドルゴフ少佐は一気にしゃべった。
「この三つ目の可能性がある以上、我々は防御戦闘を覚悟する必要がある。質問は?」

「同志政治将校殿、三つ目の可能性の場合、兵力はどの程度でしょうか?」カガロフスキー曹長が聞いた。

「多くて二十だ。多人数の乗馬した人間が戦線後方であっても見つからずに行動できるとは考えにくい。」ドルゴフ少佐
は確信めいた口調で言う。

「食糧を全部奪っていますからもっと多数ではないでしょうか。」腕を負傷して左手を吊っている兵士が聞いた。
「ああ、人間が食う場合はな。」
「馬糧にしたんですか!クソ。運んでるアイツらにも我慢させているのに。」馬匹係の年配兵士が、雪の下から掘り出され
た枯れ草を食べている輸送隊の痩せ馬を見ながら言った。

「我々の宿営地から六十と五十メートルの直径で同心円状に杭を打て。その杭と杭の間には雪上すれすれにソリの荷物を
縛っているロープを張れ。」ドルゴフ少佐の言葉に兵士達が一斉に動きかかる。

「ちょっと待て。」ドルゴフ少佐は兵士達を制止した。 

「日本語で何か憶えやすい合言葉はないか?」ドルゴフ少佐は長谷川に尋ねた。
「合言葉といえば、”やま”・”かわ”ですね。」長谷川は間髪をおかずに答える。

「合言葉は”ヤマ”と”カワ”だ。全員お互いに向き合って復唱しろ。」ドルゴフ少佐の命令で兵士達はお互いに”ヤマ”
”カワ”と何回か言い合った。
「よし、敵味方が不明の場合、合い言葉の返事がなければ二つ数えて撃て。撃たれたくなっかたら忘れるな。よし作業に
かかれ。」雪が本格的に降ってきてたなかを兵士たち早足で立ち去る。

「本当は十中八九、コサックだと判断してるんですね。」兵士達の姿が見えなくなってから長谷川はドルゴフ少佐はに言
った。
「よく二十人と判断できましたね。」何も答えないドルゴフ少佐に長谷川は更に尋ねた。

「根拠なんてないさ。アイツラが自分でなんとかなりそうだと考える人数が二十人くらいだと思っただけだ。それ以上の
人数を言うと、逃亡兵が出かねないからな。」ドルゴフ少佐は静かに答えた。

「ドルゴフ少佐、わたしは今どういう立場で行動すればいい?」長谷川が人心地ついた時間を利用して聞いた。

「トラブルに巻き込まれた外国人記者がしかたなしに赤軍指揮下に入ったと思えばいい。私の直属だ。」ドルゴフ少佐は
ニコリともせずに言い放った。
「そのままですか。」長谷川は溜息をついた。

58 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:52:00
 一時間ほどして雪まみれになったカガロフスキー曹長が、作業とその点検が終了したことを報告にきた。カガロフスキー
曹長の後ろには、残置トラックのことを報告したシチェルビーナ二等兵が立っていた。

「政治将校殿、シチェルビーナ二等兵のことでご相談したいことがあります。」カガロフスキー曹長がドルゴフ少佐に敬
礼した。
「こちらもシチェルビーナ二等兵に聞きたいことがあったからちょうどいい。先に曹長の話を聞こと思うが、ハセガワが
尋ねたいことがあるそうだ。こいつは日本の記者だから答える義務はない。判断できなければオレに聞け。」ドルゴフ少
佐が兵士達の作業中に聞いた長谷川の望みを叶えてくれた。

「シチェルビーナ二等兵。フルネームを教えてくれませんか。」長谷川は小柄な若い兵士に言った。
「アンゲリーナ・イリイニチナ・シチェルビーナ」シチェルビーナ二等兵は小さな声で言った。防寒帽からはみ出る黒髪、
白い肌に黒い瞳が恥ずかしそうに長谷川を見る。
「我が隊の用心棒ですよ。でも、内気なお嬢さんでね。」カガロフスキー曹長が笑顔で言った。

「やはり女性兵士でしたか。」長谷川も笑顔で言った。

 最初、長谷川がシチェルビーナ二等兵の性別を誤認していたのには訳がある。ロシアでは男性と女性では姓の表現が変
化する。例えばマリア・シャラポワの父親はユーリ・シャラポフである。ところが男性女性でも変化しない例外的な姓が
あり、シチェルビーナもその一つだったのだ。

「同志カガロフスキー曹長、君の要望を言いたまえ。」ドルゴフ少佐が和みかけた雰囲気を切り裂くような口調で言った。
「政治将校殿、シチェルビーナ二等兵の歩哨時間帯を判断していただきたいのです。」カガロフスキー曹長が言う。
「何故だね。歩哨の割り当ては下士官の任務ではないのか。いや、これはわたしとハセガワの疑問に関連することかな?」
ドルゴフ少佐は独り言のように言った。

 長谷川にとって後方要員ではなく、戦闘部隊に女性兵士がいるといことは奇異な感じがする。百歩譲って輸送部隊が直接
戦闘に関連しないとしても疑問がある。長谷川、憂鬱世界における日本陸軍の常識からすれば輜重系の部隊の兵士は射撃
下手や俊敏さに問題があったとしても、ある程度の体力と体格を持った兵隊が集められている。
 どう見ても女性としても小柄なシチェルビーナ二等兵が荷物の運搬に役立つとは思えなかったのだ。女性兵士を見慣れ
たドルゴフ少佐も同じ疑問を持っていた。

「政治将校殿の疑問はシチェルビーナ二等兵が何故輸送隊にいるのかということだと思います。シチェルビーナ二等兵は
わたしが中隊長と中隊の政治将校殿に頼み込んで中隊の主計より、二人の兵員を抽出することを条件に、わたしの小隊に
配属して貰いました。」カガロフスキー曹長は二回ほどシチェルビーナ二等兵を見やりながら言った。

「二人厄介ばらいしたい奴でもいたのか。」ドルゴフ少佐は少し目を細めて言った。
「それはご想像にお任せします。何は兎も角、シチェルビーナ二等兵の能力が欲しかったからです。」カガロフスキー曹
長は苦笑してから言った。
「どのような能力だ。」

「シチェルビーナ二等兵は名前(アンゲリーナ=天使)から千里眼の天使と呼ばれています。今日、ファシストの攻撃に
遭う前に待避できたのは、彼女が敵機を見つけたからです。それも先遣部隊が攻撃を受ける数分前です。」

59 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:52:56
「敵のパイロットはさらに上手だったがな。」ドルゴフ少佐は苦笑しながら言う。

「はい、今日もようなことは始めてです。今までは彼女の視力のおかげで敵機の攻撃を常に避けてこれました。しかし、
今日とて待避していなかったら被害はもっと甚大だったでしょう。」
カガロフスキー曹長は生真面目な口調で言う。
「シチェルビーナ二等兵は夜目も利きます。黒い瞳のゲーリャ(アンゲリーナの愛称)は闇夜でも歩けると中隊でも評判
でした。」
「しかし、どの程度の能力か今は確かめようがないな。まあ、話半分としても同志曹長は、どの時間帯で彼女の能力が必
要になるか知りたいというのだな。」ドルゴフ少佐は口調を改めた。

「夜明けだ。それまでは十分休ませておけ。」しばらく考えてドルゴフ少佐は言った。

「政治将校殿、質問があったのではないですか?」カガロフスキー曹長は姿勢を正して聞いた。
「同志シチェルビーナ二等兵、何故、トラックのところから戻ってきた。」ドルゴフ少佐の声は威圧的だった。

「それは襲撃されたことを・・」シチェルビーナ二等兵の声はほとんど聞き取れない。

「カガロフスキー曹長、同行したのは誰だ。」ドルゴフ少佐がシチェルビーナ二等兵を見たまま聞いた。
「コヴァレフスキー一等兵です。」カガロフスキー曹長は少し間を開けて言った。

「カガロフスキー曹長、君がシチェルビーナ二等兵を伝令に出したのは、彼女をより安全な場所に行かせたかったからだ。
しかし、同行者はそうではあるまい。」カガロフスキー曹長はドルゴフ少佐の問いかけに片方の眉毛を少しあげた。

「ここにいても役に立たないと思った人物だろう。」ドルゴフ少佐はかまわずに続けた。

「シチェルビーナ二等兵、君はコヴァレフスキー一等兵の指示でここに戻ったのか?」ドルゴフ少佐がたたみかける。

「・・・そうです。」シチェルビーナ二等兵は消え入りそうな声で言う。

「正直だな。顔に真実が出てるぞ。コヴァレフスキー一等兵は死体を見て恐怖にかられ、君を残したまま現場から馬ソリ
で逃げたんだろう。途方に暮れた君はしかたなしにここに戻った。」

「コヴァレフスキー一等兵を・・。処罰などなさらないでください。」シチェルビーナ二等兵は始めて大きな声で言った。
「生きていれば不問にすることはできない。死んでいれば忘れよう。さあ、シチェルビーナ二等兵、明日の為に休みたまえ。
カガロフスキー曹長、歩哨の交代時に歩哨に報告にくるように伝えろ。オレは起きているから心配しないで三人とも早く
寝ろ。」

「そんなわけには。」カガロフスキー曹長が言い返した。
「苦労人だな。よし一時間おきに拠点を見て回って居眠りしていないか確認しろ。」

「ハセガワは寝ておけよ。危ないとしたら夜明けだ。これだけは確信がある。早く寝ないと今度はクソの世話をさせるぞ。」
長谷川は今日の疲れからか、数分で熟睡した。
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最終更新:2012年02月07日 03:56