60 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:53:54
モスクワ通信9 -モスクワ方面軍見聞記- その8 ステンカ・ラージン(Stenka Razin) Стенька Разин
2月27日土曜日未明 中央ロシア高原中央部の森林地帯
「ハセガワ起きろ。」ドルゴフ少佐の低い声で長谷川は飛び起きた。
「やはり、コサックだ。シチェルビーナ二等兵の猫の目のような能力は本物だったらしい。森の中に騎馬が多数いる。向
こうは見えてないと思っているからこっちが先手を取れるぞ。」最低限に絞ったランタンの光にドルゴフ少佐の顔がほく
そ笑んでいるように見えた。
トラックの荷台には、カガロフスキー曹長とシチェルビーナ二等兵、それに馬匹の世話をしている年配の兵士がいた。
「何故、見えていると判断したんですか。」長谷川は聞いた。
「馬が反応しています。しきりに匂いを嗅いでます。同族がいるときの仕草です。」年配の兵士が言った。
「すぐに襲ってきますか?」長谷川は不安げに聞いた。
「いいや、少し明るくなり始めてからだ。暗闇では馬を自由に乗りこなせない。いける明るさになったと判断したら一気
に来るぞ。」
ドルゴフ少佐は上を向いたまま身じろぎしないで言った。
「カガロフスキー曹長、これからは君が指揮を取れ。この状態ではオレは様子が見えん。発砲は同心円で張り巡らしたロ
ープの中に敵が入ってくるまで絶対にするな。そこに入って来ずに遠ざかる敵はかまうな。」
「シチェルビーナ二等兵。」ドルゴフ少佐はシチェルビーナ二等兵の方へ顔を向けた。
「はは、はい。」彼女の狼狽えぶりからびっくりした子猫みたいな仕草だと長谷川は思った。
「銃の腕前は?」ドルゴフ少佐は静かに尋ねた。
「普通です。あんまり訓練はしていませんけど。」
「森までは100メートル、目標は乗馬した敵兵。狙って撃てば必ず当たる。カガロフスキー曹長の合図があったら最初の
一発は一番当てやすい目標を狙って撃て。馬でも敵兵でもどちらを狙ってもいい。後は敵のいる辺りに着弾すればいい。
不意に撃たれた奴らは混乱して闇雲に飛び出してくる。燻りだしてやるのさ。」そう言うとまたドルゴフ少佐は上を向いた。
「カガロフスキー曹長、兵士の中で一番射撃の上手い者を、死体を並べた焚き火の近くの拠点に置け。そいつは、焚き火
の近くにやってきて姿を晒した敵を専門に撃たせろ。短機関銃は中心部に侵入した敵にのみ使え。
今すぐ、全員を目立たないように配置につけろ。少しでも明るくなってきて、雪の上にいる目標が狙えると感じたら
シチェルビーナ二等兵に撃たせろ。行け。」ドルゴフ少佐は矢継ぎ早に命令を出した。
「任せたぞ。カガロフスキー曹長。ヤマ。」
「カワ。」カガロフスキー曹長以下三人は即座に言い返した。
「よし、大丈夫だ。あいつら適度に緊張し、上手くいきそうだと信じてリラックスしている。ただし、弾薬が限られてい
るからあっという間に勝負をつけないと・・。」三人が配置につくためトラックから出ていったのを確認してからドルゴ
フ少佐は言った。
61 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:54:40
「わたしは何をすればいいですか。」長谷川が心細そうに聞いた。
「本部の守備要員だと言っただろう。ここで私を守れ。それから逐一外の様子を報告しろ。記者なら得意だろう。まず、
ランタンの火を消せ。」
長谷川はそれはアナウンサーだと言おうしたが、その言葉を飲み込んで頷いた。そして、言われたようにランタンの火
を消した。
長谷川が幌の隙間から外を見て何十回目かの深呼吸をした時に、発砲音が響いた。
「今、シチェルビーナ二等兵が撃ちました。続けて撃ってます。森の中から発砲音と小さな閃光が見えます。」
長谷川は言われたように実況を始めた。
ウラー!雄叫びが森の中から聞こえてきた。
「騎馬が飛び出てきました。バラバラに出てきます。十、いやもっと沢山います。あ、先頭がひっくり返りました。ロー
プに躓いたんだ。こっちも応戦を始めました。二三、いやもっと落馬してます。暗くてよくわかりません。
後続が来ます。また、ロープの所で落馬しました。こっちが一斉射撃しました。三四騎が落馬。混乱しているようです。
あちらこちらを向いて走り回ってます。あ、また落馬。もう一騎落馬。」
「一群が焚き火に向かいます。一騎落馬。死体を撃ってます。また一騎、馬が倒れます。焚き火から離脱していきます。あ、
一騎落馬、もう一騎、まだ乗ってますが多分負傷してます。もう焚き火の近くにはいません。」
「落馬した者が何人か撃ってきてます。こちらも応戦してます。」
幌を突き抜けて弾丸が飛び込んで来た。
「あ、態勢を立て直して一群がまっすぐ突っ込んできます。」
「まずいな、そろそろ弾薬が切れるぞ。」ドルゴフ少佐は唸るように言う。
「一斉射撃しました。今度も二三騎落馬。あ、ロープの所を飛び越えてます。短機関銃の一連射、やった命中です。もう
一連射。だめだ、阻止できない。」
すぐ外で短機関銃の発射音が断続的にする。
「サーベルで斬りつけてる。こちらは銃剣で応戦。あ、拳銃で仕留めました。どこに行ったもう一騎!」
「ハセガワ、隠れろ。」ドルゴフ少佐の厳しい声で響く。長谷川はとっさにトラックの荷台前方、ドルゴフ少佐が寝かさ
れているソリの後ろに伏せた。
その途端に、入り口のカバーが開いて誰かがトラックを覗き込んだ。僅かな明かりに人影が浮かぶ。突然、懐中電灯の
明かりがこちらを照らした。
「ヤマ」ソリの後ろに隠れながら長谷川は怒鳴った。
「??。」
62 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:55:25
長谷川は一つ、二つで身を起こして、小銃を発砲した。人影は倒れた。
「オレを囮にしたな。」ドルゴフ少佐が暗い中で呟いた。
「ヤマ、ヤマ。ドルゴフ少佐、大丈夫ですか。」カガロフスキー曹長がトラックの荷台に飛び乗ってきた。
「カワ。状況を報告しろ。」ドルゴフ少佐が答える。
「コサックは死ぬか、前線方面に逃走しました。我々の勝利です。」カガロフスキー曹長が嬉しそうに言う。長谷川は急
いでランタンの明かりをつける。
「被害は?」ドルゴフ少佐は冷静である。
「確認途中ですが戦死1名、負傷2名です。」そう言ったカガロフスキー曹長の姿がランタンの明かりに浮かび上がる。
左腕の上腕部から出血していた。弾丸がかすったようだ。
「君も負傷者の内か?」ドルゴフ少佐はまた静かに言った。
「こんな傷は唾でもつければ治ります。負傷のうちに入りません。」カガロフスキー曹長は明かりで始めて自分の負傷に
気がついたのか、ちらりと眺めると事も無げに言った。
「コサックが戻ってきます。」兵士が息せき切って報告にきた。
「一列横隊で銃を構えて迎え撃て。」ドルゴフ少佐が始めて怒鳴った。
「しかし、弾丸がほとんどありません。」カガロフスキー曹長は荷台から飛び降りながら言う。
「大丈夫だ。短機関銃の弾丸は残っているか?」カガロフスキー曹長また冷静に言った。
「はい一連射でしたら。」不安そうにカガロフスキー曹長がドルゴフ少佐を見やって言う。
「よし敵が近づいたら撃て。当てる必要はない。」カガロフスキー曹長は早口だが落ち着いた口調で指示した。
「残りの銃は敵が発砲したら撃て。こっちからは撃つな。早く位置につけ。」ドルゴフ少佐の命令でカガロフスキー曹長
と報告に来た兵士は走り去った。
「ハセガワ、また状況を報告しろ。」ドルゴフ少佐は長谷川にも命令した。
「はい。十騎ばかりが接近してきます。今、短機関銃を撃ちました。」あわてて長谷川は幌の隙間を覗く。
「聞こえてる。」うんざりしたような口調でドルゴフ少佐は反応する。
「コサック停まりました。あ、馬から降ります。手を挙げてます。そらから、道の向こうからやってきます。車のヘッド
ライトです。味方です。きました味方が一台、二台、かなりいます。装甲車が先頭です。味方が来るのがわかってたんで
すか?」
「それ以外にコサックがこちらに戻ってくる理由があるか。」その後、ドルゴフ少佐は小さな溜息をついた。
63 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:56:27
救援部隊は昨日遅くに輸送部隊が到着して本隊の窮状を知らされた。しかし、深夜のことであり守備隊の中から兵員を
抽出して救援隊の組織するのに時間がかかったのだ。ただ、食糧窮迫のおりから彼らとしては最大の努力を払った。その
結果が逃亡に成功しかけたコサックたちの運命を決めた。
もっとも輸送隊襲撃もコサックの存在も知らない救援隊であるから、コサックが、何気ない顔で救援隊の横をすり抜け
ていくことは十分可能だっただろう。コサックは救援隊を討伐部隊と勘違いして観念してしまったのだ。
「政治将校殿、お話は聞きました。見事な指揮振り感服します。」救援隊を率いてきた中尉がドルゴフ少佐の横でさきほ
どからしきりに感心していた。まんざらおべっかのようでもないような感じである。長谷川は昨日の残りの馬肉入りトウ
モロコシ粥を食べながら聞いている。
「死体の収容と捕虜の確保終わりました。」救援隊の軍曹が報告にきた。
「数は?」中尉が更に聞く。
「死体が8体、瀕死のものが3名ですがすでに処理しました。」
長谷川は処理という言葉に少し顔を上げた。
「捕虜が12名です。5名はかなり負傷しています。足跡から数名は徒歩で森の中に逃亡したようですが冬の森が始末し
てくれるでしょう。
馬は15頭確保しました。8頭は死ぬか怪我をしておりましたので、処理してトラックに積み込みました。久しぶりに
肉にありつけそうです。」軍曹はちらりと長谷川の方を向いたがドルゴフ少佐も中尉とも何も言わないので言葉を続ける。
「捕虜の様子は?」ドルゴフ少佐が中尉に聞いた。
「今、ジャブリツェフ少尉が尋問していますがもうすぐ終わります。わたしが行った時は、赤軍の前線警備が甘いから自
分隊が赤軍の後方へ迷い込んでしまった。前線で追い払われたらこんな目に会わなかったと怒っていました。」
「で、捕虜はどうするんだ。」ドルゴフ少佐は尋ねるといより確かめるという言い方だった。
「ここで処理します。奴らを乗せて行く余裕もありません。今、穴を掘らせてます。それでは、手早くすませてきます。
日本の新聞記者はここにいて貰います。外は寒いですからね。軍曹、ドルゴフ少佐と記者さんをここで見ていてくれ。」
そう言うと中尉は外に出て行った。
歌声が聞こえてきた。長谷川も学生の頃によく歌った「ステンカ・ラージン」である。
Из-за острова на стрежень, イズザ オストローバ ナ ストレジェーニ
На простор речной волны, ナ プラストール レチュノイ
Выплывают расписные, バルニ ビプリバユート ラスピスニエ、
Острогрудые челны. オストラグルージエ チェルニー
「誰が歌ってるのでしょう。」軍医の診断を受けているドルゴフ少佐に長谷川は聞いた。
「コサック達だよ。」ドルゴフ少佐は戦闘で負傷した兵士の治療を優先させて自分の診断は最後になっていた。
64 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:58:01
ステンカ・ラージンは17世紀に南ロシアで圧政に抵抗して最後は捕らえられ処刑されたコサックの頭目である。(やっ
たことは盗賊とそう変わらないが)ステンカ・ラージンの歌は共産党支配への当てつけか、自分達をステンカ・ラージン
に擬しているのだろう。
На переднем Стенька Разин, ナ ピレドニム ステンカ ラージン
Обнявшись, сидит с княжной, アプニャブシシ シジート ス クニャジュノイ
Свадьбу новую справляет, スバドブ ノーブユ スプラブラエト
Сам веселый и хмельной. サム ビセルイ イ フメリノイ
拳銃の音がした。二三十秒おきに何回も続けて。そのたびに歌を歌う人数は減っていく。最後は独唱になり、そしてそ
れも拳銃の音で静かになった。
長谷川は、自分なら死ぬ直前まで整斉と歌っていられるだろうかと思う。確かに数時間前までは自分を殺そうとしてい
た相手ではあるが、その胆力には心を動かされるものがあった。
「ドルゴフ少佐、少しきていただけませんか。赤軍兵士のことなので最上級階級のあなたに判断していただく事案ができ
ました。」しばらくして戻ってきた救援隊の中尉がすまなそうに言う。
「別のトラックで病院までお送りしますので、トラックを移動する片手間にでもお願いします。」
ドルゴフ少佐は救援隊の持って来た担架に移されて外に運ばれる。長谷川は特に指示されなかったので、急いで自分の
荷物をまとめ待っていたが、一時間ほどしても誰も戻ってこないので荷物を持って表に出た。
長谷川が表に出ると、輸送隊の兵士も含めて大勢の兵士が輪になっていた。その中心に後ろ手に括られた赤軍兵士が跪
いていた。カガロフスキー曹長が中腰になってその兵士に何か言っている。手前には担架で担がれたドルゴフ少佐がいる。
「誰ですか?」長谷川は近くにいた馬匹係の兵士に尋ねた。
「コヴァレフスキー一等兵ですよ。ゲーリャ(アンゲリーナ・イリイニチナ・シチェルビーナ二等兵の愛称)を置き去り
にしたとんでもない野郎だ。それがこともあろうか森の中で、逃げたコサックと一緒にいたところを捕まえたんです。奴
はコサックに投降して道案内をしてやがったです。」馬匹係の兵士は唾を吐いた。
「何度言ったらわかるんだ。コサックに脅かせていたんだ。」コヴァレフスキー一等兵は大声で叫ぶ。
近くにいた兵士がコヴァレフスキー一等兵の首を捕まえて静かにさせる。担架のドルゴフ少佐が何かをコヴァレフスキー
一等兵聞いているようだがよく聞こえない。
「赤軍では敵の捕虜になった者は処罰されます。しかも、奴は敵前逃亡も同然。おまけに利敵行為だ。」
「生きて捕虜の辱めを受けずか。」長谷川が呟いた。
「なんですかそれは?」
「昔、読んだ日本の歴史小説で追い詰められた侍が、そう言って切腹する場面があって何故か心に残っている。」長谷川
そう言うと、声がよく聞こえるように少し前に進んだ。
65 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:58:37
「オレの親父は共産党の地区責任者だ。みんな知っているだろう。ただじゃすまないぞ。」コヴァレフスキー一等兵の大
声で恫喝するように叫ぶ出した。シチェルビーナ二等兵を含めて彼に憐憫の表情を見せていた兵士たちの顔もきつくなる。
長谷川は現在のソ連における共産党の立ち位置がわかるように感じた。
「親父が手を回して士官学校へ入れるんだ。そうなったらお前ら・・。」コヴァレフスキー一等兵の言葉は続かなかった。
「コヴァレフスキー一等兵、臨時野戦軍歩会議において、敵前逃亡および利敵行為、人民に対する裏切りの罪で有罪と認め
ただちに銃殺する。」ドルゴフ少佐の声が響き渡る。
「なあ、ゲーリャ。もうオレとお前の仲じゃないか。」判決にうなだれていたコヴァレフスキー一等兵は、シチェルビーナ
二等兵の方に跪いたまま近づいて懇願した。
「お前、ゲーリャに手を出したな。」カガロフスキー曹長が怒鳴る。
「こいつは図々しいことにオレに気があるんだ。内気なもんで言い出せないからオレの方から行ってやったんだよ。
前線で女がいなかったからオレも焼きが回ったよ。で、なけりゃ、親父は外国のスパイで政治犯、孤児院育ちの穀潰し、
目ん玉の怪物みたいな女、いつまでも未通女だぜ。」
コヴァレフスキー一等兵の言葉にシチェルビーナ二等兵は両手で顔を覆った。
「でもよ。ガーリャ、オレの女になったんだ。これからも可愛がってやるからよ。そこの政治将校さんにオレが逃げたん
じゃないって言ってくれよ。」シチェルビーナ二等兵は両手で顔を覆って黙っている。
「おい、なんとか言いやがれ。この売女!薄情者、おまえには人の血が流れて無いのか。ふん、しょせんは怪物か。」
コヴァレフスキー一等兵の罵詈雑言についにシチェルビーナ二等兵は走って逃げ出した。カガロフスキー曹長があわてて
追いかける。そのシチェルビーナ二等兵の後ろ姿にも、コヴァレフスキー一等兵は罵詈雑言を吐き続けた。
「見苦しい。黙らせろ。」ドルゴフ少佐の命令でコヴァレフスキー一等兵は猿ぐつわをはめられた。
「刑を執行せよ。兵士はこの場を動くな。」静かになりドルゴフ少佐の声がよりはっきり響き渡る。
救援隊の中尉が拳銃を構えて出て来た。
「コサックもあの方法で処刑したのか?」
「ええ、人民の敵に豊富に弾薬を与えるわけにはいきません。」馬匹係の兵士が感情を露わにして言った。
処刑はあっけなかった。中尉が跪いているコヴァレフスキー一等兵の後ろに回り少し狙ったかと思うと首筋を撃った。
コヴァレフスキー一等兵は前屈みで倒れて動かなくなった。
「コヴァレフスキー一等兵も一ついいことをしたな。」
ヴャジマに戻るトラックの中で、それまで黙っていたドルゴフ少佐が唐突に長谷川に言った。
「え?」
「あんなに見苦しい姿を見せてくれたから殺しても気分が悪くならない。」何故かその声は虚ろだった。
最終更新:2012年02月07日 03:59