839 :yukikaze:2012/02/10(金) 00:30:37
リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼンという老人がいる。
青年時代のフリードリヒ4世の侍従武官を務め、彼が皇帝になって以降も
変わらず侍従武官長として職務を務めている男である。
もっとも、当人曰く「自他ともに認める無能者」という評価を肯定するように
彼が侍従武官長としての職務を全うしている姿は、宮廷の誰も見たものはなく
故に、現在の職にとどまっていられるのは、「皇帝の放蕩仲間だった為」という
評価が一般的であった。
そしてそんな彼が、皇帝の命により酒の相伴にあずかっても、「またか」とは
思えども、不信感を抱く者はいなかった。
「陛下・・・この度は」
目の前の男の顔を見て、グリンメルスハウゼンは心中溜息をつきつつ、
言葉をかけた。伊達に40年近く付き合ってはいない。
皇帝がどのような気持ちでいるか、彼には痛いほどよくわかっていた。
「グリンメルス。ここでは他人行儀はよせ」
そう言って、グラスにワインを無造作に注ぐと、口元から零れるのも構わず痛飲する。
酒を飲むことで何かを忘れ去ろうとするかのように。
本来ならばそういった飲み方を止めるべきなのだろうが、グリンメルスハウゼンは
何も言わず皇帝から酒の瓶を取ると、自分と皇帝の杯にワインを注ぎ、そしてそれを
軽く天に掲げ、祈りの言葉を告げた。
「ヴァルハラにて安息を得んことを」
「ヴァルハラにて安息を得んことを」
2人の男は、静かな声でそう紡ぐと、一息に杯を煽った。
410年産のワインであったにも拘らず、男達はまるで安酒であるかのように、
黙々と飲み干していった。
「結局・・・わしのせいじゃな」
ポツリとフリードリッヒはひとりごちる。
「気を付けるべきであった。生まれてくる子は皇位継承者なのだ。わかりきっていた
筈だったのに」
「自分を責めるのはよせ。生まれくる子を喜ばぬようだったら、儂がその性根を
叩き直していたところじゃったわい」
悔恨で沈む皇帝に、グリンメルスハウゼンはそう叱咤する。
最初にフリードリッヒの学友として会った時から、彼は孤独に耐えていた
フリードリッヒの兄貴分として、彼を孤独から守り続けていた。
そうであるが故に、フリードリッヒも彼を信頼し、彼と二人だけでいるときは、
皇帝と臣下としてではなく、友として振る舞うことを望んでいた。
「そうは言うがの。シュザンナの絶望に満ちた顔と声は・・・辛いぞ」
グリンメルスハウゼンはうなだれた。
彼もまた、ペーネミュンデ侯爵夫人の悲しみについては知っていた。
あの夫人には権勢欲というものはない。ただ皇帝の愛だけを欲していた。
そんな彼女にとって、皇帝との間に生まれる子は、何よりの宝であったであろうし、
それが無残に奪われては、悲嘆に暮れるのは無理はない。
840 :yukikaze:2012/02/10(金) 00:32:58
「3度じゃ・・・」
唐突に呟く皇帝の言葉に、グリンメルスハウゼンは怪訝な顔をするが、
何かに思い当たったのかますますやるせなさそうな顔をする。
「今は・・・大丈夫なのか?」
「ああ。あれの乳母が落ち着かせてくれた」
「そうか」
ますます気分が重くなっていった。
乳母だけではなく、皇帝もまた必死に言葉をかけたに違いない。
だが、それでもなお死を望もうとしたところに、彼女の悲しみがいかに
深いかを思い知らされることになる。
そして皇帝の悲しみも。
それから1時間近く男たちは酒を酌み交わしていた。
フリードリッヒが酔いつぶれて机に突っ伏した時、グリンメルスハウゼンは、
そっと自分の礼服の上着を脱いで皇帝に被せると、信頼している侍従を呼んで
皇帝を部屋に連れて行かせ、静かに宮殿から去った。
彼にはまだやることがあったのだ。
三日後。グリンメルスハウゼンは、静かに部下の報告を聞いていた。
その中身は彼の予想通りであったが、だからと言って喜ぶ気にはなれなかった。
なれる筈がなかったというべきか。
「戯けか、あれは。自分が躍らされているのを理解しておらんとは」
グリンメルスハウゼンは吐き捨てるように呟いた。
苦々しい気分であった。あの愚か者は自分の行動がどのような意味を持つのか、
まるで理解していないらしい。
「両家の反応は?」
「内部の引き締めを図るとともに、合同で調査することも辞さずと」
当り前であろうなと、グリンメルスハウゼンは思う。
ブラウンシュバイク家にしろ、リッテンハイム家にしろ、皇帝とペーネミュンデ
侯爵夫人の子を殺す必要性などまるでない。
何しろ、今両家にいるのは女子なのだ。皇位継承権もないのにわざわざ危険性を
冒すメリットなどどこにもないのだ。
むしろ、今回の一件を機に、攻勢に打って出るつもりでいるのだろう。
「前内務尚書の動きは」
「両家の不満分子を焚き付けようとしております」
それを聞いて、グリンメルスハウゼンは鼻で笑った。
前内務尚書の狙いは明らかであった。
皇太子による流産事件を利用して、国務尚書であるブラウンシュバイク公爵に対して、
宮内尚書でしかないリッテンハイム侯爵の一門を焚き付け、双方を相争わせようと
しているのである。
彼らのグループの重鎮であるリヒテンラーデ侯爵は静養に入っている今、この両大貴族を
否応なく争わせることで、彼らの勢力を激減させる。
そうすれば、皇太子に対する巨大な貸しも相まって、今一度栄華を狙えると考えているのであろう。
「奴の犬は、社会秩序局じゃな」
「御意」
「落とし前をつけさせる」
それだけ言って、グリンメルスハウゼンは部下を下がらせる。
帝国最強のスパイマスターが本腰を入れたことを知る者はまだ少ない。
最終更新:2012年02月10日 06:41