関係あるとみられるもの
森近霖之助(東方香霖堂)
上白沢慧音(東方永夜抄)
住所
愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1(名鉄名古屋本線・常滑線「神宮前駅」、名古屋地下鉄名城線「神宮西駅」、JR東海道本線「熱田駅」 徒歩10分)
熱田神宮
※社殿
愛知県名古屋市熱田区にある神社。西暦927年に編纂された『延喜式』の中で「名神大社」に列される。熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神として祀るほか、素盞嗚尊 (すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)の5神を相殿神(あいどのしん)として祀る。いずれも草薙剣(くさなぎのつるぎ。後述)とゆかりの深い神々である。なお、宮簀媛命(みやすひめのみこと)及び建稲種命(たけいなだねのみこと)は、尾張地方(現在の愛知県西部)の人々の遠祖とも考えられている。
主祭神の熱田大神は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を神格化した存在であるとも、草薙剣をご神体とした
天照大神(あまてらすおおみかみ)であるとも言われる。
熱田神宮の公式HPには、
「祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代として、よらせられる天照大神のことであります。」とあることから、公式には草薙剣に単独の人格(神格)を認めているというより、草薙剣に天照大神がやどったものが熱田大神と考えられていると言えよう。ところで、天照大神と熱田大神が全く同一の意思を持つのか、多重人格者のように根源的にはつながりながら別の意思を示すのか、クローン人間のように姿形は同じでも異なる意思を持つのかについて疑問が残る。東方projectにおいても『分霊』という概念が存在するが、非常に難解な問題だと思う。教えて詳しい人。
熱田神宮の創祀は景行天皇(第12代天皇)の時代にさかのぼるとされ、景行天皇の子である「日本武尊(やまとたけるのみこと)」にまつわる所が大きい。
『日本書紀』の記述によると、景行天皇の子である日本武尊は、当時
ヒャッハーしていた東国=現在の関東地方の平定に自ら名乗りをあげた(『古事記』では景行天皇に命ぜられて、ガチで嫌がりながら仕方なく遠征した)。無事東国の平定を成し遂げた日本武尊であったが、都へ引き返す途中で尾張の国に立ち寄ちよると、この地で妻に迎えた宮簀媛命(みやすひめのみこと)に草薙剣を預けたまま
伊吹大明神の退治に向かい返り討ちに遭う。なぜ「伝家の宝刀」である草薙剣を持たずに伊吹大明神の退治に向かったのかについては、伊吹大明神を舐めきっていた、何らかの神託があった、登山するのに邪魔だった、等々色々想像して楽しい所である。日本武尊は剣を取りに戻ることなく現在の三重県亀山市能褒野(のぼの)で落命した。宮簀媛命(みやすひめのみこと)は日本武尊をしのび、遺品である草薙剣を熱田の地に祀ったと言う。日本武尊及び景行天皇は実在性の不確かな神話上の人物であるが、もし実在するとすれば4世紀前半頃の人物であると推定される。よって、熱田神宮の創建もこの頃ということになるだろう。
余談だが、創建当初の熱田神宮は、伊勢湾を挟んで
伊勢神宮と向かい合っていたという。古代日本人の地理学的なダイナミズムが感じられる話である。海の間近に建てられた熱田神宮は、あたかも古木の生い茂る豊かな島が海に浮かんでいるように見えたため、「
蓬莱島」とも呼ばれるようになった。さらに、蓬莱島の蓬莱宮には仙女が住まい、その仙女の一人が
楊貴妃であるという中国の伝承と結びつき、
熱田大神=楊貴妃というすさまじい伝説も生み出された。唐の全盛期を築き上げ、日本侵略に意欲を見せた玄宗皇帝の野心に困り果てた日本の神々たちが相談し、熱田大神を工作員として送り込み、壮絶なお色気でふぬけにしようという壮大な計画を練った、というものである。
一方で、現代の熱田神宮は海岸から5キロ以上内地に存在している。これは熱田神宮が移設されたためではなく、創建より1500年の間に干拓(堤防などで潮水の侵入を遮断し、陸地を増やすこと)が進められたためである。熱田神宮の総敷地面積は、飛び地も含めるとおよそ29万平方メートルにも及び、名駅や栄といった都市の中心部より数キロ圏内にありながら豊かな木々をたたえた憩いの場として市民に親しまれている。初詣の時とかすごいことになる。境内には、弘法大師が植えたとされる樹齢千年前後の楠木(くすのき)のほか、織田信長が桶狭間での戦勝を熱田大神に感謝して作ったとされる信長堀や、「日本三大灯篭」で微妙に有名な信州長沼藩主、佐久間勝之が奉納したとされる佐久間燈籠など、悠久の歴史を感じさせるものが多く見られる。
※弘法大師手植のクスノキ
※信長堀
※佐久間灯篭
東方projectにおいては、「蓬莱人形~Dolls in Pseudo Paradise」中に楽曲
「蓬莱伝説」が登場する。日本に伝わる蓬莱伝説として、鎌倉時代以前にまで由緒を遡れるものはわずかに三つしかない。一つが和歌山県新宮市にある
徐福公園らで有名な徐福蓬莱伝説であり、もう一つが
富士山に伝わる
かぐや姫の蓬莱伝説、そして最後の一つが上述の熱田蓬莱島の蓬莱伝説である。同作品のカバーには、曲になぞらえて「不死の薬は、あの始皇帝の使いですら見つけることが出来なかったというのに…かぐやは何を考えているのか?…蓬莱の玉の枝など見つかるものか。」という一文が添えられており、『東方文化帖』中の「幻想の音覚」では主に曲調の解説がされていることなどから、
熱田蓬莱島の蓬莱伝説が、完全スルーされていることがわかる。時々でいいから、思い出してくださいね。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
日本神話上の神剣。『日本書紀』の注釈によると、本来の名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である可能性もある。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際に、その尾より出てきたとされる。伊勢神宮に奉安されているという八咫鏡(やたのかがみ)、皇居にあるとされる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と並び、天皇家の三種の神器の一つに数えられる。儒教的な「三徳」になぞらえた場合、八咫鏡は「知」を、八尺瓊勾玉は「仁」を、草薙剣は「勇」を現すものとされ、天皇家ひいては日本国の武力の象徴とみなされることもある。全くの余談だが西暦2015年3月に就役した「護衛艦いずも」のロゴにも草薙剣とヤマタノオロチがあしらわれている。単純にネーミングの由来である出雲神話に題材をとっていると見せかけつつ、「いずも」の武威をもって現代日本の草薙剣たらしめんとする意図が込められていたりして。
一方で、草薙剣は皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている(wikipediaより)。今上天皇の手元には三種の神器(知・仁・勇)がそろっているものの、八尺瓊勾玉以外の二品は形代(レプリカ)である。特に草薙剣は、有史以来熱田神宮の厳重な封印のもとに置かれており、それを盗み見ようとした者はことごとく呪われるといったエピソードまである。もはや神剣と言うより呪いの剣である。その奥ゆかしいってレベルじゃねーレアリティと管理の厳重さから、「本当に実在しているのか」を疑問視する声が少なくとも一部ではある。
東方projectに登場する草薙剣
『東方永夜抄』3面ステージボスの上白沢慧音は、スペルカードとして国符「三種の神器」を使用する。上白沢慧音は万物に通暁(つうぎょう)し、徳のある統治者(帝)に忠言を行うとされる聖獣「白澤(はくたく)」がモデルとなったキャラクターである。また、上白沢慧音が永夜抄で使用するスペルカードは、『古事記』らの伝承による産霊(ムスビ。万物を生成すること、あるいはその神)から始まり、西暦1945年頃の太平洋戦争終戦・天皇の人間宣言がモチーフと思われる「GHQクライシス」まで、皇室の歴史を眺め渡すような内容となっている。すなわち上白沢慧音は統治者(天皇家)の歴史に深くゆかりを持つ存在であるとされているため、ここで言われる「三種の神器」もまた天皇家の三種の神器を表現している可能性が高い。なお、国府「三種の神器」は、Easyで「剣」、Normalで「玉」、Hardで「鏡」、Lunaticで「郷」と難易度に応じて4種類が使い分けられる。Easyの「剣」が「草薙剣」を意味している可能性が高いと言えよう。勇(剣)よりも仁(玉)、仁(玉)よりも知(鏡)の方が強いと言うのは何となくけーね先生っぽい気がする。学びて思わざるは暗いが、思いて学ばざるは危うし。
さらに東方projectの書籍作品『東方香霖堂』では、「草薙剣」が霧雨魔理沙の所有物として登場し、作中で森近霖之助に譲渡されている。魔理沙には外界から流れ着く金属を拾い集めては、「宝物」と称して自宅に溜めこむリスのような習性があり、かなり前から偶然「草薙剣」を手に入れていたようである。
森近霖之助は、かつて魔理沙の父が経営する霧雨道具店で商人修行をしていた縁で「魔理沙の事を小さいころから見て来た」人物であり、マジックアイテム「ミニ八卦路」を制作した人物でもある。この「ミニ八卦路」の火力が弱まったために、魔理沙が霖之助にメンテナンスを依頼し、修繕費の支払いに「草薙剣」が充てられた。
と言っても、魔理沙は草薙剣の価値を知っていたわけではない。当初の契約は、「ミニ八卦路」の修理をする代わりに、魔理沙が「宝物」と称して意味もなく集めている鉄くずを引き渡すというものだった。「ミニ八卦路」の修理には「ヒヒイロカネ」という貴重な金属を使用するため、鉄くずの山では到底その対価としては見合わない。霖之助は魔理沙の「モノを捨てられない性格」「主に集める事にしか興味がない性格」を知っていたため、上述の交換条件を持ち出しただけである。果たして、魔理沙が「鉄くずの山」として引き渡した金属の中に「草薙剣」がまぎれこんでいたため、霖之助は超レアな道具を手にすることとなり、まんまとほくそ笑んだ。
しかし、ここで一つの疑問として浮上するのが
「外界に伝わる秘宝である草薙剣が、なぜ幻想郷に存在しているのか。」
という点であろう。草薙剣を一個の「モノ」として考えるならば、悠久の歴史上どこかの段階で幻想郷に「持ち込まれた」あるいは「流れ着いた」と考えるべきだし、草薙剣を「神」として解釈するならば、草薙剣あるいは天照大神の分霊ないし分霊の宿った剣が幻想入りしたと考えられるだろう(『東方儚月抄 上巻P130参照』)。後者の解釈としてはあまり想像の膨らむ余地がなくて面白くないので、前者の前提をとって考察をしてみると、「草薙剣」を幻想郷に持ち込むことができたであろうタイミングが歴史上何度か存在する。
西暦668年に草薙剣は新羅人の僧侶である「道行」によって盗み出され、国外へと持ち去られようとしたことがある。結局風雨に妨げられ、道行の計画は頓挫したが、以後18年間は草薙剣が宮中(天皇のもと)に留めおかれたという。しかし、いくらなんでも18年もの間、草薙剣を熱田神宮に還さず宮中に留めおくと言うのは「セキュリティ上の理由」と言われても若干不自然である。よって、上述した日本武尊の神話を一部否定し、元々単に尾張地方の氏族神社にすぎなかった熱田神宮に西暦686年になって初めて草薙剣が「下賜」されたのではないかとする説もある。一方で、この18年のブランクについて盗難に遭ったという本物の「草薙剣」は逸失して見つかっていなかった。18年後に復刻されて熱田神宮に奉納されたと推測すれば、本物の草薙剣が野に下り、幻想郷に流れ着いたというストーリーも組み立てられる(そういうお話作りができるというだけで、史実がそうだと言ってるのではありません。くれぐれも)。
また、西暦1185年に壇ノ浦の戦いで敗れた際に、平時子(平清盛の妻)は草薙剣を腰にさして入水したとされ、その遺骸は浮上していない。この時海底に沈んだのは熱田神宮の草薙剣ではなく、宮中で保管されていた形代(レプリカ)の草薙剣の方であるが、こちらが幻想郷へ流れついている可能性もあるだろう。また、南北朝の動乱期には草薙剣の行方が一時期分からなくなったり、敵方の目を欺くためにいくつかの模造品が造られたりしていることから、この時期において創作ないし流失した剣の一本が幻想郷に流れ着いた可能性もある(ただし、幻想郷にある草薙剣は『ヒヒイロカネ』という古代のロストテクノロジーを用いているため、それなりに由緒のあるもののはずである)。
近代では、太平洋戦争終結直後の西暦1945年8月から1か月あまりの間、草薙剣は岐阜県高山市にある飛騨一宮水無神社へと避難させられている。敗戦にともなって日本のイデオロギーがガタついていた時期であり、戦災にともなう混乱に乗じて暴徒らが神器に手をかける可能性があったことが原因の一つではないかと考えられる。この移動の際に草薙剣が逸失した可能性は限りなく低いが、神宮外に持ち出された非常に稀有な事件であることに疑いはないだろう。以後は現代に至るまで(一部異論はあるにしても)平和な世が続き、草薙剣もまた熱田神宮において奉安されていることは周知の事実である。
しかし、その平和の中で科学主義的な歴史の実証がすすみ、歴史と神話とが一部切り離されたりしながら再構成されつつある様相はかえって草薙剣にゆゆしき事態をもたらしているとも言える。本来日本武尊を中心とした記紀神話の中にあった草薙剣の由緒について、西暦686年に熱田神宮に「下賜」されたものである可能性が指摘されはじめた事は、少なからずその筋書きに改編が求められる可能性があるだろう。また、永らく封印され続けたことにより経年劣化に伴う刀身の自然消滅説等も真しやかにささやかれるようになり、その実在自体に疑義が差し挟まれるようになったことも上述のとおりである。果たして、実在性を疑われるようになった「草薙剣」、あるいは架空の神話として再構成された「神剣としての草薙剣」が、いつの間にか幻想郷に姿を現すようになったということも有りうるだろう。
最終更新:2015年10月21日 08:07