関係あるとみられるもの
蓬莱山輝夜(東方永夜抄)
不死「徐福時空」
住所
徐福公園 和歌山県新宮市徐福1-4-24(JR紀伊本線「新宮駅」下車1分)
阿須賀神社 和歌山県新宮市阿須賀1-2−25(JR紀伊本線「新宮駅」下車10分)
徐福公園
※徐福公園正面
和歌山県新宮市の駅前一等地に鎮座する公園。オレンジ色の瓦が乗った巨大な楼門が異彩を放ち、海鳥の遠鳴りがひびく港町の静かな情景から良い意味でも悪い意味でも浮きまくっている。現在の公園は平成6年(西暦1994年)にふるさと創生事業(※)交付金を惜しみなく投入して整備されたものであるが、それより遥か以前の江戸時代中期には同地に「徐福の墓(市文化財)」が存在していた。これは初代紀州藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が熊野の徐福伝説(後述)にのっとって「偉大な徐福に墓が無いのはおかしい」と建立を命じ、その約100年後の西暦1736年ないし1729年に完成された記念碑である。徐福公園はそのハイカラな見た目とは裏腹に、非常に古式ゆかしい史跡を内包しているのである。また公園内には、徐福に殉死した7家臣の塚(とされる、現新宮市内で発見された7つの円塚)を合祀した7塚の碑(大正4年)や、明の太祖と僧侶絶海の問答詩碑(昭和41年)、在りし日の徐福像、不老の池、北斗七星の形に並んだ「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」の7本の石柱(7人の家臣にちなむ)も置かれており、徐福をテーマとした野外資料館的な様相を呈している。中でも個人的におすすめしたいのは、天保5年(西暦1834年)に水戸藩の儒学者・仁井田好古(にいだこうこ)が起草し、昭和15年に再建された「秦徐福碑」である。「後の人か昔のことを思い見るのは、丁度月夜に遠方を望み見るようなものである。」の一文ではじまる碑は名文だと思う。ちなみに再建前の初代「秦徐福碑」は仁井田好古自身が彫りあげたものであったが、和歌山へ奉納するまさにその海上で船が難破し海中に沈んでしまった。つまり、まったく日の目を見ることはなかった。紀州の民も好古も、これにはさぞガッカリしたことだろう。
公園にはクスノキの巨木がそびえるほか、徐福が求めた「蓬莱の薬」の正体とされる天台烏薬(てんだいうやく)の木が随所に植えられている。敷地に併設された管理棟は売店になっており、この天台烏薬を利用したお茶やお酒がお土産品として売られている。売店ではこのほかに「徐福Tシャツ」や「徐福サブレ」も好評発売中なので、新宮市にお立ち寄りの際はぜひお買い求めください。なお実際には天台烏薬(てんだいうやく)は中国原産の植物で、日本に伝わったのは江戸時代中期頃と考えられる。すなわち徐福が日本にやってきたと伝わる2,200年前には、残念ながら天台烏薬は日本に自生していなかった可能性が高い。もし仮に徐福の求めた「蓬莱の薬」の正体が天台烏薬であったならば、原産地を離れ、自生しない地に天台烏薬を求めてやってきた徐福の行動がより珍奇なものにもなりかねないが、天台烏薬=蓬莱の薬と言ったような後世の比定や加上を含めて歴史を楽しむのも一興かと思う。徐福さん云々を差し引ても、天台烏薬のお茶を飲める機会はそうそう無いと思うよ。
※ふるさと創生事業=西暦1980年代後半、バブル全開の日本で実施された交付金事業。「用途は問わないが、とにかく使え」とのお達しで国から日本全国の自治体に1億円ずつ配られた。この素敵すぎる政策の結果、「うにがモデルのモニュメント」や「学校屋上の電光掲示板」や「ひたすら巨大な陶器の狛犬」などの珍百景を日本各地に産むことになった。
徐福の墓
阿須賀神社(あすかじんじゃ)
※阿須賀神社。奥に見えるのが蓬莱山。
新宮駅前より徒歩10分程度、細い路地の入り組む閑静な住宅地の中にある神社。境内のすぐ背後が海(厳密には熊野川河口)となっている。同社に立てられた由緒書きによれば、主祭神として事解男命(ことさかおのみこと)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)の四神を祀る。事解男命(ことさかおのみこと)は
菊理媛同様『日本書紀』の一書にのみ登場する神で、穢れをはらう神ではないかと推測される。男の神がこの能力を持つのは少し珍しい。後三者はそれぞれ熊野三社の神々であり、まとめて
「熊野権現(熊野三所権現)」と表現されることもある。阿須賀神社自体が
熊野速玉大社の境外摂社(速玉大社の一部で、大社の外に飛び出たもの)と考えられることもある。また、配神に事角見命(たけつねのかみ=タケミカズチ?)、黄泉津道守命(よもつみちぬのかみ=イザナミ)ら人気ランキング上位の神さまも祀っている。「阿須賀」は古くは「浅洲処」と書き、聖地「熊野大社」へと至る水路の河口を守護する神社として安産・航海安全・延命・発育などのご利益があると信じられてきた。その起源は第5第天皇「孝昭天皇」の5年又は53年3月と伝えられており、これを西暦に直すと
紀元前473年または423年くらいではないかと考えられる(
wiki先生より)。時代区分で言えば、ちょうど縄文時代と弥生時代の境目くらいである。まあなんというか、ロマンはある。熊野信仰の本質は仏教ないし修験道であると見なされる事も多い昨今だが、それ自体が原始山岳信仰の上に覆いかぶさったものである可能性も考えられうる。阿須賀神社の境内からは弥生~古墳時代の集落跡や祭祀遺跡(阿須賀遺跡)が実際に発見されており、同社ではこれを原始熊野信仰の痕跡であると捉えているようである。なお、熊野信仰において阿須賀神社は神倉神社同様に、熊野三社よりもその成立が古いものと位置づけられている。熊野三社が平安時代初期頃には成立していたことをかんがみれば、阿須賀神社も同時代には(少なくとも)存在していたと考えられるだろう。
長寛(ちょうかん)元年(西暦1163年)から二年をかけて、当時の公家や学者らが熊野信仰に関する研究を行い、時の朝廷に報告した文書に『長寛勘文(ちょうかんかんもん)』がある。その中の「熊野権現垂迹縁起(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)」によれば、熊野信仰の中核たる「熊野権現」という神さまは、最初「神倉山(かみくらさん。神倉神社)」に姿を現し、その約60年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷に移動した(厳密には勧請された)とされる。一方、これより古いとされる伝承では、石淵(いわぶち)谷ではなく「阿須賀の森」に移ったともされる。この「阿須賀の森」が現在の阿須賀神社であると考えられている。「熊野権現」自体が複数の神さまを合祀したり仏さまを習合(垂迹)したり、つまり色んな思想がフュージョンしまくった非常に複雑な神さまなので、これが"事実"なのか往年の神社同士のパワーバランス的な折衝の中で生まれた"設定"なのか言及することは非常に難しい。しかし、阿須賀神社が現代に至るまで熊野信仰において重要な位置づけをもった神社であったことは言うまでもないだろう。
加えて、紀記神話においても阿須賀神社は重要な意味を持つ。『日本書紀』中の「神武東征」において、神武天皇は狭野(さの)を越えて熊野の神邑に着き天磐盾に登ったとされており、ここで言う「狭野」「熊野神邑」「天磐盾」はいずれも現新宮市内のいずれかではないかと考えられている。具体的には「狭野」が新宮市佐野に、「天磐盾」が先述の神倉神社に、「熊野神邑」が阿須賀神社周辺の一帯に比定されているようである。
さらに、熊野地方には第7代天皇「孝霊天皇」の72年(紀元前219年)頃に徐福が到来したという伝説が残されており(後述)、阿須賀神社の境内はまさにその上陸地と考えられている。そのため本殿より東に100mほどの場所に「徐福上陸の地」記念碑があるほか、境内には徐福を祀る「徐福の宮」という祠も存在する。この「熊野に徐福が到来した」という伝説は昨日今日できたものではなく、かなり古くから、しかも広範に知られるものだった。鎌倉時代に中国から渡来した仏僧「祖元禅師(仏光国師)」もこれを伝え聞き、「遠方からではあるが徐福先生に香を捧げたい」という詩を詠んでいる。さらにその100年後には、土佐の絶海中津(ぜっかいちゅうしん)という僧侶が汝霖良佐(じょりんりょうさ)という僧侶とともに中国(建国されたばかりの明帝国)へ渡ると、時の皇帝である明の太祖(朱元璋)に謁見する。太祖が絶海に「そういや徐福ってどうなったん?」と尋ねると、絶海は「熊野の峰の前に徐福の祠があるよ。いい加減(徳の高い帝が治める豊かな)中国に帰ればいいのにね。」と詩を詠んで説明した。これに太祖は「神として祀られ子孫も反映している徐福よ。お前は今幸せなんだな。」という詩を返した。この「熊野の峰の前の徐福の祠」が阿須賀神社の徐福の宮のことを言っているとはなお断定できないが、熊野の山々の河口に立つ阿須賀神社を表現したものとして何ら矛盾はなく、当時より徐福の宮が存在していた可能性は極めて高い。
※徐福の宮
蓬莱山
阿須賀神社の背後で熊野河口にややせり出すように立つ、標高約48mの独立丘陵(独立峰)。「お椀を伏せたよう」とも形容される丸みをおびた山体が、どの角度から見ても非常に美しい。シイ・クスの大木をはじめ紀南では珍しいミサオノキ・ヤマモガシなど200種あまりの植物たたえる多様な原生林的樹林であり、市の天然記念物にも指定されている。また、先述のとおり山の南側にあたる阿須賀神社境内等から弥生時代の遺跡が存在し祭祀遺物も出土している(阿須賀遺跡)ことから、仏教ないし修験道をベースとした熊野信仰が生まれるよりずっと昔から人々がこの地で生活し、山を信仰してきたことはほぼ疑いないと考えられる。これを「原始熊野信仰」と呼ぶことが可能かどうかについては今後さらなる研究が必要だと思われるが、熊野信仰のルーツをより深く求める上で非常にロマンが溢れている。ちなみに
蓬莱山ないし蓬莱山を包摂する阿須賀神社については、複数のサイトで「典型的な神奈備」と表現されることがある。何をもって典型的/典型的じゃない神奈備と評価するのかはクンフー(経験値)の足りない筆者にはわからない。そもそも神奈備とは、山体そのものを神さま(ご神体)と見なすタイプの信仰のことである。典型的な神奈備の代表格としては、
富士山や
三輪山等があるらしい。
なお「蓬莱山」の名を持つ山は全国に複数存在する。日本三百名山の一つに数えられる
滋賀県の蓬莱山や、紅葉の名所である栃木県の蓬莱山が有名なほか、
富士山もまた蓬莱山の別称で知られる。
そもそも「蓬莱」ないし「蓬莱山」とは、中国の古代神話ないし神仙思想の中で「大陸の東の海に存在する」と信じられていた浮島のことである。これらの思想の中では、中国亜大陸の東の海の果ては断崖となっており、そこから下に大陸の水や海の水、天の水(天の川)が流れ落ちると考えられていた。この世界の谷底、あるいは流れ落ちた水が溜まって形成された広大な海の世界を帰墟(ききょ)という。帰墟の上には5つの島が浮かび、不老不死の神仙たちが黄金や玉石造りの家で暮らしているとも考えられた。これら5つの島を「五神山」と言い、その一つが「蓬莱」ないし「蓬莱山」である。五神山は「蓬莱山」のほかに、「岱輿(たいよ)」「員嶠(いんきょう)」「方丈(ほうじょう又は方壺(ほうこ)」「瀛洲(えいしゅう)」の5つがある。いずれも果てしなく広大で、不老不死をもたらす果実が実り、純白の動物達が住まうとされる。不老不死の神仙たちには小さな羽が生えており、5つの島を自在に行き交うことができた。しかし一方で、「五神山」はいずれも浮島で、海上をプカプカと漂う非常に不安定なものでもあった。そこで天帝は禺彊(ぐうきょう)という神に命じ、十五匹の屈強な亀達に5つの島を支えさせることにした。すなわち一つの島につき三匹の亀が割り当てられ、6万年ごとに1勤2休でローテーションしながら島を支えた。これにより島は安定し神仙らは大喜びしたが、ある時“竜伯国”という巨人の国から一人の巨人が帰墟にやってくると、島を支えていた亀及び待機中の亀を釣り上げてしまった。被害に遭ったのは「岱興」と「員嶠」の亀計6匹で、支えを失った「岱興」と「員嶠」は北極まで流されて沈没した。なお「岱興」と「員嶠」に棲んでいた神仙は涙目で逃げ出したという。これにより帰墟(ききょ)に浮かぶ島は「蓬莱山」「方丈」「瀛洲」の3つのみとなり、以後この3島を指して「五神山」ではなく「東方三神山」と呼ぶようになった。亀を釣った竜伯国の巨人は天帝にめっちゃ怒られて、うんとこさ小さくされた。
以上を含む中国神話や神仙思想については、日本各地で大量に発掘されている「三角縁神獣鏡」等から察するに4世紀には日本に流入したと考えらえる。また、6世紀頃までには「道教」や「呪術」といったより高度な知識体系に再構築され、朝廷の支配者層においても「趣味」や「カルト知識」ではなく「修得が望まれる実践的な技術」として確立されていったようである。他方で日本には元々神道があり、同時代には仏教も流入していたことから、これらの思想が絡み合って日本独自の様々な
"蓬莱思想"も生まれることとなった。この日本独特の"蓬莱思想"については、鎌倉時代より古く遡る事ができるものを
熱田神宮の頁に中途半端にまとめてあるので参照されたい。つまり現在「蓬莱山」を名乗っている日本の山の多くは、日本風にアレンジされた"蓬莱思想"をリスペクトして名づけられたものか、あるいは徐福伝説(後述)にちなんで付けられたものか、そのいずれかであると言える。富士山、滋賀の蓬莱山、栃木の蓬莱山等は前者の代表格、新宮市の蓬莱山や
犬走天満宮(いぬばしりてんまんぐう)で知られる佐賀県武雄市の蓬莱山は後者の代表格と言える。新宮市の蓬莱山が蓬莱山と呼ばれる由縁(ゆえん)は、徐福が到来し、この蓬莱山の上で" ねんがんの てんだいうやく を てにいれた "とされるためである。
新宮にて霊薬を手にした徐福はその後蓬莱山に居を構え、人々に有用な知識を広めて敬われたという。この伝説を裏付けるかのように、近年蓬莱山付近からは十基を越える竪穴式住居と、当時としては先進的な漁猟技術の痕跡も確認されているという。これらをもって直ちに「徐福は本当に熊野にやって来た」と結論付けることは当然無理があるが、800年も前から徐福到来の地として見なされていた所に古代の生活根が発見されたことは非常に興味深い事実である。上述のように新宮にはもとより弥生時代から"なんらかの原始信仰"があった痕跡は発見されているわけだから、これを阿須賀神社史流に「原始熊野信仰」と読み解くのか、徐福マニア流に「徐福が中国から持ち込んだ祭礼」と読み解くのか、あるいはその両方であると読み解くのか、どちらとも関係ねえよと読み解くのかは人によって分かれる所だろう。そのいずれが正しいのか、今後が非常に楽しみな所である。
徐福伝説
今から2,200年前、中国が秦の始皇帝に統治されていた時代。斉の国の琅邪(山東半島の南岸)に徐福という方士がいた。ある時、徐福は始皇帝に書を送り次のように申し出た。
中国の遥か東の海に、神仙の暮らす「蓬莱」という島があります。私に数千人の少年少女と様々な道具と技術者を授けてください。これを貢物とし、不老不死の薬を手に入れてまいります。
戦国の覇者となり富も権勢も極めた始皇帝が最後に望んだのは、永遠の命であった。徐福の申し出に狂喜した始皇帝は、莫大な資金と人手を授けて旅立たせた。
しかしその後、東の海へと消えた徐福が中国の地に戻ることは二度となかった。徐福がどうなってしまったかを知る人もいない。
ただ、徐福が漂着し、蓬莱の薬を求めてさまよい歩いたという伝説だけが、日本の各地に今でも残されている。
ものすごくざっくり言うと、以上が徐福伝説の概要である。
徐福という人物の名が歴史上はじめて登場する文献は、司馬遷が記した『史記』である。『史記』は徐福の時代よりおよそ100年の後に編纂された歴史書であるが、その内容は膨大な知識と資料に基づくものであり、極めて誠実に史実を著したものとして評価されている。その後『後漢書和伝(東夷伝七十五)』や『義楚六帖』『三国志』等にも徐福の名が登場するが、いずれも『史記』を原点としている。この『史記』の中で、徐福に関する記載は第6巻と第118巻に二度登場する。
①巻六 始皇帝本紀十七
二十八年(紀元前219年)斉国出身の徐市(徐福の別名)が始皇帝に書面で申し上げた。
「海中に三神山があり、これを蓬莱・方丈・瀛洲と言います。そこには仙人が住んでいます。少年少女を率いて海を渡り、これを探させてほしい。帝は飲食をお控え(斎戒して)ください」と。
かくして始皇帝は徐市と少年少女数千人を出発させることにした。徐福らは仙人を求めて海へ入っていった。
三十八年(紀元前210年)方士徐福らは海へと入り神薬を求めたが、数年たっても得られず出費も大きかった。その罪を恐れた徐福は、次のように偽りの報告を申し上げた。
「蓬莱の薬を手に入れることはできますが、鮫に苦しめられてたどり着くことができません。どうか弓の名手と、連射できる弓を授けてください」と。
②巻百十八 淮南衝山列伝五十八(漢の武帝の時代。反乱を企てた淮南王を諌めるために王の部下が引き合いに出した話)
(始皇帝は)徐福を海につかわし不老長寿の薬を求めさせましたが、帰って来た徐福は次のようにいつわりの報告をしました。
「私は海中で大神を見ました。大神は、汝は西の皇帝の使いかと私に問いました。私がそうですと答えると、(大神は)汝は何を求めてやって来たのかと問いました。
延年益寿(不老不死)の薬が欲しいと答えると、汝の主君の秦王は貢物が少ないから、仮に見つけても手に入れることはできないだろうと言いました。
それから私は東南の蓬莱山に連れていかれました。そこには霊芝(きのこ?)の宮殿がありました。使者らしき褐色の龍がいて、光が下から上って天を照らしていました。
私は再び神を拝み、何を献上すればよいのですかと問いました。神は育ちのいい少年少女と技術・道具をたくさん献上すれば、神薬を得られるだろうと言いました。」と。
これを聞いた始皇帝は大いに喜び、さっそく徐福に少年少女3千人と五穀の種と様々な道具と技術者を与えて東方に使わしました。
徐福は広大な平原を得て王となり、二度と帰ってくることはありませんでした。
①では徐福は十年の歳月をかけて海中の蓬莱山を探し回り、結局見つからなかったために虚偽の報告で言い逃れをするところで話が終わる。他方②では虚偽の報告によってさらなる援助を引き出し、最終的に(恐らく日本と思われる)別天地にたどり着き繁栄したとされる。中国に二度と戻ってこなかった徐福が、「平原を得て王となった」ことをどうやって中国の人々が知ったのかは不思議である。昨今の徐福研究では、上記のいずれも逸話も採用し、融合させるのが一般的なように思われる。すなわち徐福は①始皇帝に上奏してからしばらくの間、何度も蓬莱の薬を探して船出したが成果を挙げられず②最終的には虚偽の報告を行って、より多くの援助を引き出し、中国の東(日本?)に到来することができた。と見なすのがスタンダードなようである。
このような徐福の行動に対し、かつては始皇帝から莫大な富を奪い取った"稀代のペテン師"ないし"蓬莱の夢を追い求めた冒険家"という評価がなされるのが一般的であった。しかし、より研究の進んだ今日では"始皇帝の圧政から逃れるため、子どもたちを連れて新天地へ旅立った指導者"といったような、心のイケメン的なイメージで想像されることも多い。奥野利雄著『ロマンの人・徐福』によれば、かつて徐福は歴史書の中に存在するだけの人物であったが、西暦1982年に江蘇省連雲港市贛楡県(2014年から贛楡区)金山郷に"徐福の子孫"を名乗る人々が暮らす徐阜村が発見されたことによってさまざまな歴史的検証が行われ、現在では実在の人物であることがほぼ確定したという。なんで20世紀になって今更発見されたんだと諸兄は思われるかもしれないが、文化大革命的なアレとかもあって一時期大ぴらに公表されることが憚(はばか)られたのだろう。厳密には"再発見"なのかもしれない。徐福の家系図やら徐福廟やら徐福遺跡やら、なんかいい感じで怪しさ満点の証拠も見つかっている。
"徐福伝説"の最も稀有なところは、このような出発地側の伝承のみならず、到達地側の伝承が極めて数多くしかも多様に残っている点にある。すなわち日本において「徐福が到来した」という伝承が、本頁の熊野新宮をはじめ佐賀、福岡、鹿児島、宮崎、高知、愛知、山梨、東京(青ヶ島)など非常に広範に存在している。このような伝説の分布から、徐福はまず
佐賀県の地に上陸し、蓬莱の薬を求めながら(あるいは安住の地を探しながら)九州の各地を探索し、その後再び海路をとり黒潮に乗って四国・和歌山・富士山・青ヶ島等に到来したのではないかという推測も立てられている。徐福の生きた2,200年前と言えば『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の卑弥呼よりも遥かに古い時代の話であり、日本人がまだ竪穴式住居に暮らし土器を用いていたような時代である。そんな時代の人物の話が今日までこれほどまでに色濃く残されている背景には、これらの伝説の信憑性や創生された時期に関わらず、徐福という存在が日本人にとっていかに神秘的かつ魅力的に映って来たかの証左でもあると言えよう。
東方projectと徐福のかかわり
東方projectにおいて、徐福と思わしき人物に関する記載が最初に登場するのは、上海アリス幻樂団初の音楽CD楽曲集『蓬莱人形~Dolls in Pseudo Paradise』のうち、2002年12月のC63で発表されたいわゆる
「プレス版」中においてである。ご存知の諸兄も多い事かとは思うが、『蓬莱人形~Dolls in Pseudo Paradise』は2002年8月のC62で発表されたいわゆる「初回版」と、2002年12月のC63で発表された「プレス版」とでは、収録曲が同じでも楽曲に付されてた説明書きの内容が全く異なる。「初回版」の内容については
白馬村の神社たちの頁にその一部を掲載させていただいたので参照されたい。上海アリス幻樂団の楽曲集として記念すべき第一作目の、しかも第一曲目に輝く楽曲「蓬莱伝説」について「プレス版」では次のようなショートストーリーが付されている。
「不死の薬は、あの始皇帝の使いですら見つけることはできなかったというのに…かぐや姫は何を考えているのか?…蓬莱の玉の枝など見つかるものか。」
少なくとも曲の説明書きには見えねえなこれ。というのはさておき、ここで言う始皇帝の使いとは、徐福のことを言っているとしか考えようもない。よってこの独白の主は徐福のことを"蓬莱の夢を追い求めた冒険家"だと考えていることが分かる。ではこれが誰の独白かと言えば、文中にモロに「かぐや姫」の名が出てくることから、『竹取物語』においてかぐや姫に求婚し、かぐや姫から婚姻の条件として「蓬莱の玉の枝」を要求された車持皇子(くらもちのみこ)である可能性が最も高いだろう。車持皇子は架空の人物であるが、藤原不比等がモデルであるという説がある。また、藤原妹紅は藤原不比等の娘として設定されたキャラクターである可能性が高く、上述の独白が藤原妹紅のものである可能性も同様に高い。
2004年に発表された「東方永夜抄」のExtraステージにおいて藤原妹紅はスペルカード「徐福時空」を使用する。さらに同作のスペルプラクティスにおいては「徐福時空」の説明として
「使いの途中で面倒になって定住しちゃった人。いたる所に徐福伝説が残されているのは、実は蓬莱の薬を見つけていて不死となったからだ。」
と表記されている。東方projectの作中では、徐福は蓬莱の薬を無事発見し、しかも自分で服用して不死となったことになってるらしい。ただこの説明に限らずプラクティスの文言が全体的にノリが軽すぎるので、正直どこまで本気の公式設定なのか分からない。事実、『小説版東方儚月抄』では「蓬莱の薬」は蓬莱山輝夜の能力と八意永琳の能力の合作の産物とされており、薬の制作自体が「罪」であったために輝夜らが月を追われる原因ともなっている。このことを考えると、蓬莱の薬はとてもおいそれと存在するようなものでは無い。第一、かぐや姫が月からやってきて時の権力者らに求婚される『竹取物語』は西暦600年代後半から700年代初頭が舞台の話なので、徐福が生きた2,200年前に蓬莱山輝夜や八意永琳が地上にいてしかも蓬莱の薬を作ることができたとは到底考えにくい。もしかしたら、徐福が日本で「神霊」として祀られるようになり不滅を得たことをもって、徐福にとっての「蓬莱の薬」と表現しているのかもしれない。あるいはもう一つの仮説として、徐福は最初にたどり着いたのは日本ではなく月の都だった、伝説の「蓬莱山」は日本のことではなく月の都だった。と考えることもできるかもしれない。中国神話の帰墟(ききょ)の表記は不死の神仙、玉石の宮殿など、東方projectにおける「月の都」に比定できそうな描写も多いからである。『東方緋想天』において天界に暮す永江衣玖が自身を「衣玖です、永江の。」と紹介しており、住んでる地を名字として使用しているように取れる描写があるが、月人である輝夜もまたかつて自身の住んでいた場所の名をとって"蓬莱山"姓を名乗っているのかもしれない。月を訪れた徐福は試作段階の「蓬莱の薬」の実験体とされ、不死を得た後に日本に降りて各地を放浪したとも考えられなくもない。まあ自分で書いてても苦しいが。
最後に、東方projectの公式本である『東方三月精~Eastern and Little Nature Deity』、通称「白月精」のP108~"幻想郷道中訳"においては、幻想郷のモデルとなったものとして
遠野郷、シャンバラとならび、蓬莱の地が挙げられている。また、蓬莱を探し求めた存在として徐福の伝説に触れられているほか、徐福伝説を色濃く残す場所として本頁で記載した「徐福公園」がモロに紹介され写真も掲載されている。ただこの書籍自体、
「蓬莱の玉の枝」が「蓬莱の玉の輿」になっていたり、別のページでは
「八雲紫」の紹介として
「西行寺幽々子」の絵が掲載されていたり、こんなん絶対笑ってまうやろ級の有り得ない誤植があることもあってZUN氏はおろか東方projectに詳しいとは到底思えない方が執筆に携わっていらっしゃる節は否めない。
ただ、そもそも2002年に『東方紅魔郷』と同時にリリースされたwin版"東方project"の最初の楽曲集『蓬莱人形』の最初の曲に「蓬莱伝説」が選ばれていることは、「蓬莱」が東方の世界観においていかに重要な概念であるかを示すものと捉えて良いだろう。実際に『東方文花帖』P90「幻想の音覚」において、ZUN自身が「蓬莱というのは、おそらくこれからも東方の作品に出てくるキーワードだと思っていたために、一曲目のタイトルにしようと考えて出来た曲だ」と解説している。徐福公園から蓬莱へと連なってゆくいくつかの伝承や空想は、東方projectの世界観の基幹をなすものの一つであると考えることができる。
※東方白月精より。
最終更新:2015年07月03日 11:06