関係あるとみられるもの

西行寺幽々子(東方妖々夢)


住所

和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野1042付近 JR和歌山線「笠田」駅よりかつらぎ町コミュニティバス「丹生都比売神社行き」終点下車。徒歩7分。


天野の里(あまののさと)

 高野山のふもと、標高約450mの天野盆地に広がる集落。「にほんの里100選」の一つ。国道24号より車で15分ほど山道をのぼり上がった先にあるため、「別天地」の様相を持つ。のどかな田園風景が一面に広がり、6月にはホタルが見られるなど、自然豊かな日本の原風景を今に伝えている。四季の変化に富み、金色の稲穂が揺れる秋の光景が特に美しい。

 天野の里は「歴史の里」としての側面も持つ。弘法大師空海を高野山にみちびいたとされる真言密教の神「丹生都比売(※注1)」を祀る「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」が鎮座することから、古来より高野山とのつながりが特別に深く、「高野のかくれ里」と呼ばれることもある。加えて「横笛の恋塚」「侍賢門院(たいけんもんいん)に仕えた中納言の墓」「有王丸の墓」など平安末期の武士・貴族らが移り住んだと言う伝承がなぜかやたら多い。一説では高野山が女人禁制だったことから、出家した思い人に偶然再会できることを楽しみに天野に移り住む人も多かったともいう。以下本項で紹介する西行妻娘も、西行法師を恋いしのんでこの地に移り住んだのかもしれない。

(注1) にふつひめ。記紀神話中の稚日女尊に比定される女神。天照大神が天の岩戸に隠れるきっかけとなった事件に関わる神で天照大神の妹神とも言われる。

※丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)



西行妻娘の墓(さいぎょうさいしのはか)


※西行妻子の墓。上に見える建物が「西行堂」

※「西行堂」


 西行法師の妻娘が眠るとされる塚。塚より3mほど登った場所には、「西行堂」も建てられている(以下この記事では、天野の里にある「西行堂」を「天野の西行堂」という)。
 「西行堂」や「西行庵」とは、多くの場合西行法師が雨露をしのいだとされる草庵(借りずまい)が名をとどめ、仏堂・史跡化されたものをいう。西行法師はその生涯の中で何度も旅を繰り返した人物なので、日本各地に「西行堂」「西行庵」が残されている。「吉野山の西行堂」や「弘川寺の西行堂」などはその中でも特に有名である。しかし「天野の西行堂」は、西行法師本人ではなく西行の妻娘がこの地で生活したことを伝えるものであり、非常に珍しい。というのもそもそも西行の妻娘については、記載のある文献自体が極めて少なく、実在の人物なのかどうかさえ現段階では断定できないためである。今後新たな文献が発見されることで、歴史の真実が明らかになっていくかもしれない。

 「天野の西行堂」に添えられた由緒書きによると、現在のお堂は昭和61年に「再建」されたものであるという。天野の里人たちは、西行妻娘の死後無人となった庵を「お堂」として残し、再建を繰り返しながら、今日まで記憶を保存し続けてきたと言う。にわかには信じがたい話ではあるが、「天野の西行堂は「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」にほど近い場所にあるため、高野山の僧侶らが頻繁に参拝に訪れていた。」とも説明が補足されており、なんか非常にそれっぽい感じはする。西行法師は卓越した歌人、徳に篤い僧侶として常に評価を受け続けていた人物なので、後世の高野僧たちの崇敬を受けていたとしてもなんら不思議ではない。また、天野の西行堂より5分ほど離れた場所には西行妻娘のものとされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立てられている。宝篋印塔(ほうきょういんとう)は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種であり、応安五年(西暦1372年)及び文安六年(1449年)の建立と伝えられている。もしこれらが本当に西行妻娘の宝篋印塔であれば、西行妻娘が天野の里で生活したという伝承を「事実」と認識する人々が、室町時代にもいたことになるだろう。

※西行妻娘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)



西行の生涯

 「西行法師」こと「佐藤兵衛尉憲清(さとうのりきよ。西暦1118年~1190年)」は、平安末期から鎌倉初期にかけて実在した武士・歌人・僧侶である。田中莊領主(現在の和歌山県紀の川市)の出身で、西暦935年から940年にかけて発生した平将門の乱において武功を挙げた「藤原秀郷」の9世孫にあたる。俗世にあっては鳥羽上皇の守護を務める「北面武士(ほくめんのぶし)」に抜擢される文武のスーパーエリートだったが、23歳の時に突如出家する。出家の理由は、友人だった「佐藤憲康」の突然の死、不倫や身分違いなどの叶わぬ恋等々諸説があり定かではない。出家後は「円位」ないし「西行」といった法号を名乗る。しばらくは京都に滞在していたが、26歳の時、奥州平泉(岩手県)へ歌枕を訪ねる旅に出る。その数年後に今度は紀州(和歌山県)に入ると、以後30年ほどは高野山を拠点に諸国を遍歴した。吉野(奈良県)や熊野(三重県)を訪れ、中国・四国にも旅したほか、源平戦乱の時期は伊勢(三重県)に疎開したことも判明している。西暦1186年には鎌倉を訪れ、あの源頼朝とばったり出くわしている(『吾妻鏡』)。源頼朝が鶴ヶ岡八幡宮(神奈川県)を参拝した際に山門近くをあやしい老人が徘徊していたので、梶原景季をやって素性を問いただすと、これが西行であることが判明した。西行は頼朝の屋敷に招かれ、歌の神髄や兵法について夜遅くまで話こんだという。この邂逅が偶然なのか意図的なものなのかは定かでない。西行は「中尊寺金色堂」の建立で知られる奥州藤原氏と遠戚関係にあるが、西行と頼朝が出会ったのは奥州藤原氏と頼朝ら源氏勢力の戦争が始まるまさに前夜の出来事であった。

 西行は、諸国の遍歴と隠棲を繰り返す中で2000首あまりの歌を世に送り出した。その作風は抒情的で、情念にあふれながら優美であると評価される。特に寂寥感(せきりょうかん)を研ぎ澄ませた美意識にすぐれているとも言われることから、言わば中世以降に日本でやたらブームになったWABISABIの先がけ、あるいは影響を与えた人物と言えるのかもしれない。その作風を代表するものの一つに、『山家集』上巻春歌(77)に収められた次の歌が挙げられるだろう。


 願わくば 花の下にて春死なん その如月の 望月の頃 
(望みどおりに死があるのなら春に桜のもとで死のう。満開の季節に、満月のもとで。) 

 東方クラスター諸兄にもなじみ深いこの歌が、いつどこで詠まれたものかは定かでない。しかし文治6年2月16日(西暦1190年3月23日)、西行法師は歌のとおりに満月の夜に満開の桜の元で生涯を閉じたと言われる。西行がみまかった夜に桜が満開だったかどうかは勿論定かではないが、この日が満月だったのはマジである。このサイトで調べたから間違いない。驚異的な引きの強さをもっていたのか、あるいは自らもしくは誰かに・・・だろう(妄想)。
 歌のとおりに死を迎えたというのはあまりにも話が出来過ぎているため、「命日が創作されたのではないか」とも勘ぐりたくなるところではある。しかし、『長秋詠藻』『拾遺愚草』など西行に関する記載のある同時代の複数の文献に「2月16日に死亡した」とあることから、史実である可能性が極めて高い。風流にもほどがある西行法師の生きざまは、当時の社会においてもアンビリーバボー(あはれ)だと認識されていたようである。
 西行が亡くなった場所については、雙林寺(京都府)、高野山天野別所(かつらぎ町)、長国寺(岐阜県)などと諸説があるが、江戸時代に実在したスーパー西行オタク「似雲法師」が『長秋詠藻』を元に主張した弘川寺(大阪府)説が最も可能性が高いのではないかと思われる(なお、『長秋詠藻』は複数の写本が存在しており「弘川寺で病にあいその後洛中に上って死亡した」と読み取れるようなバリエーションのものもある)。



西行の娘の生涯

 西行の娘に関する記載のある文献は極めて少なく、実在性と足跡は謎に包まれている。「天野西行堂」の由緒書きには、次のように記されている。

西行が出家してまもなく、妻も尼となり康治元年(西暦1142年)ここに庵を結び読経三昧の生活を送っていました。
娘も出家の志があって、京都より十五歳ばかりにて高野の麓の天野と聞いただけの一人旅。
やっと天野にたどり着き、母娘二人で仏門に入り生涯を終えたのでした。
娘の亡くなったのは正治元年(西暦1199年)秋彼岸と言われています。

ほととぎす 古きあわれの 塚二つ (青々) (※注2)

(※注2) 明治から昭和期にかけて活躍したホトトギス派の俳人、松瀬青々の句と思われる。

 この筋書きは、説話『西行物語』による所が大きい。よって以後は『西行物語』の記載をひき、娘の足跡を記す。

 『西行物語』では、佐藤憲清が出家を決意した時に娘は4歳だったとされている。すなわち同書では、西行の娘の生年が西暦1137年(西行の生年に23足して4引いただけ)に「設定されている」と言えるだろう。家を出て行こうとする西行に娘は泣いてすがりつき、西行は「俗世に未練を残すまい」と涙ながらに娘を蹴飛ばして家を飛び出すというセンセーショナルな別れを遂げる。現代社会で4歳の娘を蹴っ飛ばして家出したら確実にDVにあたり、おまわりさんとお役所の人に叱られるが、『西行物語』成立当時には「俗世の未練を見事に絶って仏門に入った信仰心の篤い西行SUGEEEEEE!」という、仏教的価値観に基づく西行ageなエピソードとして紹介されていた。
 西行に蹴飛ばされた娘は、その後1~2年ほど母親と共に生活をしていた。しかしその母親も「出家する」と言って家出をし、天野の里に隠棲してしまう。6歳くらいにして身寄りのなくなった娘は、冷泉院の局という人物に拾われ養女となる。「冷泉院の局」は西行の娘を「かけがえのないもの」と呼んで可愛がり、姫君(冷泉院の実の娘)が婿をとることになった際には、西行の娘を姫君づきの女房(メイド長)とした。美しく成長した西行の娘は特に不自由ない生活を送る一方で、なお父への愛を絶てずに「生きてる内に父に会いたい」と泣きながら仏に祈っていたと言う。

 西行の娘が女ざかりを迎えつつあったちょうどそのころ、西行は約10年ぶりに京都へと戻ってくる。そして知人から娘の近況を聞かされることとなる。自身と別れてからの娘の受難を「でっていう。」と言わんばかりすました顔で聞く西行であったが、その内心は「やっべ・・・」と焦りまくっていた。そこで翌日には冷泉院の屋敷を訪ね、娘との十年来の再会を果たすのであった。美しくなった娘を見た西行は「私が家出した際にはまだ、幼子だったのに、美しく成長したものだ」と感激の涙を流し、娘は西行を見て「小汚いおっさんだな」と思いながら涙したという。その後西行が「世間じゃメイドさん萌えなんて言うけど半分以上馬鹿にされてるんやで。出家マジオススメ」と提案すると、娘も「実は小さい頃から出家したかったのです」と同意した。こうして娘は近辺を整理。次の日の朝には出家し、旅支度を整えた。西行の娘を超かわいがっていた冷泉院の局は、ものすごくガッカリして泣いた。

 出立の朝。父と娘の今生の別れ際に、西行は「天野の里で自分の元妻(娘の母)と共に修行すると良い」と助言し、ありがたい法文をプレゼントした。娘は「今度は浄土で親子三人暮らしましょう」と言った。涙ながらに西行と別れた娘は、いよいよ天野へ向かう旅に出る。京都で生まれ育った娘には、天野への道のりは不安と苦労の連続だったが、断固たる思いで歩を進めた。そんな娘を見た通りすがりの人たちは、「なにやら深いワケを持っていそうな尼君だ。かわいそうに。」と思って泣いたという。長い旅の果てに、娘はついに天野へとたどり着き、母親との再会を果たす。京都での生活のこと、西行が訪ねて来てくれたことなどを涙ながらに語り合い、母娘で喜びをわかちあった。以後母娘は天寿を迎える日まで、天野の地でおだやかに暮らしたと言う。

 くどいかもしれないが、『西行物語』が成立したのは鎌倉時代であり、多くの虚構とご都合主義、そして仏教的価値観に当てはめた事実の湾曲も指摘されている。そもそも鴨長明が記した説話集の傑作『発心集』を下敷きに物語が組み立てられているにも関わらず、それとも矛盾する部分がある。特に有名なのがまさに上述の西行法師が出家に際して娘を蹴飛ばして家を出たというエピソードであるが、『発心集』では娘を蹴飛ばすどころか知人に対しねんごろに(娘の事をよろしく頼むと)後見を願い出ている。その他、「僧侶」としての西行の偉大さを誇張するために命日を釈迦と同じ2月15日に書き直してしまったり、入寂(死亡)シーンを神々しいものに仕立てあげてしまったりと事実を忠実に描写しているとは言い難い。むしろ、「当時の人たちがあこがれた西行像」が偶像化・一種の神格化したものが『西行物語』の西行であると考えた方が、まだ歴史社会学的な検討の余地があると言えるだろう。その辺の難しい研究テーマはさておき、西行母娘の足跡は現段階で「良く知られた伝承」の域を出ず、いかな考察や批評の叩き台にも付されるべきものではないことは改めて繰り返しておきたい。あえて、個人的な主観を述べさせてもらうならば、「西行の娘は現に存在した。しかし、西行の出家後の足取りは現在のところ定かでない」というのが、最も誠実な歴史解釈だと思われる。この記事においてただ一つ真実として言えることは、『西行物語』の登場人物、泣きすぎだろ!ということのみである。



余談 西行寺幽々子は本当に西行法師の娘なのか?

 東方projectに登場する西行寺幽々子は、これまで述べてきた「西行の娘」がモデルとなったキャラクターであると推定されることがある。この記事もまた、「西行寺幽々子=西行の娘」仮説の可能性を支持し、「東方聖地wiki」の一つに西行妻娘の墓を加えることを目的として作成されたものである。しかし一方で、「西行寺幽々子は西行の娘ではないでのはないか?」という可能性についても、ここで述べておきたい。

 そもそも、「西行寺幽々子=西行の娘」仮説は『東方妖々夢』の6ステージ中に西行法師の詠んだ歌が引用されていることや西行寺幽々子がスペルカード「リポジトリオブヒロカワ」を使用する(弘川寺は西行法師入寂あるいは最後の定住場所の最有力候補地である)ことなど、多岐にわたる暗示の累積から推定されるものである。しかし、実証的な立場からは、これらをいくら積み重ねても西行寺幽々子が「西行の血縁者」であること決定づける描写にはなり得ない。西行寺幽々子と西行の関係を考える上では、東方project諸作品群から「西行」の痕跡を洗い出し、それがどう西行寺幽々子に結びつくのかを考える必要があるが、その考察において最も重要な原典が『東方妖々夢』に関する製作者の所感(おまけテキスト、キャラ設定テキスト、公式設定資料集など)であることは言うまでもない。

 そこで、改めて『東方妖々夢』の「キャラ設定テキスト」を読み返すと、次のように記してある(一部ばっすい。改行原文まま)。

幽冥楼閣の亡霊少女
西行寺 幽々子(さいぎょうじ・ゆゆこ)

ラスボス、伝統ある西行寺家のお嬢様、今は亡霊の姫である。
主に死を操る程度の能力を持つ。

その昔、幻想郷には一人の歌聖が居た。歌聖は自然を愛し死ぬまで旅
して回ったという。自分の死期を悟ると、己の願い通り最も見事な
桜の木の下で永遠の眠りについた。


それから千年余り経った。

西行寺家にはいわく付の妖怪桜「西行妖(さいぎょうあやかし)」
がある。この桜は、幽々子がここに来てから、どんな春になっても、
開花することはなかったのだ。

ある日、幽々子はいつもの様に書見を楽しんでいると、書架から古い
記録を発見した。それには、何時の物とも分らぬ記述で、

富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ(死んだという事)、
その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結
界とする。願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に
転生することを忘れ…」

と書かれていた。
幽々子は、西行妖の封印を解き、花を満開にすることが出来れば何者
かが復活すると考え、興味本位で春度を集めることにした。
(中略)
しかし、幽々子は、普段の生活に安らみ過ぎた為か、はたまた、記録が
余りに古い文献だった為か、文中にあった亡くなった娘というのが、
自分の事だということに、最後まで気づかなかったのである。

元々、幽々子は死霊を操る程度の人間だった。それがいつしか、死に
誘う程度の能力を持つ様になり、簡単に人を死に追いやることが出来る
ようになっていった。彼女はその自分の能力を疎い自尽した。
(中略)
幽々子が転生も消滅もせずに楼中に留まっているのも、西行妖の封印
があるためである。この結界が解けたとたん、止まっていた時間は止
め処なく流れることになり、それは、再び幽々子の死に繋がる。自分
を復活させることも白玉楼にいる自分の消滅にも繋がる為、復活は寸
前で失敗するのは当然である。
(中略)
何時までも幽々子は、冥界のお姫様として、
死に絶えた西行寺家のお嬢様として暮すのである。


 ここで最初に引っ掛かるのが「伝統ある西行寺家のお嬢様」という文言であろう。西行の俗名は「佐藤憲清」なので、西行寺幽々子が西行の娘であれば伝統ある佐藤家の娘と言うのが正しいのではないだろうか。そもそも「西行」は"名前(法名)"であって名字ではない。「西行」の名前を冠した名字を名乗るならば、少なくとも「西行」という名の個人の存在を受け、「西行に縁のある寺」という意味で「西行寺」という名字が創生されたと考えざるを得ないが、幽々子は「伝統ある西行寺家のお嬢様」であるとされている。すなわち、幽々子の生存期にはすでに西行寺家が「伝統あるもの」になっていなくてはならない。であれば、西行寺幽々子は西行と同時代に生きた人物ではなく、西行の没後最低でも数世代は後の人物でなくては辻褄が合わなくなってしまう。これに対して「西行寺幽々子=西行法師の娘」仮説の立場からは「"西行寺家"とは冥界で幽々子が作った屋号である」という反論が考えられるだろう。「西行寺家」は血族を現すものではなく、宮大工の「金剛組」や任侠映画の「〇〇一家」と同じような一種の屋号であると言う考え方である。その身をもって「西行妖」を封印し、亡霊となった幽々子は現世の記憶を失ったと考えられるので、幽々子の持つ最初の記憶は「西行妖」のあった寺(幽々子が死んだ場所)で目覚める所から始まるのだろう。その寺が俗に「西行寺(さいぎょうでら)」と呼ばれていたとすれば、幽々子が自らをして「西行寺(さいぎょうでら)」にルーツをとり、「西行寺」の姓を名乗るのはむしろ自然である。そして後に西行寺幽々子は冥界の管理者に登りつめ、自身を中心として「西行寺家」を構成し冥界において伝統を作り上げたのである。「そんなんただの推測だろ?」と思われるかも知れないが、そもそも現世にあって平安時代に女性が姓名をもって自称する事が稀であるし、自死にまつわる記憶や生前のルーツを忘却しているはずの幽々子が、現世の姓名を名乗っているとも断言しがたい。

 次に、「その昔、幻想郷には一人の歌聖が居た。歌聖は自然を愛し死ぬまで旅して回ったという。自分の死期を悟ると、己の願い通り最も見事な桜の木の下で永遠の眠りについた。」という文についてふれたい。「幻想郷には一人の歌聖が居た。」とあるが、西行法師は主に高野山吉野、洛中(京都)を拠点に全国を旅した人物である。いずれも現存する地名であり、幻想郷であるとは考えにくい。この矛盾についてはまず、「歌聖」とは西行の事ではなく、西行に似た誰かではないか?西行寺幽々子はその「歌聖」の家の者ではないか?という反対仮説が成り立ちうる。しかし「歌聖」と呼ばれたこと以外にも、「自然を愛し旅に生きた」、「願い通りに桜の木の下で死んだ」等いずれも西行法師の代名詞のような情報が並記されており、「歌聖とは西行法師の事を言っているのだ。」と考えない方が無理がある。また、「幻想郷に居た」という表現は「幻想郷出身」や「幻想郷に永らく住んでいた」と解釈するのが素直ではあるものの、そもそも西行法師が諸国を放浪した人物であることはこれまでに述べたとおりである。西行が一時的にでも幻想郷に草庵を結んだとすれば、「居た」という表現はなんら不自然ではない。
 後日発行された『東方求聞史紀』においては、ここでいう「歌聖」と「幽々子」が親子であることが明確に記載されている。よって、まず「キャラ設定テキスト」をもって「歌聖」と「西行」の同定を行い、『東方求聞史紀』をもって「西行」と西行寺幽々子が親子であるすることが「西行寺幽々子=西行の娘」仮説の最大の論拠となりうるだろう。もっとも、『東方求聞史紀』はその内容に多くの"意図的な誤り"を含む書籍でもある(「公式設定資料集」をうたって世に発売されているのだから、原則正しいと考えるべきだけれども)。西行妖と西行寺幽々子の関係の暴露は、幽々子と友人関係にある八雲紫にとっても非常にデリケートな問題ではあるはずなので、史紀の情報の正確性が最大のネックとなるだろう。

 さらに、「西行寺幽々子=西行法師の娘」仮説の支持者・批判者いずれの立場からも悩ましい文言についてもふれたい。「キャラ設定テキスト」6行目の、「それから千年余り経った。」という文言である。西行法師が死亡したのが西暦1190年であることはほぼ史実として確定しており、いかに論理の想像と破壊を行う妖怪であっても偽装することは不可能であると思われる。そこで仮に「歌聖」を西行法師のことだとすると、春雪異変(東方妖々夢の異変)が発生したのは西行法師が亡くなって「1000年余り先」ということになり、東方の舞台設定が「2190年以降」ということになってしまう。22世紀の猫型ロボットが生まれたのが2112年なので東方はそれより未来の話ということになる。これはいただけない。東方花映塚以降、外界の歴史と幻想郷の歴史とは同期化される傾向にあり、東方projectが「現代の物語」であることは最早疑う余地がない。ゆかりんは外界の神社でご神木が切り倒される事件を悲しんでいたし、早苗さんは外にいる時分に「幽幻道士テンテン(1980年代末期に流行した映画)」を見たことがあると興奮気味に語っている。この問題は「西行寺幽々子≠西行法師の娘」仮説を取るとさらに深刻で、西行寺幽々子を西行より数世代後の人物と考えた場合には東方の舞台設定はギガゾンビも生まれたまさかの23世紀に突入してしまう。よってこの「1000年余り」という表現については、「1000年と少しの期間」ではなく「約1000年」と言いたかった所の誤謬であると認識をした方がみんな幸せになれるよ。なお、西行は確かに「歌聖」と呼ばれることがあるが、通常単に「歌聖」というと「柿本人麻呂」や「山部赤人」を指す事の方が多い。ともに1300年~1400年前に生きた人物なので、「1000年余り」という文言を忠実に読み解いて「西行寺幽々子は「柿本人麻呂」や「山部赤人」の血縁者だったんだΩΩΩ!」と主張してもいいけど、茨の道やぞ。

 最後に「西行寺幽々子=西行法師の娘」仮説の最大の矛盾と、それについての推測解について述べたい。「キャラ設定テキスト」ないし『東方求聞史紀』が時系列に沿って正確に記載されているとして、その筋書きを今一度整理してみると次のようになる。

①西行法師が出家した。日本各地を放浪し、幻想郷に棲んでいたこともあった。
②西行法師は(恐らく自身の最晩年に)「願わくば花の下にて春死なむ・・・」という歌を詠んだ。
③西行法師は歌のとおりに死んだ。

※ここからは、「キャラ設定テキスト」と「東方求聞史紀」でストーリーが分岐する。
「キャラ設定テキスト ver」
④元々「死霊を操る能力」があった幽々子がいつしか「死を操る程度の能力」を持つに至った。
⑤「死を操る能力」のせいで苦しんだ幽々子は自尽し、その遺体が"西行妖"の元に埋められた。
「東方求聞史紀ver」
④妖木と化した西行妖が、花に魅せられた人間を憑り殺すようになった。
⑤父の愛した桜が人を殺すようになったことを嘆いた幽々子が、その身を結界として西行妖を封印した。

⑥西行妖(幽々子の遺体と同化した妖木)は冥界に封印され、今では冥界の西行寺家の庭にある。

 「キャラ設定テキスト」と『求聞史紀』では幽々子が自ら命を投げ出した理由がやや異なるが、これらは両方「正しい」としても特に問題はないだろう。自らの能力のせいで人が死ぬことを憂慮した幽々子が、「西行妖」が人間を憑り殺しているという噂を聞き、「自分が生きていても皆を不幸にするだけだから」「自分の命で西行妖の暴走を止められるならば」という二面的な理由で自ら命を投げ出したと考えられるからである。その際、幽々子は自らの持つ「死を操る能力」をもって西行妖の人を憑り殺す能力を相殺したと考えればなお辻褄はあう。もっとも、「西行妖は最初なんら妖木ではなく、幽々子はただ自分の能力を嫌って自殺がしたいだけだった。西行妖は妖木となったのは、幽々子の遺体を取り込んだためである。」という形で整合し、『求聞史紀』の記載は経緯が美談化されたものであると推測することもできる。

 いずれにせよ問題なのは、上記の整理では西行が死亡した以後、つまり西暦1190年以後に幽々子が自殺したことが明白である点である。西暦1190年時点で『西行物語』らによる西行の娘は53歳であり、「少女じゃねーじゃねーか!」ということになってしまう。『西行物語』によらずとも西行が23歳の時に出家しているのは史実と考えられるので、「西行が出家後に淫行に及んで隠し子を設けた」とか余程の新事実でもつけ加えない限り、このエニグマは不可避である。もっとも、幽々子に与えられた「富士見の娘」という謎の肩書については「富士見」が「不死身」の意であるとも考えらえれる。そもそも「死霊を操る程度の能力」を持っていたとされる幽々子は、自尽して亡霊になる前から「普通の人間」でなかったことは確実である。生前には既に歳を取らない妖怪や仙人に近い存在になっていたとも考えられるだろう。だとすれば、その異能によって八雲紫と生前から知遇を得ていたことも不自然ではないし、「娘」と記載されたことも外見的に的を射ていることになるだろう。外部作品ではあるが、『LORD of VERMILION』において西行寺幽々子が趣味を「アンチエイジング」と語ったのも、生前の習慣の名残かも知れない。

 なお、西行法師は死人の骨を集めて「髑髏鬼」という一種のホムンクルスを生成することができたらしいことが、鎌倉時代の『撰集抄』に記されている。高野山での修行中に孤独に耐えかね、真言密教の秘術を用いてホムンクルスの生成を行ったらしい。これをもって、西行寺幽々子=西行法師の作った不死異能の人造人間である仮説も立てるだけなら立てられるだろう。でも茨の道やぞ。

  • ほほう、これはなるほどですな! - 名無しさん (2020-12-27 20:57:44)
+ タグ編集
  • タグ:
  • 東方
  • 聖地
  • wiki
  • 天野
  • 西行の母娘
  • 西行寺幽々子
  • 西行
最終更新:2025年01月09日 20:16