住所

金剛峰寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132 南海高野線「極楽橋駅」より南海鋼索線(ケーブルカー)に乗り換え、「高野山」駅で下車。

関係あるとみられるもの

魂魄妖夢(東方妖々夢、東方神霊廟ほか)
西行寺幽々子(東方妖々夢、東方神霊廟ほか)
八雲藍(東方妖々夢ほか)
藤原妹紅(東方永夜抄、東方深秘録ほか)
寅丸星(東方星蓮船ほか)
聖白蓮(東方星蓮船、東方心綺楼ほか)

高野山

※壇上伽藍の根本大塔。THE・高野山的な写真でよく使われる。

高野山とは、和歌山県北部の山深く、標高800m前後の高地のことである。日本三大霊山の一つに数えられる。
折り重なる山々とその間隙(かんげき)に存在する平地部、あるいは同地に築かれた都市を指して高野山と呼ぶ。「高野山」という名前の山が存在しているわけではない。

高野山という空間そのものが、信徒数500万余を数えるとも言われる(2015年現在)真言宗(しんごんしゅう)の総本山、「金剛峯寺(こんごうぶじ)」の境内とされる。
東西6㎞、南北3km、外周15㎞程度の平地部に金剛峯寺とその117もの子院が立ち並び、四季の美しさと静けさをたたえた荘厳な景観から、「現世の浄土」の美称でも知られる。
西暦2004年7月7日には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、和歌山県南部の熊野大社や奈良県南部の吉野大峯らと併せて世界文化遺産にも登録された。

※尋常じゃない寺(卍)密度

地理的な観点からもう少し詳しく見てみると、高野山はやや鈍角にひしゃげた「凹の字」状の盆地と、その周縁を囲む標高1,000m前後の山々によって構成されている。
高野山の寺院の多くはこの中央の盆地に集中しており、これらをあたかもいつくしみ、包み護るかのように存在する外輪の山々は八葉蓮台(はちようれんだい)とも呼ばれ、
つまりは蓮の花を守る葉に例えられている。言わずもがな、蓮は仏教にとって特別な意味を持つ植物である。上述の地図に、あらあらの山頂をピン打ちしてみた。

八葉蓮台にはすべて名前がついており、それぞれ今来峯・宝珠峯・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山と呼ばれる。
このほかに、「内八葉外八葉」として16の山峰を挙げて蓮の葉に例えるパターンもあり、この場合、

内八葉とは、剣崎峯・南虎峯・宝珠峯・薬師山・山王峯・神応岳・小塔峯・勝蓮花峯を言い、
外八葉とは、金剛峯・小塔峯・山王峯・遍照峯・転軸山・楊柳山・摩尼山・姑射山を言うらしい・・・

が、異説もあるとのことだった。なお、住所表記上「高野山」の地名を含む区域には、以上の山々まで全て含まれる。
例えば八葉蓮台の一つ、弁天岳の背面に存在する南海鋼索線(ケーブル鉄道)終点の「高野駅」の住所は、和歌山県伊都郡高野町大字高野山国有林第9林班ノとなっている。

※弁天岳山頂付近から見た大塔。大塔を挟んで反対側も山に囲まれている

都市としての高野山は、主に宗教施設に従事する人、その生活を支える人、宗教施設への参詣者を相手にする人等によって形成された町である。
コンビニやガソリンスタンドといった日常的な商店から、町役場、小中学校、高校といった公共機関までもが備わっている。

経済・文化の両面から宗教を中心に1つの完結的都市空間が形成されていることを言うとするならば、高野山は日本で唯一の、宗教都市である。
いや、諏訪(すわ)とかも宗教都市と呼べるんじゃね?と思われる諸兄も、ひょっとしたらいらっしゃるかも知れないが(いないかも知れないが)、
諏訪には交通の要衝・工業都市としての顔もあり、ひとえに宗教都市とは呼べない。非常に良い線は行ってるが、高野山の一体感には及ばん。

ただそうは言っても、高野山自体が仏教、ひいては真言宗のみを絶対の宗教宗派とする街というわけではない。高野山の中には仏教寺院のみならず神社も存在し、深く尊ばれている。
このようなおおらかな性格は、高野山の起源にまで遡る神道との深い関わりあいに由来するものであるが、かえって高野山の最も特徴的な側面の一つとして世界的に評価されている。

高野山が世界遺産に登録された経緯として、以前丹生都比売神社(詳細は後述)の神主さんにお教えいただいたところによれば、
「高野山は勿論仏教の聖地ですが、神道その他の宗教ともよく柔和し今日まで共存してきたことがユネスコ関係者に驚嘆と感銘を生んだのですよ。」
とのことらしい。恐らく、神主さんの仰るとおりだろう。

※通学児童と高野山の街並み

なお、高野山の存在する海抜800mの世界は、ちょうど日本一高所にある市庁舎(標高801m)で有名な茅野市(長野県)の市街地と同じくらいである。
わが国では3,000m級の山々が集中する中央高地(岐阜・長野)以外の場所において、これほどの高所に日常的な集落が築かれる例は非常に珍しい。
加えて高野山は、「八葉連台」の山々に視界を遮られているため、下界から高野山を見上げる事も、高野山から下界を見下ろすことも不可能な環境にある。
すなわち高野山は、上空を除いて視界的に外部から隔絶された場所に成立しており、今昔を問わずスーパー秘境である。

このようなへんぴな場所に一個の泰然たる都市が形成されたのは、ひとえに弘法大師空海(こうぼうたいしくうかい)の尽力と、後に続いた僧徒達の宗教的情熱の産物と言えるだろう。
西暦815年、空海の手で開かれた高野山は、今日に至るまでに落雷、火事、荒廃、落雷、火事、焼き討ち、落雷、火事など大概なオワコン危機に何度も遭遇した。火事と落雷多すぎ
しかし、このような危難に瀕するたびプレゼン能力の高い僧侶が登場し、例えば藤原道長、平清盛、豊臣秀吉ら時の権力者のハートをキャッチして、不死鳥のごとき復興を遂げてきたのである。

※高野山の大門

高野山の開祖、空海の足跡

高野山の開祖、弘法大師空海(こうぼうたいしくうかい。以下「空海」という。)は、およそ宝亀5年(西暦774年)、讃岐国の屛風ヶ浦(現香川県善通寺市)で生を受けたとされる。
15歳の時に親類のツテで京へと登り18歳で大学に入学したが、そこで仏教に傾倒し、19歳で出奔。私度僧(別段何の肩書きも持たない、自称僧侶のこと)となって諸国を遍歴する。

修行に次ぐ修行の旅の中で空海は、無限の記憶力を得るという虚空蔵菩薩求聞持法」と出会い、20歳の時、室戸岬の御厨人窟にこもってこれを会得。見事右脳開発に成功した。
同年、和泉国の槇尾山寺(大阪府和泉市)にて剃髪し正式に出家。僧侶としては最初「教海」を名乗り、その後「如空」に改め、22歳の時に「空海」という名に落ち着いたという。
24歳の時、自らの半生を戯曲調につづった『聾瞽指帰(後に改定して『三教指帰』とする)』を書き上げる。字はこの頃から既にめっちゃ綺麗だった。

『聾瞽指帰』を書き下ろした空海は、その後大和国(現奈良県奈良市)にある大安寺に入り、勤操大徳(人名)の下であらゆる経典を学んだ。
しかし、学びを深めれば深めるほどに、空海は当時大安寺に所蔵されていた経典の内容だけでは真理に至るのには不足だと感じるようになっていた。

そんなある日、空海は東大寺の大仏殿を訪れ、「私に最高の教えを示してください。」と懇願した。するとある夜、霊夢(神秘的な夢)によるお告げがくだった。
そのお告げに従って、大和国高市郡(奈良県橿原市)の久米寺を訪れると、そこには密教の儀式が記された経典『大日経』があった。

『大日経』には悟りと成仏に係る事が詳しく示されていたが、多くの梵語(サンスクリット語)を含んでいたため、空海はその全てを理解することができなかった。
そこで他の僧侶に尋ねて回ったが、要領を得た答えは遂に返ってこなかった。ここにつけ空海は、自ら中国(唐)へと渡り、経典の神髄を極めようと思い至った。

…以上が空海の出生から生い立ち、若かりし日々の「伝説」である。繰り返すが、これらは一種の「伝説」として一般に定着しているものであって、必ずしも史実とは言い難い。
史実としては『続日本記』の記載に依り、入唐寸前の31歳頃に東大寺戒壇院で出家の儀を行ったとする説が最有力らしく、実はいつ「空海」と名乗りはじめたかも定かでない。
とかく空海は、入唐に至るまでの足跡に謎が多い御方であると言える。まあ1300年前の人物だし当たり前と言えば当たり前だね。しょうがないね。

とまれ、海外へと飛び出し経文の神髄を極めんとする大志を抱くに至った空海は、ついに歴史の表舞台に姿を現すこととなる。
空海31歳の時、勅諭(天皇の命令)がくだり、ねんがんの唐への渡航が遣唐使(ただし私費留学生)という形してかなうこととなったのである。

ただいくら才能や志があっても、実績面でほぼ無名だったと言わざるを得ない空海が、どうして国家のスーパーエリートである遣唐使に選出されたのかはかなり謎に思う。
だって、実績の無い方が面接試験においてやる気だけをアピールしても、ますますのご健勝と発展をお祈り申し上げられるのが世の常というものではないだろうか?

この点については、祖父(もしくは叔父)にあたる阿刀大足が伊予親王(桓武天皇の皇子)の教育係をしていた縁で、伊予親王がバックアップしてくれたからだとか、
奈良仏教界をあげて秘蔵のルーキー空海を猛プッシュしたからだとか、空海の師とされる大安寺の勤操大徳(先述)が愛弟子空海の為に奔走したからだとか、諸説ある。
コネにせよ人徳にせよ、空海に他人を魅きつけ何かを託したくなるようなオーラがあったことだけはまあ、間違いなかろう。

とにもかくにも、空海"ら"を乗せた四隻の船団は、7月6日に備前松浦郡田浦を出発した。
この田浦という湊がどこにあったのかは諸説あり、五島列島(長崎県)の一つ久賀島の田ノ浦や、平戸市(長崎県)の田ノ浦などがその候補地として挙げられている。

空海"ら"と書いたが、実はこの時日本を出立した船団の中には、我らの空海のほかにも、後に天台宗の開祖となる「最澄」や書の達人として今に名を残す「橘逸勢」、
唐に永住し日本人としては史上唯一の「三蔵法師」の称号を与えられた「霊仙」など、そうそうたるメンバーが集結していた。まさに豊作の年。ドラフトで言えば1989年である。

かくして黄金世代とも言うべき豪華メンバーを乗せた船団は、意気揚々と海原をゆき、そしてお約束の出オチのように大嵐が襲われ、四隻のうち二隻が難破してしまった。
これには空海も無常を覚えた事だろう。後に唐への旅を「虚しく往きて実ちて帰る」と述懐した空海だが、この「空しく」には航海中に味わった運命の残酷さもかかっているのかも。
まあ根拠はないし、そもそもどこまでが史実なのかも知らんけどな。

同年8月10日、かなり悲惨な船旅を乗り越えて、遣唐使の一団はついに中国福州の海岸へと漂着した
浜にうちあげられた二艘の船の尋常ならざるたたずまいは、またたく間に中国人の熱い注目を(悪い意味で)浴びることとなった。

お前ら海賊アルか?」という至極ごもっともすぎる嫌疑をかけられ抑留。実に50余日もの間、上陸許可が下りなかったのである。

完全にデッドロックした状況、底を尽く資源、疲弊しきった遣唐使ご一行…。もはや絶体絶命かと思われたその時、ついに我らが空海が動く。
遣唐使船のリーダー藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)の代打としてバッターボックスに入ると、福州の長官に潔白を訴える嘆願書を提出。
これを読んだ長官は、書簡の見事さに感服し、ただちに上陸の許可を出したという。

さすが三筆の一人といわれる空海らしいエピソードです。(金剛峯寺で絶賛発売中の『古寺巡礼13 高野山 空海が開いた天空の密教聖地へ』より引用)。 

同年12月、唐の都長安に到着した空海は、まず最初に醴泉寺に入門。梵字の本場であるインド出身の僧侶、般若三蔵(はんにゃさんぞう)より梵字を学んだ。
しかしながら、渡航前から素養に富み、虚空蔵菩薩求聞持法によって右脳も開発されまくっていた空海にとって、梵字の習得はさほど難しい事ではなかった。
およそ半年という驚異的な短期間の内に学ぶべきことを学び終えると、卒業の証と言わんばかりに多くの経典を託されて、般若三蔵の元を去った。

延暦24年(西暦805年)5月、醴泉寺を出た空海は、密教の第七祖である青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の門戸を叩き、教えを乞うた。
第七祖とは、7代目正当後継者という意味である。つまり高野山密教の歴史では、インドに発祥した「密教」の7代目正統後継者の元に、空海が弟子入りしたという設定になっている。

さて、「阿闍梨」ってなんぞ?と疑問に思われた方の為に、ここで少し補足させていただく。
阿闍梨とは、早い話が敬称である。「けーね"先生"」や「八意"師匠"」と同じく、名前の後に付けて敬意を表現するものである。ただし、尊敬の度合いは宗派や時代によって異なる。
現代の高野山真言宗においては「弟子に教えを施す資格のある者」という意味で使われるらしい。聞くところのよれば、大体10年ほど寺で修行すると、阿闍梨になれるんだとか。
なお東方projectにもボインボイン阿闍梨霊長類を越えた阿闍梨の二つ名を持つ聖白蓮が登場することは、諸兄もよくご存じの所かと思う。

もう一つ、ここで「密教」についても少しふれておきたい。大事な事なので。
「密教」とは、字のごとく「秘密の教え」のことである。「いやいや"秘密"の教えじゃなくて"濃密"な教えだよ。」と、本気なのかウィットなのかよくわからない意見もあるが、
本質的に伝承の内容ではなく、伝承方法をもって「密教」と呼ばれている。その伝承方法とは、(基本的には)信頼関係を結んだ師から弟子へと誠実に伝えていくスタイルである。
辻説法がごとく、有象無象の万人に向かって教えを説いて回るスタイルとは対照的に、然るべき志を立て、然るべき修行を積んだ者に、然るべき時が来た時、教義の神髄が伝承される。
何故かというと、もし辻説法などで(この記事の編集者のような未熟で雑な人間に)中途半端にかじられ、省略・蛇足のうえ二次発信されると、大事な教えがブレてしまうからである。
故に、ここで説明できるのは「密教」に関する客観的な属性についてのみであり、本当の意味で「密教」を学びたい人は是非とも志を立ててお寺に入ってください。

さても「密教」とは客観的に、
仏教の一種で、インドに発祥し、ヒンドゥー教などの影響を受け、霊感的な側面をもち、実践的で、大日如来(神仏習合思想では大日如来=天照大神)を教主とし、
主に『大日経(先述)』と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』とを聖典とし、曼荼羅(まんだら)と呼ばれる独特な図によってその教えを表現する宗教である。
大日経の内容を表す曼荼羅を「胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)」、金剛頂経の内容を表す曼荼羅を「金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)」という。
最澄が開いた天台宗においては「密教」は仏教の一部分であるとされるが、真言宗においては「密教」と「その他(顕教と呼ぶ)」とに二分化して考える。
天台宗の密教は、密教以外の仏教の側面へとつながりを広げていくものであり、真言宗の密教は内側に深まっていくものである。

天台宗を「総合大学」に真言宗を「単科大学」に比喩する例がよく見られるが、これはどちらかと言うと天台宗よりの解釈になる(蛇足)。
真言宗の世界観においては密教と顕教を実と花のような二項関係に捉える。いわば密教(自派)が一子相伝の北斗神拳であり、顕教(自派以外)がジャギ様でも習える南斗聖拳である(蛇足)。

話を戻します。密教の第七祖である青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)は、空海に対面するやいなやビビッとときめいた。
山岳修行で太ももがバッキバキに鍛えられていたからか、才気煥発のオーラがあふれていらっしゃったからか、立ち振る舞いに気品があったからか、
とにかく「こいつ、できる・・・」と即座に見抜き、「ずっとあなたを待っていた///」と、ギャルゲのヒロインみたいな事をおっしゃられた。

恵果阿闍梨はただちに空海へ密教の奥義を授けはじめ、同年6月と7月にはそれぞれ胎蔵界、金剛界の灌頂(仏と結縁する儀式。洗礼の一種)を受けさせた。
二つの灌頂ではそれぞれ胎蔵界曼荼羅図と金剛界曼荼羅図(先述)の上に花を投じ、それがどの仏さまの絵の元に落ちたかによって結縁を見るが、
花はいずれも(一番偉い)大日如来の上へ落ち、(一番偉い)大日如来との結縁を表したと言われる。これには恵果阿闍梨もニッコリした。

8月、空海は入門よりわずか3か月にして阿闍梨(師範)位の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の名を与えられた。
遍照とは光明があまねく照らすこと、金剛とは永遠不滅なることを意味する。

阿闍梨の位と名を与えられたことは、すなわち空海が第八祖(八代目の密教正当後継者)として認められたことを内外に示していた。
もともと恵果阿闍梨は新羅(朝鮮半島)などから留学生を受け入れるなど、弟子をとる事には寛容で、最盛期には4,000人を超える弟子がいたともされる。
それを異国から来た無名僧である空海がゴボウ抜きし、若干32歳にして教義の正統後継者に登りつめたのだから、多少伝記を盛ってるにしたってすごい事である。

こうして正当後継者となった空海のために、曼荼羅や法具が急ピッチで作られた。また、恵果和尚からは袈裟袋や供養具、仏像など、歴代阿闍梨達が使用した伝説の法具が託された。
その一部「刻白檀仏菩薩金剛尊像」や「健陀穀糸袈裟」は現存している。前者は高野山で、後者は京都府にある教王護国寺東寺(真言宗の京都の拠点。詳細は後述する)に保管されている。
12月15日、空海の成長を見届け、次世代の光にすべてを託し終えた恵果和尚は、まるで命の役目を終えるかのように入滅(死去)。60歳だった。
あくる年の大同元年(西暦806年)1月17日、空海は全弟子を代表し、恵果阿闍梨を顕彰する碑文を起草した。

同年3月、空海は長安を出立し、中国各地を放浪する旅に出た。
密教の正当後継者である空海が簡単に青龍寺を出てよかったのか、引き留めにあわなかったのかは知らん。大学の教授と同じで進退は自由だったんだろうか。
同年4月、越州(現在の浙江省)に入った空海は、土木技術や薬学など役立ちそうなことを色々と勉強し、同時に経典の収集にもいそしんだ。

越州に来て約4か月が過ぎようとするころ、空海は高階遠成(たかしなのとおなり)という名の日本人貴族とひょっこり再会を果たした。
再開と言うのは、実はこの高階遠成という貴族、空海が中国へ渡った黄金世代の遣唐使船団で、第4船に乗船していた人物なのである。
第4船は嵐で難破した2艘の船の内の一つであり、当然その船に乗っていた高階遠成らもまた、海の藻屑と消えたものかと思われていた。
ところがどっこい、運よく生き延び、唐への再渡航を果たしていたのである。

その頃空海は、にわかに不安を抱えていた。当時の唐はまさに斜陽期にあり、経済と治安が日に日に悪化していく様を空海は目撃していた。
このため、「唐で得た真理を母国に伝えたい」という、渡航の目的とも言える大志が不慮に叶わなくなることを恐れるようになったのである。
そこで高階遠成が近々日本に帰国するという話を聞きつけた空海は、「自分も日本へ帰る船に乗せてもらえないだろうか。」と願い出た。
極めて異例の事ではあったが、高階遠成は唐の世情や空海の志を汲んでこれを了承。非常に運良く、空海の乗船に許可が降りた。

大同元年(西暦806年)8月、空海は、帰国船の出航する明州の浜辺に立っていた。
そこで空海は三鈷杵(さんこしょ)と呼ばれる法具を取り出すと、

「一足早く日本へ帰り、布教活動に最適な地で待っていてくれ。」

と語りかけ、空中にほおり投げた。
とっても空気の読めた三鈷杵は、上空で五色に輝くありがたげな雲に乗ると、日本の方角へと飛び去った。
これを見届けた空海は安心して帰国の船に乗り込んだ。

そんな空海を乗せた帰国船には、KYな大嵐や高波がまたしても襲い掛かるが、密教の正当後継者となった空海にもはや天丼ネタなど通用しなかった。
右手に不動明王の剣印、左手に索印を結び、口に真言を唱えて波を鎮めるというスーパープレイも飛び出し、数多(あまた)の難を退けて九州の博多港へと到着した。
ちなみに空海が法力で大嵐を退治したのではなく、帰路の途中にあった島に一時上陸し、普通に大嵐をやり過ごしたという、地味だけど理にかなった伝承もある。
五島列島福江島玉之浦(長崎県)の大宝港に寄港の伝承が残されており、空海にゆかりがあるとされる寺院らが今でも残されている。真偽は定かでない。

※三鈷杵

大同元年(西暦806年)10月22日、無事日本に戻った空海は大宰府に滞在し、朝廷に対し『請来目録』を提出した。唐から持ち帰った法具や、経典を一覧にしたレポートである。
これに対し朝廷は最初、「お前は最低20年勉強して帰ってくる約束で留学が許可されたのに、なに勝手に2年で切り上げて帰ってきてんの?」的な、冷ややかな対応をしたとされる。
これが直接的な原因かは不明であるが、空海はその後2年余りもの長きにわたり京都に入ることがかなわず、観世音寺(福岡県太宰府市)に留まることを余儀なくされた。

大同4年(西暦809年)、在位3年目にして平城天皇の病が悪化し、弟の嵯峨天皇に譲位される。「流れ変わったな」と察知したのか、空海はすかさず京都へとのぼり、
高雄山寺(京都市。現在の神護寺)へ居つくようになる。この空海の大胆不敵な行動の裏には、先に京都で名を馳せていた最澄の手助けがあったとも言われている。
この事実を裏付けるかのように、空海が京へ登ってから10年間くらいの間は、空海と最澄はとっても仲良しだった。そしてその後、めっちゃくちゃ険悪になった。
理由は優秀な後継者の奪い合いだとか、密教については空海が師で最澄が弟子といういびつな構造が最澄のプライドを傷つけたとか、価値観の相違だとか諸説ある。

とまれ上洛のかなった空海は、大同5年(西暦810年)の薬師の変や弘仁9年(西暦818年)の疫病流行などで嵯峨天皇直々に祈祷の要請をうけるなど、
次第に都、あるいは宮中での信任を勝ち得てゆき、空海の名声が高まると同時に真言密教の評価も高まっていった。

その頃空海は、真言密教布教の本拠地(根本道場)を造るため、ふさわしい場所を探して日本各地を歩き回っていた。
そんなある日、大和国の宇智郡(現奈良県五條市)に差しかかった空海は、白い犬と黒い犬を連れた狩人と出会った。

空海が真言密教の本拠地をさがして旅をしていることを告げると、狩人は「紀州の山中にいい場所がありますよ。この犬に案内させましょう」と言い、ふいに姿を消した。
こいつはただならぬことだと思った空海は、二匹の犬に導かれるまま南へと進み、やがて丹生明神(にうみょうじん)のお社(現在の丹生都比売神社)へとたどり着いた。
するとそこで、丹生明神がおもむろに姿を現し、「あなたがこの地にやって来たことは、私達にとっても大変な喜びです。山の土地を永久にあなたに差し上げましょう。」と言った。
実は、狩人の姿で空海を紀州に導いたのも丹生明神の子である高野御子大神(たかのみこのおおかみ)の化身だった。土地を譲り与えるべく母子で空海をおびき出していたのである。
丹生明神より譲られた地に入った空海は、蓮の葉のように広がる山々に護られた野原を発見した。さらには野辺に立つ松の木に、唐の浜辺で投げたあの三鈷杵が引っかかっていた。
空海は、この地こそ密教修行の根本拠点とすべき場所であると確信した。

※丹生都比売神社

 弘仁7年(西暦816年)、嵯峨天皇からも正式に許可を得て、ついに高野山開拓がはじまった。そこでまず最初に空海が造った宗教施設は、道場でもお堂でも大塔(密教のシンボルタワー)でもなく神社だった。空海を高野山に導いた丹生明神と高野御子大神を祀るための神社を築き、最大限の感謝を示したのである。この大海のように広い空海の姿勢は、高野山真言宗の美徳として弟子たちにも受け継がれ、今日まで絶えることなく継承されている。例えば現代でも高野山で僧侶になる人は百日間の修行「加業(けぎょう)」を終えると丹生都比売神社に守護を願うお札を納めに参ることがしきたりとなっている(丹生都比売神社の神主さん談)。神社の竣工に次いでは、真言宗の総本堂である金堂をはじめ仏教のための諸堂が建立されていった。金堂の落成後には大塔の建築も着工されたが、ただでさえ秘境の高野山にあまりにも壮大な理想をもって注文されたため、空海の存世中には完成しなかったと言われる。こうして高野山開創期に最初に神社や各お堂が建てられた一角は現在「壇上伽藍(だんじょうがらん)」と呼ばれ、空海の眠る「奥之院御廟」と並び聖地高野山の中でも格別の二大聖地として扱われている。ちなみに先述のとおり、高野山はこれまであり得ない回数の各種災害に晒されており、今日に至るまでに神社は最低1度、金堂は最低7度、大塔は最低5度焼失、立て直されていることが判明している。現存する金堂も大塔も昭和初期に再建されたコンクリート製の建築物である。火事には強い。

※金堂

 諸堂の建立が進む中で、空海は一山を高野山「金剛峯寺」と命名した。すなわち原初には「金剛峯寺」という建物は存在せず、高野山全体がまさに一個の寺であり「金剛峯寺」だった。現在は総本山として「金剛峯寺」と呼ばれる一個の建物が存在するが、これは文禄2年(西暦1593年)に豊臣秀吉が母「大政所」の菩提を弔うために寄進した「青巖寺(せいがんじ)」という建物を、明治に入ってから「金剛峯寺」と改名したものである。最初は「山全体で一つの寺」としてスタートした高野山も、時代が下るにつれ密教の研究に専念する学侶方(企画部)や諸堂の管理をする行人方(総務部)、布教を担当する聖方(営業部)などへのセクション分化がすすんでいたため、明治2年にこれらを統合し山内及び全国の高野山真言宗の寺院を統括する権限を再結集させたものが現在の金剛峯寺である。以来金剛峯寺は高野山の中でも特に一個の寺院の名称となり、高野山全体の宗務一切を取り仕切るようになった。まあ、社務所の事を金剛峯寺と呼んでるようなものだと思う(違ったらすみません)。ちなみに金剛峯寺(青巖寺)の本殿もご多聞に異ならず過去何度も焼け落ちており、現存する建物は文久3年(西暦1863年)に建てなおされたものである。火事対策で桶が大量に配備してある。消火器もあるよ。

※金剛峯寺

 弘仁14年(西暦823年)、空海は嵯峨天皇より東寺(京都市)を賜り、ついに真言密教の拠点が京の都にも誕生した。さらに天長4年(西暦827年)には大僧都(だいそうず)という、とにかく偉い僧侶の地位を与えられるなど、空海の権威と真言密教の勢力はほぼ順風満帆に拡大していった。しかし天長8年(西暦831年)、悪性のできものを病み経過が芳しくなかったため、大僧都を辞職して静養に入る。天長9年(西暦832年)には京都の東寺その他の拠点を弟子に譲り、以後は高野山の開拓に専念した。同年、高野山において初の萬燈萬華会(灯明と華を仏に捧げ、人々の心の望みが叶うよう祈る法要)を開催。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。」すなわち「全宇宙の全ての物が解脱を得て仏となり、涅槃を求める者がなくなりますように」という、スケールがデカすぎる請願を立てた。以後萬燈萬華会は、今日でも高野山の各所でけっこう頻繁にとり行われている。天長10年(西暦833年)、高野山を取り仕切る座を弟子の真然にあずける。承和元年(西暦834年)、東大寺真言院において『法華経』と『般若心経秘鍵』に関する講義を行う。承和2年(西暦835年)1月、宮中で正月後七日の真言院御修法(しんごんいんみしほ。国家安泰や五穀豊穣を願う密教の秘儀)を行う。真言院御修法は、混乱期の中断をはさみながらも連綿と続き、明治維新の起こった後も東寺(京都市)に場所を移して毎年実施されている。

 承和2年(西暦835年)3月15日、空海は弟子たちを集め、「今から一週間後、21日の寅の刻に入定する。」と決めた。そして、自らが入定した後の事についてあれこれと遺言を授け、いさかいの起こらないように心を配った。この日より空海は住房を清掃し、穀物を絶ち、身を香水で清め、結跏趺坐(両足首を反対の足の腿にのせて手で印を結ぶポーズ)をとって過ごすようになった。そして自ら定めたとおり、3月21日をもって空海は入定した。御年62歳(満60歳)であったとされる。

 承和4年(西暦837年)4月、空海の弟子実慧より長安の青龍寺に書簡が送られた。書簡には、空海が日本で精力的に活動を行い、真言密教の普及に努め、恵果阿闍梨の期待に十分応えたことや高野山の開拓に至ったこと等が記されており、空海の入定についても「薪尽き、火滅す。行年六十二。嗚呼悲しい哉」と婉曲した文言で暗示されていた。書簡を受けとった青龍寺は悲しみに包まれ、素服をつけて哀悼を示したと言われている。

 延喜21年(西暦921年)10月、東寺の観賢の奏上(要望)により、醍醐天皇から空海に「弘法大師」の諡号が贈られた。入定後86年目のことだった。なお、当初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、生前の業績が弘法利生(こうぼうりしょう。仏法を人々に弘(ひろ)め、衆生に利益を与えること)を体現していたことから、「弘法大師」の諡号が贈られることになったという。歴史上、朝廷より「大師」の号を送られた人物は27名いるとされるが、現代では「大師さま」と言うとほぼ空海の固有名詞となった。ちなみに「太子さま」と言うと大体聖徳太子のことである。音では区別できん。

 そろそろ「だから入定ってなんだよ!」と思われた諸兄もいらっしゃると思われるが、入定は入定である。わが国では高貴な身分の者が死去することを「お隠れになった」と表現することがあるが、空海の生死はもっと積極的かつ大胆に曖昧化されている。空海の足跡を語る上で、空海が「死亡した」とは決して断言されず、しかしその肉体を俗世の人々の前に見せることもない。このような状態を「入定」と呼ぶ。「死んでいるとは言えない」のだから単純な背反で空海はなお「生きている」ということになる。よって、空海の入定から1,200年あまりの歳月が流れた現在も、高野山奥之院に居るとされる空海の元へは食事が運ばれ続け、新しい衣服も届けられる。これが高野山の入定伝説と呼ばれるものである。すなわち空海は、今日に至るまでそれはもう、意地でも生き続けていると信じられている。超ご長寿。東方projectでは、死してなお畏敬を集める存在は種族「神霊(神様の亡霊)」と呼ばれるが、そもそも生存を信じ続けられている場合は一体どうなるのでしょう。また、幻想入りの条件と言えば「存在を忘れられるか、疑われること」であるが、永遠に存在を信じられ続けている空海は理論上幻想入りから最もほど遠い人物ということにもなるのだろうか。なお余談だが、江戸後期の神学者で、仏教に否定的だった平田篤胤は、入定を尸解仙と同視している(『仙境異聞』)。

東方projectと真言密教

 東方projectにおいて、空海及び真言密教は極めて広範に種々の関与を見せている。少なからず真言密教の教えにふれていると思われる登場人物を列挙するだけでも、次のとおりとなる。

①魂魄妖夢

 そこはかとなく、真言密教をたしなんでいると考えられる。魂魄妖夢は自身の使うスペルカードの中に仏教の世界観を表す用語を多用し、中でも「六道輪廻」を表現することに対してひとしお強いこだわりを持っているように見られる。「六道」とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道という6つの世界のことであり、輪廻とは転生とほぼ同じ意味を持つ。すなわち「六道輪廻」とは、ものすごく大雑把に言うと、「すべての生命は、解脱(あらゆる煩悩から解放されること)に至るまでの間、生前になした行いに応じて六道の間で転生を繰り返す。」という思想である。魂魄妖夢は餓鬼剣「餓鬼道草紙」、獄界剣「二百由旬の一閃」、畜趣剣「無為無策の冥罰」 修羅剣「現世妄執」人界剣「悟入幻想」 天界剣「七魄忌諱」等によって六道世界の表現を試みていると考えられる。六道輪廻の思想は仏教の根幹的なものであり、当然真言密教の教えにおいても中軸をなす。また、東方萃夢想等で使用するスペルカード、魂魄「幽明求聞持聡明の法」は、密教の秘法であり空海が修めた「虚空蔵菩薩求聞持法」を元ネタとしていると考えられる。

②西行寺幽々子

 たおやかに、真言密教をたしなんでいると考えられる。西行寺幽々子の使うスペルカードは死、眠り、夢、蝶そして桜など、命の儚さと幽玄の美を表現するものが多く、固有名詞的な事物を元ネタにしたものは少ない。しかしそんな中でも、幽曲「リポジトリ・オブ・ヒロカワ」については和訳すると「弘川寺の墓所」という意味になり、思いっきり西行法師をモチーフとしていると考えらえれる。西行寺幽々子と西行法師の関係については別ページにダラダラと憶測まとめたので参照されたいが、西行法師は32歳ごろから高野山を生活の拠点とし、以後だいたい30年くらい出入りを繰り返していたとされる(『山家集』)。高野山における西行の伝説としては、「三昧堂」と呼ばれる建物を他所から「壇上伽藍」へと移した話や、桜を手植えした話などが残されている。西行寺幽々子と西行法師が父娘であり、説話『西行物語』をひいて西行の娘が仏教に帰依していたと推測するならば、19歳で尼僧となった生前の幽々子は、高野山のおひざ元にあたる天野の里で主に真言密教に触れながら穏やかに暮らしていたということになるだろう。もっとも、西行法師自体が自由な気風で真言密教のみならず天台密教や修験道等も幅広く学んでいるので、西行寺幽々子も同じようなスタイルではないかと考えられる。東方妖々夢で使用するスペルカード「反魂蝶」等の元ネタになったと考えられる「反魂」という秘術の概念は、道教や密教(真言密教のみならず天台密教も含む)のこずえに時々出てくるものである。

③八雲藍

 趣味で真言密教をたしなんでいると考えられる。八雲藍の使用するスペルカード、密符「御大師様の秘鍵」は、密符とは密教のことを、御大師様とは空海の事を言い表しているとしか考えようもないだろう。空海は『般若心経秘鍵』という名の般若心経の注釈書を残しており、その中で秘鍵という語は「神髄を引き出すための特別な考え方、読み解き方」的な意味で用いられている。また、スペルカード行符「八千万枚護摩」を使用するが、こちらも修験道や密教で見られる「護摩行」という修行を元ネタにしていると考えられる。ちなみに護摩行には、願いを込めた木材を火にくべて焼く外護摩と、自分自身が火に飛び込み(あるいは魚が焼けるくらいまで接近し)祈りを絶叫する内護摩の2種類がある。後者はわりとすごく火傷する。飛ぶ捕手でも。さらには、和訳すると「究極の仏教徒」という意味になる式弾「アルティメットブディスト」も使用する。以上のことより、八雲藍は仏教に対する教養にかなりの自信をもっているのではないかと考えられる。もっとも、八雲藍は幻神「飯綱権現降臨」、式神「憑依荼吉尼天」、超人「飛翔役小角」、「狐狗狸さんの契約」など修験道、ヒンドゥー教、道教、民間信仰など、きわめて幅広い種々の宗教を元ネタとしたスペルカードを非常に節操なく使い分けている。つまり、仏教に篤く帰依しているというよりは、多くの宗教をミーハーに学習していると考えられる。『東方文花帖』で文のインタビューを受けた際に「時間だけなら腐るほどある」と豪語していただけに、有り余る余暇を利用して自主的に勉強しているのか、もしくは式主である八雲紫の趣味が反映されているのだろう。藍の式であるが藍同様の宗教色の強いスペルカードを使うのに対し、紫はそれほど宗教色の強いスペルカードを多用しない(というかそもそも意味不明のスペルカードが多い)ので、宗教好きは藍自身の嗜好である可能性がけっこう高いと思う。

④藤原妹紅

 それなりに真言密教の事を知っていると考えられる。『東方永夜抄』中の幽冥の住人チームエクストラステージにおいて、藤原妹紅は妖夢らに対し「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く死に死に死に、死んで死の終わりに冥し。」と諳(そら)んじているが、これは天長7年(西暦830年)、空海が57歳の時に著した『秘密曼荼羅十住心論(全10巻)』の要約本『秘蔵宝鑰(全3巻)』の序文の一節である。意味としては、「我々は生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない。死に死に死に死んで、死のおわりを知らない」ということになる。つまり、輪廻の中でただただ生まれ続けても、ただただ死に続けても(解脱の)光明は見えないということである。違ったらすみません。原作者ZUNが『東方妖々夢』のスタッフロールに寄せた短歌「咎重き 桜の花の 黄泉の国生きては見えず 死しても見れず」の精神も、これに通ずるものかも知れない。違ったらすみません。竹取物語の登場人物(車持皇子)の娘に比定される藤原妹紅は、西暦600年代の生まれと推定される。よって、空海よりかなり年上であり、どこまで尊敬と共感をともなって空海の書の一節を引用したのかは定かではない。ただ、割と長めの文章をとっさに暗唱できるほどには、空海の著書を読み込んでいたものと考えられる(藤原妹紅が別段記憶力に優れているという描写は無いので)。

⑤寅丸星

 がっつり真言密教の修行をしていると考えられる。寅丸星は元々、聖白蓮らが暮らす寺の付近に住む妖怪の中で、最も「まともな」妖怪だった(公式テキスト)。そのころ聖白蓮は寺の御本尊(神道で言うところの祭神)に毘沙門天を勧請したいと考えていたが、毘沙門天は極めてコワモテの武神であり、仏敵を鈍器のようなもので容赦なくタコ殴りにするほどの武闘派だった。そんな毘沙門天が寺に勧請されると聞き、やましいことをわりと自覚している妖怪たちは寺に近づかなくなってしまった。妖怪の救済をも本願とする白蓮は、この事態に困って思案をした。そこで考えついたのが、毘沙門天を直に勧請するのではなく、妖怪達の間で最も人望(妖望)のある妖怪の寅丸星をスカウトし、毘沙門天に弟子入りさせ、かつ毘沙門天の代理(『東方求聞口授』では「化身」とも書かれる。)として寺に入ってもらおうというアイデアだった。超多忙な毘沙門天は、聖白蓮の申し出を半ば黙認するような形で寅丸星を弟子とした。つまり、弟子とは言っても寅丸星は別段毘沙門天からの薫陶を受けてはおらず、仏法についてはむしろ住職の聖白蓮から習うという、ちょっとややこやしい関係で寺の御本尊に収まった。よって、必然的に寅丸星の宗教的基礎は聖白蓮の影響の下で形成されたと考えられる。一方、寅丸星の弟子入りを容認はしたものの「名ばかり弟子に自分の名を汚されては困る。」と懸念した毘沙門天は、スパイ兼星の世話役(部下)としてナズーリンを送り込むなどしたが、そんな心配とは裏腹に、星は真面目すぎるくらいに代行役を務めたと考えられる(そのために、邪道に落ちたと見なされた聖が封印されるのを一度は見殺しにしてしまっている)。寅丸星の使用するスペルカード、法力「至宝の独鈷杵」や法灯「隙間無い法の独鈷杵」における独鈷杵(どっこしょ)とは、密教の修行に用いる法具である。また、天符「焦土曼荼羅」のモチーフと考えられる曼荼羅は、先にも述べた通り密教の教えを伝承するためのテキストのことをいう。寅丸星は宝塔「レイディアントトレジャー」といった財宝にまつわるスペルカードも使用するが、『東方求聞口授』には「(寅丸星の持つ富を招き寄せる能力に)少しでもあやかろうとする人間を、白蓮が有難いお話で抑えようとする、それが命蓮寺の日常の一つである。」という一節がある。つまり、寅丸星には修行や説法にまつわる日常体験をスペルカード化する傾向があるのかもしれない。ちなみに、東方星蓮船の基幹ストーリーでもある「寅丸星が宝塔を失くす」というエピソードについては、20世紀半ばごろに真言宗の寺院「東寺」(京都市。先述)の国宝「兜跋毘沙門天立像」の左手に携えられた宝塔が、何者かに持ち去られるという事件が発生したことにインスピレーションを受けている可能性がある。

⑥聖白蓮

 日常的に真言密教の教えを実践していると考えられる。聖白蓮のキャラ設定txtには「白蓮の弟、命蓮は伝説の僧侶であった。」「(命蓮は)軽々と鉢を飛ばしたかと思うと、その鉢でごうつくばりな長者の倉を持っていった」「(命蓮は)離れた場所にいる人間の病気を治した。」「(白蓮は)年老いてから弟に法力を学んだ」といった説明があるが、これらは平安末期に成立した絵巻物『信貴山縁起』のストーリーにそのままなぞらえられていると考えられる。よって聖白蓮は、かつて信貴山に庵を結んだ伝説的僧侶「命蓮上人(みょうれんしょうにん)」の姉であり、『信貴山縁起』第三巻の主人公でもある尼公(あまぎみ)その人である可能性が極めて強い。信貴山の歴史は、「延長年間(西暦930年頃)には毘沙門天を本尊とする僧侶の一派が生活していた。」という以上に古くは解明はされておらず、伝説上で延喜(西暦900年代初頭)の時代に信貴山にいたとされる命蓮や尼公がどのような宗派に帰依していたかは定かではない。しかし、『信貴山縁起』の名が表すように、命蓮は信貴山真言宗の総本山として現代まで続く信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の開祖あるいは中興の祖とみなされていることから、尼公もまた真言宗に帰依していた可能性が高い。信貴山朝護孫子寺も幻想郷に建立された命蓮寺も、ともに毘沙門天を本尊とするという点で一致しており外観もよく似ている。また、聖白蓮は『東方心綺麗楼』や『東方深秘録』中で密教の法具である独鈷杵(どっこしょ)を敵を殴打したり投擲したりといった用途で使用しているため、少なくとも密教の法具を所有していることは疑いない(独鈷杵は本来武器が法具となったものなので、ある意味正しい使用方法です。)。このほか、聖は『ダブルスポイラー』において習合「垂迹大日如来」という名のスペルカードを、『東方心綺麗楼』『東方深秘録』において天符「大日如来の輝き」という名のスペルカードを使用する。大日如来は真言密教において教主として最も尊ばれ、曼荼羅図の中心に配置される仏様である。また、修飾語の習合や垂迹とは本地垂迹(神仏習合)のことと考えられが、本地垂迹(神仏習合)思想の元では、大日如来は天照大神(あまてらすおおみかみ)と同一視される。高野山の歴史の始まりは神道とも深いかかわり合いを持っており、伝統的に神仏習合の思想を内包していることから、聖のスペルカードは真言密教の思想の一つを体現しようとするものと言えるかもしれない。空海の経歴の項でふれた通り、空海もまた大日如来と結縁していることから、真言密教の祖である空海にあやかろうという意図も考えられる。

⑦稗田阿求

 自身の持つ「一度見た物を忘れない程度の能力」について、「求聞持の力」と表現している。稗田阿求は、空海が歴史の表舞台に登場するよりも約1世紀ほど前に古事記の編纂に関わり、持ち前の記憶力を発揮して活躍したとされる人物「稗田阿礼」が転生を繰り返しながら、その9回目として現代に再誕した存在である。よって稗田阿求の能力は、稗田阿礼の時代から継承され続けているものと考えられる。この稗田阿礼がいかにして「求聞持の力」を持つに至ったかについては、空海に先がけて密教の秘法である虚空蔵菩薩求聞持法を修めたのか、あるいはもともと天賦の才能として持っていた超記憶力を密教の秘法になぞらえ「求聞持の力」と呼んでいるのか、いずれかということになろう。


 このほか、直接的なキャラクターとの関連性は無いが、秘封倶楽部の楽曲集『卯酉東海道~Retrospective 53 minutes』には「最も澄みわたる空と海」という曲が収録されている。漢字の部分を拾い上げると「最澄」と「空海」の名が現れることから、同時代を生きた二人の宗教家をモチーフにした曲ではないかとも考えられる。
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最終更新:2016年01月22日 07:32