関係あるとみられるもの

比那名居天子(東方緋想天)
大ナマズ(東方非想天則)

住所

大村神社 三重県伊賀市阿保1555(近鉄大阪線「青山駅」下車徒歩約20分)

大村神社

※大村神社入り口

 木津川の南岸、三重県伊賀市阿保に鎮座する神社。西暦927年の『延喜式』に社名が載る「式内社」である。西暦901年の『三代実録』中にも「貞観5年(西暦863年)3月16日に大村神社の神位が昇進し、正六位上から従五位下に叙せられた」と記述されており、往古より広く信仰を集めた伊賀地方きっての古社であることがうかがえる。実際に大村神社の境内からは円墳数基を含む古墳群が発見されており、6世紀ごろにはこの地で何らかの祭礼がとり行われていたことが判明している。主祭神に大村神 (おおむらのかみ)を祀り、配神に武甕槌命 (たけみかづちのみこと)、経津主命 (ふつぬしのみこと)、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)を祀る。三柱の配神は西暦645年の「大化の改新」で蘇我氏を滅ぼした中臣氏(のちの藤原氏)の祖神で、「春日三神」とも呼ばれる神々である。大村神社に春日三神が祀られている由縁は、神護景雲元年(西暦767年)に春日三神が常陸国鹿島から大和の三笠山(現奈良県奈良市の春日山。春日大社のご神体)へと勧請(遷幸)される際、大村神社にも立ち寄って神霊を留めたことによると伝えられる。さらに明治23年から41年(西暦1890年から西暦1908年)にかけて旧阿保町28社及び旧種生村3社が合祀されたため、八幡神、月読命、稻田姫命などメジャーな神計17柱も祀られている。

※参道

 大村神社は丘の上にあり、正面入口の鳥居をくぐると参道は緩やかなのぼり階段となっている。その先に集会所のような建物がいくつか軒を連ね、向かい合うようにして石柵に囲われた敷地がある。この石柵で囲われた敷地の入り口に手水場があり、その奥に拝殿と「春日造」の本殿がある。すなわち大村神社は、構造的に「二重囲い」ないし「入れ子」のようになっていると言える。また、拝殿の右側には要石(かなめいし)を収めた祠(要石社)が存在する。要石は地震を防ぐ力があると信じられている神石であり、全国の神社に複数存在する。その多くが注連縄を巻かれた磐座(いわくら)で、基底部が地面に埋まったような様相をしている。大村神社におかれた要石も高さ46cm、周囲190cmほどの自然石で、玉石の敷き詰められた地面から上部が顔を出しているような感じである。要石社の隣には、要石の伝説にちなむナマズの石像が奉納されており、後方の奥まった所には宝殿がある。この宝殿は天正15年(西暦1587年)に建てられたもので、明治23年(西暦1890年)に現在の本殿が建てられる以前に本殿だったものらしい。本殿同様の「春日造」であるが、鮮やかな朱に塗られており、ぶっちゃけ本殿よりも新しくすら見える。宝殿は国の重要文化財にも指定されている。

※境内

※要石社とナマズの石像

※要石

 また二重囲いの石柵の外、裏参道の鳥居をくぐったすぐ近くには、「虫食鐘(むしくいがね)」という名の鐘楼が残されている。この鐘楼はかつて、大村神社の宮寺(神仏習合思想のもと神社を管理するために置かれた寺)として存在した禅定寺(ぜんじょうじ・真言律宗)のものであった。しかし明治3年(西暦1870年)に神仏分離の影響を受けて禅定寺が廃寺にされると、当時既に「虫食鐘」として有名だった鐘楼だけが大村神社のものとして残されることになった。このように、鐘楼だけ神社に引き取られる例は決して少なくない。禅定寺跡地は現在、大村神社の裏手駐車場として利用されている。

 「虫食鐘」は禅定寺の覚祐という和尚が、江戸時代の寛永年間(西暦1640年代)にかけて諸国から寄進を集め、明暦2年(西暦1656年)に完成させた鐘楼であると伝えられる。覚祐は鐘楼の建造に必要な人夫を確保するための米や銭だけではなく、鐘の材料となる金属として刀や鏡も集めた。ある時覚裕は大和国の葛城(かつらぎ)へと赴き、いつものノリで寄進を募りまくった。そこである豪農(ごうのう)の家の老婆から、「家宝にしていた」という古い鏡をもらった。ところがこの古い鏡は、とんでもない魔鏡(まきょう)だった。この鏡は大昔、豪農の家の祖先にあたる夫妻が自分たちの愛娘に買い与えてやった鏡であったが、娘は鏡に夢中になって毎日毎日覗き込んで暮らすようになった。すると娘は日に日にやつれ、やがて死んでしまった。それ以来、「この鏡には人を呪い殺す力がある」と考えた豪農の一族が、たたりを恐れ家宝として祀ってきた。老婆は「供養して欲しい」という意味で鏡を差し出したのだが、覚裕はこれを「寄進をうけた」と勘違いし、鋳溶かして鐘の材料にしてしまった。こうして鐘が完成すると、夜な夜な娘の亡霊(ぼうれい)が現れて鐘の周りをさまよい、またあるときは両手で鐘をなでて、さめざめと悲しみにふける姿が見られるようになった。さらには鐘の上の方についていたこぶが、あたかも虫に喰われたように一つまた一つとボロボロこぼれ、やがて全部落ちてしまった。落ちたこぶは、夜になるとほたるのような光を放った。この話は瞬く間に広がり、多くの野次馬が集まった。人々は、「鐘になった古い鏡が娘の怨霊(おんりょう)となって、この鐘を喰いつくさずにはいられんかったんやろうなあ。」と勝手に噂しあい、こうしていつしか鐘楼は、「虫食鐘」の名で呼ばれるようになった。

 なお、現在の「虫食鐘」は鐘楼内に誰でも入ることができ、しかも自由に鐘を突くことができる。貴重な文化財にこんな簡単に誰でも触れてええのんかいってレベル。お坊さんになった気分になれる。さらにこの鐘を突きながら心に願い事を浮かべると、その願いが叶うというご利益までついており非常にお得である。呪いがどこ行ったのか、どうしてこうなったのかはよくわからん。ちなみに自由について良いと言ってもご近所の迷惑を考え、常識の範囲で突きましょう。狂ったキツツキのように連打するのは絶対にやめましょう。1回つけばご利益あると思います。あと鐘を突かせてもらったら、感謝の気持ちをこめてきちんとお賽銭を投入してきましょう(それなりの金額を)。
※虫食鐘

大村神(おおむらのかみ)

 大村神社の主祭神にあたる謎多き神さま。その正体は、現在の大村神社鎮座地(伊勢市阿保地区)一帯に水田を引き、豊かな村邑を築き上げた偉大な指導者(豪族)あるいは祖先(氏神)が祀られたものではないかと考えられる。一説によれば、大村神社とは阿保地区の旧称「阿保村(あおむら)」の顔、いわゆる村社をあらわす「阿保村神社(あおむらじんじゃ)」が訛化して「大村神社(おおむらじんじゃ)」と呼ばれるようになったものだという。ただ、大村神社以外の「阿保村」が「あおむら」と呼ばれていたことは間違いないのに、なぜ大村神社だけ訛りがすすんで「おおむら」になったんだと言われれば、明確な答えを出すのは難しい。対抗説としては、古くより一大村邑であった「阿保村」が内包していた緑地=大森に立つ神社として大森神社と呼ばれていたところが、転じて大村神社になったという説もある。いずれにせよ、大村神社がかつて「阿保村」を代表する神社であり、その成り立ちと深くかかわりのある存在を崇拝し続けていたことにはほぼ疑いないだろう。

 阿保村の開拓に尽くし、大村神社に祀られることとなった豪族として具体的な候補に挙がっているのが、西暦712年の『古事記』に「伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)」と書かれ、西暦720年の『日本書紀』に「池速別命(いこはやわけのみこと)」と書かれ、西暦901年の『日本三代実録』に「息速別命(いこはやわけのみこと)」と書かれる人物(神さま)である。以後、本頁では統一して「息速別命」と表記する。息速別命は第11代垂仁天皇の皇子であるとされ、伊勢神宮を奉鎮した倭姫命の弟にあたる。wiki先生によると、垂仁天皇は紀元前29年頃に即位し西暦70年頃に崩御されたらしく、古代天皇にありがちな大変長生きな御方である。よって息速別命もまた、今から約2000年くらい前に生きた人物と考えていいだろう。なお、100年近くにのぼると推定されるファンキーな在位期間はともかくとして、垂仁天皇は近年その実在性がかなり高いと言われ始めている。故に、息速別命もまた実在した可能性は高い。伊賀市には明治9年(西暦1876年)に息速別命のものと治定された古墳が存在するほか、三重県名張市新田にある馬塚や上述した大村神社内に存在する円墳を息速別命の塚とする説もある。

 息速別命の事績については、『古事記』『日本書紀』の中には何ら記載が登場しない。一方西暦815年の作られた古代のタレント名鑑『新撰姓氏録』には、次のように記載されている。

阿保朝臣 朝臣
垂仁天皇皇子息速別命之後也
息速別命幼弱之時。天皇為皇子。
築宮室於伊賀国阿保村。以為封邑。子孫因家之焉。允恭天皇御代。
以居地名。賜阿保君姓。廃帝天平宝字八年。改公賜朝臣姓

意訳
 (阿保朝臣とは)垂仁天皇の皇子、息速別命の末裔である。息速別命がまだ幼少期の時。父垂仁天皇が伊賀国阿保の地に宮室を築き、この宮室と村邑を息速別命に授けた。息速別命とその子孫は阿保の地に土着した。允恭天皇の時代のこと。(息速別命の一族は)住まう地名をもとに「阿保君」の姓を賜った。廃帝(淳仁天皇のこと。後に追放されたため皇位を認められず、こう呼ばれている)時代の平宝字八年(西暦764年)には、「阿保君」の姓は「阿保朝臣」の姓に改められ、これを賜った。

さらに、西暦797年の史書『続日本記』中の延暦3年(西暦764年)11月21日記事に、次のように記されている。

武蔵介従五位上建部朝臣人上等言。臣等始祖息速別皇子。就伊賀国阿保村居焉。逮於遠明日香朝廷。詔皇子四世孫須禰都斗王。由地錫阿保君之姓。
其胤子意保賀斯。武芸超倫。足示後代。是以長谷旦倉朝廷改賜健部君。是旌庸恩意。非胙土彜倫。望請。返本正名蒙賜阿保朝臣之姓。
詔許之。於是。人上等賜阿保朝臣。健部君黒麻呂等阿保公。

 武蔵介従五位下の位にあった建部朝臣人上が申し上げた。「我々の始祖は伊賀国の阿保村に暮した息速別命であります。遠飛鳥朝廷において、息速別命の四世孫にあたる須珍都斗王は、地名に由来して「阿保君」の姓を賜りました。その子(阿保君)意保賀斯は大変武芸に優れていたため、長谷旦倉朝廷において「健部(建部)君」の姓に改めるよう仰せ賜りました。これは職務に基づくもので、出自に基づくものではありません。望みを申し上げます。「健部」を本来の「阿保」とする姓に返(もど)し賜りください」と。この申し出は許され、勅命が下った。「健部朝臣上人」は「阿保朝臣上人」の姓を賜り、「健部君」を名乗っていた黒麻呂らは「阿保公」の姓を賜った。
※是旌庸恩意。非胙土彜倫。を中心にかなりあやしい意訳です。正しい訳を教えて詳しい人。

 二つの古文書は「阿保君」と「阿保朝臣」の間に「健部君」を挟むかどうかだけの違いであって、年代や内容に著しい矛盾は見られない。故に、かつて阿保の地が息速別命によって開拓され、以後その子孫らが土着して発展したことは史実である可能性が極めて高く、少なくとも平安時代ごろに阿保村一帯を支配していた豪族が、自身のルーツを息速別命に求めていたことは確実である。西暦1761年に(伊賀)上野城の司城職にあった藤堂元甫がまとめた『三国地志』においては、息速別命がこの地に土着したとする伝承をひき、最初に宮室が造営された地は阿保南部の字福森から字西ノ森にかけての緩らかな丘陵地帯であるとかなり具体的に比定されている。

 このように大村神は本来一種の地主神様として祀られてきたものであるから、大村神の本質なりご利益なりはなんぞや、と言われれば「阿保の地におわし阿保の地の子孫を守護し見守り続ける事」であろう。ところがその後、時代を下ると、大村神は全国でも名うての「地震除災の神」と化すことになる。大村神が地震の神さまとなった歴史は1,200年前に上るとも言われるが、特に目ざましい活躍が記録されるようになるのは、むしろ近世になってからである。安政元年(西暦1854年)の大地震(安政伊賀上野地震)で格別のご利益を発揮し、遠隔地からも多数の参拝者を集めたという伝説を残すほか、大正12年(西暦1923年)の関東大震災や昭和2年(西暦1927年)の北丹後大地震、昭和19年(西暦1944年)の昭和東南海地震でも大活躍なさったらしい。

 このように大村神の本質が土地の守護神から地震の神さまへと変貌した理由は、ひょっとしなくても後から祀られた鹿島三神のせいである。大村神社に要石が置かれていることは先述のとおりであるが、この要石自体、鹿島三神の一柱である武甕槌大神(タケミカズチ)の神威を示すものに他ならない。そもそも要石とは、武甕槌大神(タケミカズチ)が地底に住まう大鯰(おおなまず)あるいは龍を抑え込むために打ち付けたとされる神石をいう。古来より、地震とは地底に住まう大鯰(おおなまず)あるいは龍が体を揺さぶることで発生する現象であり、要石が押さえつけているお蔭で地上の安全が守られていると信じられてきたのである。大村神社においても要石が置かれる以前より地震のご利益があると信じられていたような痕跡はなく、息速別命自身も特別地震と関係があるとは読み取れない。よって大村神の「地震徐災」のご利益は、中世~近世にかけて神社の主役の座を鹿島三神に乗っ取られていたか、あるいは大村神と鹿島三神とが習合・同一視されたことで生成されていったものと思われる。ただ、いかな経緯を辿ってきたにせよ現在まで続く大村神社の下地を築き、鹿島信仰を受け入れる器ともなった大村神の存在なくしては、今日まで大村神社が絶えず存続し続ける事は不可能だったと思われる。名居神社でも触れたように、地震の神さまは有事にこそ存在感を発揮するものの、平時では緊張感を伴った信仰を集めることが考えにくい。例えば同じ災害である火災と比べてみても、火災が多くの場合人災であり失火した者に罪が及ぶ緊張したものであったのに対し、地震は例外なく天災であり、起きてしまった以上は誰も責任を問われることはない。しかも、ひとたび災害が発生すれば地震は火災の被害を上回るものの、頻度においては火災とは比べものにならないほど少なかった。このような性質は、平時において個人単位で地震の神を信仰するモチベーションにはつながらない。故に、災害の無い平和な時間に大村神社への人々の信仰心をつなぎ止めたのは、地震除災に対する祈りではなく先祖代々の土地神を敬う大村神への信仰の方が強かったと言えるのではないだろうか。

※ナマズ。かわいい

比那名居天子について

非想非非想天の娘
比那名居 天子(ひななゐ てんし)
種族:天人くずれ

天界に棲む不良天人。
比那名居家は元々は地震を鎮める要石を護る神官であった。
だが、比那名居家の要石の存在も虚しく地震は頻繁に起こった。
その度重なる地震により地震を担っていた天人、大村守(おおむらのかみ)の仕事が追いつかず、
幻想郷一帯の地震は当時、大村守に遣えていた名居(なゐ)一族に任すこととなった。
名居一族は地上の神官であったが、死後に名居守(なゐのかみ)と呼ばれ、神霊として山の池の畔にある小さな祠に祀られる事となった。
名居守は今も静かに幻想郷を見守っているのである。

それと同時に、生前の名居守の部下であった比那名居(ひななゐ)一族も、その功績をたたえられ、天界に住むようになった。
だが、比那名居一族は他の天人とは異なり、修行を積んだわけでも無く、ただ名居守に遣えていただけだったので、天人としての格を備えておらず、
天界では不良天人とすら呼ばれていた。
比那名居 地子(ちこ)は名居守に遣えていた親のついでに天人になっただけの、幼い子供だった。
その地子は、天人になった時に天子(てんし)と改名した。

天子は、天界での自分の処遇が気に入らず、度々幻想郷を覗いては里の人間や妖怪達を羨ましく思っていた。
そんなある日、幻想郷の妖怪達が自分の力を使って異変を起こし、幻想郷で騒ぎを起こして楽しんでいるのを見た時に、天子は強く思った。
「もう、退屈な天人暮らしなんて耐えられない!私だって、異変くらい起こせるのに」
天子は家を飛び出した。天界の道具である緋想の剣(ひそうのつるぎ)を持ち出して……
『東方緋想天』おまけ.txtより

 東方緋想天では、大村神に比定されると考えられる大村守が、なゐの神に比定されると考えられる名居守および比那名居天子を含む比那名居一族の上司として登場する。
すなわち東方projectの世界観においては、大村守>名居守>比那名居という序列が明確に存在していることになる。一方、現実の大村神となゐの神はそれぞれ全く別の経緯から「地震の神」として崇められるようになった神さまであり、むろん序列は存在しない。比那名居に比定できそうな一族あるいは神さまについては、名居神社に何らかの着想の原点を予想することはできても、具体的な対象を挙げることはできない。大村守は最大2,000年程度前から祀られていた神さまであるが、地震の神となったのは(ほぼ間違いなく)鹿島三神が習合された以降の話で、1,350年程度のキャリアである。対してなゐの神は、西暦599年の地震によって広く祀られるようになった神さまなので、地震の神としては1400年程度のキャリアを持ち大村神よりも古株である。ただし名居神は後世名を高めた大村神とは対照的に、現代ではほとんど忘れ去れられた神さまになっている。そのほか名居神は地震そのものを神格化した神さまであり、「一族」であるとは到底考えにくい。比那名居一族が守護を任され、操るとされる「要石」についても、繰り返しになるがこれはそもそも鹿島系の信仰によるものなので、大村神・名居神のいずれとも本質的には結び付かない。名居守の神霊は山の池の畔に祀られたと言うが、現存する名居神社は三重県名張市の下比奈知にある住宅地の中に存在する。そもそも「なゐ」の名を持つ神社は西暦599年ごろに全国に一斉に作られたのであり、特定の山の池の畔に作られたわけではない。

 このように、東方projectに登場する大村守・名居守・比那名居一族の関係性については、おまけ.txt中で三者の関係性が詳細に書かれており、しかもかなりの精度で名前の似通った神さまが現実に存在する一方で、東方project中の"設定"と現実とがあまりにも乖離しているために、かえって比定が困難であるという異例な構造になっていると言える。このような矛盾を解きほぐす一つの「仮説」としては、東方projectの世界観の中で大村守とは、大村神ではなくタケミカズチのことを言っていると考えられるかもしれない。ともすれば、比那名居天子の一族が要石の管理を任されていることも辻褄が合うし、頻発する地震の対応に追われる大村守が"多忙"と記されていることも、日本の人気神さまランキング15位圏内には入るであろうタケミカズチの様相を言っているのならば、殊更に合点がいく。もしこの仮説を採用すれば、比那名居天子はタケミカズチの部下の部下であるということにもなるので、タケミナカタに比定される八坂神奈子と邂逅した時、お互いどんなリアクションをするのかが楽しみにもなる。ただ天子は緋想天則中で東風谷早苗洩矢諏訪子には邂逅しており、特に何事もなく普通の会話をしただけだったのでやっぱ違うかもしれない。

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