関係あるとみられるもの
橙(東方妖々夢)
上白沢慧音(東方永夜抄)
水橋パルスィ(東方地霊殿)
茨木華扇(東方茨歌仙)
住所
晴明神社 京都市上京区堀川一条上ル晴明町806
一条戻橋 京都市上京区堀川下之町堀川
京都市バス9, 12, 67系統「一条戻橋・晴明神社前」から徒歩すぐ
晴明神社
平安時代中期の陰陽師であった安倍晴明を祀る神社。
寛弘4年(西暦1007年)に一条天皇が晴明の生前の偉業をたたえ、晴明の屋敷跡である現在の場所に社殿を造った。
応仁の乱以降は荒廃した時代が続いたが、第二次世界大戦後から氏子によって復興再建が進められた。
現在ではかなりきれいに整備され、土産物屋では大極図(陰陽玉の模様)が描かれたお守りが売られていた。
安倍晴明には神秘的な伝承が多いが、その中でも「式神を使う」というものがある。
晴明は12体の式神を使っていたが、妻がその姿を気味悪がったため一条戻橋の下に隠しておいたという(出典不明)。
また同時代の陰陽師であった道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係で、晴明の用いた晴明紋(晴明大紋)と道満の用いた九字紋を合わせた
セーマンドーマンという紋様は魔除けとして有名である。
九字紋は
地霊殿EX道中早苗のスペルカード"秘法「九字刺し」"の元ネタという説もある。
妖々夢2面橙のスペルカード"式符「飛翔晴明」,陰陽「道満晴明」,陰陽「晴明大紋」"はこれらを元にしていると考えられる。
また、EX八雲藍のスペルカード"式神「十二神将の宴」"は、安倍晴明の式神であった「十二天将」が、仏教の護法善神である「十二神将」と
よく混同されていることと関連があるかもしれない。
一条戻橋
堀川にかかる一条通の橋。平安遷都の際にかけられ、古代・中世を通じて京域の境とされ、何度も架け替えを繰り返しながら同じ場所に残っているとされる。
現在では一条通のこの付近が生活道路のような交通量の少ない道路であり、橋も護岸もきれいに整備されてしまっているために
うっかりしていると気づかずに通り過ぎてしまう。(というか通り過ぎた)
現在の一条戻橋
京都市が設置した看板には次のように書かれている。
延喜十八年(九一八)、文章博士・三善
清行が亡くなった時、父の死を聞いた子
の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰って
みると、その葬列はちょうどこの橋の上を通
っていた。
浄蔵は棺にすがって泣き悲しみ、神仏
に熱誠をこめて祈願したところ、不思議
にも父清行は一時蘇生して父子物語を交
したという伝説から戻橋と名付けたとい
う。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源
頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深
夜この橋の東詰で容貌美しい女子にやつ
した鬼女に出逢ったという伝説もあると
ころである。
先述した安倍晴明の式神の話には触れられていない。
また、
永夜抄EX上白沢慧音のスペルカード"転生「一条戻り橋」"はそのまんま過ぎて特に書くことがない。
この後半部分については安倍晴明も絡んでいるため、晴明神社内でイラストとともに説明してある。
渡辺綱は一条戻橋の上で美女に声を
かけられる。女は送ってくれというが、
途中で鬼女に姿をかえ、綱の髻をとって
空をとぶ。綱は腕を切り落とすと鬼は
愛宕山に去る。綱は晴明公を呼んで
相談した。物忌みをすすめられた綱は、
鬼の腕に封印する。その後鬼は綱の母の
姿で腕をとり戻しに来るが綱は仁王経に
よって救われる。
母ではなく伯母だったりと諸説あるが、この鬼の正体については大きく二つの説がある。
ひとつは宇治の橋姫であるとするものである。
平家物語 剣巻のこの伝説の部分では明らかに
宇治の橋姫とはこれなるべし。
と書かれているが、この本文中で"嵯峨天皇の御世"(809~825)に鬼になった橋姫が渡辺綱(953~1025)と戦うという時系列的な疑問点がある。
宇治の橋姫と水橋パルスィについては
宇治橋と橋姫神社も参照。
もうひとつ茨木童子であるとするものである。この渡辺の綱と茨木童子の対決は茨木童子を代表する逸話となっており、
脚色されて「茨木」「戻橋」という歌舞伎の演目にもなっている。
しかしこの話は、謡曲「羅生門」のように舞台が一条戻橋ではなく羅生門(羅城門)とされる場合もある。
茨木童子と茨木華扇については
羅城門遺址も参照。
どっちに転んでも東方じゃねーか。
復元一条戻橋@晴明神社
最終更新:2015年08月20日 21:24